ゆるやかな牧草地を抜け、街道から分かれた小道は村の奥へと続いていた。日中にもかかわらず、人はほとんどいない。これから収穫の時期を迎えようとしている青い穂は、天の恵みの雨と太陽光にすくすくと育ち、一部は早や黄金色に染まりつつある。もう二週間もすれば、たわわに実った穂が、重々しく頭を垂れるだろう。
 「この辺は穀倉地なんだな。」
 「それしか無いんだ。牧場もあるが、ほとんど自分の家をまかなうためのものだから」
ユオンは笑った。畑の端にねそべっていたブチ犬が、速度を緩め、ゆっくりと過ぎてゆく二頭の軍馬を、物珍しそうに眺めている。
 行く手に、褐色の屋根を持つ平屋の屋敷が見えてきた。道は、そこへと続いているようだ。建物は、これまで過ぎてきた村の建物よりも一回り大きい。
 「日暮れまでには、砦に着かないとな」
と、ユオンは自ら言った。馬の足が少し速まった。
 屋敷の前のベンチに腰掛けて、頭に布を巻いた女性が、桶の上でじゃが芋の皮を剥いていた。足元には、さっき見たものによく似た、ぶち犬が寝そべっている。
 ひづめの音に気がついて顔を上げた女性の目に、さっと驚きが走った。小刀と剥きかけたじゃが芋が音をたてて、桶の中に転がり落ちる。
 「ユオン!――」
悲鳴にも似た声を上げ、彼女はスカートをたくし上げた。側へ駆け寄ってくる。
 「良かった、もう戻って来てくれないかと…」
はっ、として、口をつぐむ。後ろに、もう一頭の馬が続いていることに気がついたからだ。
 「ただいま、母さん」
ユオンは、落ち着き払った声で言った。
 「仲間を紹介するよ。ラニルスだ。用で近くに寄ったから」
 「――用で…。」
すぐにそれと分かる、がっかりした表情。だが、彼女は気丈にも、すぐに笑顔に変えて、ユオンの馬の手綱を取った。
 「そ、そうなの。疲れたでしょう? 中でお茶でも飲んで行かない。少しゆっくり出来るんでしょう」
 「これから行く場所があるんだ。ちょっと顔を見に寄っただけだよ。リーズは?」
 「あの子にはお使いを頼んだの。すぐに戻ってくるわ。さあ、中に入って!」
最後は、有無を言わさぬ口調だった。取り繕ってはいても、彼女の顔には、必死の表情がありありと浮かんでいた。ラニルスは、ユオンを促し、馬から下りさせた。ぶち犬が、ひくひくと鼻を動かしながらユオンに近づいてくる。そして、不思議そうに彼を見上げた。
 「これ、アリスの子供?」
 「ええ、そう。4匹いたんだけど…2匹は子供の頃に人にあげたの。お前が出て行ったあとに生まれたから」
ユオンの母親は、桶を片付けながら言った。
 「アリスって?」
 「昔、うちで飼ってた犬だよ。今はいない…もうけっこうな年だったし、怪我もしてたし。そうだよね、母さん」
 「え、ええ。裏庭に…お墓を作ってやったの。あとで、見ておいで」
そうするよ、と答え、ユオンは、どこかよそよそしく視線を落とした。ラニルスには、そういった家族の一挙一動が不自然にぎこちなく、何か、重い鎖にからめとられているような気がした。
 手綱を入り口の柱につなぎとめ、馬を外に置いて、二人は居間に腰を下ろした。
 家の中は、こざっぱりとして、無駄なものはほとんど無い。ほこりの類すら無く、几帳面に整えられている。窓の向こうには、青々とした畑が広がっている。
 「おかしいだろ?」
ユオンは、笑った。
 「何が」
 「母さんの反応。もしもオレが一人で帰っていたら、あの人は、馬を隠すか飲み物に眠り薬でも混ぜて、オレを行かせないようにしたと思う。」
彼は平然としていた。
 「もともと、兵役につくことは大反対だったんだ。血とか、戦とかいうものが、極端に嫌いな人だからな。多分、オレがフラウムヴェルでどうしてたのか、なんて、一言も聞けないと思うよ」
 「おまたせ」
入り口とは反対のほうから、ユオンの母親が入ってきた。そちらに裏口でもあるのだろう。
 手にした盆の上には、暖かい湯気を上げるお茶と、お菓子が載せられている。
 「この畑で取れた麦で作ったクッキーよ。どうぞ、召し上がれ。」
彼女は、先にラニルスに勧めた。眠り薬が混ぜられているようには見えない。
 「遠慮なく、いただきます」
 「ユオンも。はい」
夫人の顔立ちは、目の前にいる息子とはあまり似ていない気がした。ユオンは父親似なのだろう。
 「でも、驚いたわ。急に帰ってくるんですもの。何年ぶり? 5年…いえ、6年ぶりかしら。お前ったら、ちっとも顔を見せに戻らないんだもの」
 「ここは、遠すぎるから。でも手紙は出してたろ」
 「心配していたのよ。フラウムヴェルが包囲されたの、スタウンヴェルで戦があるかもしれないの、いろいろ噂が飛び交っていたから。その頃からぜんぜん便りもなくて、何かあったんじゃないかと、私は…。」
ラニルスは、少し距離を置いて2人の会話に耳を傾けていた。
 スタウンヴェルでの一件、すでにフラウムヴェルが開放されたという噂は、辺境のこの村には、まだ届いていないのだ。ラニルスたちは、馬の足で噂を追い越してきた。だが、あと数日もすれば、風に乗って、この村にも最初の噂が届くだろう。

 そのとき、玄関のほうで小さな声がした。
 「ただいま」
 「あら! リーズが戻ってきたわ。ちょっと待ってて」
夫人は勢いよく立ち上がると、表へ駆け出していった。
 「弟か?」
 「そうらしい。」
入り口で、何か話している声。かすかな驚き。
 やがて、床の軋む小さな音とともに、居間に小さな人影が入ってきた。一目見た瞬間、血のつながりが分かるほど兄にそっくりな、だが、兄よりはずっと小柄な、10歳くらいの少年だった。
 少年は、小麦色に日焼けしていた。毎日、畑を走り回っているのだろう。足元にじゃれついている二匹のぬぶち犬を手で優しく払いのけながら、リーズは、驚いた顔をしている兄に、はにかんだ笑顔を向けた。
 「お帰りなさい、兄さん」
 「リーズ…」
立ち上がって、ユオンは弟の側に膝を折った。
 健康そうに見える少年に、ただ一つ足りないものは、片方の目だった。顔の上についた痛々しいほどの大きな傷が、瞼の上を覆っていた。
 「もう、痛くないのか?」
 「平気だよ。ずっと前に治ったもん」
 「…そうか。」
ラニルスは、戸口に立って中に入ってこようとしない、ユオンの母親に気づいていた。彼女は遠くから、視線を逸らしがちに2人の息子を眺めていた。
 傷の治り具合からして、怪我をしたのは、リーズがずっと小さい頃だろう。おそらく、5年は経つ。
 ちょうど、ユオンが家を出た時期だ。ラニルスにも、大体の事情を察することは出来た。ユオンは、家に戻りたくなかったのではない。
 戻ることが、怖かっただけなのだ。


 「リーズが怪我をしたのは、ちょうど6年前の秋の暮れだ。オレが10歳、リーズは5歳だった」
畑の中を続く細い道に馬を進ませながら、ユオンは話してくれた。
 青い麦の穂が揺れている。胸の奥につかえていたものが取れたように、彼の表情は、今はどこかすっきりしていた。
 「その年は不作だった。どこも穀物が不足して、飢え死に寸前の村もあった。この村はみんなで助け合って食べ物を分け合っていたから何とかなったが、隣村なんかは酷かった。中には、盗みを働いてでも、食料を得ようとする者もいた」
ヒュルスヴォルグのすぐ隣には、別の領主が治める土地がある。
 不作の年、国のあちこちで治安が乱れた。盗みや放火、時には殺人さえも起こっていた。ユオンの弟の片目は、そのとき、押し入った強盗に誤って傷つけられたものだという。
 「どうしようもなかった、と、言ってしまえばそれまでだ。だがそれでも、弟を守ってやれなかったのは、オレの責任だ。」
 「だから、兵士に志願したのか?」
 「…かもな」
ユオンの父親は、弟が生まれたすぐ後に亡くなっているという。一家の主だという強い責任感は、その頃から彼の中に在ったのかもしれない。
 その責任が果たせなかった、という罪悪感が、彼の中に強く在ったのだろう。
 だからこそ、ホンドショーの側につく、という、傍目には自暴自棄にも見える行為に出たのか――。
 「でも、過ぎたことを気にしても仕方ないだろ。あの子は、お前のことを恨んじゃいないし、お母さんだって寂しがってるんじゃないのか。」
近くにいて、守ってやるのも家族の務めだ、と、ラニルスは思う。家族が危険な目に遭うのを喜ぶ者は、いない。安全に、一緒に暮らすことを何よりも願うはずだ。
 「これからは、ちゃんと帰ってやれよ」
 「…そうするよ。」
 「羨ましいよ、お前が。ちゃんと、待っててくれるお母さんがいるんだからさ。」
口にしてから、ラニルスは、らしくもないことを言ったのが恥ずかしくなって馬の腹を蹴った。
 母親の記憶は、ほとんど無い。思い出すのは色あせた写真と、花に囲まれた、物言わぬ墓標と――。
 馬は険しく切り立った崖に向かって走っていた。細い道が崖の上に続き、その向こうに、砦の上部だけが辛うじて見えている。
 日は、まだ西の地平から手のひらを広げたくらいの距離にいる。
 「夕暮れまでには着きそうだな!」
振り返って一言かけてから、ラニルスは一気に馬を駆った。麦の匂いのする風が、首の辺りを抜けて背後へ流れていった。
 点には、高く、大きな鳥が一羽、舞っていた。

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