3


 空は薄曇りで、低い雲が空を流れている。黙って歩き続けるロードの後ろを、フィオは、一定の距離を保ったままついてくる。行き先がこっちだというので、一緒に町を出てきたのだ。
 背後からは鼻歌が聞こえてくる。聞いたことのない、どこか遠い異国の歌のようだ。道端の草花や風景を眺めながらマイペースについてくる少女の気配を確かめながら、ロードは、今朝の宿での会話を思い出していた。
 「…海へ出たかった、だって?」
アルは、呆れたような声を出した。あの後、町の男たちと一緒に夜を徹して森の中を探索して、明け方に帰ってきたばかりだった。
 「海といやあ、まったく逆方向だぞ」
 「え、だって地図にはこっちだって…」
少女はカバンから、折りたたまれた地図を取り出す。くしゃくしゃになったそれは、大陸のほぼ全域を表しているような縮尺の大きなもので、主要街道しか書いていない上に、彼女は、北を下に向けて広げていた。ロードも額に手を当てた。
 「それ、地図が逆。見てる方向が逆さだ…」
 「あっれー?」
演技をしているとも思えない。すばらしく天然なのだ。或いは世間知らず、というべきか…。
 「よくここまで無事で来られたなァ。このままじゃ危なっかしいし、ロード、お前ちょっとそこまで送ってやってくれんか」
 「仕方ないですね」
そんなわけで、行きたい場所に近くまでは、ロードが送ることになったのだ。フィオは場所の名前までは言わなかった。ただ、そこは母親の"知人"がいる場所だという。
 そして今、二人は、ロードの家のある村を目指して歩いているところだった。ロードはもともと家に戻るつもりだったし、海辺の町へ向かうにしても、一度村の辺りを通過していくことになるからだ。
 「ねえ、海って、まだ見えないの?」
フィオが追いついてきて真横に並ぶ。
 「もうすぐだ。村からは見えるよ。港町はすぐそこ」
 「ふーん」
見上げた空に、甲高い声を上げながら弧を描いて飛んでゆく、翼の長い白い鳥がいる。
 「あれって海鳥なんでしょ?」
 「そうだな。シルヴェスタのあたりは海から遠いし…海は初めてか」
 「うん! っていうか、あたし森から出たの初めてなの。森の外がこんなに広いなんて思わなかった」
そんなことを言って、少女は笑っている。
 「…よく親が、一人でこんな遠いところまで行くのを許可してくれたな。」
 「んー、許可は…貰ってない」
ロードは、ぎょっとして足を止めた。
 「まさか、家出なのか?」
 「そんなんじゃないよ。これは、どうしてもやんなきゃいけないことなの。」
 「……。」
フィオは歩調を速め、少し先まで言って声を上げた。
 「あっ水車だ! ねえ、あれがそうなの?」
肩から提げた大きな鞄をゆすりながら、駆け出す。尋ねる機会を失って、ロードは、慌てて彼女の後を追いかけた。
 道の先には、見慣れた故郷の丘と、そのふもとを取り巻くように並ぶ家々が見えていた。



 村の入り口を流れる小川にかかる橋を渡り、水車小屋の側を通り抜けると、村の中心にある広場に出る。のどかな昼下がり、行き交う人もまばらで、一匹の犬が酒場の入り口でのんびりと昼寝している。誰が飼っているわけでも無いが、むかしから村に居ついている野良犬だ。広場に面した丘の斜面には、緑の木立がきれいに列を成して植えられており、その間を細い小道が綴れ折りになって丘の上の方まで続いているのが見えた。
 「あの畑ってなに?」
 「オリーブだよ。うちの村の特産品、このへんじゃわりと有名なんだ」
言いながら、ロードは広場から続く小道を曲がっていく。余所見をしていたフィオは、置いていかれないようにと慌てて追いかけてくる。
 向かった先は、村はずれの塩漬けオリーブの工場だった。柱も入り口も油でべったりと黒ずんて、かすかに酸っぱいようなオリーブ油の匂いが漂ってくる。工場に入っていくと、塩漬けにしたオリーブの樽の前で何やら話し込んでいた灰色の髭の男がこちらを振り返った。
 「よぉ、ロードじゃないか! 今戻ったのか」
笑いながら近づいてきて、ロードの肩を叩く。
 「どうだった、今回は」
 「いつもどおりです。頼まれてたもの、探してきましたよ」
言いながら、彼は荷物の中から、大事に布にくるんであった木箱を取り出した。側のテーブルの上で開くと、中から出てきたものが、きらりと光を反射する。
 「ほおおぅ…」
男は目を輝かせて顎髭をしごいた。
 それは、上等なクリスタル製の酒瓶だった。優雅な持ち手に、上品なカットを施した小さな注ぎ口。傷ひとつない無色透明で、真っ赤な酒を入れたらさぞかし美しいだろうと思われた。
 「これでいいですか?」
 「ああ、十分だ。十分すぎるよ。素晴らしい。…だが、値は張らなかったかね?」
 「まあ色々あって、だいぶ値切れました。」
 「そうか! いや、すまんなあ…うむ…」
涎をたらさんばかりに酒器を見つめている男をその場に残し、残りの荷物を担ぎあげてロードはその場を後にする。入り口のあたりで様子を見守っていたフィオが近づいて来た。
 「代金もらわなくていいの?」
 「ああ、売ったわけじゃないからな。留守の間、家の管理してもらってるお礼みたいなもんさ。」
 「ふーん…。」
工場を回っていくと、さっきの男の住居らしいこぢんまりとした家が裏手に現れた。家の前ではおかみさんが洗濯物を干している。
 「こんにちは」
 「あらま、ロード! おかえりなさい。家の鍵ね?」
 「ええ。留守中、何かありましたか」
 「特にないわ。郵便が幾つか…ちょっと待っててね」
洗濯物の籠をその場に残し、おかみさんはスカートの裾をたくし上げてばたばたと家の中に駆け込んでいく。ややあって、戻ってきたとき、その手には家の鍵と手紙の束があった。
 「はいこれ。今度はどのくらい村にいるの?」
 「さあ…。とりあえず今は、彼女を案内しないといけないので」
そう言って、ちらりとフィオのほうを見る。
 「お友達? 可愛いお連れ様ね。ようこそ、フィブレ村へ。なんにもないとこだけど、楽しんでいって頂戴ね」
おかみさんは朗らかに笑って、また洗濯物を干す仕事のほうに戻っていった。ロードは次の場所へ向かって歩き出している。
 彼は次々と村人たちのもとを訪ね回って行った。大きな農家では、代理販売を頼まれていた野菜の販売金を渡し、パン屋に遠くの町の親戚からの言伝てを届け、小学校の教師を訪ねて遠くの図書館で調べ写したノートを手渡した。そうして、村を一周して村人たちへの用事を終えた頃、ずっしりと重たそうだった大きな荷物は、半ば空になっていた。
 最後にロードは、丘の斜面に続く綴れ折りの小道を登り始めた。村の家々のほとんどは丘をとりまくようにして広がっていて、畑のあたりには誰もいない。春の初め、オリーブの花はまだ蕾だ。
 「ねえ、あんたって、要するに村の便利屋みたいなもんなの? 変わった商売してるのね」
 「仕事じゃないよ。村の人たちからは、代金は貰ってない」
 「そうなの? なんで?」
 「別に儲けたくてやってるわけじゃないからな。ついでなんだ。多少は商売もするけど――」
行く手に、畑が途切れて広場のようになっている場所がある。足を止め、ロードは登ってきた道を振り返った。
 「ほら。ここからなら海が見える」
 「あ」
振り返ったフィオが、彼の指差した方角を見て小さく声を上げる。
 「あれが海なんだ!」
きらめく青い水平線は、意外なほど近かった。ほんの、すぐそこだ。村の脇を流れる小川の流れ落ちる先、村から繋がる道を少し下った先に、海と、海辺の町とが見えている。
 「ここから二時間くらいかな。ポルテっていう町で、定期船が出てるんだ。」
そう言って、ロードは先へと歩き出す。
 「海見るなら、うちの二階のほうがよく見える。こっちだ」
 「え、この上に住んでるの?」
 「ああ」
行く手に、クリーム色の壁が見えてきた。オリーブの丘の一番上、木立に囲まれた小さな一軒屋。留守の間、工場のおかみさんが管理していてくれたお陰で家の周りはきちんとしていて、荒れた様子もない。
 鍵を差込み、ドアを押し開くと、微かに埃っぽい匂いのする空気が流れ出してきた。ロードにとっては三ヶ月ぶりの家だ。窓を開けると、海のほうから流れてくる風で窓辺に吊るされた虹色の貝殻のレイが揺れて、カラカラと音を立てる。
 「なんだか、ずいぶん可愛い家ね」
 「母さんの趣味なんだよ。ずっとそのままなんだ」
 「ずっと?」
少女は、ちらりと傍らのサイドテーブルの上に置かれた写真たてに目をやった。そこには、ロードに良く似た顔立ちの、肩までで切りそろえた癖っ毛の女性が、溌剌とした笑顔をこちらに向けている。
 「居なくなったんだよ、十何年か前に。正確には、…"攫われた"んだけど」
ロードは、腰のベルトに提げたナイフに手をやった。
 「――あの時はまだ子供で、何も出来なかった。」
 「ごめん、なんか…」
 「気にするな。逆に変な気を使われるほうが面倒だ」
さばさばとした口調で言うと、彼は、荷物を床に下ろして窓枠に腰を下ろした。
 「で? そっちの用事だが、海沿いの町に向かうって言ってたよな。ここの最寄だとポルテの町だが、あそこでいいのか? ここより先には、他にあまり大きな町は無いはずだ」
 「あ…うん」
少女は、なぜかもじもじとした様子だ。
 「どうしたんだ。」
 「ほんとはね、人を探してるの。町の名前とかじゃなくて…」
 「人?」
 「"海の賢者"を…」
 「賢者だって?」
ロードは眉を寄せた。「賢者ってあの、言い伝えにある"三賢者"のことか」
 「知ってるの?!」
 「そりゃ誰だって知ってるさ。子供の頃には必ず聞く話しじゃないか」
そう、それは幼い頃に枕元で聞かされる、お決まりの寝物語の一つだった。『むかし、むかし。ずっとむかし―― 世界にはまだ、闇しかなかった頃に』と語り始められる、誰も知らない、見たことも無い、お伽噺だ。
 三賢者とは、その物語の中に出てくる、この世界を創造した"創世の呪文"を預かり持つという大魔法使いたちのことだ。月を象徴とする"森の賢者"。星を象徴とする"海の賢者"。そして、太陽を象徴とする"風の賢者"。彼らは呪文の力を借りて、闇から世界を守り続けている――
 「けど、あれは物語だ。大昔の話だし、今も本当に賢者がいるなんて話、聞いたこと無いぞ。」
 「いるわよ」
むっとした様子で、フィオは言い返す。「お母様は、"森の賢者"だったもの。」
 「…は?」
 「お母様が言ってたのよ。"海の賢者"は東の海にいる、って。だから探しに来たの。お母様が… その、…いなくなっちゃったから…」
 「……。」
ロードはぽかんとしたまま、言い返す言葉も見つからなかった。
 どのくらい沈黙が続いただろう。フィオは、小さく溜息をついた。
 「やっぱりあんたも信じてくれないんだ。いいわ、信じないならあたし一人で探すから」
 「おいちょっと待てって。」
慌てて、立ち去りかける少女の腕をとる。「手がかりもなしに闇雲に動き回ってどうする」
 「だって、他に方法がないんだから仕方ないでしょ?!」
振り返った少女の目尻には、涙が浮かんでいる。冗談や遊びでは無い。真剣なのだ。
 「分かったから、落ち着いてくれ。まずそこに座って。そうだな…えっと、まず、何があったか話してくれないか?」
フィオは、涙を拭って大人しく椅子に腰を下ろす。ロードも、向かいの椅子に腰を下ろした。
 「…半年前、森が無くなったの、突然。全部じゃないけど…木も草も何もかも一瞬で無くなってしまって。その日からお母様がいなくなって、どうしていいのか分からなくて、それで森を出たの。森には<影憑き>が出るようになってて、もう戻れないし…」
 「森には、母親以外に誰もいなかったのか? 他の家族とか、仲間とか。」
フィオは大きく首を振る。
 「今は二人だけよ。昔は他にも仲間がいたんだけど、みんな森を出て行っちゃった。」
 「……。」
何かを隠している雰囲気はない。フィオの表情は、真剣そのものだ。ロードは、腕組みをして考え込んだ。
 西の森で何かあったという噂は、旅の途中では聞かなかった。だが、シルヴェスタは西の奥地だ。何かあったと噂が流れてくるにしても、もう少し時間がかかるのかもしれない。
 「お母様が"森の賢者"だっていうのは、本人から聞いた話か?」
 「うん」
 「だとしたら、言い伝えのとおり"創世の呪文"を持ってるはず…だよな。そういうものは見たことあるか?」
 「たぶん。森の奥に、お母様しか入れない谷があって…。一度だけ、そこに連れて行ってもらったことがあるの。でも、小さい頃だったし、よく覚えて無い。何? まだ疑ってる?」 
 「ああいや、そうじゃなくて。もし本当に、お伽噺にあるように"賢者"が呪文の力で世界を闇から守ってる存在だとしたら――その賢者が居なくなったら呪文はどうなるのかと思ったんだ」
 「……。」
フィオは、目をしばたかせた。「そういえば、そうね。どうしよう、もしかして今、世界が大変?」
 「いや、そこまでかどうかは分からないが…」
言いながら、ロードは、旅の道中に聞いた<影憑き>の話や、昨日の異常な<影憑き>の行動を思い出していた。まさかとは思うが、もしかしたら何か関係しているのか。"賢者"が実在していたという話も、にわかには信じがたいが、少なくとも、この世間知らずな少女を一人で行かせないほうがよさそうだ。
 「話は分かったよ。手伝えることがあればいいんだが… "海の賢者"の具体的な棲家の情報は、何かあるのか」
 「マルセリョート …っていう場所の近くって聞いたことがある」
 「マルセリョート、か」
ロードが視線を上げたので、フィオは、目の前の壁に貼られた地図に気が付いたようだった。彼が眺めているその地図は、陸の部分がほとんどない、真っ直ぐな線がたくさん描かれた古い図だ。
 「変わった地図ね」
 「海図だ。航路を決めるときに使う。母さん昔は船乗りで、用心棒もやっていたらしい。」
よく見ると、海図の側には古ぼけた地図や大昔の賞金首のチラシが貼り付けられ、錆びかけたナイフが壁の的に突き刺さったままになっている。母のマーシアがいなくなったその時のまま、ずっとレイアウトは変えていない。
 「母さんは、船乗りならここらの海は庭みたいなもんだったって言ってたよ。もしその場所が近くにあるなら、町で聞けば、きっと誰かは知ってるはずだ。」
 「ほんと?!」
 「明日、行ってみるか」
 「うん!」
笑顔になる少女をよそに、ロードは、かすかな不安を感じていた。自分自身、海に近いこの村で生まれ育ったというのに、"海の賢者"の話など一度も聞いたことがなければ、マルセリョートという地名にも覚えがなかったからだ。もし"賢者"が本当にいるとして、そこが簡単に行けるような場所だったら、一度くらい聞いたことがあるはずだと思った。
 フィオを空き部屋に案内したあと、ロードは、二階に向かった。トントンと木製の階段が心地よい音を立て、上がったすぐ先の廊下の突き当たりにはベランダがある。扉を押し開くと、海風とともにオリーブの香りがした。丘はそう高くはないのだが、ほんの僅かな高低差でも、見える景色は全く違う。畑越しに見える広場は、やけに小さく見えた。そして、村の家々のずっと先に広がる彼方の丸い水平線は、思わず見入ってしまうような青い色に輝いていた。

 ――かつて母は、よく、ここに腰掛けて海を眺めていた。

 母は自分を産んだ後に船乗りを辞めた。何があったのかは聞いていない。父親について尋ねたとき、一度だけ、困ったように微笑んで「あんたのお父さんは海の人だった」とだけ言った。その口調は、もう逢えないというような悲しげな響きを帯びていて、子供心に、それ以上聞いてはいけないと思った。それきりだ。
 今更会いたいとも思わない。ただ、海を眺めるとき、ロードは今でもその時のことを思い出す。どこか悲しげに、ずっと海に眼差しを向けていた横顔。あの眼差しの先に、逢った事のない父は、今もどこかの海で生きているのだろうか、と。


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