25


 昇り掛けた朝日は、最初の光を放つ前にいつのまにか雲に隠れてしまった。嵐でも来そうな黒雲が速い速度で流れ、強い風が吹き始めている。
 目の前にあるのは見慣れた今の風景。カーテンの向こうで、窓がカタカタ言っている。
 「ここ…おれの家じゃないか」
 「そうだよ」
と、後ろでレヴィが言う。彼が閉めているのは、物置の扉だ。<旅人の扉>によってシンの家の入り口と一時的に繋がれたのだ。扉を閉めると、潮騒と海の香りが消えた。
 「何で、ここへ」
 「ハルが仕事をしてる間、あの水の上の小屋で待ってるわけにもいかないだろ。」
 「シンさんちの子供たちに、羽根むしられそうになるもんね」
と、フィオがくすくす笑う。レヴィはトラウマを思い出して苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 「まあなんだ。たまには家に帰りたいんじゃないかと思ってさ」
 「……。」
ロードは、窓辺に吊るされた虹色の貝殻のレイに目をやった。ここを発ったのはほんの数ヶ月前のはずなのに、もうずっと昔のような気がした。
 「あ、あたしお茶いれるね」
勝手知ったる家とばかりに、フィオが台所のほうへ駆けて行く。窓に近づいてカーテンを開くと、曇天の下に見慣れたオリーブ畑の緑が見えた。花の咲き終わったオリーブの木々には、丸い若い実がいっぱいに結実している。振り返ると、レヴィが後ろで勝手に椅子を引っ張り出して腰を下ろしていた。
 「あんまり驚いてなかったな。ハルが父親ってのは、いつから気づいてた」
 「…"海の賢者"の能力を聞いた時から、かな。自分の眼が親に貰ったものなんだろうなっていうのは、子供の頃から思ってたし。でも、そんなに特別なものだとは思っていなかった」
 「そうだな。ぼくも驚いた。まさか、"賢者"の力が遺伝するとはね。――まあ、そもそも任についている間に子孫をもうけた"賢者"なんて、過去にいなかったんだが。」
 「怒ってないのか?」
 「何が?」
 「その――母さんやおれがいたせいで、あそこで管理されてた"創世の呪文"は奪われてしまったんだろ?」
 「んー。」
テーブルの上に頬杖をつきながら、レヴィは少し考え込むような表情をした。
 「確かに、余計な弱点を作って付け入られるスキを作ったのは拙かったし、賢者の力を自分の家族…たとえば、この家を見張るのに使って、本来の仕事をサボった可能性も大いにある。でも多分、それ以上に、あいつにとっては不可欠なものだったんじゃないか、って気がする」
 「不可欠な?」
 「この世界を守る理由、っていうか、さ。"賢者"の役目は、世界の維持・管理…だ。一端なっちまったらそう簡単に辞められない役目なのに、重責に耐えて延々何百年も続けなきゃならない。おまけに"海の賢者"は世界の監視者だから、この世界の不条理も、残酷さも、余すところなく延々と見続けることになる。愛着も何もない世界だったら、たぶんキツいだろうな。」
ティーポットとカップを持ったフィオが、台所のカウンターの向こうで手を止めて、耳を澄ませている。言っている本人は気づいていないのかもしれないが、それはレヴィ自身のこと、そして、"森の賢者"テセラにも当てはまることだったからだ。
 「…あーえっと。お茶入ったよー」
フィオは、話の途切れたのを見計らって、何も聞いていないような顔をしてティーセットを運んで来た。
 ガタタン、とドアの外で大きな音がした。窓ガラスが強く叩かれ、枯れ草が舞いながら飛んでいく。
 「風、強いね」
 「みたいだな。」
オリーブの木々の向こうに僅かに見えている水平線は、灰色に濁って渦巻いている。ここからは見えないが、ずっと沖合いの島のあたりは、どうなっているのだろう。高波にはひとたまりもなさそうに見えた、波の上の家々のことが心配になる。



 お茶の後、ロードは、村を見てくると言い残して家を出た。
 いつもなら旅から帰ったときにはまず最初に村の家々を回って雑談などしつつ、塩漬けオリーブの工場のおかみさんから家の鍵を受け取るのだ。今回はレヴィの力で直接家に戻ってきてしまったので、まだ、村の誰とも会っていない。
 轟々と唸る風に揺れるオリーブの木々の間を潜り抜け、丘を降りる。この天気のせいか、通りには誰にもいない。いつも広場のあたりにいる野良犬も今日はさすがに姿が見えず、どこかから転がってきた桶があっちへいったり、こっちへいったり、転がり回っているくらいだ。
 塩漬けオリーブの工場の奥の家のドアを叩くと、おかみさんがドアの隙間から顔を出す。
 「あらロード! びっくりした、いつ戻ってたの」
 「あ、えーと…つい、さっき」
 「鍵よね。ちょっと待ってて、すぐ取ってくるわ。さ、中に入って入って」
玄関に入ってドアを閉めると、耳元で唸っていた音が消え、風に打たれ続けた体にしんと寒さが戻ってくる。そう、夏の盛りのはずなのに、今日はやけに寒かった。風のせいなのだろうか。それにしては。
 「おまたせ。今回はいつまでいるの?」
 「二日くらい…の予定です。またすぐ出ます。」
 「まあ、そうなの。最近忙しいのね? あの、ポルテにいた白い格好した人たちの仕事をしてるの?」
 「え?」
鍵を受け取りながら、ロードは思わず聞き返した。
 「違ったの? いない間に、何度か訪ねて来ていたわよ。名前は聞いていないんだけど…」
スウェンかシャロットの部下たちだな、とロードは思った。
 「たぶん、その件はもう解決してるはずです。最近は来てないですよね」
 「ええそうね。そう、そう。それならいいの」
ほっとした様子で、おかみさんは胸に手を当てた。
 「よかったわ。あの人たち今はほら、戦争のこととかで忙しいじゃない。それで、ロードも連れていかれたんじゃないかって皆、心配してたのよ。」
 「戦争? <影憑き>とですか」
 「違うわよ、ノルデンとよ。国境のあたりが大変なことになっているらしいっていうじゃない」
それこそ、全く聞き覚えのない情報だった。人気のないところばかり通ってきたからとしどろもどろに誤魔化して、足早に塩漬けオリーブ工場を出た時には、ロードの頭の中は既に一杯になっていた。
 ロードの生まれる以前には、ノルデン領内で小国や貴族たちが互いに争いあっていた時代もあったという。だがここ数十年は平和そのもので、戦争が起きたことはない。まして、ノルデンとアステリアの間など――もっとも、アステリア自体、この数十年の間に出来た国なのだが。
 考え込みながら戻ってみると、家の中はやけにしん、と静まり返っていた。
 「あれ? フィオ? レヴィ?」
二階からフィオが顔を出して、口に指を当てる。
 「どうした」
 「ん」
少女が指差した居間のソファのほうを見て、ああ、とロードは微笑んだ。
 「なんだ、寝ちゃったのか。何だかんだで疲れてたんだな」
 「ね。平気な顔してばんばん魔法使ってるから、どうなってるのかと思ってたけど。」
レヴィを起こさないように、足音を忍ばせて二階に上がる。風は、さっきよりますます強まってきたようだ。海風の叩くガラスは、まるで割れてしまいそうなくらい軋んでいる。
 「鎧戸を下ろしたほうが良さそうだな。手伝ってくれるか?」
 「いいわよ。嫌な天気よね、嵐でも来るのかしら」
いつしか空は隙間なく分厚い雲に覆われて、夕方のような暗さになっている。ロードは、腰から太陽石の短剣を抜いて、テーブルの羽目板の間に軽く突き立てた。灯り代わりだ。振り返ったフィオは、テーブルの端に腰掛けたロードが、手に二本のナイフを同時に持って、壁の的を狙っているのに気が付いた。
 「何してんの」
 「ん、…ちょっと」
勢いをつけて、二本同時に投げる。それらはほぼ同じ軌跡を描いたが、キン、と高い音を立てて片方が跳ね飛ばされてしまう。その代わりもう一本は的の中心に刺さっていた。
 「どうしたの、急に」
 「今までずっと、一本ずつしか操ったことなかったなって思ってさ。二本同時に的を狙えたらいいなって思ったんだ」
 「投げるタイミングをずらせばいいんじゃないの?」
 「うーん…」
だがあの時、"海の賢者"は二本どころではなく、同時に数百本を的に命中させた。しかも、見えない水中にいる動いている的に。
 「レヴィは、いつも二つ以上同時に魔法を使ってるよな。あれってどうやるんだろう。…そういえば、フィオも最近、たまに二重に使ってるよな」
 「うん。お洗濯しながら夕飯の献立を考えるような感じよかなあ。最初は両手を別々に動かすようにイメージすればいい、ってレヴィには教わったよ」
 「…両手かぁ」
ロードは、腕に嵌めた腕輪に目をやった。「左手でナイフを投げるのは難しそうだな」
 手を翳すと、腕輪の魔石が輝き、壁に落ちたナイフと、床に転がっているナイフが少しタイミングをずらしてそれぞれ、手の中に戻ってくる。自分の眼には、千里眼ほどの力はない。遮蔽された向こうの的まで狙うことは出来ない。だが、真っ直ぐに的を狙うだけではない、何かもっと別の戦い方もできるかもしれない。
 「――ねえ。レヴィやロードのお父さんは、お母様と戦うんだよね? どうするつもりなのかな」
的への照準を絞っていたロードは、手を止めてフィオのほうを振り返った。ぼんやりとした太陽石の光の中で、少女は膝の上に頬杖をついて床に映る影を眺めている。
 「力を奪うとか…じゃないのか?」
 「"賢者"って、強制的にやめさせられるものなの? 呪文を取り戻すのは出来たとしても、その後は?」
どきりとするような言葉だった。考えたくなかった。いや、故意に考えないようにしていたことだ。
 「お母様はきっと辛かったんだ。さっきレヴィが言ってたことを聞いて、そう思ったの。ずっと昔、一度だけ聞いたことがあるの。"森の賢者"は世界を癒すことが役目だから、愛し続けなければならないって。誰も愛してくれなくても…」
消え入るように呟いて、フィオは膝に顔を埋めた。
 「……。」
何も返せなかった。そして、ランドルフやハルも辛かったのだろうか、と思った。或いは、レヴィも。



 風は朝になっても止まず、むしろ昨日より強くなっているようだった。鎧戸の外から叩きつける音はまるで爆撃のようで、どこかの隙間から、ヒュウヒュウと風が吹き込んでくる。
 「よく寝てたな、レヴィ」
 「まったくだよ。起こしてくれればいいのに」
言いながら、レヴィはむすっとした顔で朝食のベーコンを口に運んでいる。「お前んちのソファ、寝心地良過ぎだぞ。あれは人を堕落させる魔器だ」
 「…何を言ってるんだお前」
呆れながら、ロードはパンをちぎる。昨日、村に行ったついでに仕入れてきたものだ。朝食の最中にも、外では物凄い音が続いていた。
 「にしても、すごい風だな。」
 「そうよ、レヴィよく朝までぐっすり眠ってられたものね」
 「たまにはな。今んとこハル頼みで、することもないし。そういやロード、昨日どっか行ってただろ」
 「起きてたのか?」
 「いや。ただ、なんとなく物音は聞いてた。」
言いながら、自分のティーカップに、自分で茶を注ぐ
 「村の様子見だよ。家の鍵受け取りに、あと、最近<影憑き>が出てないか聞くつもりだったんだけど…そうだ」
言い忘れていたことを思い出す。
 「そういや、村で気になる噂を聞いたんだ。アステリアとノルデンの間で戦争が起きるかもしれないとか」
 「はあ?」
レヴィは、気の抜けたような声を上げる。「原因は何だ?」
 「さあ…そこまでは。おれが聞いたのは、噂だけだ。」
 「こんな時に戦争なんてバカなことやるわけないだろ。どうせ<影憑き>狩りで軍が集まってるのでも見て、一般人が誤解したんじゃないのか」
 「だといいんだけどさ。昨日、リスティさんと買出しに出たとき、セオールの町に兵士が多かったのもあって、気になってるんだ」
 「セオール? セオールに近い国境沿いの砦っていったら、古都フューレンだな。同時に両方の国境に兵が集まってるなら、噂も多少の信憑性はありそうだ。」
そこまで言ってから、ロードの表情を見て、彼はちょっと手を止めた。
 「けど前にも言ったとおり、ぼくは、そういうのには干渉しない。」
 「分かってるよ。…ただ、どっちの陣営にも知り合いがいるからさ。巻き込まれるんじゃないかと思うと…」
フィオは、二人それぞれの表情を見比べている。ロードもレヴィも、それきり何も言わず黙々と食事を続けた。
 どのくらい沈黙が続いただろう。やがて、レヴィが根負けしたように、ひとつ大きく溜息をついた。
 「ったく。お前ほんと何にでも首つっこみたがるよな」
 「…悪い」
 「いいさ、お前には居てもらわなきゃ困るんだ。送ってくくらいなら手を貸す。その知り合いはどこにいる。ジャスティンか?」
 「ああ、多分。」
 「なら行こう」
立ち上がって、彼は部屋を見回した。「で、…どのドアを借りればいい?」



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