ふりしきる小雨はほとんど目には見えず、風も無く、まっすぐに、無数の銀の筋となって大地に降り注ぐ。濡れた灰色の城は、灰色の雲と一体化して、流れる空模様の中に浮かんでいるように見えた。
 静かな湖面は黒々と、目の前に横たわっている。
 木陰に体を投げ出すと、ラニルスは、ようやく安堵の溜息をついた。ずっと気を張り詰めていたのだ。正直に、疲れを感じた。
 藪を踏み分ける小さな足音に気づいて、彼は、視線を上げた。
 「…エリッサ」
少女は、何も言わずラニルスから少し離れた場所に腰を下ろした。
 「ハイネセンには済まないことをしたな。あの剣、折っちまった。これじゃ、もう打ち直すしかないよな」
 「<グローリア>と戦ったのでしょ? 当然よ。フェノールの剣と互角に戦えるのは、同じフェノールの剣だけ」
口調は相変わらず、そっけなく、どこか、突き放すような響きを持っている。ラニルスは、ずっと湖のほうに目を向けていた。まだ、日暮れまではかなりの時間がある。このまま、静かな時がずっと続けばいいのに、とさえ思った。
 だが、静寂は必ず破られる。それも、そう遠くはない未来に。
 「…もう一度、戦うの?」
 「わからない」
自信は無かった。多くの仲間を率いて、戦線に立つ自身など、どこを探しても湧いてくるはずがない。
 第一、剣がなければ、どうしようもない。ヴォラートの剣は使えない。だが、普通の剣では、ユオンの持つ、フェノールの剣は止められない。

 今、ここには、彼ら二人しかいなかった。そして、彼らには、この城で二人しか知らない共通の秘密があった。
 ラニルスは、おもむろに口を開いた。
 「ルーンの軍に、ラグナスがいたそうだ。今日、戻ってきた仲間が言っていた。ヴォラートを倒して戦場に出られなくすることと引き換えに、ヴォラートの剣を手に入れようとしていた…。」
エリッサの表情が、見る間に強張る。
 「ヴォラートを射ったあの矢は、ラグナスと一緒にいたファナの兵が使ったものと同じだ」
 「取引きした、というわけね。双方にとって最も良い方法で。そして、あなたたちにとっては、最悪の方法で」
ホンドショーの手に落ちた直後のフラウムヴェルに現われたのがラグナスだとすれば、ホンドショーの配下となったルーン公の軍に現れたことは、不思議ではない。だが、そうだとすると、ファナの兵を連れていた意味が分からない。
 ユオンに剣を与えたのがラグナスだとすれば。ヴォラートから剣を奪おうとしているのは、何故なのか。
 ばらばらに見えるすべてが、一つに繋がる予感がした。それは、エリッサだけではない、自分たちにも深く関わりのあることのような気がする。
 今、それに気づいているのは、彼ら二人だけだ。
 「奴の狙いは、何だと思う」
 「わたしが聞きたいくらいだわ」
少女の声は怒気を含み、低く、強く噛まれた唇に赤みが差す。
 「確かなことは、あいつが”取引き”をしたってことよ。ファナの兵とですって? 奴らが何を望んでいるか、知っているくせに! 許さない…、これ以上、シャーナフの掟を汚すことは!」
 「落ち着けよ。あんたと、あいつの間に何があったのか知らないけど、あいつがホンドショーの側についてるっていうんなら、おれにだって無関係じゃない。ファナに何があるんだ。」
 「あの国は、すべてのフェノールの剣を集めようとしているのよ。それどころか、わたしたち誇り高きシャーナフの一族を、自分たち専用の鍛冶屋にしたがっている。冗談じゃない、わたしたちが剣を作るのは、誰のためでもない。それが自分たちの誇りだからよ。だからこそ、創り上げたすべての剣に名前がある。主を失った剣を回収して、剣自身に新たな主を選ばせる手助けもするわ―――」
 「『剣は、力あるもののために在る。自らの滅びを望まないのなら、他を滅ぼしつくす力を得るべきだ。』…か」
ラニルスは、以前エリッサの言っていたラグナスの言葉を思い出した。
 「あいつは、ファナに他のすべての国を滅ぼさせるつもりなのかもしれないな。そのために、すべてのフェノールの剣を」
 「そんなこと、させないわ。」
驚いたように顔を上げ、エリッサは、きゅっと口もとを結んだ。最初に見たときどきりとさせられた、深い緑の瞳は、暗がりの中でも燃え立つように輝く。
 「あいつの思うようにさせてたまるもんですか。剣は自らの望む主のもとに。<ガーディア>は渡さない。<グローリア>も取り戻すわ」
 「おれだって。ヴォラートも、この城も守ってみせる。」
互いの視線がぶつかりあった。意味するところは1つだった。それを確かめるように、ラニルスは、慎重に言葉を選んだ。
 「ユオンは、利用されているだけなのかもしれない。おれは、あいつに直接確かめたい。そのためには、<グローリア>を相手にしても、折れないでいてくれる剣が必要なんだ。」
 「あなたがいいというのなら、一つだけ方法がある。」
エリッサは、肩にかけていた皮ひもをゆっくりと外し、両手で、ハイネセンが作った金属の鞘に包まれた大振りな剣を抱え上げた。
 「これは、相克の剣」
少女は、ずしりと思い刀身に視線を注ぎながら、言った。
 「名前は、まだ無い。いえ、必要無い。誰もこの剣を名で呼ぶことは無いし、誰も、この剣を欲しいとは思わない。なぜなら、この剣は最初から、同胞殺しの剣として作られたものだったから。ラグナスを、そして、…ラグナスの持つ剣、<マルキュール>を倒すために、憎しみと怒りをこめて、シャーナフ最高の鍛冶屋が半年かけて作り出した」
 「だが、あんたは自分でそれを振るうつもりだったんだろ?」
エリッサは、溜息とともに首を振った。
 「私では駄目」
小さく呟いて、軽く唇を噛んだ。
 「私では…この剣を魔剣にしてしまうだけ。ハイネセンもそれを知っている。この剣には、製作者の激しい感情のすべてが込められている。憎しみの感情を持って振るえば、この剣は全てを破壊する真の破滅の剣になってしまうでしょう。それではラグナスと同じよ…。」
 「憎しみ?」
ラグナスは、何かを憎んでいるのか? エリッサがラグナスに憎しみを抱くように。
 同郷である以上に、彼らの間には、何か深い確執があるような気がした。
 「この、呪われた剣を使うには、剣の持つ負の感情に引きずられないことが必要なの。もし、あなたの心に少しでも暗い感情が芽生えたら、そのときは、…剣に引きずられて、友達を殺してしまうかもしれない。それでも手にしたいと思う?」
 「おれはユオンのことを憎んでいない。今でも、友達だと思ってる」
恐れは無かった。
 ラニルスは、エリッサの差し出す剣に手を伸ばし、そして受け取った。
 剣は見た目以上に重く、手にした瞬間、背筋がぞくりとするような、凄まじい気迫を感じた。
 「ヴォラートはユオンが戦ったとき、剣と剣がぶつかりあったとき、悲鳴のような音がした。」
 「ガーディアとグローリアは、ともに同じ製作者が生み出した、”兄弟”の剣。当然よ。でも、最初から兄弟殺しとして生み出されたこの剣は、他のフェノールの剣と戦っても、決して悲鳴など上げないでしょう。」
エリッサは、じっとラニルスの表情を見つめている。
 「おれは、友達を倒しに行くんじゃない。ただ、話がしたいだけだ」
 「もし、それで決定的な断絶に終わったら、どうするつもり。あなたの友達は、利用されてるんじゃなく、何もかも承知の上かもしれないのよ」
 「だとしても」
ラニルスは、立ち上がって剣の皮ひもを肩にかけた。
 「信じるさ。もし戦うことになったとしても、おれは誰も恨むつもりはないよ」
 「たとえ、自分が命を落とすことになったとしても?」
 「…そうだな。多分ね。」
彼の脳裏に、一瞬、写真の中の黒髪の若い女性――母シーナの姿が過ぎった。
 彼女もきっと、何も恨みはしなかっただろう。
 立ち去りかけるラニルスの背を、エリッサの視線が、ずっと追いかけていた。


 ラニルスが戻ったとき、広間に集まっていた人々の間には、すでに話がいきわたっているようだった。怯えたような、心配そうな目をして見つめるラギや、憮然とした顔で、わざと表情を出すまいとしているライナーの様子からして、リシャートは、実に効果的な説明をしたらしい。
 それも、背水の陣を敷かせるような、見事な演説だったことだろう。そういうところは得意分野、流石、というべきか。
 「やっと戻ったか。怖気づいて、逃げ出したかと思ったぞ」
 「まさか。」
リシャートは、ラニルスの持つ大振りな剣に、ちらりと視線を投げかけた。
 「折れた剣のかわりを見つけてきた、というわけか。」
 「そんなところだ。」
 「出陣の準備は、いいのか?」
ラニルスは、広間を見渡した。見張りに立っている者と怪我人以外、ほとんどが、ここに集まっている。ヴォラートの姿は無い。
 「敵陣に動きがあった。小さな一団を先頭に、町の入り口に陣営が移動してきている」
 「行こう」
彼は迷い無く答えた。
 「先頭の集団は、何人くらいなんだ?」
 「5名ほど。…使者を務めた男もいるようだ」
 「そうか。」
ユオンがいる。と、いうことは、何か、交渉を持ち込むつもりか。いや、自分を待っているのかもしれない。ラニルスには、そう思えた。
 「おれが行く。リシャート、あんたも来るか?」
 「聞くまでも無いだろう。準備は既に終わっている、あんたがいない間にな。」
射手エルムが、弓を肩に入り口で待っていた。あとの2人は、確かヴォラートが率いていた先鋒隊で見かけた。こちらも5人。
 ライナーが、行って来い、というようにあごをしゃくる。
 「今さら、交渉も何も無い。双方突撃するまでだ。後ろでわしが全軍の指揮を執る。もし、お前が何かしくじっても、心配は要らん。心残りの無いように、な」
 「分かってる。」
広間から続く扉が外に向かって開かれた。表は雲の切れた夕刻、日没までに余裕のある薄明るい空が、城壁の外に広がっていた。


 

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