12


 馬車が止まったのは、ノルデン領に入っていくらも行かない頃だった。途中から乗ってきた乗客たちが何事かと窓から顔を出す。前方に、通行禁止の柵が置かれ、揃いの鎧を来た兵士たちがうろうろしている。検問か何かのようだった。御者台に近づいて来た胸に紋章をつけた上官らしい男と何か話をしていた乗り合い場所の御者は、やがて、申し訳なさそうな顔をした客車のほうにやって来た。
 「すいません、お客さんたち。この先の谷に<影憑き>が大量に湧いていて、通行禁止らしい」
車内で、老若男女入り混じった苦情の声が沸き起こる。
 「こんな何もないところで放り出すのか?」
 「困るわ、明日までに町に着かないといけないのに」
 「すいませんね…引き返すにしても今からじゃ遅い。他にどうしようもないんで、この近くの村に向かいますよ」
ぶつぶつと文句を言う声が起こったが、誰もこのまま進めとは言わなかった。物々しい装備のノルデンの兵士たちに逆らって押し通ることなど出来そうに無かったし、日暮れが近いというのに、<影憑き>が出るという谷を通りたいとも思わない。
 馬車がゆるゆると動き出す。ロードは、街道を封鎖する柵の向こうに広がる崖のような岩山を見やった。地図では、ノルデンの中心部に抜けるには、この道しかないはずだった。封鎖が長引けば、それだけ、ここで足止めを食らうことになる。
 日が暮れようという頃、馬車がたどり着いたのは街道からかかなり離れた山間の小さな農村だった。普段は旅人など来ないのだろう、突然現れた四頭立ての大きな馬車に、村人たちはぽかんとしている。宿どころか、酒場すら無さそうだ。
 「何だここは、何もないじゃないか」
ブツクサ言いながらも、馬車に乗っていた人々が降りていく。御者は既に、一夜の宿を借りるため村を奔走していた。ロードも、溜息混じりに荷物を肩に担いだ。
 「宿は自分たちで探したほうが早そうだな。」
 「どうするの?」
 「どこかそのへん、泊めてもらえそうなとこを探すんだよ。旅してる時は、いつもそうしてる。」
言いながら、彼は村の中心部を離れて、周囲に広がる段々畑の中を歩いていった。畑の脇を走っていた犬がやけに人なつっこく後ろを追ってくる。夜風が冷たい。この辺りは、日が暮れると気温が急に下がるようだ。
 見つけたのは、畑の間に埋もれるようにして建っていた小さな家だった。窓から灯りが漏れ、歌声が聞こえる。ドアをノックすると、声がやみ、しばらくして農家のおかみさん風の若い女性が顔を出した。
 「あら、どなた?」
 「街道が通行止めで、この先に行けなくて宿を探してるんです。一晩泊めてもらえませんか?」
 「あら、あら、あら。それは難儀なことね。いいわ、うちは二人だけだし。どうぞ入って」
 「お邪魔します」
頭を屈めて低いひさしをくぐると、家の中は思ったより広く、太い柱が天井に張り渡されていた。土間の端にかまどがあり、丁度、夕餉の鍋が煮えている。ロードの後ろから、フィオがひょいと家の中を覗き込むと、土間の端に座っていた五歳くらいの男の子が指を咥えたまま顔を上げた。フィオと目が合うと、にっこりと笑う。
 「その子は息子です。私はサヤ。どうぞ気楽になさってね」
そう言って、若い母親は朗らかに笑う。荷物を降ろしながら、ロードは家の中を見回した。父親や他の家族のいる気配はなく、縫いかけの服や作物を入れた籠、そのほか生活に使う様々なものが、雑多ながら整理された状態で家の中に積まれている。
 「それにしても、旅ってこの先まで行かれるんですか? もしかしてアステリアのほうから?」
鍋をかき回しながらサヤが尋ねる。
 「ええ。馬車でここまで来たんですけど。――街道の封鎖って、いつからなんですか」
 「二日くらい前かしら。運が悪かったのね、この辺りじゃ<影憑き>なんて今まで出たことなかったんですよ。それが急に街道沿いだけ出るようになったって」
 「……。」
シャロットと農場に張り込んだのが、ちょうど二日前の夜。まさか、あの二人組みがこちらに移動して来たのだろうか。そうだとしたら、まるで、何かの目的を持って自分たちと同じ道を辿っているようではないか。
 「早く通れるようになるといいのになー」
フィオはすっかりくつろいだ様子で床に足を投げ出している。
 「そうですね。さあ、疲れてるでしょうから暖かいものでも召し上がれ。」
テーブルに並べられた食器から暖かな湯気が上がる。中身は、畑でとれた野菜を煮込んだシチューだ。
 「おーいしい! こういうの久し振りー」
 「でしょ。ママのシチューは最高だよ」
 「中に入ってる、このハーブ何?」
 「それはね、この辺りで採れる草で…。」
会話が弾み、テーブルの上でランプの灯が揺れる。若い母親と幼い少年だけの家庭。ふと、ロードの脳裏にずっと昔の、母と二人で暮らしていた頃の記憶が過ぎった。そう、あの頃は、こんな風に二人で食卓を囲んでいた。あの夜までは。悲鳴ともみ合う音で目を覚ます時までは。
 「お口に合いませんか?」
ロードは、はっと我に返る。
 「いえ、美味しいです。すいません、これからどっちへ行こうかなって思って」
サヤは、ほっとしたように微笑んだ。
 「心配しなくても、すぐに封鎖は解けますよ。ノルデンにはすごい魔法使いが一杯いるんですから。」
 「そう、…ですよね」
そうであって欲しかった。そうでなければ、この旅は、ここで終わってしまう。



 翌朝、ロードは村の入り口に留められたままになっていた乗合馬車を見つけた。御者に聞くと、封鎖が昼までに解けそうでなければ、もと来た道を引き返すという。こんな小さな村で何日も待っていられるほど、お客たちは悠長でも身軽でもないのだ。どうするのか聞かれたので、彼はここに残ると答えた。引き返しても仕方ない。この村で、待てるだけ待ってみよう。あるいは、別の道を探すか。
 サヤは朝早くから畑かどこかへ出かけている。フィオと、サヤの幼い息子もいつの間にか居なくなっていて、ロードは手持ち無沙汰なまま、家の脇の撒き割り場で切り株に腰を下ろしてナイフの手入れを始めた。母から貰ったナイフは、使い始めた頃は大きすぎて手からはみ出すほどだったのに、今はちょうど自分の手の平に納まる大きさだ。
 構えて、狙いを定めて投げると、狙い定めた薪にカッと小さな音をたてて垂直に刺さった。魔石の力で軌道を修正しなくても、狙いを外すことなどない。最初に投げ方を教えてくれたのは母で、母が姿を消してからは、豆が潰れるくらい練習した。

 ――あの夜、もみ合う声に気づいて目を覚ました時には、全てが終わっていた。

 残されていたのは、争った跡と床の血痕だけ。開いたままのドアの向こうには、沈黙の闇だけが広がっていた。母も、母を攫った誰かも、どこにも居なかった。
 最初の数年はそれでも、いつかは帰ってくると信じて待っていた。けれどいつしか、待っているのに耐えられなくなって、探しに行こうと思うようになった。手がかり一つなく、当てもなく、それでも歩き回っていれば何時かは…と。
 (おれは、もう諦めているのかな)
心の中で呟く。そうなのかもしれない。誰かの依頼を受けて手助けをすることで、あの時何も出来なかった悔しさを紛らわせているだけではないのかと思う時もある。だが、忘れることは絶対に出来ない。何も知らなかったあの頃の幸せや、二人で暮らした思い出、それが突然終わってしまった時の痛みだけは。
 彼はもう一本のナイフを構え、再び投げた。今度は強く。ナイフは、さっき投げた一本の真上に、一直線に並ぶように突き刺さった。パキッと小さな音がして薪に縦筋が入る。もう一本同じ列に投げれば、きっと薪は割れる――
 三本目を構えようとしたとき、どこからか聞き覚えのある鼻歌が聞こえてきた。それが近づいてきたかと思うと、フィオが建物の影から顔を出した。
 「あ。ロード、ここにいたんだ。何してるの? ナイフ投げの練習?」
 「まあ、そんなことだ。そっちは?」
ナイフをベルトの収納に引っ掛けながら、彼は立ち上がる。フィオは、満面の笑みでカバンから草の束を取り出した。
 「みてみて。あの子に昨日の隠し味のハーブの生えてる場所、教えてもらっちゃった」
どうやら昨日のシチューに入っていた香草らしかった。片手いっぱいの束になるくらい詰んできたようだ。ロードはちょっと呆れた顔になった。
 「どうするんだよ、それ」
 「乾かせば保存が利くようになるんだよー。野宿の時に使えるじゃない? 大事だよ、こういうの」
 「ふうん…まあ、役に立つっていうんならいいけどさ。森でも、そうやって草を集めてたのか?」
 「うん。近くに小さい村もあったけど、森から出ちゃ駄目だって言われてたし。ぜんぶ森の中で採れるもので暮らしてた。何でも自分で作ってたわよ」
 「二人きりで?」
 「そう、お母様と二人で。――前はシェラもいたんだけど…、あ、シェラっていうのは、あたしのお姉さん。ほんとのお姉さんじゃないけど。年上の魔女」
 「その人は?」
 「いなくなっちゃった」
カバンに草を仕舞いこみながら、少女は無造作に答える。
 「良く知らないの、お母様に聞いても答えてくれないし。でも、昔からそう。大人になったら、みんな居なくなっちゃうの。きっと森を出て行っちゃうのね。」
 「…森を出る?」
 「どしたの、不思議そうな顔して。」
 「いや。そしたらフィオもそのうち森を出るつもりだったのか、って」
少女は、目をしばたかせる。
 「んーあたしは、残る…つもりだったけど。でもお母様は何も言わないし、聞いても、いつも誤魔化されてた」
小さく笑って肩をすくめると、フィオは、ロードに背を向けるように谷のほうに目をやった。
 「ずっと居てもいいなら、いいな、って思ってた。あたし森の入り口に捨てられてた捨て子だったらしいの。だからお母様っていうのは、ほんとのお母様じゃなくて。シェラもそうよ。でも、あたしはお母様のこと好き。たまに…ちょっと怖いときもあるけど…」
 しばしの沈黙のあと、フィオは小さな声で呟いた。
 「…あたしには、お母様しかいないから。」
 「……。」
言葉が見つからない。フィオが"お母様"を探して旅を始めたのは、母親がいなくなった不安からではなく、自分の唯一の居場所を失くす恐怖からだったのだと、気づいてしまったからだ。居てもいいと言ってくれる"お母様"がいなくなってしまったら、彼女にとって、森は、自分の場所では無くなるのだ。
 語尾に滲んだ涙に気づかないふりをして、ロードは、薪に刺したナイフを抜きに取り掛かった。
 「そういや、どんな人だったんだ。フィオのお母さんは」
 「うんと。凄い魔法使いだった。なんていうか、何でもできちゃうって感じで、一番凄かったのは空を飛ぶ魔法! あれ出来るようになりたかったんだけど、難しくって…。」
話しているうちに、フィオの口調に少しずつ、いつもの元気が戻ってくる。
 「でも料理は下手で…あは、あたしはシェラに教えてもらった。」
 「”森の賢者”だったんだろ。賢者って、普段何してるんだ?」
 「よく分からない。出かけて何日も戻らないときもあったし…。森の中で、何かしてたんだと思うな。あ、ちなみにお母様はね、すごく美人だったんだよ」
 「美人? 若かったのか? でも…」
 「賢者は長生きなんだって。三百年くらい"賢者"やっても、ほんの少ししか年取らなかったって言ってたわ。だから、あたしたちとおんなじ時間は生きられないの、って、いつもそれが口癖で。」
 「…不老…。」
"賢者"という言葉の響きから、なんとなく物凄い老人を想像していたロードは、少しわからなくなってきた。それに、"創世の呪文"”を守っているというからには、世界が出来たずっと昔から生きているのだと勝手に思い込んでいたのだ。
 「"お母様"の前にも、"森の賢者"って居たのか?」
 「え?」
 「そうじゃないと、三百年なんて最近すぎるじゃないか」
 「あ、…そうね。あれ、でもそんな話、聞いたことないな…」
フィオは首をかしげている。一緒に暮らしていても、何も知らないのだ。"海の賢者"に近いところに暮らしていたシンたちも、"賢者"について詳しい様子はなかった。そういうものなのだろうか。
 「謎が多いな。一体――」
言いかけたとき、ぱたぱたと足音がして、サヤが駆けてきた。
 「あ、二人とも、ここにいらしたんですね」
背中には掘ったばかりの野菜を入れた籠を背負っている。
 「どうしたんですか」
 「吊り橋のほう、通れるみたいですよ。さっき買出しから戻ってきた村の人たちから聞いたんです。」
 「吊り橋? 街道を抜ける以外に道があるんですか」
 「ええ。地図には載ってません。村人だけが使うような、細い吊り橋なんですが、この先の谷にかかっているんです。」
ロードとフィオは、顔を見合わせる。
 「ほんとに? そこ通れば北へ行けるの」
 「だいぶ遠回りですけどね。山を越えれば、滝に出ます。そこから先は街道が繋がってますよ」
そう言って、サヤは簡単な地図を書いてくれた。簡単に言うと、街道の封鎖されている部分を迂回して、封鎖の岩山の先に出る道ということだ。確かに遠回りだが、長く見積もっても二日もあれば抜けられる。ここで待つよりは早いはずだ。
 「獣道ですけど、村の人たちが使ってるから迷うことはないはずです。」
 「ありがとうございます。行ってみます。フィオ、準備して」
 「わかった」
少女が駆け出していく。
 「すいません、色々とお世話になってしまって」
 「いいえ。道中、お気をつけて」
にっこりと微笑む若い母親の向こうで、彼女の幼い息子がまだ行かないでと大声でせがんでいる。彼は思わず微笑んだ。せっかく出来た遊び友達を手放したくないのだ。
 ここには、ありふれた日常と、ささやかでも幸せな暮らしがある。それがずっと続くようにと、ロードは願った。どうかこの辺境に村にまで、<影憑き>の恐怖が届きませんように、と。



 谷川に沿ってしばらく下っていくと、サヤに教えてもらったとおり、谷の向こうへと張り渡された細い吊り橋が見えてきた。川は眼下で白い泡を立てて濁流となって流れている。蔓草を編んで作った吊り橋は、谷川を渡る風に吹かれてたわみ、不安定に揺れている。
 「…思ってたよりハードな道だな」
 「うん、でも渡るしかないでしょ?」
こんな時、フィオは妙に強気だ。森で育った分、こういう道には慣れているのかもしれない。すたすたと歩いていく少女の後ろを、ロードも、足の下のことは考えないようにして懸命に追う。足元が揺れるたび、手すりを掴む手に力が篭り、いやな冷たい汗が背筋を伝う。
 そうして長い吊り橋を渡りきった時には、妙に足元がぐらぐらして眩暈がした。二度と渡りたくない気分だ。
 「大丈夫? ロード」
 「ああ、なんとか。」
フィオが本当に空を飛ぶ魔法を覚えていればまだ気楽だったのに、などと思いながら、彼は、気を取り直してサヤの描いてくれた地図を取り出した。
 「…この先は何箇所か分岐があるが、とにかく一番太い道を真っ直ぐ、らしい。たぶん途中で日が暮れるけど、今夜は野宿だな。」
 「早速ハーブが役に立つじゃない」
と、フィオ。
 「ああまあ…。夜露を凌ぐのに、いい場所が見つかるといいけど。この辺りはまだ少し寒いみたいだから。」
地図を上着のポケットに仕舞いながら、先頭に立って歩き出す。森は妙に静かで、時々、甲高い鳥の声が聞こえるくらいだ。道端に見たことのない赤い実がなっている。南のほうでは春も盛りだというのに、この森では、日陰の木の根元にまだうっすらと白い雪が残っている。考えてみれば、ノルデン王国領にまともに入ったのは、これが始めてかもしれなかった。普段はジャスティンより北へ向かう用事は滅多にない。
 かさかさと草が揺れる。獣の気配、だが何かは分からない。狐か、イタチか。それとも、見たことのないような動物かもしれない。
 ふとロードは、この森に<影憑き>が出ることはあるのだろうか、と不安になった。サヤは村人が帰って来たばかりだと言っていたから、少なくとも、今のところは安全なはずだ。
 フィオは後ろで、道端になっている赤い実をつまんで、口に含んでいる。
 「あ、酸っぱくて美味しい」
 「食えるのか? それ」
 「みたいだよ。ロードも食べてみる?」
歩きながら、ロードは受け取った木の実を口に含んだ。確かに酸っぱい。そして後味には、かすかな甘みが舌の上に残る。<影憑き>が居ないということからか、緊張感はいつの間にか消えていた。山を越えてゆく尾根づたいの道には日が差していて、木々の間から空が見えていた。
 がさっ、と茂みが揺れて木漏れ日に何かが立ち上がったとき、ロードは、それが<影憑き>だとは疑わなかった。赤い実のついた枝を掴んだまま、こちらをじっと見つめる眼差しが敵意だと気づくまでの数秒。その時にはもう、彼らは、対決不可能な距離まで入り込んでしまっていた。
 しまった、と思った時にはもう遅かった。
 「グルル…」
それは、熊だった。大きな熊は、凄まじい咆哮を上げてこちらに向かって突進してくる。熊の後ろに小熊がいるのが見えた。親熊の警戒に気づかずに、不用意に近づきすぎたのだ。
 慌てて一歩あとすさろうとしたとき、足が崖にずれた。
 「うわっ…」
立ち上がった熊が振るった鋭い爪が胸元を掠めてゆく。幸か不幸か、足を滑らせたことでかわすことが出来たのだ。だが、身体は容赦なく崖を転がり落ちていく。木を掴もうにも、指は滑る土に埋もれるばかりだ。谷川の音が迫ってくる。このまま落ち続けたら、水の中に…
 と、ふいに落下が止まった。
 「やれやれ…予想外だよ、こんなところでピンチになるなんて」
どこからともなく、溜息交じりの声が聞こえた。泥まみれになりながら、ロードは体をひねって顔を向けた。木立の間に何かがいる。逆光のせいでよく見えないが、どうやら少年のようだ。黒髪に、黒いズボンと黒い上着。こんな山道にいるには不自然な、やけに都会的な服装だと思った。
 「…誰だ?」
 「その前に、戻ったほうがいいんじゃないかな」
そう言って、少年は上のほうを指差し、ふわりと飛ぶような足取りで斜面を登っていく。いや、本当に飛んでいるのかもしれなかった。足は、ほとんど地面に触れていない。
 「ロードぉ! 生きてるー?」
はるか頭上から、フィオの声が響いて来る。
 「ああ、無事だよ」
叫び返して、彼は手足に力を込めた。大丈夫だ、どこも折れてはいない。振り返ると、すぐそこに断崖絶壁が見えた。もう少し止まるのが遅かったら。そこから宙に投げ出されてはるか下の谷川に転落していたのだ。そのことに気づいて、彼はぞっとした。危ういところで助かった――いや、助けられたのだ。だが、どうやって?
 手足を泥だらけにしながら道に這い上がってみると、熊はとっくに姿を消していて、少し離れた場所で泣きそうな顔のフィオと、さっきの少年が待っている。
 「お待たせ」
 「平気?」
 「なんともないよ。」
膝を払いながらロードが目をやると、少年は、それを待っていたように口を開いた。
 「この辺りは良く熊が出る。とくに今の季節は冬眠から醒めたばっかりで向こうも寝ぼけてるんで、気をつけないと危ないぜ。」
 「…忠告、感謝する。以後気をつけるよ」
言いながら、ロードはじっと相手を見つめた。見た目は十四、五歳。フィオと同じか、それより少し年下くらいだが、やけに落ち着いているのが気になった。それに、この声は、どこかで聞き覚えがある。それに、――目を凝らすと、何かが視界にちらついた。青白い小さな輝きだ。
 忘れるわけもない。はっとして、彼は思わず叫んだ。
 「…あの時の鴉!」
 「え?」
 「お、思い出してくれたか」
少年はポケットから手を出して、羽ばたきを真似るようにひらひらと両手を動かして見せた。「どう? こっちの姿は」
 「いや、どうっていうか…」
 「え、え? 鴉ってあのケガしてた子? うそぉ」
 「ホント。何しにきたのかって? いやー鴉にも恩義ってのはあってね、恩返しってのはどうかな」
にやにや笑っている表情からは、嘘とも本当ともつかない。
 「…おれたちを、つけてたのか?」
 「そういうわけじゃないさ。ぼくも家に帰る途中なんだ。で、たまたま同じ方向だっただけ」
 「家ってどこ?」
 「鴉のおうちは山の上、さ。」
そんな童謡を歌うように口ずさみ、少年は先に立って歩き出す。「街道の先へ抜けるんだろ? 近道を知ってる。こっちだ、案内するよ」
 ロードはフィオは、顔を見合わせた。姿を変えられるということからして、彼が魔法使いなのは間違いない。問題は、信用していいのかどうか、だ。少年は、サヤに教えられたのとは別の、脇へ逸れる細い道へ入ってゆく。半信半疑についていきながら、ロードは、目の前の背中をじっと眺めていた。
 「今、信用してもいいのかどうか迷ってるだろ」
考えを読まれた気がして、ロードは思わずどきりとして足を止めた。少年は歩きながら、振り返りもせずに笑う。
 「ほら。そこに町が見えるよ」
フィオが駆け出して、ロードの側を追い抜いていく。木立の間から下を見下ろして、声を上げた。
 「ほんとだ! けっこう大きな町ね」
 「セオールの砦。砦っていう名前だけど今はただの観光地だ。町の周りを川が流れてるだろ」
谷底から大きな水音が響いて来る。川は、町のすぐ下で滝となって落ち込んでいるのだ。砦の城壁のある町は、滝に身を乗り出すようにして、崖の上に張り付いている。街道はそのすぐ側を走っていた。
 「道は急だが、ここからまっすぐ下ればセオールの前に出るよ。宿を取るなら町の中心部がお得だな。景色のいい滝の近くは観光客向けだからちょっと高級だ。あと、メインストリートにある緑の屋根の店のケーキは美味いから、ヒマがあったら試してみてくれ」
てきぱきとそれだけ言うと、少年は、さっと踵を返す。
 「って、おい…」
振り返った時には、もう、誰もいない。
 「いなくなっちゃった…消えた?」
 「何だったんだ、あいつ」
そういえば名前も聞いていなかった。それに、もっと聞きたいこともあったのだ。
 (あの時、話しかけてきたのは確かにあいつだった…)
思い出していたのは、ポルテの港町の灯台が、<影憑き>に襲われていた夜のことだ。
 『多分、お前なら出来る』
――そう、彼にだけ話しかけてきた、あの声。確かにあの時、鴉はまだ一緒にいた。そして、声の主は、<影>の急所も視えるはずだと、ロード自身すら知らなかったことを教えてくれた。
 彼は、目尻に指をやった。
 もしかしたらあの少年は、この眼のことを知っているのだろうか?


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