音も無く、ゆっくりと、夜が白んでいく。
 東の空は灰色に霞み、重く雲ってはいたものの、雲越しに辛うじて、太陽のありかが分かる。黒く濡れた町並みは人気もなく静まり返り、城の庭に出来た大きな水溜りが、憂鬱そうな空模様を白く映している。
 「開戦まで、あと一時間といったところか」
ヴォラートは、城門の上から、町の向こうを眺めていた。そこには、昨日までは草原のずっと彼方にあった黒々とした仮の陣営が、すぐ間近に姿を見せていた。立ち上る煙の数と勢いから、まさに今、出陣の準備を整えているところだと思われる。
 「あの雨の中、簡易テントで一晩を過ごせば、体力も落ちるでしょう。」
側に控えるライナーが答える。
 「だが、あちらには熟練の兵が多い。報酬目当てとはいえ、士気も高い。こちらは戦いに怯える若い兵士ばかりだ」
 「それは昨日まで、でしょう」
黒ヒゲの大男は、片方の口の端をゆるく吊り上げた。
 「自ら、若い者たちの間に火を放った者があります。敵軍に取り入れられた仲間を自らのもとに取り戻そうと。まさに敵の策を逆手に取ろうというわけですな」
 「だが、果たして相手が、それに応じるものか?」
ヴォラートの表情は晴れなかった。
 「兵士のうちいくばくかは、貧しい家庭や子沢山の貴族の家から来ている。彼らが、国王の身柄と引き換えに莫大な報酬を受け取る約束を重んじたとしても、何の不思議もあるまい。――友情など、金にはならぬ」
 「本当は、そうは思っておられぬでしょうに。貴方とて、信じたい…いや、本当は、信じているはず。」
 「信じても、裏切られることは在る。」
そう言い残し、踵を返したヴォラートの表情は険しかった。城門のすぐ下の前庭では、兵士たちが出陣の準備を始めている。
 馬に鞍を置き、槍を磨き、体に鎧をつけ剣を下げるベルトを巻く。冗談を言ったり、笑いあったりする光景は、もうそこには無い。皆、この1日が全てだと、わかっているのだ。
 奥の扉から、ひときわ目立つ、明るい、赤い旗がうやうやしく運び出されて来た。旗手の持つ、王家の、フラウムヴェルの紋章いりの旗だ。「フラウムヴェルへ戻れ」とは、その旗のもとへ戻れという意味でもある。
 風は無い。
 赤い旗は夜明けの白い空気の中に、ぼんやりと滲んだように浮いて見える。
 ヴォラートは、腰に下げた剣の柄を、しっかりと握りしめた。
 「心配なのでしょう」
ライナーが一歩、近づいた。
 「皆、分かっております。ことさら特別扱いはすまいと務めていらしたとて、ラニルスは、妹ごが遺された、たった一人の――」
 「言うな」
ヴォラートは声を荒げ、頭を振った。
 「俺は戦のたびに、故郷に待つ、多くの母や妻たちから、息子や夫の命を奪ってきたのだ。己にだけ甘い目を見せようなどとは思わん。俺の役目は陛下と城を守ること…私情は挟まぬ。」
 「…ヴォラート殿」 
 「俺かつての教え子とて容赦はせん。」
強く、断固とした口調は、しかし、揺らいだ意思を無理やり高めようとするかのようにも聞こえた。
 「この城は守るに弱い。町の周囲を守ることは、もはや不可能だろう。この市街地が戦場のすべてだ。」
 「はい」
 「――この城には、敵兵は一兵たりとも入れん。」
だが、もしかすれば、その「敵兵」が、敵ではなくなるかもしれないのだ。或いは。


 ラニルスは、腰にハイネセンの鍛えた剣を下げていた。その傍らには、馬具をつけた<疾風>が、落ち着いた様子で立っている。予告したとおり、頭に防具はつけていない。だが小脇に抱え、いつでも被れるようには、していた。
 「計画のこと、全員に伝えておいた。大丈夫だよな。あいつら、戻ってきてくれるよな」
ヘイズは熱心に、何度も繰り返した。
 「ああ。きっと。…」
ラニルスは、すぐ側で蒼白な顔をしているラギに目を向けた。
 その鎧からは、すでにルーン軍の紋章が剥ぎ取られている。一晩開けて、ようやく解放され自由になったときラギが望んだのは、国王側の兵士の一人としてもう一度、戦場に立つことだった。
 「本当に、いいのか?」
 「う、うん」
震えながらも、ラギは何度も頷いた。
 「み、皆を、連れ戻すんだ。僕と同じなんだ…ただ、怖くて従ってるだけなんだ。僕がいかなきゃ。ラニルスたちにだけ、任せるなんて…ひ、卑怯だよ」
 「ラギ…。」
 「これが終わったら、僕、兵士やめるよ。」
そばかすだらけの少年は、精一杯笑った。
 「戦いには向いてないって、分かったよ。本当は料理人になりたかったんだ。家に戻って、修行して…それで、いつか、店を持ちたいな」
 「そうだな。ラギにはそっちのほうが似合ってる。」
ラニルスは、ラギの肩を抱いた。その、ささやかな夢が叶いますようにと願いを込めた。
 集合を告げるラッパの音が鳴り響く。
 その日の布陣が伝えられ、歩兵たちは城壁の前と、町の入り口へと進んでいく。その様子を、わずか20騎ばかりの騎馬兵たちが見送っている。
 「ラニルス!」
ヴォラートが、黒い馬を近づけてきた。
 彼は、馬上の甥の姿を上から下まで眺め、しばしの間沈黙した。ラニルスが武装して馬に乗るのを見るのは、初めてのことだった。
 「…見た目だけは、いっぱしだな。」
ようやくヴォラートの口から出たのは、照れ隠しとも思える、ひどく短い感想だった。
 「お前は、一緒に来るんだ。先頭にいなければ始まらんし、俺の側のほうが目立つだろう。」
旗を持って軍の先頭にいれば、当然、命の危険は増す。まして片手を旗、片手を手綱に塞がれては、盾も剣も使えず、身を守ることは出来ない。
 「守ってやれるかどうかは、分からんぞ。」
 「覚悟の上です。もしものときはメリアスヴォルグへ」
はっ、とするような間があった。ヴォラートは、じっとラニルスを見つめていた。
 メリアスヴォルグとは、ラニルスが生まれた町、ヴォラートの故郷…そして、若くして死んだ、ラニルスの母親が眠る場所でもある。
 その覚悟は、決して口先だけのものではない。
 「…そうか。」
自らの命さえ覚悟した者に、もはや言うべきことは無く、あとは幸運を祈るばかりだ。
 見張り台のエルムが、高らかにラッパを吹く。そして自ら、見張り台を駆け下りてくる。今日は見晴らしもいい。目のいい見張りでなくとも、見張りの役はつとまる。
 エルムも戦場に出るのだろう。
 残っているのは、リーマンのような怪我人や老兵、国王の側に控える護衛兵、裏門を守る兵など、ごく僅か。
 「皆、門を出るのだ。そして速やかに門を閉ざせ! 戦の終わるまでは、誰も入れるな!」
ヴォラートの力強い声が響き渡る。
 城門から大通りへと降りてゆく兵士たちの足音の後ろで、扉が重々しく閉ざされた。ラニルスは振り返り、どんよりとした空の下に聳え立つスタウンヴェルの城壁を見上げた。その中には、息を潜め、戦いの終わるのを待つ町の人々もいる。

 布陣が終わったとき、目の前には、町の境界線と、一列に並んで立つルーン軍の騎馬兵たちが銀の甲冑をきらめかせているのが見えていた。
 昨日の戦と、雨で、草原は半ば泥に沈んでいる。仮の城壁もほとんど崩れ、ちょっとした障害物くらいにしかならないだろう。
 「見えるか。あそこに、200の兵がいる。」
ヴォラートの言葉にうなづくと、ラニルスは、マントに手をやった。向こうにはユオンがいる。ユオンは、気づいてくれるだろうか?
 だが、半分は、かつてフラウムヴェルの城で顔を合わせたことのある者たちのはずだ。
 「かつての同胞たちに告ぐ!」
ヴォラートは一歩馬で進み出て、大音声で呼ばわった。側にいると腹の底まで震えるような、恐ろしく大きな声だった。
 「我らは、かつての仲間を攻撃するつもりはない。もしもそなたらが剣を捨てるなら、我が剣にかけて、身の安全を保障しよう。」
 「皆、聞いてくれ!」
ラニルスは馬に拍車をかけ、マントを翻して両軍の中央に躍り出た。顔が良く見えるようにと、兜はつけていない。幾つかの驚きの声が敵軍から上がり、ざわめき、顔を見合わせる何人かが見て取れた。
 「おれたちは、今でも仲間のはずだ。仲間とは戦いたくない、それは皆同じなんだ。一緒にフラウムヴェルへ帰ろう、脅されて、言うなりになる必要なんか無い!」
 「笑止な!」
兵の間から、堂々たる栗毛の馬に乗った男が、ラニルスの前に対抗するように進み出た。面識はない。一度も見たことの無い顔だった。
 「たったそれっぽっちの兵しか持たぬ、名ばかりの王の使者が何を言うか。ヘルムナートは何も出来ぬ腰抜けよ。王の座には相応しくないわ!」
 「ルーン、貴様…」
ヴォラートの、低く押し殺した声で、ラニルスは、それが誰なのかを知った。
 フラウムヴェル城を包囲する軍に参加していながら、途中で裏切り、スタウンヴェル城の敵に回った男。
 「忘れるな、死に損ないの老いぼれ王になど忠義を尽くしても、先は見えている。それよりも、力あるものに王の座は相応しくないか?」
ルーンがせせら笑いながら剣を抜く。銀に輝く鋼で作られた幅広の剣、もち手の部分には、緑の紋章が輝いている。
 「ほざけ。金や地位につられた裏切り者が、己の部下をどう扱うかなど見えておるわ。よくも我が教え子たちを粗末に扱ってくれたな。この借りは返させてもらうぞ!」
ヴォラートも、言うと同時に自らの剣<ガーディア>を抜いた。殺気を感じるほどの怒りに燃えたヴォラートの姿を見るのも、そして、これほど美しく輝くフェノールの剣を見たのも、初めてだった。ヴォラートの押し殺していた怒り、口には出さなかった秘めた思い、そうだ、ヴォラートにも、戦いたくないという気持ちはあった。
 知らず、ラニルスは馬を下げていた。まだ自分には、そこに割って入ることは出来ない。
 「おい、ユッグ、ニアル、聞こえてるか?! そこにいるんなら、戻って来い!」
ヘイズが口の周りに両手をあて、あらん限りの声で友人の名叫ぶ。
 「お前らだって分かってんだろ。そっちにいたら、ずっと脅されっぱなしで働かされるんだぜ! わかんねーように逃げて来いよ。待ってる!」
 「フェル、ヤな訓練はいつも一緒にサボったじゃねーか。オレだって、こんなた戦いはしたくねーんだよ。サボっちまおうぜ!」
 「馬鹿、サボってどうする。」
小さな笑い声が漏れた。
 「見えるか? ここには、以前と変わらない仲間がいる――」
ラニルスは馬上から叫んだ。剣を抜きながら。旗手の赤い旗が掲げられる。微風が、その旗をゆっくりと広げ、金糸で縫い取られた、フラウムヴェル城の紋章をくっきりと曇天の下に現した。
 「フラウムヴェルへ戻ろう! 帰るべき場所へ、ともに」
ひゅん、と風を切って、ルーンの陣営から一本の矢が飛んだ。だがラニルスは剣を一振り、矢を叩き落すと、きっとルーンの陣営を睨み吸えた。
 「これくらいで、おれたちを黙らせることが出来ると思うのか!」
待ちきれないというように、フラウムヴェルの塔の上から、突撃の音が鳴り響いた。同時に、ルーン軍からも、勇ましく、急き立てるような角笛の音が鳴り響く。
 馬がいななき、轡が蹴り上げられた。
 「わが首を討たんとする者はかかって来るが良い。いざ!」
ヴォラートは美しい剣<ガーディア>を振りかざし、敵陣の中へと踊りこんでゆく。
 「ひるむな、前へ!」
ヴォラートの率いる精鋭部隊の兵たちは、慣れた手つきで槍を構え、突撃に備えた。
 エルムが角笛を吹いた。高く三度、突撃の合図だ。ライナーが側を駆け抜けながら叫ぶ。
 「ラニルス、油断するな。向こうの半分は仲間だったかもしれないが、残る半分は違うんだぞ!」
ラニルスは、膝の上に置いていた兜を素早く被り、緒を締めながら片手でたづなを取った。
 またたくまに、呼び声は怒号と交じり合う。耳元で鳴り響く人馬のどよめき、打ち合わされる金属の音、時おりかすめ飛ぶ矢が空を切る音。かろうじて、視界の端にヴォラートの背を追いかけていられるくらいで、あとはもう、敵味方いりまじった混戦状態だ。
 「フラウムヴェルの兵たちよ、剣背を抜かないでくれ。仲間を攻撃したくない。ともにフラウムヴェルへ帰ろう!」
町の入り口から町の半ばまで、そこかしこで、剣の打ち合わされる音が響いている。城門に取り付こうとした兵が、城壁の上から射掛けられた矢に当たって倒れる。家々の隙間から飛び出してきた馬が、待ち構えていた兵の槍に突かれ、乗り手もろとも坂を転がり落ちる。

 ところどころで、ささやきあい、頷き合って戦線を離脱していく兵が見られる。混戦状態の中でも、見知った顔とめぐり合い、剣を収めることに同意した者がいる。だが、それが、どのくらいの数になるだろう?
 思った以上に、呼びかけの効果は少ないように思われた。武装した戦場において、向かってくる甲冑の兵たちは顔まで隠している。誰が味方で、誰が敵なのか、近くに居ても区別がつかない。
 「ユオン!」
ラニルスは、剣を振りかざしながら叫んだ。
 「どこにいるんだ!」
ふいに、背に視線を感じた。いや、それは視線というよりも、気配だったかもしれない。
 すぐそこに、馬上からじっと見つめるまなざしがあった。他の人影、すべてが消えたように思われた。
 「ユオン…?」
きらめく鎧をしっかりと身に纏ったその人物は、赤褐色の細身の馬に乗り、あの剣を手にしていた。胸にはルーン軍の印である、緑の紋章が輝いている。
 どこか悲しげな、だが殺気に満ちた目は、口を開かずとも、今のユオンの考えていることを、はっきりと伝えてきた。
 「なぜだ? お前は…」
馬首を巡らし、ラニルスが近づこうとした時だった。
 何か重いものが崩れ落ちるような音がして、わあっ、と声が上がった。
 はっ、としてユオンが顔を上げた。ヴォラートの周りに、ルーン軍と国王軍、双方の兵が押し寄せている。ルーン軍は、必死で何かをかばおうとしている。
 辛うじて、ルーンのつけたマントの端と、栗毛馬の脚が見えた。ルーン公が倒れたのだ。ヴォラートが一騎打ちに持ち込んで、馬ごと突き倒したらしい。
 「ユオン!」
行動は迅速だった。迷いは微塵もなかった。
 彼は馬を駆り、人ごみの頭上を飛び越して、ヴォラートの目の前に剣を向けた。
 「ヴォラート!」
ラニルスも馬を駆った。ユオンほど騎馬に慣れているわけでもなく、まして、この混雑だ。
 ヴォラートと、ユオンが剣を向け合っている。親しい友人と、近しい血縁者とが―――それは、ラニルスにとって、最悪の対決だった。


<Back Index Next>