新暦1251年 夏―エシルファウロード


 日差しは今日も強く、空は翳ることを知らない。
 ここ一週間ばかり、眩しすぎるほどの晴天が続いていた。澄んだ湖面に照りつける日はきらきらと輝き、木立の合間に揺れる。
 水浴びには良い季節で子供たちは大喜びだが、湖を見下ろす城で見張り役に当たっている兵士たちには、たまったものではなかった。重たい甲冑と肌着の間を汗が滑り落ちて、気持ち悪いくらいだ。額に大粒の汗を浮かべながら、それでも、若い兵士たちは文句ひとつ言わず、城壁の上や回廊の間を、ひっきりなしに歩き回っていた。

 草原を前に、森を背後にした湖に、白く城壁を映すのがスタウンヴェル城。彼らの守る、王国の首都が中心である。
 この城には、国王ヘルムナートとその家臣、および下働きの者たちが、あわせて300人ほど暮らしている。城下町は、貿易商人や旅人で賑わい、豊かで平和な日々が続いていた。
 けれど、今この国の抱えている事情は、目に見える風景からは想像もつかないほど、深刻なものだった。


 季節が夏に移り変わる少し前、フラウムヴェル城が陥落した。
 川の中州に位置する「白き城壁の町」と呼ばれ、難攻不落を謳ったこの城こそ、国王の本来の居城だった。最初に築かれたとき以来。国の首都として、数百年来、玉座を奪われずに済んでいたものだ。
 だが、その歴史は、内なる敵によって途絶えることとなった。
 国王が首都を離れ、供を連れて別荘であるスタウンヴェル城に行幸した折を突いて、国王の臣下なるホンドショーが反乱を起こしたのだった。

 城の乗っ取りは、速やかに、しかも恐るべき手際のよさで行われた。国王の耳に最初の知らせが届いた時には、既に、城とその周辺地域は、ホンドショーの手によって完全に制圧されたあとだった。国王の側にいた兵は僅か100名、それも、まだ実戦経験の無い、若い兵士たちも含めた数だ。
 フラウムヴェル城の攻めにくさは、誰もが身をもって知っている。
 老いたる国王、ヘルムナートは追撃の命令を下さなかった。
 以来、王の居城はここ、フラウムヴェル城となり、スタウンヴェル城と、その周辺地域は、王の軍勢に包囲されながら、はや何週間もの間、にらみ合いを続けていた。
 だが、誰もが気づいている。この、我慢くらべのような戦いも、そろそろ新しい局面を迎えそうだと。
 もう十分すぎるくらい待ったホンドショーが軍を動かし、一か八かの賭けに出るか、それとも国王が、満を持して総力戦を仕掛けるか、だ。
 …いずれにせよ、多くの血が流されることは、違いなかった。
 どちらが勝っても、身内殺しの汚名は免れ得ない。どちらの勝利も、この国に明るい未来をもたらすとは、思えない。
 なぜなら、老齢の国王ヘルムナートには跡継ぎの子が無く、野心に燃える反逆者ホンドショーは、国王の妹の息子だったからだ。
 国王が勝てば、一時的に国は安泰となるが、結局は時期国王をめぐって、また争いが起きる。ホンドショーが勝てば、恐るべき独裁者が生まれる。
 どちらを取っても、あまり在り難くはない結果を招くわけだ。

 それが分かっているからこそ、兵士たちの表情は、重い。
 戦いになったとして、戦うべき相手は、かつての仲間や上司である。互いの主君が道を異にしたために、敵となってしまっただけで、個人的な恨みは何も無い。
 だが…
 それでも、戦いは起こるだろう。いつまでもこのまま、睨み合いを続けては、いられない。
 いつ切れるとも知れぬ張り詰めた緊張の糸は、ちりちりと、少しずつ細っていく。

 「ラニルス、見回りの時間は終わったのか?」
 たった今、高楼に続く螺旋階段から降りてきたばかりの若い兵士を迎えたのは、がっしりとした大柄な男だった。
 片方の手に兜を抱え、もう片方の手には、重い槍を握っている。頬から顎にかけて深い傷が走り、その先は豊かな黒髭の中に消えている。
 「ああ、やっと終わった。次はヴォラートの番か?」
 「城ではヴォラート”隊長”と呼べ、ラニ。…だが、まぁ今はいいだろう。」
男は、兜を置い逞しい片手で、荒っぽく若者を抱き寄せ、ごつい頬を笑みで緩めた。
 遍歴の勇者、この城の兵士長を務めるヴォラートは、ラニルスにとっては一番近い肉親である。
 20年余前、隣国ファナとの大戦で大きな手柄を立て、敵将数十人を捕虜とした、伝説の人物だった。

 武器庫を兼ねた兵士詰め所には、今は、誰もいない。
 湖面に近い、半地下の石造りの部屋には冷気が流れ込み、日に照らされた鎧に蒸されて火照った肌には心地よい。
 「早いもので、もうすぐ、この城に来てちょうど三ヶ月だな。」
鎧を結ぶ皮ひもを解くラニルスの側で、ヴォラートは何か思いに耽るように、窓の外を見やっていた。
 「この睨み合いも、もうすぐ終わるんだろ。皆が言ってる」
 「さあな。さすがにそれは、俺にも分からん。だが、どう転んでも、俺たちの役目は変わるまい。」
 「…戦いたくないな。」
ラニルスは、憮然とした顔で兜を置き、汗ではりついた髪を首筋から払いのけた。母方の血を引く黒髪は、ヴォラートの、白髪交じりのそれと、よく似ている。
 「あそこにはラギがいる。それにユオンも。おれは、まだあいつらと敵同士になったわけじゃない」
 「お前たちは見習いの時代からの付き合いだったからな」
 「それだけじゃない。おれたちは、友達なんだ。」
振り返ったヴォラートは、妹の残した若い甥の真っ直ぐな視線を見据える。
 見習いの期間を終えたのが、数年前のちょうど今頃になる。今年で17。戦うに若すぎるということはないが、まだ、いちども実戦を経験したことがない。
 そんな者にも、やがて来る醜いまでの身内の争いは、避けられない。だからこそ、今だけでも、平穏な時を過ごさせたかった。
 「友情というものは、戦場では時に脆いものだ。…だが、信じても良かろう、お前がそう望むなら。現実がどうであれ、な」
ぽん、と甥っ子の肩を叩き、ヴォラートは、兜を手に、先刻ラニルスの降りてきた階段のほうへ歩き出す。
 「さて、俺は今から稽古の時間だ。お前も、気が向いたら来るといい。練習場はいつもの場所だ」
 「ああ」
螺旋階段に、かつん、こつんという足音が遠ざかっていく。
 最後に皮のすねあてを取り外して、ラニルスは、ふうっと大きく息をつきながら椅子に体を沈めた。
 城を出た、あの日のことは忘れもしない。
 輝く白い城壁に守られて立つ、壮麗なフラウムヴェル城が、まさか自分たちの発ったすぐ後に奪われようとは、思いもしなかった。
 ともに、師範であるヴォラートから戦技の手ほどきを受けた仲間たちは、城門に立ち、無邪気に手を振って見送っていた。
 …あのとき、城に残る兵士たちの中に、これから起こることを正確に知る者がいただろうか?
 彼らの大半は、驚き、いぶかしみ、反逆の意志を示したホンドショーに抵抗する気持ちすらあったのではないか。
 いざ、国王軍とホンドショーの軍がぶつかったとき、何が起こるかは、誰にも分からなかった。自分自身のことですら、予測がつかなかった。
 「戦えるんだろうか。おれに」
ラニルスは、テーブルの上に置かれた剣に目をやる。
 一通りの、戦いの方法は学んだが、技術を知っているだけで、実際の場で使えるかどうかには、自信が無い。
 ましてや、”敵”は、かつての仲間たちだ…。

 彼は、迷いを振り払うように席を立ち、目の前の剣を掴んだ。
 汗も引いた。まだ少し体に疲れが残っているが、休んでいても気が滅入るだけだ。実際、多くの者にとって、この三ヶ月にも渡るこう着状態の中で、心から寛げた瞬間など、ほとんど無かった。不可避の戦いを前にして、実戦経験のない若い兵士たちは、長い長い”待機命令”の中で、いつ始まるとも知れぬ開戦の時を待っているに過ぎなかった。
 ヴォラートの言っていた練習場は、城の裏手の広場だろう。湖を見下ろす小高い場所で、風通しもいい。参加せずに見ているだけでも、気晴らしにはなるはずだ。
 螺旋階段は地上を経て、城壁の上まで続いている。城壁の上では、交代の時間を待ちながら、兵士たちが規則正しく行き来して守りを固める。
 湖に流れ込む川の上流には、三ヶ月前に発ってきたフラウムヴェル城がある。誰もが、無意識のうちにその方向に視線を遣っていることだろう。
 地上に出ると、眩しい日差しが照りつけてきた。と同時に、湖で飛沫を上げながら騒ぐ子供たちの、明るい笑い声も聞こえる。
 城は、中庭まで一般市民に開放されていた。もちろん武装した者は入れなかったが、子供たちは、比較的自由に、城に出入りすることを許されていた。
 「なんだ、来たのか。」
湖のほうに目を奪われていたラニルスは、ふいに木陰から姿を現したヴォラートに面食らって、思わず口ごもった。
 「ヴォラート…隊長」
 「どうした。何を見ていた?」
ヴォラートは、笑いながらラニルスの肩を叩き、日陰に引き寄せる。
 そこには、既に数人の兵士たちが来ていた。誰も、見知った顔ばかりだ。若い者もいれば、ヴォラートと同じほどの年齢の者もいる。既に、軽く剣を打ち合わせて体をならしはじめている者もいた。
 「暑くてどうにもならんのでな。塔の影なら涼しくてちょうどいいだろうと、ここにしたのだ。参加するか?」
 「今は遠慮するよ。さっき当番が終わったばかりだし」
 「そうか。では、見ているといい」
ラニルスは、木陰で練習用の防具を身につけている年配兵士の側に腰を下ろした。
 その兵士の名は、リーマンといった。ヴォラートとは、あの「ファナ戦争」の時から仕える上官と部下の間柄だというだという。
 「リーマン、今日は非番じゃなかったっけ?」
 「なあに。家でジッとしていても仕方がないので、隊長にお付き合いしようかと思ってね。」
白い髭をたくわえた色の黒い男は、細い目じりに皺を寄せて、笑った。
 「この年になると、もう、昔ほど長く運動はしてられんがな。隊長殿の剣さばきをお側で見られるだけでも、光栄というものさ。」
 「ああ、あの剣は、とても綺麗だからな。」
ラニルスは、ヴォラートが手にする剣を見やった。
 若い頃から片時も離さず持っているという、美しい、細身の剣だ。
 銀に輝く刀身は日に翳すと透き通るような光を放ち、羽根のように軽く、その切れ味は硬い石も切り裂くほど鋭い。
 「”フェノールの剣”さ。今はもう、ほとんど見ることは無くなったが。…知っておるかね?」
 「もちろん。おれが一人前になったら、きっとあの剣を貰うんだ。そのためにも、おれはもっと鍛えなきゃな。」
その剣は、古えの時代、特別な鉱石で作られ、意志さえ持つと言われた。
 剣を手にする者なら、誰でも知っている。誰もがみな、少年の頃に、年かさの少年たちから聞かされて育つ。フェノールの剣は、使い手を選び、使い手を守る。真の英雄だけが、その剣を手にすることを許されるのだと。――口から口へと、それはまことしやかな伝説となって、大陸中に散らばっていた。
 その剣を実際目の当たりにした者なら、誰もが信じる気になっただろう。
 剣以上に伝説と化した、高くそびえる険しい山から、その刃を打ち出したという、古えの都の住人のことも。
 「お前が、あの剣に選んでもらえるほどの腕前になったらな。」
老兵リーマンは、笑って、木陰から日向へと出て行った。
 甲高く、剣の打ち合う音と、若い兵士たちの気さくな掛け声が響き渡る。塔と城の本棟との間に挟まれて、声は石壁に反響して青い空へ昇ってく。
 ラニルスは、ふと、本棟の窓から眺める白い髭の老人の姿に気がついた。
 憂いに満ちた顔の老人は、この城を仮の居城とする、国王ヘルムナート。だが、ラニルスの視線に気づくと、王は緋色のマントを翻して、すぐに窓辺を離れてしまった。
 あれから三ヶ月、国王は、軍を動かすこともせず、この城に閉じこもったきりだ。
 ホンドショーの裏切りを目に見える形で咎めようとしないのは、肉親を襲うことに躊躇っているのか、従来好戦的でないためなのかは、図りかねた。
 それを、快く思わない者も、いるはずだ。
 表だって国王に異を唱えることはしなくとも、少なくとも、この状況に苛立っている者が。…

 ふいに、金属の打ち合わされる甲高い音がして、わっと声が上がった。
 ラニルスの目の前に、くるくると回った鋼の切っ先が落ちてきて、地面に浅く突き刺さる。
 「やれやれ、少し力を入れすぎたか」
ヴォラートが、頭をかきながら笑っている。剣を折られた、対戦相手の兵士は、ただただ呆然と、折られてしまった自分の剣と、飛ばされた切っ先とを見比べている。
 刃の先を拾い上げながら、リーマンがやんわりと言う。
 「近頃の安い剣は粗悪品が多いですからな。隊長殿の腕でその剣を使われては、ひとたまりもありますまい」
 「すまんな。久しぶりだったもので、つい。−−おい、ラニルス」
ヴォラートは、木陰から一歩も動いていない甥に目を留め、声をかけた。
 「手が空いているんなら、ひとっ走り町へ行って、鍛冶屋にこいつの修理を頼んで来てくれんか。」
リーマンが、折れた剣と、柄を差し出す。
 城づめの兵士には、休みの日以外、城を出ることは許されていない。町へ出るには、上官の許可が必要だった。気晴らしをしてこい、という意味なのだろう。
 ヴォラートの気遣いに感謝しながら、ラニルスは、その役目を引き受けた。
 町と城はそう離れているわけでもない。馬は要らないだろう、徒歩で十分だ。

 天気のいい午後、−−いつもと変わらないように見えたその日…彼自身は、これから始まる自分自身の物語を、まだ知らない。


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