24


 「ここは――」
踏み出した足の下で、乾いたヤシの葉がかさりと音を立てる。満天の星だけはそのままに、彼らは波の打ち寄せる水の上に張り出す通路に立っていた。振り返ると、見覚えのある小屋がある。ちょうど、その入り口から出てきたような格好だ。
 「シンの家だ。どうやって?」
 「この家しか中入らなかったろ。それに、あの島には"扉"とか"門"みたいなものは無かった。繋ぐならここしかなかったんだよ」
レヴィはこともなげに言って、ちらりと島のほうに目をやった。「それより、さっさとあっちに行くぞ。」
 その時、手すりから水の中を見下ろしたフィオが小さく声を上げた。
 「ちょっと待ってよ、水の中…」
暗がりのせいで分かりづらいが、波の中を回遊している黒い影があった。それに、ギチギチとかすかな声がどこからともなく響いている。
 「<影憑き>、こんな、人の住む場所の近くまで…」
 「ち、妨害工作か。面倒なことを」
舌打ちして、レヴィは何か小さく唱えた。一瞬頭がくらっとして世界が反転したかと思うと、視界ががらりと変わっていた。今までいたはずの波打ち際ではなく、どこか、水辺から遠く離れた場所。側ではフィオが、同じように訳が分からないという顔をしている。足の下には硬い岩盤があり、側にはヤシの木がそよぐ。その向こうには、小さく、水上の家々が連なっているのが見えた。
 島の上だ、と気が付いた。
 マルセリョートの入り江が、足の下に白い砂浜がある。周囲は、四方が海だ。水平線がどこまでも続いている。一体いつの間に、とうろたえる二人に側に、羽音がして、鴉が降り立つ。
 「レヴィ! 一体何をした」
 「飛ばしたんだよ」
さらりと言う。
 「それ… シュルテンで倒れた時の魔法じゃないのか?!」
 「慣れた。それにこの術は、飛ばす距離と質量に比例して必要な魔力が上がる。このくらいの距離なら大したことじゃない」
おかしいだろうと指摘する気もなくなるほど簡単に言い切って、彼は、その話を打ち切ってしまった。崖の端のほうへと歩いていく。
 「――悪くない。ここなら、かなりの距離が見渡せそうだ。」
呟いて、レヴィはロードのほうに目を向けた。
 「ロード、この作戦はお前が頼りだ。"海の賢者"を、呪文の輝きから見つけてくれ」
 「おれが?!」
 「そう。この広い海から鯨一頭見つけるのは簡単な話じゃない。けど、お前は塔の上にある呪文の光を、あの距離から見分けられた。もしかしたらと思ってさ」
 「……。」
なるほど、そのために真夜中に移動してきたのか。ロードは、黙って目尻に指をやった。月は既に沈み、水の上の小屋の住人たちも既に寝静まって、辺りは真っ暗だ。無数の星明りの浮かぶ空と裏腹に、海は、一面の闇に包まれている。
 だが、一体どうやって水の底に沈む光を見つければいいのか、見当もつかない。そもそも、見える範囲にいるのだろうか。
 「見つけられなくても…文句言うなよ」
 「言わない。駄目なら、もうちょっと手荒な方法を考える。あぶりだすとか、ここら一体の海の底をさらうとか。」
 「…見つけられるように努力するよ。」
真剣な表情で、ロードは海に目を凝らした。目尻がぴりぴりする。一見して、このあたりの海は<影憑き>だらけだ。風の塔の周りがそうだったように、"海の賢者"を追うために意図してばら撒かれたのだろうか。
 四方を見回しながら、頭が痛くなるほど闇の海を見つめ続けていたとき、視界の端にちらりと一瞬、青白いものが見えた気がした。
 それはあまりにも弱い光で、疲れてきたせいで幻覚を見たのかと思った。だが、見ている前でそれは何度か明滅し、水面近くまで浮上して、波に紛れて移動していく。闇の海の中でただ一つの光。――もしかしたら、あれがそうなのか。
 「レヴィ、あの波のあたり!」
 「あのへんか」
言うなり彼は、ロードの指したあたりに向かって手を翳した。海が大きく波打ったかと思うと、いきなり水が空中に突き上げられる。
 「ちょ、ちょっと!」
フィオが声を上げる。驚いた魚たちが、水しぶきとともに宙を舞い、海中へ転がり落ちていく。
 「どっちみち手荒じゃないのっ」
 「仕方ないだろ、海の中にいるやつは、まず引っ張り出さないと飛ばせないんだから。それに、どうせこの海にいるのは今は<影憑き>ばっかりだろ」
その通りだった。レヴィが跳ね上げた海水の中から飛び出していくのは<影>の尾を引く生き物ばかりだ。この海からは、普通の生き物は消えてしまったのだろうか。だとしたら、"海の賢者"は一体どうやってこの海で生きているのだろう。
 「はずれ、か…」
 「光が移動してる。もうちょっと右だ」
ロードが言うと、レヴィは再び手を翳す。水が大きく揺れた。遠目にも、くじらの尾が高く上げられたのが見える。
 「あ、あそこ!」
フィオは少し楽しくなってきたようだった。「今のは惜しかったわ。でも逃げられちゃう」
 「逃がすかよ」
レヴィの目が意地悪に輝いたかと思うと、今度は、さっきまでの倍も深く広い範囲の海水が持ち上げられた。
 「いた!」
鯨だ。大きく暴れ、海水を身体全体で力いっぱい振り払いながら、海の中に戻っていこうと体をくねらせている。その頭の付け根に近い場所に、――青白く、強い輝きが見える。
 「レヴィ!」
 「…くそ、抵抗してやがる。けど…このくらいな、ら…」
空中に浮かんだまま、鯨が吼えた。いや、正確には、吼えるように低い音を発して口を大きく開けた。

 "ヤ メロ…"

そう聞こえた気がした、次の瞬間。
 ごうっ、と音がして、海の上を風が吹きぬけるのと同時に、鯨の姿がふっと消えた。風が波を起こし、白い波が島にも押し寄せてくる。
 どすん、と背後で大きな重たい音がして足元が揺れる。
 「きゃっ」
声を上げてフィオが肩をすくめる。振り返ったロードは、眼下の砂浜の上に投げ出されている鯨を見つけた。横でレヴィが汗を拭っている。
 「ふー。さすがに重かった…」
 「っていうか、いま投げた?! おい! 鯨って、陸上だと自重に耐え切れないんだぞ!」
ロードは慌てて、斜面を鯨に向かって駆け下りていく。
 「大丈夫だろ? ただの鯨じゃないし。水の中じゃ逃げられるじゃないか」
後ろでレヴィは暢気なことを言っているが、彼は聞いていない。波打ち際で砂に埋もれながらぴくりとも動かない姿は、砂浜に打ち上げられた鯨そのままだ。
 「待って!」
後ろからフィオが追ってくる。
 最後の岩を滑り降りて砂地に足が付くのと、鯨の腹のあたりが痙攣するように動き始めるのとは、ほぼ同時だった。その姿が人に変わっていくのが分かる。
 生きている。
 だが、ほっとするのもつかの間、鯨から姿を変え、砂の上に身を起こした男は、長い髪を振り乱して大慌てで再び海の中に戻っていこうとしている。
 「ちょっ、おい待てよ」
ロードは慌てた。「何で逃げるんだよ!」波の中に膝まで浸かりながら、すんでのところで追いついて掴んだ腕は驚くほど冷たかった。そして、思ったよりもほっそりしている。男は、弱々しくその腕を振り払おうと試みる。
 「はな…せ」
 「ロード、待ってったら!」
その時、フィオが息を切らせながら追いついてきた。抵抗しようとしていた男が、びくっとなって動きを止めた。
 ゆるゆると振り返る。
 「…え?」
泣き出しそうな顔をしていた。それは、青年と呼ぶには年上すぎ、中年と呼ぶには若すぎる、中性的な顔立ちをした男だった。水に濡れて張り付いた長い髪の下から見つめ返してくる、どこか見覚えのある薄青い眸。ロードは思わず息を呑み、掴んでいた腕を離した。どうしてこんなに見つめてくるのか、そしてどうして視線を逸らせないのか。自分でも、どうしてなのか分からなかった。
 「…マーシアにそっくりだ」
男はぽつりと呟いて、両手で顔を覆うと、そのまま崩れ落ちるように波の中に座り込んだ。
 「生きてたんだ… なのに僕は… ごめんよ…」
 「ロード、ロードってば、大丈夫?!」
フィオが砂浜のほうから呼ぶ声が、やけに遠く感じられた。ロードは、動けないまま、ただぼんやりと波の間で泣いている男を見下ろしていた。

 こんな形でしか、出会うことはできなかったのだろうかと思いながら。



 波の音が響いている。
 白み始めた夜明け前の空の下、四人はフィオの起こした火を囲んでいた。もう逃げないはずだとロードが言ったにも関わらず、レヴィは、警戒を解いていない。
 「…さてと。落ち着いたところで、まずは自己紹介から片付けようか。あんたは"海の賢者"ハル、間違いないな」
 「うん…」
 「ま、人違いするはずないんだけど。ぼくはレヴィ、最近"風の賢者"を継いだ。で、そっちがシルヴェスタから来たフィオで、そっちが…」
ちらりとロードのほうに目をやる。「…紹介するまでもなく、あんたのほうが詳しそうだけど」
 「僕は…彼女を守れなかった」
小さくなって膝を抱えているハルは、また泣き出しそうだ。ロードは、微かに苛立ちを覚えた。
 「あんた、自分が何やったかわかってんのか。そんなことで十二年も」
 「そんなことって。だって… 僕のせいでマーシアは…」
 「はいはい親子喧嘩しない。せっかく再会できたんだろ?」
 「誰がこいつと…!」
 「そうだよね、僕なんて父親扱いしてもらえないよね……」
 「はー。」
レヴィは、額に手を当てて大きく溜息をつくと、空を振り仰いだ。
 「つまりだ、整理するとこういうことか? テセラとあの<影>たちは、あんたとロードの母親が特別な関係にあることを知っていて、あんたをおびき出すための餌として使った。そして"呪文"を渡せと要求した。あんたは馬鹿正直に渡したが、結局彼女を救うことは出来ず、自分自身も心と身体に大怪我負わされて<影憑き>から逃げ回るハメになった。その後、身体の傷が癒えても、息子も一緒に死んだと思ってたあんたは無気力になって、海の中で逃げ回りながら潜伏するだけで、ロードがどうしてるかの確認してなかった、と」
 「……ごめん」
 「謝るのはいい。問題は、母さんが死んだ後あんたが何もしなかったことだ」
ロードは苛立ちを隠せなかった。うなだれているだけの男を見ているうちに、だんだんと頭に血が上ってくる。
 「何があったのか今は聞かない。母さんを守れなかったことだって、相手があいつらだったんなら責めるなんて出来ない。…生きててくれただけで良かったよ。でも! せっかく助かったのに、あんたは泣きながら逃げ回るだけだったのかよ。そんなの、…最低じゃないか!」
叩きつけるように一気に言って、彼は立ち上がった。
 「…なんで母さんがこんな奴、好きになったのか分からない」
それだけ言って、焚き火に背を向けて砂浜の向こうへ去って行く。ハルは唇を噛んで俯いたままだった。腰まである長い髪が一筋、はらりと額に零れている。
 「あーあ。怒らせちまったな。このままだと口利いてくれないぞ」
 「……。」
 「いいのか? 情けない奴だと思われっぱなしで。」
 「………。」
水平線が明るくなりつつある。どれくらいの時間が過ぎただろう、やがてハルは、意を決したように膝の砂を払ってゆっくりと腰を上げた。
 「そうだね…。逃げ回ってた時間はもう取り戻せないけど、今からなら…」



 乾いた岩にもたれかかりながら、ロードは小さく溜息をついて空を見上げた。朝の近い空からは、星が一つずつ消えてゆこうとしている。言い過ぎたような気もしたが、今さら戻って謝るわけにもいかない。それに、謝る必要などない、という気持ちもあった。だが、それは怒りではなく、半分くらいはあてつけなのだ。――母がずっと昔に亡くなっていたと知ってしまったこと、その哀しみを誰かにぶつけたかった、それだけだ。
 (…あれは、おれの眼だった)
片手を額に当てながら、心の中で呟く。
 振り返って見つめてきた薄青の眸。鏡に映した自分の眸とそっくり同じもの。あれを見た瞬間、全てを理解した。大切なものを失って絶望に打ちのめされたまま、立ち直ることも出来なかった表情だ。――子供だったあの時、もしも母の死を確信していたら――自分もそうなっていたかもしれないのに。
 「くそっ。」
小さく呟いて岩を軽く殴ったとき、海のほうで水音がした。
 「そこにいるのは、ロードなのか」
顔を上げると、シンがボートから飛び降りてくるところだった。夜明けが近づいて、水面から<影憑き>が消えたので駆けつけてきたのだ。
 「どうしてここに。それに、夜更けに島のほうで起きていた騒ぎは一体」
 「ああ、えっと… 説明すると長いんですが…」
 「ロード!」
岩の向こうからフィオが駆けて来た。「あ、シンさんだ! 丁度よかった、シンさんも一緒に見てて」
 「見る? 一体何を――」
岩を回って砂浜の上に出たシンは、はっと息を呑んで足を止めた。
 「あれは…」
長い髪を海風にたなびかせながら波打ち際に立つ男が、こちらに向かって少し微笑んだ。そして、海のほうに向き直った。じっ、と見つめる眼差しは、どこか遠くを見ているようでありながら、どこも見つめていないようでもある。
 数秒の凝視。彼は、僅かに口元を動かして片腕を掲げた。それとともに、足元にはじける波が空中に持ち上げられて、水滴のような形に固まっていく。腕を勢い良く振り下ろすと、頭上一杯に浮かべた無数の水滴型の水のナイフが、一斉に宙を舞い、海に向かって勢いよく突入していく。
 一瞬のことで、何が起きたのかその時は分からなかった。
 分かったのは、しばらくして水面上に無数の魚の死骸が浮かび上がった時だ。トビウオ、小型の鯨、シャチ。ロードたちの足元の波にも、骨と皮だけになった魚が流れ着く。
 「まさか、<影憑き>…?」
水中に隠れていた<影憑き>を、水上からの遠隔射撃で倒したのか。しかも同時にこれだけの数を。近づいていくと、ハルの横で見ていたレヴィが、頭の後ろで指を組みながら、やれやれというような顔で言った。
 「本気出すとこんなもんらしいぜ。さすがだよ」
 「長!」
シンが、ハルに駆け寄っていく。
 「お戻りになったんですね。俺です、シンです」
 「シン…ああ! あの腕白小僧の! 大きくなったねぇ」
ハルは小さく微笑んだ。シンは腕で涙を拭っている。
 「この辺りの<影憑き>は、いま片付けたから。苦労かけてごめんね。もう大丈夫だよ。」
 「けど、そうゆっくりもしてられないぜ。あんたには、直ぐやってもらわなきゃならないことがある」
はっとして、シンはレヴィのほうを見る。ハルは小さく頷いた。
 「心配いらないよ、彼は今の"風の賢者"。分かってる。テセラのことだね」
 「一緒にいる<影>もな。それに、奪われた"創世の呪文"の断片のありかだ。大至急探してくれ。どんな隠し方をしようとも、あんたの千里眼――<真実の眸>なら必ず見つけられるはずだ。」
 「うん。少しだけ時間を貰えるかな。三日もかからないよ」
 「二日でやってもらえると助かるな」
にやりと笑って、レヴィはいつものようにポケットに手を突っ込みながらロードのほうへ歩いていく。
 「お前、今のうちに言っとくこと、何かないのか?」
 「…ない」
 「そっか。じゃ行くぞ」
視線が自分のほうに向けられているのに気づかないふりをして、ロードは踵を返した。言うべき言葉など、今は見つからない。今はまだ。



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