ラニルスは、高楼を出ると真っ直ぐに城の本館を目指した。入り口の大きな扉は厚い樫の一枚板で造られ、緋色に塗られて、金の取っ手がついている。貴族や王侯を迎え入れるために作られた扉だったが、今は、兵士たちの通り道だ。
 普段は見張り以外誰もいない入り口の広間は、人いきれにむっとしていた。夜明けの時を待つ兵士たちがそこかしこで浅い眠りに身をゆだね、あるいは仲間どうし不安げに話し合い、時を過ごしている。焚き火が赤々と天井を照らし、彼らの影を大きく壁に映していた。
 片隅に集まって話し込んでいた若い兵士たちが、一斉に振り返った。
 「ラニルス!」
そばかすの、背の高い若い兵士が足早に近づいてくる。ヘイズだ。
 「ヴォラート隊長に呼ばれて行ったって…。あいつは? 大丈夫なのか」
 「ああ、ラギなら大丈夫だよ。おれたちの仲間じゃないか。今は別館にいるよ。リーマンがついてる」
 「そうか。よかった…。」
ヘイズの声には、心からの喜びが込められていた。ラニルスには、それが嬉しかった。

 「明日になったら、もっと、ひどいことになるんだろう」
ハイセンもいた。交替のために戻ってきていたのだ。
 背の高い少年は、怯えた目で小刻みに震えている。
 この瞬間さえ、いつ襲撃されるか分からない不安に苛まされながら、彼らはただ、待つことしか出来ない。朝になれば戦場が待っている、そこにある恐怖は、戦いに挑む恐怖だけではなく、かつての仲間を傷つけてしまうかもしれない恐怖だ。
 熟練した兵たちならともかく、まだ戦いを知らない若い兵士たちにとって、それは、自らの死よりも恐ろしい。
 「皆、聞いてくれ。ラギから聞いたんだが、フラウムヴェルに残った兵士たちは、脅されて、この戦場に来ている。逆らう者はみな、殺されるか、投獄されたそうだ。生き残るためには、嫌々でも従うしかなかった。だとしたら、今、敵軍にいる仲間たちは、逃げ出したいと思っているんじゃないか?」
ラニルスは、自分とそう年の変わらない、若い兵たちを見回した。
 「おれたちが敵だと思って攻撃すれば、向こうにいる仲間だって、嫌でも剣を抜くしかない。だけど、戦わずに済むかもしれない!」
若い兵たちは、目を大きく見開いていた。沈黙が広がり、いつしか、広間からは、完全に話し声が消えた。
 「たった3ヶ月の間に、仲間が変わってしまうなんて思うか? おれたちは、変わってしまっただろうか? 今でも友達は友達のはずだ。おれは、信じたい。…だから力を貸してくれ!」
 「どうすればいい? 何をすればいいんだ」
ヘイズの声が熱を帯びた。真剣そのものだ。
 「ただ友達を見つけて呼びかけるだけでいい。もしかしたら、答えてくれないかもしれないが…出来ることなら、皆で一緒にフラウムヴェルへ戻るんだ。」
 「フラウムヴェルへ…。」
若い兵士たちは、呪文のように、何度か口の中で小さく反芻した。何年も城に仕えてきた年かさの兵士たちも、表情には出さなかったが、その言葉に特別な響きを感じ取っていたはずだ。王に忠誠心を感じる者は、王への思いを。城で暮らしてきた若い兵たちにとっては、第二の故郷への思いを。
 控えめな、小さなざわめきが辺りを包んでいた。だがそれは、まだ形にはなっていないざわめきだ。

 そのとき、焚き火が揺れ、広間から続く大階段の上を、人影が過ぎった
 小柄な、白い人影が炎の照らし出す明るみの中にすっと浮かび上がった。ヘルムナート王だ。
 王冠を戴く老人が、階段の上に立ち、ひっそりと広間を見下ろしている。緋色のマントの周囲には白い生糸の模様が細かく縫いこまれ、中央には、金の糸でフラウムヴェル城の紋章が縫い取られている。王家の印だ。
 この城に来て以来、こんなに間近に王を見たのは、初めてだった。瞳は黒々としてはいたが、憂いに霞み、半ば瞼の下に隠れている。
 ラニルスが何か言おうと口を動かすより早く、王は踵を返した。長いローブの下で、片足を引きずっているのが微かに分かった。
 去ってゆくヘルムナートの背に声をかけることは出来ず、気がついていたるのは、ラニルスだけだったかもしれない。
 小さな、熱を帯びた吐息があちこちから漏れ、やがてそれは、一つに重なって、合言葉を生んだ。
 「フラウムヴェルへ帰る…皆で。出来るんだろうか」
 「出来るさ、出来なくても、戦わないだけでも…」
 「だが、呼びかけたくらいで簡単に戻ってくるわけでもあるまい」
大きな、よく通る声で言いながら近づいてきたのは、ライナーだ。
 「お前の友人が戻ってきたのは、偶然に過ぎない。あのとき、お前が呼びかけて立ち止まった者たちは、何故、戻ってこなかった? お前の言葉を信用できなかったからではないのか。」
 「そうかもしれない。だけど、ただ、迷っていただけかもしれません。ラギだって最初は迷っていた。…今は半信半疑でも、皆が敵ではないということを示せば、嫌々従っている者は必ず、こちらに戻ってきます」
 「無論、そうは信じたい。だが、そうだとしても、確実に”敵”は居る」
ざわめきが起こった。ラニルスは、奥歯に力を込めた。
 「ルーンの私兵と、金で雇われた傭兵たちだ。武装していては区別はつかん。兜を取るまで相手の顔は見えん。味方のふりをして近づいてきたとして、お前たちにそれが見破れるのか。己の命も守れぬようでは、話にならん」
 「それは、相手も同じことでしょう」
彼は言った。
 「だから、おれは兜は要りません。顔を隠しては意味がない」
 「何…」
ライナーの眉がはねあがり、目尻がきゅっとすぼめられた。
 「正気か? 頭を守るものも無しに、どうやって戦場に出る。どうやって戦う。一本の矢でも当たれば、すぐに死んでしまうぞ」
 「必ず生き残ります。10人でも20人でも、かつての仲間が取り戻せるなら。それで、ここにいる皆が少しでも悲しまずに済むなら」
一瞬の、はっとするような沈黙。絶句にも似た空気が流れたのち、ライナーは、ラニルスを怒鳴りつけた。
 「馬鹿者め。無謀と勇気は違う!」
雷が落ちたような大声だった。その声に何度も叱られてきた若い兵士たちは、反射的にびくりと肩を振るわせた。
 「お前に何かあったら、ヴォラート殿が悲しむことになる。少しは自分のことも考えろ!」
 「……。」
ラニルスは、黙って視線を落とした。だが、諦めたわけではない。それは、彼の握り締めた拳が物語っている。
 夢から醒めたようにヘイズが叫んだ。
 「やろう。仲間を取り戻すんだ、戦いたくもないのに戦ってどうするんだよ。オレたちは、そんなことのために訓練してきたんじゃないだろ!」
はっとしたような顔になり、ハイセンも続く。
 「皆でやらなきゃ意味が無いんだ。みんな、全員に伝えるんだ! 見張りやってる連中にもっ」
次々と声が上がり、広間中に響き渡る。若い兵士たちは表へ、別の任に当たっている仲間たちのもとへと走り出す。
 「待て! こら、待たんかお前たち。そんな無謀なことは…」
焦ったライナーの怒鳴り声も、彼らを止めることは出来ない。かっとなったライナーは、いきなり、ラニルスの胸倉を掴み上げた。
 「ラニルス! お前という奴は」
 「取り戻したいんです」
ラニルスは、負け時じと言い返す。
 「フラウムヴェルを…帰る場所を、それに仲間も。ルーンの軍を撃退出来ても、あとに何も残らなかったら意味がない。このまま突撃しろと命令されても、以前の友達を殺せと言われても、おれたちは絶対に従えない。これは友達を殺すための戦いじゃない。失わせるための戦いじゃない!…」
燃えるような大男の目が、ラニルスを睨みすえている。体は半ば宙に浮かされ、今にも壁に向かって放り投げられそうな気がした。
 だが、胸を掴む手は、ふいに緩んで、ラニルスはすとんと床に足をついた。
 「そこまで言うなら、好きにするがいい」
諦めにも似た口調で小さく呟くと、男は、くるりと背を向けた。ラニルスは服を正しながら、広間を見回す。
 残っているのは、年配の兵ばかりだ。皆、複雑な思いをこめた視線で、このやりとりを見守っている。
 「失礼します」
ラニルスは上官に向かって頭を下げると、足早に、広間を後にした。


 若い兵士たちの間に、話はすぐさま広められたようだった。ラニルスの姿を見つけると、すぐさま激励の言葉がかけられた。
 みな、フラウムヴェルには、少なからず思いが残されていた。かつて親しくしていた友人の1人2人は、必ずいるのだった。
 「ラニルス」
廊下を通り過ぎ、中庭へ出ようとしたとき、音も無く飄々とした顔で近づいてきたのはリーマンだった。
 「聞いたぞ。何かやらかすとは思っていたが、若い連中を引き連れて、反乱かね?」
 「…止めても、無駄だからな」
 「はっは。そう身構えるな」
リーマンは、明るく笑う。
 「年寄り連中がみな、頭の堅い者ばかりだとは思わんでくれ。わしらとて、顔見知りの一人や二人、あのルーン軍におらんわけではない。」
ただ、素直に言葉に出して、感情に走ることが出来ないだけだ。
 「ヴォラートは、何か言ってた?」
 「何も。あれだけ人がいるところでは、なかなか個人的なことは言い出しにくいだろう」
言わなくても分かるのだ。リーマンとヴォラートは、もう20年以上の付き合いになる。
 リーマンは目じりを細めた。
 「若い者は、みな純真だ。疑いもすれば、迷いもするが、同時に、わしらが無くしてしまった、真っ直ぐな思いを持っていられるのだな。その思いは、きっと友に届く。」
ゆっくりと歩く道に、うっすらと、水溜りが見えている。その表面に、焚き火の炎がかすかに反射する。
 「あそこに、赤いマントの人物がおったろう。」
ふいのことだったので、ラニルスは、一瞬、誰のことか分からなかった。
 ヴォラートのところへ行ったとき、側にいた若い男のことだ。
 「あれは、リシャートといってな。政治顧問のようなものだ。法律と外交を担当しとる。去年父親が亡くなって、役職を継いですぐにこの城に来たので、フラウムヴェルのことはほとんど知らん。」
短い沈黙が、落ちた。
 「――だが、あれも必死だ。フラウムヴェルに残された宰相殿は親代わり、また陛下のことは心より敬愛しておる。何としてもフラウムヴェルの町を取り戻したい、そのために、この3ヶ月、貴族や領主たちと連絡を取り合い、陛下の意向を伝える役目を担ってきた。」
 「おれたちが、フラウムヴェルに残された仲間のことをずっと考えていたように?」
 「そうだ。皆、それぞれに大切なものがある。ただ、他人のそれが自分と同じとは限らないということだ。そして、大切なものが幾つも在る場合、どれを優先すべきなのかは、自分で選ばなければならない。」
ラニルスは、口を結び、奥歯を強く噛んだ。
 リシャートが、フラウムヴェルに残され、恐怖と絶望を味わってきた若い兵士たちより、宰相の身を真っ先に心配したように、望むと望まざると、受け入れられようと無かろうと、守るべきものには順位がある。…だが、本当は誰だって、”何も失いたくない”のだ。
 「この戦いは、ヘルムナート陛下のわがままから始まったようなものだ」
 「身内ホンドショーを殺したくない、だが、”もうひとりの身内”を表舞台に立たせて、身を危険に晒させたくも無い」
 「もうひとり? …」
 「ホンドショーが裏切ったとき、すぐにも総攻撃をかけていれば、もっと早く決着はついていたろうな。兵士の犠牲は、出たろうが」
 夜半を過ぎて、雨は、ほとんど小ぶりになってきていた。
 黒い細切れの雲が月の表面を流れて、湿っぽく暖かい風が吹きぬける。本館から外に出る扉を開くと、湖から上がってくる水の香りが、ふわりと広がった。辺りは、不思議なほどしんと静まり返っている。焚き火は相変わらず赤々と燃え、そこかしこに見張りの兵がいるはずだったが、みな、息を潜めているようで、気配はほとんど感じられなかった。
 「こんな夜は、今の傷よりも古傷が痛むわい」
リーマンは、空を見上げて目を細める。
 「そうそう、ヴォラート殿からの伝言でな。お前が何かしでかしそうなら、馬を一頭、貸してやってくれとのことだったが。…どうする?」
 「余分な馬は、いないんじゃなかったっけ」
 「いや、一頭だけ、まだ誰も乗り手のいない馬がいる。来るか」
ラニルスは、頷いてリーマンの後に続いた。
厩舎には、灯りがついていた。
 中には、昼間の戦から帰ってゆっくり休んでいる、30頭ばかりの駿馬が、半分目を閉じて立っていた。
 「町の者や旅人が預けておる馬もここにいる。…ラニルス、馬は乗れるかな?」
 「あまり得意じゃないけど。ヴォラートに引き取られる前、住んでた親戚の家が農場をやってたよ。馬も少しはいたからね。」
 「結構。それなら教える必要もあるまい。」
ラニルスは、厩舎の奥まで入って、くまなく馬たちを見回した。筋骨隆々の馬、すらりとした美しい馬、ずんぐりとした頑丈そうな馬、様々なものがいる。
 その中で、一頭の馬が彼の目を引いた。たまたま目が合ったその馬は、何か言いたげに数秒間、彼をじっと見つめたのだった。
 「そいつは、疾風<はやて>という。まだ戦に出たことは無いが、良い血筋の馬だ。ヴォラート殿は好きに使っていいと言っていた。」
近づいて、彼は馬の背に手をやった。灰色がかった白い毛は堅く、なめらかだ。背はそれほど高くない。
 「扱えそうかな?」
 「多分」
 「なら結構。」
黙って馬の毛並みを撫でていたラニルスは、手を止め、振り返ってリーマンを見た。
 「そうだ、ラギは? 今から戻ろうとしてたんだ」
 「心配要らんよ。自分の家のように安心して、ぐっすり眠っている。明日には自由になれるだろう」
ほっとした顔になったラニルスだったが、その表情はすぐに引き締まり、視線は、はるか遠くに向けられる。
 「おれだって、もう子供じゃない。分かってるさ。」
 今夜、はじめて剣をふるい、敵兵を倒した。殺しては居ないが、傷を負って捕らえられたことは間違いない。
 戦わなければ殺される、それが戦さというものだ。もし、相手が耳を貸さなければ、最初に殺されるのは、戦いを放棄した者なのだ。
 もしも、仲間だと思っている者たちが呼びかけに答えなかったら…あるいは、攻撃してきたら。
 命を落とすのは自分だけではない、信じて戦いを拒んだ者全員だ。その代償は、自分ひとりで払いきれるのか?
 「強さは、人を傷つけるだけのものではない。人をひきつけるのも、強さのうちだ。お前にはそれがある。わしは、そう信じよう。」
 「…ありがとう。」
 信じたい。
 ユオンの瞳に見た戸惑いを、かつての仲間たちを。


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