23


 塔に戻って来たのは、ちょうど、レヴィが鴉から人の姿に戻って食堂に降り立った時だった。連れ立って台所のほうから出てきた二人を見て、顔を上げる。
 「お、なんだ。外に行ってたか」
 「ただいま、どうしたの?」
レヴィは、視線をちらりとリスティの後ろにいたロードのほうに向ける。
 「じいさんが起きたんだ。…来てくれ。」
 「分かった」
抱えていた買い物荷物を食堂の机の上に置くと、彼は、レヴィについて塔をぐるりと取り囲むようにして伸びる回廊を歩いていった。老人の部屋は、食堂と同じ階にあるようだった。途中に階段はなく、そう遠くもない。
 ドアを軽くノックしてから開くと、寝台の前で丸椅子に腰掛けて待っていたフィオが振り返る。
 「ロード、見つかったんだ」
 「ああ。」
それほど広くはなく、全体的に古びた雰囲気のある部屋だった。強い光を避けるためか窓には薄いカーテンが降り、そのため真昼でも薄暗い。壁の一面は本棚で埋めつくされ、大きな書き物机が、寝台と本棚の間に置かれていた。だが、書き物机の端に置かれたインク入れもランプの暈も、うっすらと埃が積もっている。
 「はじめまして。君が、ロードくん、だね」
大きな枕にもたれかかるようにして半身を起こした老人が、皺くちゃの顔で微笑む。柔らかく深い声は、"老賢者"と呼ぶに相応しい。レヴィが黙って椅子を勧めてきたので、ロードも何も言わずそこに腰を下ろした。
 「昨日は失礼した。わしは、レヴィの前の代――この塔のかつての"主"、ランドルフだ。だいたいの話は、レヴィから聞いている。ありがとう。そして――迷惑をかけてすまなかった」
 「迷惑? 迷惑なんて何も」
 「テセラのことだ。就任当時から多少の懸念はあったのだが、まさかこんなことになるとはな」
きちんと膝の上に手を置いて座るフィオの肩がぴくりとなったが、表情はほとんど動かない。既にその話は、二人で済ませたのかもしれない。
 「"創世の呪文"との接続は、膨大な魔力の使用を可能とし、副作用として長寿を齎す。テセラは、それを特権と考え、いつしか自らを選ばれた存在と誤認するようになっていったようだ。暴走を止められなかったのは、わしの責任だ。そのツケを、君たちに押し付けてしまった。本当に申し訳ない」
静かな、ゆっくりとした口調は脳裏に染み入ってくるかのようだ。
 「けど、じいさんはできることはやったはずだ。普通は二百年も勤めれば次の代に譲って代替わりする。五百年も"賢者"勤めて、"森の賢者"の代替わりの時を待っていたんだろ?」
 「そう、だが彼女は代替わりを拒んだのだ。待っていたその時は来なかった…」
ランドルフは小さく呟き、短く刈りそろえた口元の髭を震わせた。「永遠の美と若さ。――そう言った。呪文を誰にも渡すつもりは無い、と。…それが、あれと話した最後だった。もう、五十年近く前のことだ。」
 沈黙が落ちる。
 最初に口を開いたのは、フィオだった。
 「お母様…いえ、魔女テセラは、どうして、あたしたちを育てたりしたんですか」
 「それは、分からん。一人で生きることに疲れたのか、…あるいは、寂しかったのかもしれん。わしやハルとの繋がりは、物別れの日に切れてしまったからな」
 「ハル?」
ロードが顔を上げる。
 「"海の賢者"だよ。少々気の弱いところはあったが、腕は確かだ。黙ってやられるようにはどうしても思えん。一体何があったのか…今、どうしているのか…」
老人は、寝台の上で小さく溜息をついた。
 「とりあえず、捕まえて話を聞くしかない。抵抗されたら、そん時はそん時だな。」
 「おい、レヴィ。そんな手荒な」
 「手荒ったって、それしかないだろ。呪文の断片も奪われちまってる。」
髪をくしゃくしゃとかき回すと、レヴィは、苛立ったように言った。
 「なんだか知らないが、うちの"呪文"が騒いでるんだよ。三つのうち二つが奪われちまったからな。おまけに、そのうちの一つは本来の管理者のところから引き離されて十年以上だ。そろそろ不安定になってきてるのかもしれない」
 「急いだほうがいいだろう」
ランドルフも同調する。
 「テセラが狙っていた、こちらの唯一の隙である代替わりは完了し、もはや正攻法では"風の賢者"の管理する呪文は奪えなくなった。次にどんな手をとってくるかは想像出来ん」
 「準備する」
立ったままだったレヴィは、硬い声で言って踵を返した。「まずは"海の賢者"を捕まえにいくぞ。今夜、真夜中に。――それでいいか?」
 「おれは、構わない…けど、お前は」
せっかく久し振りに塔に帰って来たのに。言おうと思った言葉は、小さく笑ったレヴィによって打ち消される。
 「"扉"は開かれた。この塔は、いつだって隣にあるよ」
扉が閉まるのと同時に、フィオも立ち上がった。
 「あたしも準備してくる。」
ぱたぱたとレヴィを追って駆け出した。
 「あ、…えっと」
慌てて腰を浮かしかけたロードだったが、実のところ急ぐ用事もない。微笑みを湛えたままじっとこちらを見つめているランドルフに気づいて、彼は、頬を搔きながら腰を下ろしなおした。
 「焦ることはない。それぞれに、その時に必要な役目がある。少し、時間を貰えるかな? 君とは少し話をしてみたかったんだよ」
 「はあ…」
その時ロードは、初めて老人の顔を間近からよく見た。五百歳を越えるという年齢に相応しい姿ではあるが、皺に埋もれた薄い緑の目は、老いてはいても聡明な輝きを湛えている。真っ直ぐに前を見つめる眼差しには、最後まで役割を果たしきるという強い意志があった。
 「レヴィが君のことを話していたよ。君の眼の話も聞いている。それについて今確かに言えることは何もないが…改めて、お礼を言っておきたくてね」
 「お礼?」
 「あれは、何でも自分で背負い込みたがるだろう? だから一緒に背負ってくれる友達がいればいいと思っていたんだよ。ありがとう、これまでレヴィを支えてくれて」
 「えっ、いや、そんな。どっちかっていうと、おれのほうが助けられてばかりで…」
気恥ずかしくなって目を伏せたレヴィの前で、老人は、小さく咳き込みながら声を立てて笑った。
 「…本当の意味での友達は、君が始めてだろうな」
 「え? でも、塔には昔、他にも三人いたと」
 「彼らはずっと年上だったしな。それに…」
老人の目が、かすかな哀しみの色を帯びる。
 「レヴィは彼らについて、何か言っていたかね」
 「いえ。"年長の知恵ある鳥たち"としか。あと――"賢者"は、本当は自分が継ぐはずじゃなかった、と」
 「おやおや、そんなことを」
口元に笑みを浮かべて、ランドルフは、手元に視線を落とす。何かを考え込んでいるようだった。レヴィはただ待った。窓辺で鳥の声が聞こえる。鴉ではない、森に住む小鳥たちの囀り交わす声だ。
 やがて、老人は静かに口を開いた。
 「――そう、確かにレヴィは、わしが選んだ後継者ではない。選んだのは"呪文"自身だった。呪文自らが選んだ管理者は、過去にも何人もいない」
 「呪文? "創世の呪文"が?」
ロードは、思わず声を上げた。
 「そう、十二年前に。それに、元々レヴィは弟子になるはずではなかったのだ。他に身寄りもなく、姉のリスティが塔へ住み込みで奉公に来るときに、どうしても一緒に行くと言い張って付いて来たのだよ」
 「……。」
それは、今のレヴィの姿からは想像つかない話だ。
 「わしは、あれの素質にも可能性にも気づかなかった。"創世の呪文"だけが、それを見抜いていた。もはや飛ぶことも出来なくなった老いぼれを見限って、自ら器を選んだ。――だがそれを、あれは自分の罪だと思っている。自分のせいでわしの力が失われ、"海の賢者"のもとから呪文が奪われたのだと。兄弟子たちが戻ってこなかったことさえ、自分の責任だと思っている。背負わなくともよい重荷を、自ら望んで背負い続けようとしているのだ」
 「分かります。あいつは何時だって、一人でどうにかしようとする。もうちょっと頼ってくれれば…まあ、おれに出来ることはあんまりないんですけど…」
 「そんなことはないよ。君たちのことを話しているレヴィはとても楽しそうだった」
小さく笑うと、老人は目を閉じた。
 「…本当に背負うべきは、わしなのだ。"賢者"同士の戦いをどうしても回避したくて、何もせずに傍観していた。そのせいで、弟子たちの命も救えず、本来の役目も果たせず、レヴィからは普通の人生さえも奪ってしまったのだから。」
声がかすれ、ぜいぜいと肩で息をする音が響いた。ひどく疲れているようだった。ロードは、立ち上がって寝台の側に寄った。
 「すいません、長居しすぎました。もう休んでください」
 「…ああ」
枕に体を押し付けると、大きく溜息を吐く。ロードが賭け直した毛布の下にあった腕は、寝台の側に立てかけられた杖と変わらないほどに細い。いくら気丈に振舞っていようとも、長年勤めた役目をレヴィに渡し終えたことで、人生の終わりが近づきつつあるのだ。それを、ひしひしと感じた。
 部屋を出たとき、彼は、自分の目尻にいつのまにか涙が浮かんでいたことに気づいた。
 それが何故、何のための涙なのかは、彼自身にも、判別はつかなかった。



 日が暮れた後も、廊下は薄ぼんやりとした輝きに包まれていた。灯りはない。ところどころ、壁や手すりの上に丸い磨かれた石が載っていて、それらが暖色の光を発している。太陽石だ。本物のランプが使われているのは台所の周りと各部屋の中くらいで、塔の内部は、夥しい数の太陽石によって照らし出されている。
 ロードは、縦長に壁に入った切れ目のような窓から、外を覗いた。森は暗く塗りつぶされた闇の中に沈み、逆に、頭上に広がる良く晴れた空は一面の星の海だ。
 そこは、塔の最上部だった。階を重ねるごと少しずつ幅が狭まった塔は、この階ではちょっとした広場程度の広さまで縮んでいた。頭上には、何の飾りも無いドーム型の天井が載っている。柱の最上部はドームのすぐ下で途切れ、ロードのいる外周からは細い回廊が前後から一本ずつ、中心部の柱に向かって伸びている。この階はそれでおしまいだ。
 レヴィは、その回廊の先に立って、柱の上をじっと見上げている。ドーム型の天井の中心の真下、柱とのはざまに浮かぶのは、青白く輝く球状の何かだ。
 「何してるんだ?」
呼びかけると、数秒遅れて振り返った。
 「何だ、こんなとこまで登って来たのか?」
 「まさか。最上階に通じる扉をリスティさんに教えてもらったんだよ。しかし、よくこんなところに平気で居られるな」
地上五十階ほどの空中回廊から低い手すりの向こう見下ろすと、そこは眼もくらむような世界だ。入り組んだ細い回廊、はるか下のほうにちらちらと輝く無数の光。レヴィは、ロードのおっかなびっくりの表情を見て笑った。
 「飛べるんだから高いところなんて怖いわけないさ。それに、昔ここから落ちたこともある」
 「…本当か?」
 「ああ。下まで。」
からかうような表情で肩をすくめると、彼は真面目な表情に戻ってさっきまで見上げていたもののほうに視線を戻した。ロードも、同じ方向を見る。近くで見ると、それは球体ではなく、球状に固まった光るなにかだった。無数の文字列が次々と変化しながら目にも留まらぬ高速で回転しているようにも見える。それは、レヴィの胸のあたりに見えているものと、同じ輝きに見えた。凝視していると意識が吸い込まれそうで、ロードはあわてて眼を逸らした。
 「これが"創世の呪文"?」
 「そう、この世界を形作る呪文の一部だ。そして、ぼくの使っている魔力の供給源でもある」
そう言って、レヴィは自分の胸に指を当てる。
 「呪文の"接続点"は、本体から分離した一節だ。代々の"賢者"ごとに適合した言葉が宿る。テセラも持っているはずだ。これを奪えば、とりあえずは、テセラと"呪文"の接続は切れる」
 「…戦いになったときの話だな」
 「ああ。説得なんて出来る次元は、とうに過ぎてるしな。それに、魔力に上限のない"賢者"同士で戦っても、まともに決着なんて付くはずない。」
俯いて、彼は呟いた。「――ぼくを攻撃してきた時、テセラが使った手段もこれだった。」
 考えていたのは、フィオのことだ。彼女の目の前で、育ての親を倒さなくてはならない。
 「本当は、あいつを置いていきたかった」
 「じいさんもそう言った。でもどうしても、自分の手でケリをつけたいと言い張ったよ。」
上着のポケットに手を突っ込みながら見上げるレヴィの黒い瞳に、呪文の青い光が明滅しながら映っている。
 「あ、いた」
後ろで、ぱたぱたと足音がした。フィオが、手を振りながら回廊をこちらに向かって勢いよく走ってくる。リスティも一緒だ。
 「ちょっ…走るなよ、落ちたららどうするんだよ」
 「え? 普通落ちないでしょ。ロード怖がりだなあ」
 「いや…怖がりっていうか…」
レヴィは、リスティのほうに目を向けた。
 「時間だな」
 「ええ」
 「じいさんのことは頼むぜ」
リスティは、少し悲しげに微笑んで、首を傾げた。
 「分かってる。行ってらっしゃい」
ロードたちのほうに向き直ると、彼は二人それぞれを見た。
 「準備は出来てるな?」
 「勿論だよ!」
 「こっちも大丈夫だ。でも、どうやってマルセリョートへ――」
 「見れば分かる。ついて来てくれ。」
レヴィが向かったのは、向かいの壁側に続く回廊だった。その先は壁際で行き止まりになり、扉で終わっている。だが、それは食堂の脇にあるのと同じように、壁に直接取り付けられた形だけの扉に見えた。
 「開いてみろよ」
 「う、うん」
さっそくフィオが扉に手をかける。
 扉を開いた途端、場違いな潮の香りとさざ波の音とが、どっと押し寄せてきた。



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