広間の中に足を踏み入れたとき、最初に鼻についたのは、かすかな血のにおいだった。負傷し、運び込まれた兵のものだろう。だが、そこにヴォラートの姿は無かった。他の重傷兵とともに、奥の間に運び込まれたのだろう。
 「ファナの伏兵がいた、だと?!」
隠すことも忘れた大声は、広間にいた兵士たち皆の顔を上げた。階段の下に、ライナーとエルムが向かい合って立っている。
 「間違いありません。ヴォラート殿を射った、あの矢…、先日森に斥候に出た時に見たものと全く同じです。そして、この国では使われていません。あれは、ファナの遠距離射撃用の弓から放たれるものです。」
エルムの声は、森に住む若者を感じさせる、よく通る澄んだ声だ。
 「森では気づきませんでしたが、今回ははっきりと見えました。鎧や衣服の紋章こそ隠していたものの、武器には、間違いなくファナ帝国の紋章がありましたから。」
 「馬鹿者!見えていたなら…、何故、防げなかった!」
 焦燥が声を荒げさせ、不安を滲ませる。ライナーの怒鳴り声は、追い詰められた獣の咆哮に似ていた。
頭を垂れていたエルムは、ラニルスが見上げていることに気がついて、そちらに視線を向けた。ラニルスは思わず背を向けた。
 そう、防げなかった。あの瞬間、気づいていたのは自分も同じだった。
 「これからどうなる? ヴォラート隊長がいなくなったら、どうやって」
 「シモン公の援軍も遅れるらしいぞ。雨で、草原がかなりぬかるんでいるらしい…」
ひそひそと囁き交わされる声が、四方から突き刺さる。
 「…何故、奴らは退いたのだろうな。まさか、ファナの援軍の到着を待って…」
 「馬鹿な。ホンドショーがファナと手を組んでいたというのか。いつ? そんな情報は何も」
 「若い連中は、友達が戻ったと大喜びだが、その中にも、裏切り者がいるかもしれないんだぞ…」
 「誰が裏切るものか!」
ラニルスは、思わず叫んだ。一瞬、広間に沈黙が落ちた。
 「隣にいる、かつての仲間を疑いながら戦えというのか?!」
 「だが、お前の友人は戻らなかった」
ライナーが、語気を荒げたまま、挑むように言う。
 「ユオンは最初に、この城に挑戦状を叩き付けに来た。そして今日、戦場において、ヴォラート殿はおろか、お前にまで剣を向けたではないか。それでもお前は、友を信じるか?」
 「剣は、戦うためのものだ」
彼は、真っ直ぐなまなざしをライナーに向けた。
 「人に意思がある限り、生きようとする限り、ぶつかり合うことも在る。ひとたび抜かれた剣は、己の思いを遂げるまで鞘に収められることはない。」
 「何がいいたい」
 「なれあいの友情など、信じていない。ユオンが剣を向けたのなら、必ず理由があるはずだ。おれは、まだ、その理由を何も聞いていない」
誰も口を開かなかった。ライナーとラニルス、そして、彼らの間の空間だけに、凍てついた断崖のように険しく聳え立つ沈黙が、横たわっていた。
 エルムは何かに気づいたようにそっとその場を離れ、廊下の暗がりに身を隠す。
 奥から現れたのは、リーマンに肩を支えられ、上半身にきつく包帯を巻いた、ヴォラートだった。
 「ラニルス…」
ぎょっとして、ライナーが振り返った。
 「ヴォラート殿! いけません、まだ」
 「頼みがある。ラニルス、ここへ」
 「しかし…」
ラニルスは、言われたままヴォラートに近づいた。普段ならどんなに離れていても聞こえるはずのヴォラートの声は弱弱しく、側にいなければ。はっきりとは聞こえないほどだった。
 どれほどの血を失ったのか、顔色は蒼白で、一人では、立つことすら出来なさそうに見えた。ここにこうしていることは、半ば以上、気力のなせる業だろう。
 ラニルスが手の届くところまで近づくと、ヴォラートは、右手に握っていた剣を、鞘ごと、目の前に差し出した。
 「わき腹をやられた。しばらくは戦えんだろう。…ラニルス。明日、シモン公の軍が到着するまで…。お前が、この城を守れ。」
それは、ヴォラートの剣<ガーディア>だった。柄に刻まれた優美な文字と、細身の刀身は、今更確認するまでもなかった。
 触れることさえ許してもらえず、間近に見てずっと憧れ続けてきた、類稀なる意志持つ剣。
 いつか、それを手にしたいと願ってきた。だが、今は――。

 「受け取れない」

 ラニルスは、静かに首を振り、ヴォラートを見上げた。
 「その剣も、ユオンの剣も、互いに戦うことは望んでいない。意志持つ剣を、望まぬ戦いに連れ出すことは出来ないよ」
何の話か分からず、ライナーは眉をしかめ、目をしばたかせている。分かった顔をしているのは、リーマンだけだ。
 「それに…その剣は、まだヴォラートと戦いたがってる。」
 「…そうか。」
ヴォラートは、あっさりと剣を退いた。ラニルスが、そう答えることは、あらかじめ予測していたようだった。
 「確かに、その通りだ」
 「ヴォ、ヴォラート殿。」
 「いいのだ、ライナー。こいつは、わしの身代わりでは役不足だと言っている。わしも、これしきのことで少し弱気になりすぎた。」
口元をゆがめ、ラニルスのほうを見る。その口調は、上官が部下へ、というよりは、親しい肉親に話しかける時のようだった。
 「この戦で、戻ってきたフラウムヴェルの兵は50人ほどだ。入隊して数年以内の、若い者が…ほとんどだな」
城門のほうで、小さな歓声が上がった。顔見知りの名を呼ぶ声が聞こえる。広間に駆け込んで来た一人の兵が、戦場から引き返した来た者がいる、と告げた。
 「数は…まだ増えるだろう。もしも…呼びかけていなければ、敵となり、殺しあっていたはずの相手だが。」
 「ヴォラート殿。そろそろ戻りませんと」
リーマンがやんわりと言い、ヴォラートは、うなづいた。
 ラニルスは、軽く一礼だけ残して、その場をあとにする。ヴォラートは、そんな甥の後姿を、何か思うように、じっと見つめていた。


 再び、小雨が振り出していた。空は薄暗く、ほんの一瞬だけ見えていた晴れ間も、すぐに雲の中に隠れてしまう。
 「ラニルス、隊長に会ってきたの?」
 「ああ。元気そうだったよ、命に別状はなさそうだ。」
 「そっか」
ラギは、そばかすだらけの鼻の頭をこすって、ほんの少し表情をゆるめた。
 まだ気を緩めている場合ではないのだが、この状況の中で、数少ない喜ばしい知らせだった。
 「皆、集まってるんだ。さっき町のほうから何人か遅れて戻ってきたんだよ。ちょっと様子が変なんだけど」
 「戻ってきた人の、か?」
 「うん…」
 「行ってみよう」
ラニルスが大股に歩き出すと、ラギも慌てて後ろについてくる。場所はすぐに分かった。城門を入ってすぐの前庭で、若い兵士たちが何人か、押し合いのようになっていたからだ。
 「ヴォラート隊長に、今すぐ会わせてくれよ! 早く!」
 「落ち着けよ。何があったんだ。それに、今、隊長は…」
 「どうしたんだ?」
ラニルスが声をかけると、兵士たちは一斉に振り返った。人の輪の中にいたのは、フラウムヴェルで何度か見た覚えのある、色の白い年上の兵士だった。ラニルスの姿に気づくと、はっ、としたような顔になり、勢いよく近づいてくる。
 「あんた、ヴォラート隊長の親戚だったよな。な、あんたから取り次いでくれないか。隊長にどうしても伝えなきゃならないことがあるんだ。お願いだ」
 「ヴォラートは怪我を負って治療中だ。あまり、長く話せない。」
 「え…」
若い兵士の白い肌に、さっと緊張の赤みが走った。
 「そ、そう…なのか。」
 「何を話したいんだ? もし、どうしても直接言いたいなら頼んでみるけど、一対一では無理だと思う。だったら、今ここで、皆に言うのも同じことだ」
まわりは、ほぼ同年代の少年から大人にかけての年齢の若い兵たちが取り囲んでいる。その中心に、ラニルスがいた。
 「…わかった、言うよ。オレ…聞いちまったんだ。いつだったかは忘れたけど、フラウムヴェルの城から出されて、それから、野原にテントを張ったときだった」
どもりながらも、彼は必死で、状況を説明しようとしていた。
 「城の地下道を通った…暗くて、カビっぽくて、もうずっと使われてないような場所だった。後ろから目のぎらぎらした傭兵がついてきてさ、少しでも遅く歩くと、剣で刺そうとするんだ。怖かったよ、口も利けなかった。そいつらが何所から来たのかも分からなかったんだ。オレたち、いつも見張られてた。武器はほとんど持たせてもらえなくて、そいつらだけが武器を持って、見回りをしてた…」
 「そうだ! この国の兵士じゃないみたいだった。一度も見たこと無いんだよ」
ラギが声を上げた。
 「ルーン公の軍の半分は、フラウムヴェルの兵じゃない。50くらいは傭兵らしき兵がいると聞いている。だけど、聞いたっていうのは?」
 「…テントの会話。たまたま、その日は言いつけられた用が終わらなくて、夜遅く、ルーン公のテントの近くを歩いてた。そのとき、聞いたんだ…」
声がつまり、喘ぐような息が漏れた。
 「黒づくめの男がいた」
どくん、と、ラニルスの心臓が高鳴った。
 「それから、何人かの、見覚えのない格好した奴ら。黒づくめの男が、言った。”我々は<ガーディア>さえ無傷で手に入れられればよい”って。…地獄の底から日々いてくるみたいな声だった。それから…”そちらとしては、あの守護者の男が戦場から消えれば、それでよいはず”」
 「守護者…ヴォラートのことか…。それで、奴らは…。」
 「で、でも、言えなかった。もっと早く伝えるべきだったのに…もっと…」
若い兵は泣きながら崩れ落ち、周りから仲間たちに抱きかかえられた。ラニルスは、唇を噛む。
 「知ってたとしても、ヴォラートは戦場に出たはずだ。そして、注意していても、あの矢はきっと避けられなかった。」
ヴォラートが狙われることは、最初から分かっていた。最初の襲撃の時、ヴォラートの守っていた、町の入り口が集中攻撃された。それでも、自らの命を惜しんで、身を省みるような男ではなかった。
 ヴォラートがいなくなれば、この城を守る者は、いない――浮き足立つ兵を、まとめる者は、いない。単身、敵陣へ乗り込んでいけるような熟練の兵は、ごく僅か。率いる者もいないままに、ここにいるのは、実戦経験のほとんど無い新米の兵士たちばかり。
 だが、初陣だからと言って、相手は手加減などしてくれない。
 「奴ら、ファナの軍と通じてたんだ。その連中は、きっと、ファナ軍とのつなぎなんだよ」
ヘイズが、力なく言った。さっきの、広間でのライナーとエルムの会話を聞いていたのだろう。
 「…奴らきっと、ファナの軍を待ってるんだ。一気にたたみかけてくるつもりなんだよ。こうしてる今だって、ファナの軍が…。」
 「諦めてたまるか。ヴォラートは死んでない。ガーディアも奪われていない。この城も落ちていない。おれたちは、まだ戦える!」
ラニルスは、たたきつけるように叫んだ
 「悔しくないのか?!仲間を苦しめた。親しい人を傷つけた。それだけでも、おれは奴らを許せない。これがホンドショーのやり方だとしたら、そんな奴に好き勝手されてたまるもんか! そうだろ?」
 「許せないさ」
間髪いれず答える声と共に、兵士たちの、揃いの帷子の中では異質な、緋色のマントが視界の端で揺れた。
 人ごみを割るように進み出たのは、塔でヴォラートに報告をしたとき、その場にいた文官…、リーマンが名を言っていた…、リシャートだ。
 「ラニルス=ヴィンスレット、あんたの言うことは最もだ。あんた含め、ここにいる連中に国王陛下への”忠誠心”など、望むべくもないが」
つんと澄ましたような、わざと嫌味ったらしくしたような口調だったが、彼の言葉は、その場にいた者たちに不快感をもよおさせるものとは異なっていた。、
 「そうでなくとも、”ホンドショーなどに好き勝手させてたまるか”と、いう部分には同意する。この戦いは長引きすぎた。決着は、もう間もなくだろう」
 「フラウムヴェルの城攻めは、始まっているのか」
 「ルーン公の軍が動いたという知らせが入った直後から。幾ら時間がかかったとしても、ここからの使者は飛ばせば2日半でフラウムヴェルへ辿りつく。既に4日目に入ろうとしている。城攻めが始まって、少なくとも、丸1日は経っているだろう。」
リシャートは、軍師のような、不敵な笑みを浮かべた。
 「いかな難攻不落の城とて…三ヶ月の篭城ののち、どこまで持ちこたえられるか。」
 「……。」
緋色のマントの下に下げた剣は、まがいものではない。この若者も、戦場に立つことは、あるのだろう。
 だが、指揮される一介の兵に過ぎない自分たちと、常に指揮者としての教育を受けてきたこの若者との間には、決定的な違いがあるような気がした。
 「ホンドショーの身柄を拘束できれば、それで終わる。遅れてはいるが、あと半日も持てば、シモン公の援軍が到着する。それまで、国王陛下を守りきれば、我らの勝利だ。」
 「あと、半日も…?」
 「長い時間ではない。それに、今、お前たち自身がその目で見たように、ルーンが恐怖によって縛っていたお前たちの仲間は、みな、戻ってきているではないか。敵の数は今や半分か、それ以下だ。決して守りきれぬ数ではない」
リシャートの言葉には、有無を言わさぬ力強さがあった。ヴォラートとは違った自信だ。兵士たちはさざめき、顔を見合わせる。そして、ラニルスのほうに目をやった。
 「…聞いたとおりだ。休める時間は、そう長くないと思う。その間に出来る限り体を休めて、次の攻撃に備えよう。その時、何があっても、決して退かない」
集まっていた若い兵士たちは、数人ずつ連れ立って、三々五々、前庭から散っていく。さきほどヴォラートに危機を告げに駆け込んで来た色白の兵士は、仲間たちに両脇から抱えられ、兵舎のほうへと消えて言った。ラギは、何度か振り返り、何か居痛そうだったが、ヘイズに止められ、しぶしぶといった顔で広間のほうへと消えた。

 残っているのは、門の見張りについている兵士と、ラニルス、それにリシャートだけだった。
 ラニルスは今更のように、先ほど、自分の名が姓とともに呼ばれたことを思い出した。
 「あんた、確かリシャート…だったよな」
 「リシャート=フォン=ベッヒラーレンだ」
リシャートは、プライドの高いエリートらしく、反射的に言い直す。
 「父方の姓は使いたくないんだ。フェルアローと呼んでくれないか」
 「そうなのか。それは、済まなかったな。」
目をしばたかせ、謝ったあと、彼は不思議そうな顔になった。
 「…気になっていたんだが、あんたは父方の親族は頼れなかったのか? 父親は何所にいる」
 「さあな、詳しいことは知らない。異国人だったらしい。一度も会ったことがないし、今さら頼れと言われてもね」
肩をすくめ、ラニルスは浅く笑った。
 「おれにとっての故郷はフラウムヴェルで、ヴォラートは父親みたいなもんだよ。それが、おれの戦う理由さ。…多分、あんたも同じようなもんなんだろ」
 「ああ」
一瞬、リシャートの表情がきっと引き締まった。だが、それも、ほんの僅かの間のことだ。
 「…あんたは、おかしな男だな。ほとんど初対面の人間に、自分の話をするのか?」
 「さあな。こんな話は、あまり友達ともしたことがないな」
それは、事実だった。こんな状況だからこそか、それとも、リシャートが、今までに会ったことも無いタイプの人間だからか…。
 「ラニルス=フェルアロー。改めて頼みがある。」
改まった声で、リシャートは言った。
 「今、若い兵士たちは貴殿に信頼を寄せ、自然と頼りにしている。ヴォラート殿が戦場に立てない今、彼らをまとめられるのは、貴殿しかいないだろう。」
背筋を正した、歯切れのよい張りのある声は、国王の面前において法令を布告する大臣のようだった。
 「おれが? そんなこと、勝手に任命しても、いいのか」
 「勝手ではない。ヘルムナート陛下の意向だ。」
 有無を言わさぬ調子で、リシャートは、何かを押し付けてきた。ラニルスは、手のひらを開いて、無理やり押し込まれたそれに視線を落とした。
 金に輝く太いピンは、厚めのマントを止めるためのもの。その先端には、濃い緑色の小さな石を花弁にした、ちいさな百合が茎をからめている。軍の指揮官や、国王直属の家臣だけが持つもの…、特別にあしらえられた下賜の品だった。
 ラニルスは、思わず真顔でリシャートを見た。だが、リシャートは、腕組みをしてラニルスから体を背けていた。
 「陛下は、いつも見ておられる。」
それは、知っている。昨日も、ラニルスとライナーが広間で言い合ってる時、そこにいた。だが、わざわざリシャートを寄越して、そんなことを告げさせるとは――。
 しばしの沈黙の後、ラニルスは、ふっと息をついた。
 「国王様の命令じゃ、出来ない、と逃げるわけにもいかない…か。いいさ、どのみち人の後ろに隠れる気になんてならない。おれは先頭に立つ。そして、出来ることなら誰も死なせない」
 「甘いな。」
リシャートは、鼻で笑う。
 「だが、貴様のような甘ちゃんに先陣を任せろというのも、陛下のご意向だ。期待している」
 「ああ。」
ラニルスは、小さく頷き、口を閉ざした。
 今なら取り消せる。だが、ラニルスには、そうするつもりは無かった。ヴォラートの「代わり」ではなく、自分にしか出来ないことがある。…はずだ。
 最初の頃に感じていた恐怖も不安も、今はほとんど消えうせていた。それが不思議だ。
 足は自然と湖のほうへ向く。その後ろを、足音もたてずに付いてくる人影があった。


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