11


 細い月が西の空に沈んでいこうとしている。
 裏庭は暗い夜の中に沈み、しっとりと血に濡れた麻布が、やけに小さく見える。
 どのくらいの時が過ぎただろう。夜半も近くなり、微かな眠気が襲ってくる頃になって、ロードはついにじっとしていることに耐えられなくなって、大きく伸びをすると、椅子から立ち上がった。
 「ちょっと外の空気吸ってきます]
 「あらら。飽きちゃった?」
 「ええ…さすがに集中力がもちません。」
フィオはというと、いつのまにか椅子の背もたれに肘を預けたまま、すうすうと寝息を立てている。シャロットは困ったように微笑んだ。
 「ごめんねぇ。いつもなら、もうとっくに…なんだけど」
 「何も起きないなら、そのほうがいいですよ。」
階下に降りていくと、小さなランプの明かりを前に、男たちが本を読んだり薬草をより分けたりしていた。こんな夜でも律儀に白いローブを着たままだ。横を通り過ぎても、ちらりとロードのほうに一瞥をくれただけで、ほとんど関心を抱かない。彼らの意識は、自分たちの仕事にだけ向けられているようだった。
 ドアを開くと、芝生の香りとともに夜風が通り過ぎていく。それに厩舎のほうから漂ってくる、なんとも言えない獣くささ。牛や馬たちの寝言や身じろぎの気配がする。ひとつ深呼吸して、しばらく星を眺め、そろそろ戻ろうかと振り返りながら、なんとはなしに裏庭のほうを振り返った時、――視界の端を、素早いものが横切った。
 はっとして、ロードは片手を腰にやった。何かは分からないが、目尻のあたりにぴりぴりする微かな予感のようなものがある。実際には見えていないはずなのに、そこにいる何かが視えているような気がしてくる。これは、緊張から来る錯覚だろうか?
 だが、それは錯覚ではなかった。じっと見ていると、裏庭の真ん中で、闇がゆっくりと盛り上がり、何かの形をとってゆく。
 「フィオ! シャロットさん!」
叫んで、彼は駆け出す。小屋の二階で勢いよく窓が開いた。
 「出たの?!」
だが、返事はしなくても分かるだろう。二階からも分かるはずだ。今や赤い染みに染まった麻布は大きく痙攣し、その下で死体がはっきりと足をばたつかせている。走りながら彼は、ナイフを抜いた。布の側に立っていた人影が振り返るのと、布が捲れて<影憑き>となった馬が首をもたげるのとは、ほぼ同時だった。
 赤い唇が微笑む。
 「あなた―― 前にどこかで?」
 「ああ!」
忘れるはずもない。マルセリョートで出くわした…あの…二人組みの片割れ。女のほうだ。前に見た時と顔が変わっているような気がするが、間違いない。人間の姿はしていても、身体の表面からは影が湯気のように立ち上り、輪郭がぼやけている。身体にぴったりと張り付くように見えるのは、服ではなく、それだ。
 女の足元で、漆黒の影を周囲にまとわりつかせながら馬が起き上がった。たった今眠りから目覚めて散歩に出かけるかのように、首をぶるぶると震わせると、ゆっくりと草原に足を踏み出す。女の視線は残る牛のほうに注がれている。牛も起き上がろうともがいてはいたが、やがて、大きく痙攣してそのまま動かなくなった。白目で、口から泡を吹いている。
 「あら、これはだめなのね」
残念そうな口調。
 「何を…言って…」
 「実験よ」
うふふ、と女が笑う。「どこまでなら壊しても大丈夫なのかなって。大きい動物のほうが分かりやすいでしょ?」
 「…っ!」
 「ロード君っ」
ローブを翻しながら、部下を引き連れたシャロットが到着した。馬二頭が生き返っているのを見てぎょっとして足を止めたが、すぐさま指示を出す。
 「<影憑き>二頭、始末!」 
 「はっ」
一人が杖を翳した。それはポルテの港町で見たのと同じ、先端部分に埋め込んだ魔石を光源とする照明道具だ。瞬時に辺りは真昼のような光に照らされ、闇に目が慣れていたロードは、眩しさに思わず手を翳す。馬たちが悲鳴を上げ、逃れようとするが、柵に囲まれた庭の中は何処へも行けない。<影憑き>になったところで、生きていた頃の身体能力は越えられないのだ。
 「あら嫌だ、お肌が焼けちゃう」
手を翳しながら、しかし、女はくすくすと笑う。その身体が、何か薄透明なヴェールのようなものに覆われていることに、ロードは気づいた。日傘のような形状をして、女を光から守っている。
 「それでー? あなた何者かしら〜?」
シャロットにも、仲間の魔法使いたちにもそれは見えていない。人間の形をした女だけが見えている。
 「民間人じゃぁないわよねぇ。どうして、<影憑き>の側にいたの〜?」
輝きを放つ杖を掲げたまま、白ローブたちが、四方から女に詰め寄ろうとしたときだった。
 「ぎゃっ」
 「うわっ」
パン、パンとはじけるような音がして、杖が吹っ飛んだ。影だ。視界の外から伸びてきた影が、杖の先に埋め込まれた魔石を狙ったのだ。ロードは振り返って、小屋の屋根の上を見上げた。そこに男が一人。あの時に見た片割れだ。
 「おっそーい、ハルガート」
 「すまんな。町のほうを見てきたが、やはり奴はいなかった。」
ふわりと宙を飛んで、ハルガートと呼ばれたほうの男は地面の上に、より正確には、たったいま弾き飛ばした魔法使いの一人の頭の側に降り立つ。がっしりとした体躯、低い声は、人間の成人男性のそれだ。けれどロードには、女のほうも、男のほうも、どちらも同じような影の塊にしか見えない。シャロットは物凄い形相で袖口をめくり、腕に嵌めた魔石の腕輪を見せた。しゃらん、と音が鳴る。
 「一般人じゃなさそうねー、手加減は要らないかしら。」
怒気を含んだ口調で言ったかと思うと、彼女の手元から放たれた青白い一閃が二人の不審人物のいた場所を薙ぎ払った。
 「うわっ、ちょ…」
慌てて、ロードはフィオの腕を掴み、近くの干草山の後ろに避難する。
 「魔法使いってのはどうして皆、こう短気なんだよ!」
 「みんなってどーいうことよ! あたしは、こんな…きゃあっ」
頭上すれすれを熱線が通り過ぎていく。振り返ると、空中をひらりひらりと避ける女の姿が見えた。楽しんでいるようだった。
 「あははっ、なぁにこれ? 面白い! 魔法? ねえ、これ魔法よね?」
光が腕を貫き、影の一部が霧散する。だがそれでも、女は気に留めた様子もない。
 「…アガート、遊んでいる場合か」
 「たまにはいいでしょお? 獣ばっかりでつまらないんだもの。たまには人間も壊してみたいわ。ねえ、人間ってどうして、殺しても<影憑き>にならないのかしら?」
 (あいつ…)
ロードは、密かに奥歯を噛みしめた。やはり、あの二人組みが絡んでいたのだ。獣を殺し、それを<影憑き>に変える”実験”。彼らが何者かは、この際どうでもいい。何とかして止めさせなければ、あっという間にそこらじゅうが<影憑き>だらけになってしまう。
 「ぎゃあっ」
悲鳴が聞こえた。見ると、シャロットの相手を連れの女のほうに任せて、男のほうは倒れている魔法使いたちをひねり挙げている。殺すつもりなのか。頬がかっと熱くなるのを感じたのと同時に、気がつくと、ロードはナイフを手に男めがけて飛びかかっていた。
 「止めろ!」
放ったナイフは、もがいている魔法使いを捕らえている影に命中した、――はずだった。だが、刃は突き刺さることなく、そのまま素通りして闇の奥へ消えていく。
 男は、何の興味もなさそうにロードのほうを見た。彼のことなど忘れていた、という表情だった。初めから敵とは思わず、敵にもなり得ない、という認識。それは正しい認識だろうな、と思いながら、彼は腰から二本目のナイフを引き抜く。
 「人間というのは、面白いな。恐怖に引きつった顔をしているくせに、仲間を助けにわざわざ戻ってくる。獣なら、かなわぬ相手からは逃げるというのに」
 「ふん、同じにするなよ。それが獣と人の違いだろ」
投げ放ったナイフを、男は、今度は片腕で跳ね飛ばした。いや、片腕というよりは、触手の一本、とでも言うべきか。締め上げられてもがいていた白ローブの男たちは、もう動かなくなっている。それらを無造作に放り出し、男は、腕をロードのほうに向けた。
 逃げ切れない、と思った。
 「ロード!」
フィオの叫び声がして、目の前で炎が弾ける。男の動きが一瞬、止まった。女のほうと同じく薄いヴェールのようなものに守られてはいるが、至近距離の炎に対しては完全ではないらしく、<影憑き>と同じような反応を見せている。
 ――<影憑き>と同じ?
 はっとして、ロードは目を凝らした。<影憑き>には弱点があった。あの時はたまたま巧くいっただけかもしれないと半信半疑ではあったが、もし、本当に<影憑き>に急所があって、それが自分に視えるのだとしたら。
 「魔法使いがまだいたか」
呟いて、男が視線をフィオのほうに向ける。
 「この!」
フィオが次々と炎を打ち出しているが、男は縦横無尽に体の形を変えて、それらを全て避けている。向こうでは、同じような状況でシャロットが苦戦していた。
 「止まりなさい! このぉー」
威勢よく叫びながら、しかし、その勢いは少しずつ落ちている。魔石から引き出された魔力を制御して打ち出すのは、術者自身だ。それには精神力を消耗する。長時間使い続ければ疲労感で立っていられなくなり、悪くすれば意識を失うこともあるという。
 時間がない。
 ロードは三本目のナイフに触れながら、フィオと戦っている男の黒い背中をしっかりと見つめた。
 思い出せ、あの時の感覚を。
 赤く滲むような光が見えた、あの時を――
 何かが見えたと思った瞬間、彼は、半ば反射的に腕を振るった。
 (刺され!)
それは、半ば祈りにも似た思念だった。腕輪にこめた力が刃を加速させ、影の真ん中に柄まで突き刺さる。
 「…!」
男の動きが止まった。ぎこちない仕草で振り返る。ナイフが刺さったのは、右肩の、人間でいう肩甲骨の端辺りだ。
 やったか、と思ったのは一瞬。
 ナイフが地面に転がり落ち、男は鬼の形相になった。
 「貴様…!」
こちらへ向かってくる。あまりの迫力に、ロードは思わず一歩、後退った。外したのか? いや、確かに見えた。あそこは急所だったはずだ。でなければ、こんなに焦るはずはない。だが――
 その時、周囲がさっきにも増した輝きに照らされた。
 「シャロット主任! ご無事ですかっ」
どこからともなく声が響いて来る。振り返ったロードは、後ろからも光が放たれていることに気がついた。杖を翳した白ローブの集団が辺りを二重に取り囲んでいる。いつの間に来たのだろう。
 「ちっ」
舌打ちして、女が宙に飛び上がる。男も続く。
 「あっこら、待て! 待ちなさーい! 待…」
腕を振り回しながら追いかけようとしたシャロットが、へなへなとその場に膝をつく。駆けつけた白ローブたちが、助け起こしにかかる。
 「遅いわよ、あんたたち…」 
 「すいません、でもこれでも町から全力で飛ばしてきたんですよ。動ける連中はぜんぶ連れて」
それでロードは、彼らがどうしてここに来たのかを知った。交戦の直後に、誰かが馬を飛ばして町まで救援を求めに行ったのだ。
 落ち着いて見回してみると、辺りは酷い状態だった。無残に内臓をかき乱された牛の死骸が泡を吹いたまま横たわり、二頭の馬は<影憑き>として処分されたあと、奇妙にねじれた格好で倒れている。倒れていた魔法使いたちが、仲間によって応急処置を受けている。そのうちの何人かは重傷のようだ。
 振り返るとフィオが、首から提げた魔石を硬く握り締めて立ち尽くしていた。ほっとして、ロードは彼女に近づいた。
 「フィオ、お前は大丈夫か」
 「うん、…ロードは?」
 「なんともない」
彼は、さっき男が立っていた辺りに落ちていたナイフに手を翳した。腕輪に嵌めこまれた石が微かに輝き、ナイフは弧を描いて手の中に戻ってくる。あの時、刃は、確かにハルガートに刺さった。――素通りするのではなく。
 「やっぱり、勝てないね」
ぽつりとフィオが言った。
 「ああ。――今は」
 「今は?」
 「方法を見つけよう。こんなこと、何度も繰り返させるわけにはいかない」
当てがあるわけではなかった。だが、糸口は掴んだ気がした。<影憑き>を生み出すもの、――あれらは多分、<影>そのものなのだ。
 <影>が何処からやって来るのか。
 <影>とは一体何なのか。
 それを突き止めることが出来れば、きっと。



 翌日、ロードは早々にジャスティンの町を後にしていた。寝込んでいるというシャロットには何も告げず、発つという言伝だけを頼み、停車場から北ゆきの相乗り馬車に乗った。国境を越えてゆく馬車には他に乗客もおらず、車内はのんびりしたものだ。
 「ね、これからどうするの?」
馬車に揺られながら、フィオが尋ねる。
 「ノルデン王国へ行ってみようと思うんだ。」
 「ノルデン? それって、あの人が言ってた北にあるっていう?」
 「そう。そこなら"三賢者"の伝説をもっと詳しく知っている人がいるかもしれないし、それに…ノルデンには山がたくさんあるからさ。"風の賢者"がいるっていう北の山は、そのどれかかもしれない」
 「あー、そうなんだ! 見つかるといいね」
もしまだ無事なら、だが。
 心の中で呟いて、ロードは、窓の外に目をやった。三人のうち二人が姿を消したことが分かっている今、残る一人が無事だという保障はない。けれど、今は賭けるしかないのだ。
 次の停車場へと向かう馬車の屋根の上では、黒い羽毛の塊が、静かに周囲を伺っていた。


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