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 翌朝、ロードはフィオを連れて荷車で村を出た。行き先は海辺の町ポルテ。荷車は農家で借りてきた。徒歩で行くよりは早く着けるはずだ。
 ポルテは、街道から外れているわりに賑やかな町だった。岸沿いに町を巡る定期船の発着する桟橋を中心として宿屋や飲食店が立ち並び、人通りも多い。港では付近の入り江で操業する漁船が行き交い、大きな貨物船も停泊している。海に向かって突き出す桟橋の先には、岩の上に立てられた小さな灯台があった。
 ロードが向かった先は、港のはずれの高台にある古びた酒場だった。入り口にとめた荷車にフィオを待たせて、彼は一人で中に入っていく。
 入り口を開くと、ドアに付けられたベルがからんからんと大きな音を立てた。ホールに響き渡った音で、カウンターにいた男たちがいっせいに顔を上げ、新たに入ってきた客が何者なのか見定めようとする。その中の、ビールジョッキを煽っていた強面の老人と目が合った。
 「誰かと思ったら、ロードじゃないか。また随分と久し振りだな」
もじゃもじゃの髭の下、日焼けした頬には、大きな傷が一直線にアゴまで走っている。捲り上げたシャツの袖口からは、筋肉の盛り上がる逞しい二の腕が見えていた。いかにも"海の男"といった雰囲気だ。かつて、母の乗っていた船の船長を勤めていた男――この港町では知らない者はいないベテラン船乗りだ。
 「こんにちは、アゴスティニさん。ちょっと聞きたいことがあって来たんです。」
隣に身体を滑り込ませながら、ロードはカウンターの奥に向かってジョッキを二つ注文した。一つは老人に渡すためだ。
 「マルセリョートって場所を知りませんか?」
 「マルセリョート? はて… それは港の名前かい、町かい」
 「港ではないと思います。地図は見ました、一応。もしこの辺りの海のことなら、アゴスティニさんが知らないはずはない」
 「…ふぅむ」
ジョッキが差し出され、ロードは両手で一つずつ、それを受け取った。老人は顎の髭をしごきながら考え込んでいる。ロードは、やはりこの辺りのことではないのかと諦めかかっていた。
 「海のどの辺りかも、はっきりしないんです。もし知らなければ…」
 「いや。なんとなく、記憶にはあるんだ。」
 「本当ですか?!」
 「確かに聞いた、だが、随分前の話だ。あれは…どこだったかなぁ…」
呟きながら、アゴスティニはそれとなくロードの手元のジョッキに手を伸ばし、二杯目をグビリとやる。赤ら顔を天井に向けて、うーんと唸った。
 「あれは、ほれ…。お前さんの母親と船に乗ってた時の話… ああ、そうだ! 船が難破したときだ」
 「難破?」
 「そう、そう、そう。思い出してきたぞ」
老人の眼が輝いた。ジョッキを一気に空にすると、口元の泡を拭って勢いよく話し出す。
 「二十年ほど前だ! マーシアが船乗りをやめると言い出す前の航海だよ。マルセリョートってのは入り江の名前さ。ここの沖合いにあるんだ、確か…」
横から、さっきまで一緒に飲んでいた若い船乗りたちが口を出す。
 「そんな話、船長、今ままで一度もしてくれたことなかったですよ。」
 「そうそう。船長が難破したことあるなんて」
 「ふん、バカにするんじゃぁない! あそこは岩礁の多い浅瀬で、船の難所と言われておるんだ。おまけに、あの時は季節はずれの嵐に出くわした」
老人は、大げさな身振り手振りを交えて怒鳴るように話し続ける。「船が岩にひっかかって、なんとか沈まずに済んだんだが…その後が驚きよ。岩礁地帯に島があるのは知っておったが、まさか人が住んどるとは」
 「人? 何ですか、それ。ここの沖合いに村なんてないでしょう」
 「村なんてもんじゃなかった。岩礁の間にヤシの橋げたをかけて、その上に家を作って住んどったんだよ。無愛想で、変わった連中だった。巨大な鯨を自分たちの"長"だとか言っとってな…。余所者に警戒心が強くてな、船を直すのは手伝ってくれたが、早く出て行けといわんばかりだった。そう、あの時の雇い主は、こっちの話をちっとも聞かん奴だったな。嵐が来るから一日置いて行く方が安全だと言ったのに、急ぎだから今すぐ出ろと何度も……」
話が逸れて行こうとしている。ロードは、慌てて割って入った。
 「その場所、どうやって行けばいいんですか」
 「ん?」
 「マルセリョートですよ」
 「そりゃあ…うん、行けなくはないが、あんなところへ行ってどうするんだ」
老人は、飲みすぎたのか目がトロンとしかかっている。
 「興味があるんです。そこに」
 「港からは真っ直ぐ南のほうだがな。岩礁の奥だから…うん、近くまで船を乗りつけたら、あとはボートで行くしか…。」
 「ありがとうございます」
それだけ聞ければ十分だった。急いで出て行こうとするロードの後ろから、老人の声が追いかけてくる。
 「おぅい、ロード。あの連中、今でも住んどるかは知らんよ。行っても楽しいものは何もない…」
外に出ると、待ちくたびれたのか、フィオは荷車の上にはいなかった。周囲を見回してみると、酒場の前の崖に立って、町の向こうに広がる海のほうを食い入るように見つめる後姿があった。
 「何を見てるんだ」
ロードが近づいていくと、少女は髪をかきあげながら振り返る。
 「あれが船なんでしょ?」
指差しているのは、港を出入りしている漁船だ。
 「ああ、船見るのも初めてか。そうだな、あれは魚を獲りに行く船」
 「大きいのも小さいのもあるのね」
 「大きいやつは荷物を沢山運べる、貨物船だな。あっちの桟橋にいるのが定期船で、中に泊まれる。…で、マルセリョートの場所、分かったぞ」
 「ほんと?!」
 「ああ。ただ、少し厄介な場所みたいだ」
荷車に戻ると、ロードは、次に行くべき場所のことを考えていた。沖合いに出るには船が必要だ。だが、通常の航路ではない場所に船を出してくれるような船乗りは、そうはいない。
 穏やかな海風の中、頭上で海鳥が舞っている。次に馬を止めたのは、小さな漁船が集まる港の前だ。嗅ぐ潮と魚の匂いが入り交じり、漁港独特の匂いを作っている。廃棄されるおこぼれの小魚を貰おうと、海鳥たちがギャアギャアと喧しい声を上げながら辺りを飛び交っているのも、ロードには見慣れた光景だ。
 「どうするの?」
 「沖合いまで船を出してくれそうな奴に会いに行くんだ」
港に出入りしているのは日に焼けた屈強な海の男たちばかり。中には、ロードのことを見知っている船乗りもいて、気さくに声をかけてくる。大きな樽を軽々と担いで通り過ぎる屈強な大男に、フィオは、思わず目を見張って足を止めた。
 「フィオ、こっちだ」
 「あ、う、うん…」
少女は、鞄の肩掛けを握り締めながら緊張した面持ちで小走りについていく。彼女にとっては何もかもが初めてなのだ。倉庫の立ち並ぶ界隈を抜け、やがてたどり着いたのは、木造のオンボロ船ばかりが並ぶ一画だった。港の活気は薄れ、その辺りだけが妙に寂しい。
 「ここの船…って、使われてるの?」
 「一応な。ボロくてもそれなりだ。お、いたぞ」
釣竿を肩にかけて、ちょうど桟橋をこちらへ向かって来ようとしている男を見つけて、ロードが片手を上げた。男のほうも、ロードに気づいた様子だ。
 「よぉ、珍しいな、お前のほうからここに来るなんて」
それは、ロードと同じ年頃に見える赤毛の青年だった。他の港の男たちと同じように日賭けして、筋骨逞しい体つきをしている。手には、釣ったばかりらしい魚の入ったびくを提げていた。
 「紹介する。こいつはニコロ、昔からの知り合いというか…まあ、幼馴染みたいな感じかな」
ニコロは、ちらりとロードの後ろに隠れているフィオに視線をやった。
 「その子誰だ? 村の子にしちゃ見かけない子だな」
 「フィオっていうんだ。村に帰る途中で知り合った。お前、船持ってたよな」
 「ああ、ジィさんのお下がりな。――どうした? 釣りでもすんのか」
 「いや。沖合いの岩礁まで出してくれないかと思って」
 「はぁー?」
青年は素っ頓狂な声を上げた。「冗談だろ? 何であんな、何もないとこに」
 「そこの奥にある、マルセリョートって入り江に用があるんだ。人を探してる。頼まれてくれないか」
 「おねがいします。」
フィオがぺこりと頭を下げる。
 「…うーん」
ニコロは頬をかいて唸っている。
 「お前の腕なら何とかなるだろ」
 「そりゃ、何とかなりはするさ。けど、今の季節、運が悪けりゃ海は荒れるし、岩礁まで行き帰りするには何日かかかる。あの船で耐えられるかどうかだなぁ」
二人の顔を見ながらしばらく考えたのち、彼はちょっと眉を跳ね上げた。「分かったよ。何か大事な用事みたいだし、何とかする。ただ、船の補強と準備が必要だ。」
 「…それは、どのくらいかかる?」
ロードの真剣な眼差しに見つめられ、彼は再び唸り声を上げた。
 「五日…めちゃくちゃ頑張って、五日だな。それ以上短くすんのは無理だ」
 「五日か」
フィオのほうを見ると、少女は小さく頷いている。
 「…分かった。また五日後に戻ってくる。頼んだぞ」
 「ああ。ま、ヒマしてるし別にいいけどよー…」
呆れたような様子だったが、ニコロはそれ以上、何も聞いてこなかった。ロードたちと別れた後は、釣り棹を肩に預けたまま、ぷらぷらとどこかへ歩いていってしまう。フィオが横からそっと尋ねた。
 「ね、あの人って、ちゃんとした船乗りなの」
 「ん? 勿論。あいつんとこは、代々船乗りをやってる家系で、爺さんのアゴスティニって人は、むかし母さんの乗ってた船で船長をやってた。あいつも腕はいいんだぜ。…怠け者だけど。」
 「あの人の船って?」
 「あれだ。」
そう言ってロードが指差したのは、港の端に止められた、使い込まれた小型の帆船だった。しばらく使っていないのか、帆は降ろされたまま、水際にはフジツボがびっしりと張り付いている。
 「…あたし、泳げないんだけど」
 「沈みはしないさ。最悪、このへんの海なら通りかかる船も多いから、漂流してれば誰か助けてくれるし」
 「……。」
無言になってしまったフィオを見て、ロードは小さく笑った。 
 「ま、心配してもしょうがない。いったん村に戻って、こっちも準備しよう。」



 村に戻ったのは、夕方も近くなってからのことだった。荷車の音を聞いて、広場にいた犬が尻尾を振りながら追いかけてくる。
 「おや、ロード。」
荷車借りた農家の前にやって来たとき、ちょうど外に出てきた農家のおかみさんが声をかけて来た。
 「ちょうど良かった。村長さんがあんたを探してたよ。」
 「村長が?」
言いながら、御者台から飛び降りる。
 「いつですか?」
 「昼前だよ。あんたに用があるのに出かけちゃってたって、戻ってきたら教えてくれって言って帰ってったわ。今ならうちにいると思うから行っといで」
 「分かりました。…何の用だろうな」
礼を言って荷車を返すと、彼は、その足で村長の家に向かった。村長の家は村はずれの水車小屋の隣だ。ドアノックすると、中からぱたぱたと元気な足音が聞こえた。
 「はーい。あら、ロードさんだ。」
顔を出したのは、髪を頭の上で結った若い娘。村長の孫だ。背中に赤ん坊をしょっている。
 「村長さんが探してたって聞いてきたんですが」
 「ああ、その件ね。おじいちゃんを呼んでくるわ。どうぞ、中に入ってて」
背中の赤ん坊をあやしながら、娘は家の奥へ入っていく。ロードは玄関に立って部屋の中を見回した。ところ狭しと壁に貼り付けられた写真の洪水。ずっと昔の村の風景や、歴代の家族。それに、どこで貰ったのかよく分からない賞状や勲章、古びた新聞の切り抜き――。
 コツ、コツと杖が床を叩く音、それに足をひきずる音が近づいて来て、ロードは視線を廊下に戻した。姿を現したのは、背の曲がった小柄な老人だ。口元には、薄くなった白い髭が申し訳程度にちょろりと垂れている。
 「おお、ロード。すまんな、わざわざ来てもらって。」
 「いえ。何の御用でしょうか」
 「ちょいとお前さんに、頼みごとをしたくてのう。近頃、村の近くで<影憑き>を見たという者が多いんじゃ。何度か罠を仕掛けて、狩りもしたんだがどうにもならん。そこで、お前さんならと思ってな」
ロードの表情が硬くなった。
 「まさか。見間違いじゃないんですか? このへんじゃ、今まで一度だって<影憑き>が出たことはなかったでしょう」
 「それが、ここ最近になって突然出るようになったらしいんじゃよ」
と、村長。
 「最初に見たという話を聞いたのは、ちょうどお前が旅に出た頃で。まさかと思ったんじゃが…かくいうわしも見た。夜、この家の窓からな。」
 「それって村の近くまで来たってことですか。あり得ない」
 「嘘じゃないぞ。あれは普通の獣じゃなかった。腹に矢をさしたまま動き回る狼なんぞ、<影憑き>以外にはおらんだろう」
 「それは…そうですね」
<影>は、すでに死んでいるか、死に掛けた生き物に取り憑く。もし村長の言うことが本当なら、この近くにも、隣町と同じように危険な<大影>憑きが潜んでいることになる。
 「それにな、数日前に、谷の奥で何かが光ったのを見たという者が何人もおるんじゃ。真夜中に、天気もいいのに雷のような音が聞こえて。念のため村の者にはしばらく谷に入るなと言っておるが、漬け込みに使うハーブの収穫時期だし…」
 「…分かりました。すぐに調査してみます。ただ、手に負えなかった時は」
 「勿論だ。無茶はせんでくれ。必要があれば、隣町の猟師に応援を頼もう」
村長の家を辞したあと、ロードは、家へ向かって歩きながら考え込んでいた。隣に居るフィオが彼を見上げる。
 「行くの?」
 「勿論。<影憑き>が出たなら、放っては置けない。最近の<影憑き>の多さは、明らかに異常だ。一体、何が起きてるんだろうな」
少女は首をかしげている。
 「これってやっぱり、多いの? 野宿してたときに見かけたりしてたけど…。あたし、森からあまり出たことがなくて――てっきり、森の外はこういうものなのかと」
 「そんなわけないだろ。元々、<影憑き>なんて特定の場所を除けば滅多に見かけないようなモノだったんだ。」
言いながら、彼は無意識に腰のナイフに手を滑らせた。考えを反映するかのように、腕に嵌めた腕輪の石と、ナイフの柄にはめ込まれた石が同期をとるように輝く。フィオは、ふと、そこに視線を留めた。
 「ねえ、そのナイフに嵌めてある魔石って、腕輪に嵌めてる石と共鳴させてるのよね。」
 「ん?」
 「珍しい使い方だなーと思って。村長さんに頼られるなんて、あんた強いんだ?」
 「強くは…無いな」
彼は苦笑する。「ただ、おれが一番マシってだけ。ここの村の人たちは皆、戦ったことなんてないんだ。このナイフも、使い方も、母さんに教わった。こういう仕事は、昔、母さんもやってたんだ。」
そう、だからこれは、いなくなった母の代わりに勤めている役目だ。誰かに頼りにされ、誰かの役に立つこと。あの夜、何も出来なかった穴埋めは、どんなに精一杯頑張っても、なかなか埋められないけれど…。
 「おれには、このくらいしか出来ないから。」
丘を登っていく足元に、長い影が伸びている。日はもう西へ傾き、夜が訪れようとしていた。



 日の暮れた後、ロードは、二階のベランダから村を眺めていた。海から吹く風は、たとえ海の姿が見えなくても微かな香りを運んでくる。オリーブの丘は闇に沈み、黒々としたその塊の向こう側には、港町の灯台の灯が見えている。今夜は星が見えない。薄い雲が空を覆っているせいだ。振り返ると、ランプの光に照らされた部屋の中が、やけに整然として見えた。
 家で夜を過ごすのは久し振りだった。ベランダの手すりに背をもたせかけ、部屋を眺めながら、ロードは前回ここへ戻ってきたのがいつだったのかを思い出そうとしていた。そして、ふと部屋の片隅にある書き物机のほうへ歩き出した。
 気になっていたのは、今日、アゴスティニに聞いたマルセリョートの話。船乗りだった時代の話は幼い頃によく聞いたし、言ったことのある町や島のことも詳しく教えてくれたのに、その話は一度もしてくれなかったからだ。
 『船が難破したときだ』
とアゴスティニは言っていた。だからなのだろうか。船乗りにとって不名誉なことだから、或いは、それが嫌な思い出だったからか。
 部屋に残されているものは、それほど多くは無い。母はあまりモノを溜めこまないたちだったし、船乗りだった頃の思い出の品も、海図や、使い込んだコンパスやナイフくらいしか残さなかった。机の引き出しにも、壁には貼っていない写真や、メモ書きの手帳などが幾つか入っているくらいだ。まさかそこに船の難破した時の何かが残されているとは思ってはいない。――ただ、理由は分からないが、何かが引っ掛かる。
 『二十年ほど前だ! マーシアが船乗りをやめると言い出す前の航海だよ。』
 (二十年前…)
ロードは手を止めて、目の前の窓に目をやった。ガラスの表面に、自分の顔が映り、薄青の眸がこちらを見つめ返してくる。
 自分の年齢。母が船乗りを辞めた理由。
 (おれが生まれる直前の話…?)
その時、彼は、自分が引っ掛かっていたものの正体を悟った。


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