廊下に出てすぐ、リーマンはドアを閉め、側に一人、年かさの兵をつけた。
 「ラギは逃げたりしない」
 「疑ってるわけじゃないさ。ただ、この城のことはよく知らんだろうからな。案内役代わりだ。」
、ドアの側に立つ兵は、苦笑して、何も武器を持っていないことを示すように両手を挙げた。ラニルスはほっとして、リーマンのほうに向き直った。直前まで敵軍にいたとはいえ、かつてのフラウムヴェルでの仲間を、誰も、敵だとは思いたくない。
 「ヴォラートは?」
 「塔で待っている。行って来い」
ラニルスは、その声に潜む堅さを十二分に感じ取っていた。
 別館を出ると、重たい雨粒が降りかかってきた。
 高楼は、門を挟んだ向かい側にある。
 棟の裏手はすぐに城壁へ続き、城壁からは、城のまわりを取り囲む町や草原、湖が一望できる。地下は牢となっており、使われたことは無かったが、、今はおそらく、ラニルスが気絶させた兵を含め、何人もの捕虜が放り込まれているだろう。
 螺旋階段に立つと、血の匂いがした。
 それだけで、町の入り口近くの衝突で何が起こったのかは、すぐに分かった。もちろん無事で済むはずがない。これは、戦争なのだ。
 「この人数で、城壁すら無い町全部を守ることは、不可能だ。」
低い声が、狭い階段の空間に反響する。
 「だが市街戦になれば、大きな被害が出るだろう。敵にも、…味方にも。」
 「城に篭っていて勝てる戦ではありません。」
 「それは分かっている。だからこそ」
ラニルスは、唇をきつく結び、足を踏み出した。ゆらゆらと揺れるランプの灯に、大きな影が2つ、揺れていた。
 ヴォラートが、今まで見たことの無い顔をしている。もう一人、向かい合うのは――
 その男は、ラニルスを見るなり、さっと目を伏せた。何度か目にしたことがある。ヘルムナート王の側近だ。高貴な身分を示す、緋色のマントがそれを物語っている。
 「来たか。」
ヴォラートが腕に血の滲む包帯を巻いているのを見ても、ラニルスは驚かなかった。部屋の中には、横たわっている者、無傷だが、まだ本能的な血をたぎらせたまま、目をぎらつかせている者、汗を滲ませ剣を握ったまま、どこか遠くに目をやっている者もいる。
 フラウムヴェル防衛隊の中でも精鋭の部隊、彼らには、戦い慣れた気配がまとわりついている。
 部屋は、普段の何分の一にも狭く感じられ、重圧がのしかかってくる。この部屋にいる兵士たちがみな、ヴォラートとともに町の入り口で激しい戦いを繰り広げた精鋭部隊なのだと、思い出した。ファナ戦争の時よりヴォラートと共闘する、熟練の兵たちだ。何度か見たことはあったが、近づきがたく、ほとんど話をしたこともない。
 「他の者のことは、気にしなくてもいい。お前の話を聞きたいだけだ。緊張するな、そして話せ」
その時、ラニルスにだけ分かるように、ヴォラートの表情がふっと緩んだ。
 ラニルスは小さく頷いて、一歩、灯りの元へ近づいた。そして、ゆっくりと話した。ラギの語ったことを全て、1年前、フラウムヴェル城が落ちてからのことを。
 相槌を打って聞いていたのはヴォラートだけだった。他の人々は、完全に背景になってしまったように、口を開きもしなければ身じろぎもしない。ただ1人、緋色のマントを着た王の側近だけが、食い入るようにラニルスの表情を見つめていた。
 「…と、いうことです。ラギは、脅されて戦ったのだといいました。おれもそう思う。声をかけたとき、少なくとも、あと数人は躊躇していた者がいた。…戻ってきたのは、ラギだけだったけど」
話し終えて、ラニルスは、深く溜息をついた。
 僅かな沈黙。最初に口を開いたのは、緋色のマントの男――その男は思いの他、若く、だが、整えた短い口髭のせいで、実際よりもかなり年かさに見えた。
 「では、宰相ユーリエン殿は、まだご存命の可能性があるということか。」
 「……。」
ヴォラートは腕組みをしたまま、ランプの灯が映し出す、ランプ自身の影を見つめていた。
 話題に上ったのは、フラウムヴェルに残され、その後、恐怖に支配されながらスタウンヴェル攻略に刈りだされた若い兵士たちのことではなく、安否が謎に包まれていた、重要な地位を占める家臣のことだった。
 「ユーリエン殿は陛下の片腕ともなるお方。もしもの時、人質として使われたら…」
 「その代償として、ホンドショーの命を保証すると約束して? ありそうなことだ。陛下とて、身内の血は流させたくないだろう。最もな口実にはなる。」
部屋にざわめきが戻ってきた。
 「だが、それも、人質など立てる必要があるとなった時のことだ。」
ヴォラートが、ぴしゃりと言った。場は静まった。
 「最後にひとつ聞こう、ラニルス。いま、この町を取り囲んでいるフラウムヴェルの兵たちは、いつ、どのようにして城を出た。最初のわずかな期間を除けば、ここ3カ月の間、城は十重二十重にも包囲されているはずだが。」
 「地下に、河に通ずる古い通路があるということです。そこから、少しずつ人数を分けて外へ出たと。それだけしか…わかりません」
 「水路?」
ヴォラートは眉を寄せ、腕組みをして虚空をにらみすえた。
 「そのようなものがあるのか。聞いたことも無いが…。そこを通って、ルーンの軍と合流したというわけか。」
 「すぐに調べて河岸に注意を払うよう、フラウムヴェルに使いを出しましょう。もしも、ホンドショーに逃げられたら。」
赤いマントの男は、ラニルスのことなど見ていなかった。
 「それとも、今回の戦で捕らえた捕虜を尋問して吐かせたほうが早いか。もしも、ルーン以外にも裏切り者がいて、外から手引きされたら――」
 「いずれにせよ、ここで我々が踏みとどまらねば、陛下の身が危ういのだ。援軍の到着は、この雨では多少なりとも遅れよう。その間、持ちこたえられるかどうか? 使いを出すのは結構だが、ここからフラウムヴェルへはまる3日はかかるだろう。どちらの城が先に落ちるにせよ、それまでにはすべて終わっている」
ラニルスがそこにいることは、もはや忘れられているかのようだった。
 「隊長」
きっとした顔を上げ、ラニルスは、その場にいた全員に聞こえるようはっきりとした声で言った。
 「僭越ながら、申し上げます。今、城を包囲する軍のうち幾らかは、フラウムヴェル城に残り、否応無く反乱の軍に吸収された者たちです。今でも、国王軍への思いは残っています。」
 壁際で剣の房を弄んでいた細身の剣士が手を止め、怪訝そうに眉を寄せた。
 「寝返るよう、説得するとでもいうのか?」
 「もとは、仲間です。いえ…今でも仲間だと、おれは思っています。今でも友達だと思っている相手に、嫌々ながら剣を抜きました。しかし、それは相手も同じです!」
誰も、すぐに反論はしなかった。ヴォラートの視線は真っ直ぐにこちらに向けられている。
 「この戦い、かつての仲間だけは、決して倒してはならないと思います。でなければ、迷いは後悔に変わる。」
 「だが、説得するとしても、その役目は危険を伴う。誰が引き受ける?」
 「おれが、やります。」
ラニルスに迷いは無かった。しばしの間、冷たい沈黙が、辺りを流れた。
 「出来るのか? 味方だった者が敵となるのに、3ヶ月は十分すぎる年月だ。切っ掛けさえあれば、人は一瞬のちにも裏切るだろう。味方のふりをして近づき、命を奪う。信じた者が命を落とす。それすら、ありふれた日常茶飯事だ」
 「だとしても、信じてくれた相手を殺すよりはマシです。おれは、皆とフラウムヴェルへ帰りたい。」
ヴォラートは溜息をつき、頭を振った。
 「ラニルス。我々は、王都フラウムヴェル防衛隊だ。…だが、フラウムヴェルを守るということは、国王陛下をお守りするということ。」
彼は、緋色のマントの男に目を向けた。そのマントに金糸で彩られた紋章を見やった。
 「フラウムヴェル城の紋章は、王家の紋章でもある。」
 「…はい」
 「お前たち若い兵に、忠誠心などと言っても理解は出来まい。だが、フラウムヴェルは、”王の城”なのだ。仲間たちを呼び戻してフラウムヴェルへ帰るということは、ヘルムナート陛下のもとに戻るということでもある」
ラニルスにも、ヴォラートの言いたいことが飲み込めてきた。そういうことか。
 渋い顔が口元だけ綻び、彼は言った。
 「やって見せるがいい。出来れば敵兵のうち幾ばくかを味方につけ、有利に運ぶことが出来るだろう。だが、出来なければ、賭けの代償はお前自身の命で支払うことになるかもしれんのだぞ」
はっとするような、小さな吐息を漏らしたのは、緋色のマントの男だった。
 「構いません。それで、無駄な戦いが無くなるのなら。」
 「もう下がれ。夜明けまで、体を休めておくがいい。」
いくつかの視線が、ラニルスに突き刺さった。それらの視線の意味するものはラニルスには分からなかったが、少なくとも、ヴォラートの言葉の意味だけは、理解できた。
 彼は軽く一礼すると、踵を返し、足早にその場を立ち去った。
 「あの者は、あなたの血縁では…?」
問いかける王の側近の若い声が、甲高く、螺旋階段に反響して耳に届いた。ヴォラートの低い声が、何と答えたかは分からない。
 確かめる必要もないだろう。ヴォラートは、ヴォラートのままだ。本当なら、かつての自分の教え子たちを真っ先に取り戻したかったはずだ。
 だが、軍を率いる者である以上、自分の感情に引きずられて、勝手な行動は取れない。
 フラウムヴェルへ帰る、とは、文字通り城へ帰るという意味とともに、ホンドショー側の陣営についてしまった兵たちに、国王の側へ戻れという意味でもある。
 ラニルスが知っている国王ヘルムナートは、いつも気づかれない場所から、人々の様子を眺めている憂いに満ちた老人だった。
 中庭で兵士たちが稽古に励んでいるときも、本館の窓から、何か沈み込むように考えながら、見下ろしていた。
 忠誠心を抱け、と言われても、無理がある。裏切りたくないのは、守るべきヘルムナートではなく、かつての仲間たちとの友情だった。

 ヴォラートは、それを知っていた。だから言ったのだろう…
 あの緋色のマントの男のように、国王に忠誠を誓う側近たちと、自分たちフラウムヴェルの町に思いを抱く兵士たちの考えていることは、かなり違う。だが、結局、辿りつくところは同じなのだと。



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