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 ざ、ざ、ざ、と音が響く。

 昼間でも薄暗い森の中、湿った落ち葉を踏みつけて走る狩人たちの底厚靴の足音が、弾む息とともに木々の間をこだまする。時折り木立ちの疎らな森の隙間から降り注ぐ白い昼の光は、暗がりに慣れた眼には刺すように痛い。ロードは、手を翳して木立の向こうのまばゆい青空に目を細めた。外はあんなに明るいのに、森の中は、日暮れの後のように薄暗い。
 すぐ脇で、草の揺れる音がした。
 前を走っていた男がとっさに足を止め、振り返りざま矢を番えようとする。だが、茂みの中から姿を現したのは同じように猟弓を手にした男だ。ほっとした様子で、男は肩の力を抜いて弓を下ろす。
 「なんだ。アルか」
 「よう。どうだ、いたか?」
 「いや――ネズミ一匹、いやしねえ」
玉粒の汗を流しながら、小太りの男は首を振る。
 「そうか」
茂みの中から姿を現した年配のほうの猟師は、ちらとロードのほうに視線を向けた。
 「どうだい、兄ちゃんのほうは」
 「今のところは、怪しいものは何も」
 「そうかい。」
汗をぬぐい、男は森の中を振り返った。
 「ま、もう少し探してみよう。もしかしたら、もう、この辺にはいないかもしれないし――」
言いかけたとき、鋭い口笛が森の何処かから響いてきた。気を緩めかけていた男たちの表情が、途端に臨戦態勢となる。
 「今のは、ケニーの奴か?」
 「あっちだ。見つけたかもしれん」
猟師たちが走り出す。慌ててロードも後を追った。険しい山道でも、鍛えられた年配の猟師たちは疲れた様子もなく、木の根も岩も軽々と飛び越えてゆく。何年も旅暮らしを続けて身体はそれなりに丈夫なつもりのロードでさえ、追いかけるので精一杯だ。猟師ではなく、山道にも慣れていない、いわば部外者の彼がこの「狩り」に同行を求められたのは、猟師たちの追う獲物がただの獣ではないからだ。それは見た目はただの獣でありながら、中身は獣ではないものに入れ替わった<影憑き>と呼ばれる存在だった。

 ――いつもの旅の帰り道、森の麓の町に寄ったのは前日のことだった。

 故郷の村までは徒歩で一日かからないほどの距離だ。無理をして急ぐ道でもなく、一泊してゆっくり帰ろうと馴染みの安宿に顔を出したところで、町の猟師たちの親方・アルに声をかけられた。子供の頃から顔見知りの熟練の猟師、いまロードのはるか先を、まるで飛ぶような足取りで駆けている年配の男だ。灰色の鬢を生やした顔も、血管の盛り上がった太い腕も、燻製肉をつくる時に一緒に燻されたかのような艶のあるいい色をしている。男は、ロードに、<影憑き>を狩り出す手伝いをしてくれないかと持ちかけたのだ。今回は大物かもしれない、と深刻な表情で。
 そして今朝。他の二人の猟師たちとともに、四人で日の出とともに、森へ入った。目標は見つからないまま、今は、もう昼前だ。
 また口笛が聞こえた。今度は近い。
 「ほぅい、ケニー!」
先頭の男が怒鳴って方向を変えた。ロードにも見えた。緑の帽子を斜に構えた少年が、転がるにように山の斜面を駆け降りてくる。その前を一匹のウサギが駆けていた。見た目は、ごく普通の獣と変わらない。違うのは、わざわざジグザグに、木漏れ日の当たるあたりを避けているかのような走り方だ。ロードは眼をこらした。白い綿毛の後ろに、尾を引くような暗い影が見える…。
 「<影憑き>だ、間違いない」
 「よっしゃ!」
息を整えるようにひとつ大きく深呼吸した小太りの男は、矢を番えながら大きく回りこむように走り出す。ウサギの駆けてくる斜面の一方は日の当たる草原(くさはら)になっていて、もう片方が木立のつくる日陰。背後と前方を阻まれたウサギには、逃げる方向は一つしかない。
 大きく脇にそれるように跳躍した先に、件の小太りの男が待ち構えていた。
 ――ザンッ!
矢はウサギの身体を貫き、白い綿毛が飛び散った。
 「ハンス、よくやった!」
自らも矢を番えながら、赤ら顔の男がじりじりと近づいてゆく。ウサギは地面に転がったままぴくりともしない。駆け下りてきた緑の帽子の少年も、小太りの男も距離を縮めてゆく。ようやく現場に追いついたロードは、腰の短剣に手を伸ばしながら用心深くウサギの身体を見守った。<影憑き>になった獣は、普通の獣とは違う。そう簡単に死なないのだ。
 と、ウサギの身体がぴくりと動いた。
 「やべっ」
 「こいつ、まだ!」
周囲を囲まれて自棄になったのか、それとも死に物狂いのなせる業か、ウサギは深々と矢の刺さったまま、最も手薄そうに見えた少年のほうに向かって大きく跳躍する。ロードは素早く腕を振るった。かすかな閃光とともに飛んだナイフが、逃げようとして転んだ少年の頭上を飛び越えようとするウサギの喉元を正確にとらえる。
 「今だ、早く!」
猟師たちが駆け寄って、ロードの投げたナイフの柄をつかみ、それごとウサギの身体を日向に放り出す。真昼の光にあぶられて、白かったウサギの産毛が一気にどす黒く染め変わった。見る見る間に、ウサギの顔が歪んだ。
 「…ギ、ギギギ…」
獣とは思えない声を上げ、しばらくもがき苦しんでいたあと、やがて、それは動かなくなった。ロードの眼には、光の中で、影が溶けるようにして消えてゆくのが見えていた。
 「やった…か?」
 「ええ、もう心配ないですよ」
ロードが言うと、猟師たちは、ほっとしたように顔を見合わせた。腰を抜かしていた少年が、おそるおそる近づいて、動かなくなったウサギの躯を見下ろしている。それは干からびて、まるでミイラのようになっていた。
 「こいつ、もう食えないな」
いかにも残念そうな口調だ。
 「おうよ、<影憑き>は食うもんじゃねえよ。そんなもん食っちゃ腹壊すぞ。」
後からやってきた熟練の猟師二人は、経験の浅い少年に向かって物知り顔だ。
 「そうそう。<影>が付くのは、病気だケガだで死に掛けてる獣だけなんだからな。もともと死んでるもんが<影>に生かされて動いてるだけよ。」
 「へーそうなんか? じゃあこれ、日向に放り出したとたんこんなになったのは、ずっと前に死んでた奴だからか」
 「そういうことよ。<影>だからな、お天道様に照らされちゃあ留まれないのよ。」
 「ふむ。しかし、妙だな。」
赤ら顔の熟練猟師は、ウサギの躯の側にしゃがみこんで眉を寄せる。
 「町の連中の話じゃ、もっと大物みたいだったがなあ。」
 「他にもいるって? けどさァ、見かけたの、こいつ一匹だよ。半日探し回ったんだぜ」
 「あんたは、どう思う」
急に話を振られて、ナイフの回収に気をとられていたロードは、一瞬、返答に窮した。
 「えっと…そうですね、用心深い奴なら、昼間は逆に動かないと思います。目撃情報は夕方が多いと聞きましたが」
 「ふむ」
 「また夕方に戻ってくるとか言わないでよ。おいらもう疲れた。町に戻ろうぜ、親方ぁ」
 「こらケニー。お前またそうやってサボろうとする。<影憑き>を放っておくと森に普通の獣がいなくなる。わしらの商売も上がったりなんだぞ」
 「だってさァ」
 「ああ、分かった、分かった。」
赤ら顔の猟師は、頭を?きながら立ち上がる。「どのみち、相手が本当に大物なら、半人前のお前にやらせるわけにはいかん。夕方また戻るにしても、まずは様子見だ。わしと、ロードだけでいい。…というわけだ、頼めるか」
 「え、ええ。それは、いいですけど。」
ロードは頬をかいた。「でも、おれもあんまり役に立てそうにないですけど…」
 「なに。狩りをしろと言ってるわけじゃない。お前の、その眼があればいい」
ごつい、大きな手が、ぽんと肩に置かれる。
 「光のない夜は、特にな」
 「……。」
ロードは眼をしばたかせ、手元に視線を落とした。一見して何の変哲もない薄蒼の色をした彼の双眸は、可視化されていない<影>を見分けることが出来る。それどころか、常人には見えないはずのものを見てしまうことが、しょっちゅうある。
 だから、だ。<影憑き>狩りに同行を求められたのは。
 「わかりました、」
 「よーし、それじゃ一端町に戻るぞ。昼飯食って、わしらは夕方また出発だ。ハンス、ケニー、お前らはもういいぞ」
 「ぃやったー」
少年はぴょんと飛びはね、緑の帽子を片手で押さえながら、まるで小鹿のような足取りで山道を駆け下りていく。
 「ったく、あいつときたら。何が疲れてるだ」
苦笑しながら、小太りの男もあとを追ってゆく。一つため息をついて、赤ら顔の猟師もゆっくりと、ロードと並んで歩き出した。
 木漏れ日が眩しい。
 かすかな風に、さわさわと木立が揺れ、鳥の声が聞こえる。猟師たちの走り回る荒っぽい気配の消えた森は、今は平和そのものに見える。この辺りは町から近く、住人たちが木の実や薪を取りにくる里山だ。獣道がそこかしこにつけられている。
 「それにしても、しばらく見ないうちに大きくなったもんだなあ。」
歩きながら、男が話しかけてくる。
 「相変わらず旅暮らしか?」
 「ええまぁ、そういう仕事ですから」
 「仕事ってったって、お前さんのは…。おふくろさんの手がかり、まだ見つからんのか」
 「……。」
ロードは、小さく首を振る。
 「そうか」
 「焦っても仕方ないですから。それにおれ、旅は嫌いじゃないですし」
 「はっは、なら良いな。お前の旅の話は面白いからな。コトが落ち着いたら、ゆっくり酒でも呑みながら話を聞きたいと、ハンスたちも言っていた。」
 「それなんですが」
少し歩調を速め、少し男の前に出るようにしてロードは言った。「気になることがあるんです。今回、西のほうから旅をして来て、<影憑き>の噂を頻繁に聞きました」
 「ほう?」
 「日の短くなる秋口にはたまに話を聞きますが、まだ春です。いつもの年とは違う。それに、一度だけですが、<大影>が出たという町にも出くわしました」
ぴくり、と男の表情が動く。
 「――<大影>だと?」
それは、<影>と呼ばれる存在の中でもより凶暴で、危険な存在のことだった。他の<影>と違い、いくらかの知能を持ち、人を襲う。より大型の獣や、強力なものなら人間に付くこともある、…という。
 「そいつは、どんな奴だった。」
 「おれが到着したときには、すでに狩られた後でしたが…。サーカス団の連れていた、子供の頃から飼いならされた大人しい豹だったそうですが、<影憑き>になったとたん檻を食い破って暴れだしたとかで、サーカス団の団長を含め五人食い殺したとか。」
 「ほう…」
 「だから今回も、もしかしたら、って」
言いながらも、ロードは周囲の気配を注意深く探っていた。だが、今のところは何も異変はない。
 二人はしばらく、無言で歩き続けた。やがて、町の建物の赤い屋根が見えてくる。石畳の道と、家々の白い壁。ほっとした表情になるとともに、男は、おもむろに口を開いた。 
 「今の話、まだ誰にもしないでくれ。皆をいたずらに心配させたくないからな」
 「分かってます」
最後の木立を抜けると、明るい日差しとともに、町の喧騒が押し寄せてくる。<影>たちは人里には入ってこない。人工の光に溢れる人の世界は、<影>たちの嫌う唯一の場所だ。
 「それじゃ、日が暮れる前に迎えに行く。それまで仮眠とってゆっくり休んでくれ」
 「わかりました」
陽は、まだ高い。すぐに宿に戻ってしまうには惜しい天気だ。
 子供たちが笑いながら側を駆け抜けてゆく。
 ふと彼は、ショーウィンドウのガラスに映りこむ自分の姿に気が付いた。町の背景を背に、取り立てて目立つところもない旅人風の一人の青年が立っている。こちらを見つめ返してくる二つの薄青い色をした目は、母譲りの外見の中で唯一、母とは似ていない部分だった。だからきっと、それは会ったことの無い父親に似た部分なのだと思う。
 見えないはずのものを視る力に気づいたのも、自分に父親がいないことに気づいたのも、物心ついてすぐの頃だった。けれど、いつか大人になったら教えてあげると言っていた母は、ロードがやっと七歳になったばかりの頃に姿を消し、その後の行方は杳として知れない。
 ショーウィンドウから目を逸らし、彼は歩き出す。
 あれからもう、十年以上経つ。

 手がかりは何一つなく、時だけが流れた。



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