<本編3>

 9


 塔に戻ってみると、ちょうど台所の目の前の中二階の食堂で、塔の主が大皿を前に料理と格闘しているところだった。上着を隣の椅子の背にひっかけ、腕まくりしてせっせとかきこんでいる。ぽかんとしている二人に気づいて、レヴィは口いっぱいに食事を詰め込んだまま顔を上げ、頬を動かした。おかえり、とでも言ったらしい。
 「また…ずいぶん…豪快に食ってるな。シルヴェスタのほうは? 片付いたのか」
 「はは、かはふいた」
胸を叩きながらぐんと飲み込んで、もう一度。「片付いた。つーか疲れた。あいつら馬なんて連れてやがるんだぜ? 扉通れないっつーの。どーしても連れて行きたいっつーから急ごしらえでデカい門だけ作って繋げて…。あと食料の輸送もやった、十往復くらい。疲れた」
 「それで腹減りなんだな」
苦笑しながら、ロードたちはテーブルの向かいの席に腰を下ろす。
 「んで? そっちは何か判ったのか。レイゲンスブルグに行ってるってリスティから聞いたけど」
 「ああ。千年前に起きただろうことは大体判った。」
ロードは、さっきユルヴィにも聞かせた結論を繰り返した。レヴィはフォークを持つ手を止めたまま、じっと考え込んでいる。
 「ユルヴィ、お前の考えは?」
 「私は…。有り得る話だと、ただ」彼は手元のメモに視線を落とす。「そうだとすると、出現パターンが今とはずいぶん違っていることになります。<影憑き>は知能を持たず、群れも成しませんが、アルテミシアの伝承では、ノルデンに集まった人々は<闇の軍勢>と戦うために要塞を築き、まるで人間の軍勢と戦ったように描写されているんです。残っている伝承は、どれも戦記物になっています。」
 「後世の創作か脚色ってセンは?」
 「有り得なくはないですが、今日調べてきた、最も古い伝承でも同じ論調でした。<影憑き>が群れ成して軍隊のように襲ってくることなんて有り得るのか――」
レヴィは、ちらりとロードのほうを見た。
 「テセラの呼び出した連中」
 「ああ。<影人>だな。あいつらなら人間っぽい動きも出来そうだ」
 「…有り得るんですか?!」
 「ちょいと引き起こす条件が難しいがな」
目の前のパンを掴むと、レヴィはそれを大きくむしりとって勢い良く口に放り込む。ロードも考え込んでいた。引き起こす「条件」、というより――、引き起こす「原因」というべきか。あの時は、”森の賢者”自身が引き金となっていたが、そうそう起きる事態ではない。
 「ふん、少しずつ見えてきたじゃないか。<影>ってやつには寿命がない。あの"鴉"の正体が千年前にこの世界にチョッカイ出してきた闇のナントカの残り物で、リベンジしに戻って来たってことじゃないのか?」
 「何のために、ってのも考えるだけ無駄か。<影>が何をしにこの世界にやってくるのか、なぜ人に敵意を持つのかなんて、分からないもんな」
テーブルの真ん中の籠に積み上げられたパンをひとつ取り上げながら、ロードは、いま自分の言ったことにかすかな違和感を覚えていた。確かに<影>には寿命というものがない。だが、同時に時間と言う概念もない…はずだ。どうして『千年』という時間にこだわるのだろう。どうして、世界をただ荒らし回るだけではなく、予言めいた教えを残したり、魔法使いを育成したりしているのだろう。人間でないことは間違いないが、同時に、ただの<影>でもない。一体、あれは…。
 「レヴィさん、シルヴェスタのほうの問題は片付いたんですか?」
ユルヴィが話しかけている。
 「とりあえず西の方の戦火は少し落ち着いてきてる。真冬で雪が降り始めてる地方もあるしな。地面が凍り付いてちゃ馬も走れない」
 「”鴉”のほうは?」
 「ハルが補足してる。いったん見つけちまえば、そうそう見失うことはないさ。今のところ目立った動きはしていないらしい。そっちも冬で休戦中なんじゃねぇか。ああそうだ、ロード、ヒルデは先に村に戻しといたから」
 「そうか。あとでおれも一度村に戻るよ。エベリアの調査結果が知りたいから」
 「もう戻るんですか?」
ユルヴィが声を上げる。
 「急いだほうがいい気がしてるんだ。先手を打てるならこしたことはない。それに、大事なことを見落としてる気がしてる」
 「そう、ですか…。でも、あまり無理はしないでくださ…」
 「うーん、なんかやっぱ妙だな」
突然、レヴィはフォークを皿の上に放り出し、胸のあたりに手をやった。
 「どうした?」
 「なんかこないだから、このへんが妙にムズムズするんだよな。」
 「呪文の欠片?」
レヴィの手のあたりには、明滅する青白い輝きがある。
 「なのか? やっぱ。けど、呪文の本体には何の異常もないし、なーんか気になる、ってだけなんだけどさ」
 「お疲れなのかもしれませんよ」
と、ユルヴィ。「このところ、ずっと飛び回っているから…少し塔でお休みになっては?」
 「そうも言ってられないからなあ、これが。あーあ、雪は嫌いだ。早く春になんねーかなあ…」
ぼやきながら、レヴィは窓の外に視線をやった。塔は例年通り二階近くまで雪に埋もれて、白一色の風景がどこまでも広がっていた。



 腹ごしらえの後、ロードは、レヴィに繋いでもらった扉からフィブレ村の自宅に直接戻った。家の鍵は、先に戻っているヒルデが開けてくれているはずだったからだ。
 久し振りの自宅、家の中には誰もいないが、台所から漂ってくる残り火のぬくもりが、さっきまで人がいたことを示している。
 「んじゃ、何日かしたらまた迎えに来る。それまでに調べられることは調べといてくれ」
 「ああ。」
レヴィが去っていったあと、ロードは、旅の荷物を抱えて二階の自分の部屋に向かった。机の上にはいつものように、不在の間に届いた手紙が載せられている。それから、ヒルデの字でメモ。「ガト先生のところに手伝いに行っています」と書かれている。メモをとりあげて、ロードは首をかしげた。
 (手伝い? 先生のところで何かあったのかな)
荷物の整理もそこそこに、彼は丘を下って村はずれへと向かった。学校を兼ねたガトの家は、今日は授業の日で、中から子供たちの賑やかな声が響いている。そこに混じってヒルデの声が聞こえた。
 「ロロ、きちんと聞いてる? エメリー、それじゃ今のところ、もう一回読んで」
 (あれ…?)
ガトの家の前には、しばらく見ていない間に山ほどの石碑や石板らしきものが積み上げれている。虫めがね片手にそれらと格闘していた老学者が、眼鏡を押し上げながら振り返る。
 「おお、なんだロード。戻って来たか」
 「ええ、たった今。…何やってるんですか? 先生、今日は授業の日ですよね」
 「それなら、ほれ。お前さんとこのお嬢さんが代わってくれとるぞい」
老学者は二階を指差した。
 「…ヒルデが先生役をしてるんですか?」
 「うむ。なにやら、子供たちと触れ合う楽しさを知ったとかなんとかで。一度やらせてみてほしいというのでな。」
ロードは呆れてしまった。
 「それで任せる先生も先生ですよ。」
 「わしゃあ、こっちを仕上げねばならん。興味深い。実に興味深い」
 「ったく。研究に没頭して授業をすっぽかしてたあの頃を思い出しますよ…」
溜息をつきながら、ロードは、ガトの隣の腰を下ろした。
 「何か分かったんですか。」
 「なんじゃ、お前は伝承なんぞ興味ないんじゃなかったのか」
 「他人事なら興味ないですけどね。ここまで関わったんだから、あの城が何なのか知りたいですよ」
 「ふむ」
顎の白いヒゲをしごきながら、ガトは、しばらく考え込んだあと口を開いた。
 「――どこから話そうかな。わしも、これがどういう意味なのか判断しかねるんだが…。”聡明なる鯨”と呼ばれる魔法使いが、この碑文の書かれた時代に崇敬の対象だったところまでは確かだろうな。」
 「じゃあ、お伽噺の賢者が実在したっていうんですか」
 「そこまでは断言できんよ。”賢者”というと呪文で世界を創ったとかいうあれだろう? とてもそんな存在は信じられん。千年前というと、まだ魔法使いが出てき始めたくらいの時代だ。それ以前の時代なら、魔法使いというだけで崇められてもおかしくはない。」
 (先生は、わりと慎重派なんだな…)
だが、そのほうが好都合だ。ロードは軽く相槌を打ちながら、話の続きを待った。
 「わしの見るところ、重要なのは、きっちりした碑文より殴り書きに近いやつのほうだ。暗黒時代の終わったあと、生き残りがこの辺りに戻ってきていたらしくてな。その時に残された最後のラティーノ文字の記録が、これだ。」
ガトの手元には、釘の先でひっかいたような細い溝で文字が刻まれた石の破片が幾つも積み上げられている。老学者は、その一つを取り上げてすらすらと読んで見せた。
 「『鯨は去った。闇とともに』『闇繋ぐ扉は閉ざされた』『彼女だけでは、長くはもたない』」
 「……扉?」
記憶の中で、言葉が引っ掛かる。「どういう意味…なんですか、それ」
 「全くわからん。が、遺跡の周辺から回収された碑文にはこの言葉が何度も出てくる。それと、ここには後継者が見つからないという意味に読めることが書かれている。それが祭壇が放棄された理由かもしれん」
ガトは別の石を拾い上げる。
 「『風の主はやがて尽きる。ほかに頼るべき主はなし。』『紺碧の空に星を観る者は未だ見つからず』…筆跡からしてこの辺りは同一人物の手になるものらしい。」
 「あのエベリアの城が何のために使われていたかが判るものはないんですか。扉らしきものは、最下層の隠し扉くらいだ。中は真っ暗だし、まるで迷宮で…」
言いながら、かつてそこに入ったときの記憶が蘇ってくる。”完全な闇”。魔石の仄かな輝きの道しるべ。その輝きを見ることのできる者のためだけに作られたかのような仕掛け。そして、設計者はおそらく、千年前の”風の賢者”、ルーアン。
 だとしたらあれは――あの建物は。
 (”海の賢者”だけが最下層に辿り着けるように作られた…)
隠し扉の奥には、本来は一体、何があったというのだろう。
 「あら、ロードさん」
声を聞きつけたのか、二階からヒルデが顔を出す。横から子供たちも次次と、丸い小さな顔を突き出した。
 「戻ってたんですね」
 「さっきね。そっち、授業中だろ? 終わってからでいいよ」
 「そーだよ先生、"あいびき"は終わってからだよー」
 「こらっ。そういうんじゃないから。さ、続きやるわよ」
子供たちの賑やかな笑い声。どうやら初日にも関わらず、ヒルデは、ずいぶん巧くやっているようだ。
 (シルヴェスタの子供たちの世話の経験か…)
思いがけない彼女の才能に、ロードは少し驚いていた。
 傍らで、ガトが小さく咳払いする。慌てて彼は注意を戻した。
 「すいません、…えーと」
 「あの建造物が作られた目的だろう? そこの部分はこないだ纏めたばかりでな。あの<王立>の派手な…えー…」
 「シャロットさん?」
 「そう、その娘っこにはもう渡しておいたわい。写しがあるから、あとで貸してやろう」
その口ぶりからして、ここに持ち込まれた碑文や石板のほとんどは、解読済みのようだった。
 「前に借りに行った本、役に立ったんですか」
 「勿論だ。ありゃあラティーノ語の固有名詞に関する研究でな。千年前の地名やモノの名前なんぞは、今とはだいぶ違う。だが、一つだけよく意味のわからん単語があったな。」
 「どんな単語ですか」
 「"深慮の雌鹿"と訳せる言葉だ。慣用句でもなさそうだし、仮に人物名とすると、"鯨"に対応する別の魔法使いかもしれんな。だが、何者かは分からない。記録の書き手は、それが"鯨"の仇を討ってくれると信じていたようなのだ。」
 (…もしかして、"森の賢者"か)
だとすると、"海の賢者"が命を落とした時点では"森の賢者"は存命だったことになる。当時何が起きたのか、少しずつ見えてきた。けれど、まだ核心には近づけていない気がする。<影憑き>の大量発生があったんだとしたら、そもそも一体なぜ、それは起きたのか。予兆の段階で見つけられなかったのか。
 「というわけでな、この手の古文書というものは、断片になっておるからすぐに意味は判らんのだ。大抵は他の証拠とつき合わせて意味を推定するのだが、今回はそれも難しい…よっこらしょ」
ズボンについた土を払いながら、ガトは立ち上がった。「で…報告書の写し、だったよな? ちょいと待っとれ。」
 「……。」
ロードは、足元の地面の上に無造作に並べられた、自分には読めない碑文の群れを見やった。多くは長い年月で破損し、あるいは風化して、一部が読めなくなっている。けれどこれを書いた人々のうちいくらかは、祭壇が放棄される前に何が起きたのかを知っていたはずだ。
 ガトが家の中から姿を現した。手に、思っていたより分厚い紙の束を携えている。
 「ほれ。読み終わったら返してくれよ」
 「ありがとうございま――」
受け取ろうと腕を上げたとき、上着の内側にある硬いものに触れた。レイゲンスブルグの王立図書館から強引に借りてきた石板だ。はっとして、ロードは片手を上着に突っ込んだ。忘れるところだった。
 「そうだ先生、ついでに、これ解読してもらえませんか」
 「ほう?」
ガトは丸めがねを押し上げ、顔近づけた。
 「これは…一体どこから…」
 「出所は聞かないで下さい。匿名で借りてきました」
そういうことにしておく。
 「……判った。読んでみよう。」
硬い表情で、石板を両手で受け取ったガトは、さっそくその場にしゃがみこんだ。どうやら、明るい太陽の光の下でないと刻まれた文字が読めないらしい。本が焼けるというので部屋の中に光を入れたがらないガトのことだ。そのために、わざわざ表に出てきているのだろう。
 真剣な表情で解読に没頭してしまった学者をその場に残して、ロードは、家に戻ることにした。



 誰もいない台所。外のオリーブの果樹園は冬の色に変わっている。寒いといえば寒いが、この辺りの冬は雪が降るほどではない。少し厚着すれば乗り切れるくらいだから、家の中に暖房もない。
 お茶を淹れて、居間のソファに腰を下ろす。風が窓を軽く叩いている。日差しが揺れる―――静かだ。
 ロードは、分厚い報告書の一枚目を捲った。ガトの几帳面な字がまっすぐに線の上に並んでいる。
 『エベリアの”古城”こと古代の祭壇、”知恵の鯨”と呼ばれし魔法使いについて』
それは、ガトが解読した全ての碑文の内容と、そこから推測される祭壇の用途だった。
 『碑文の字体などから、推定建造年代は千四百年から千二百年前。同様の建造物については知られていないが、強いて言うならばノルデン王都の城壁の石組みが工法としては近いと思われる。ただし両者の建造推定年代は最大四百年離れていることになる。この地に存在したラティーノ語を母語とする石工集団が、”暗黒時代”にノルデンへ移住したのではないかと考えられる』
 『祭壇が放棄されたのは約千年前、通称”暗黒時代”の始まりと思われる。その時期の記録は全く残っていない。石碑を含め大規模な破壊の痕跡が見られるが、祭壇そのものへの破壊は成されていない。周辺で見つかっているラティーノ語碑文などからして、千年前にはこの地方に国ないし何らかの政体が存在したと推測され――』
 『この地方の古代ラティーノ人は、”賢者”と呼ばれる魔法使いを崇敬していた。この魔法使いは、政治を司るのではなく道徳、秩序、知識の伝達などに関わっていたようだ。国王というよりはシャーマン、あるいは預言者のような位置づけであったと思われる。祭壇は、その魔法使いが何らかの占い、或いは研究のために使っていた設備と思われる。内部の複雑な構造は、瞑想か儀式のために使われたと推測する』
紙をめくる手が止まらない。ロードは、食い入るように文字を読み進めていた。やがて、核心に触れる箇所が現われる。
 『祭壇の使用は、千年前の”暗黒時代”に途切れている。その後の住居状況からしても、当地に存在した政体が崩壊したことは確実である。またその際に賢者と呼ばれる魔法使いも死亡しており、次代が見つからないと読める殴り書きが幾つか、同時期の地層から見つかっている。”暗黒時代”の終焉後間もなく、生き残りの住人がいくらか当地に戻っていたと思われる。しかし政体の中心であった魔法使いを失ったことで、ここに元の共同体が再建されることはなかった』
 (…次の”賢者”が見つからなかったんだ。だから”賢者”の実在は忘れ去られて、”お伽噺”になった…)
どのくらいの期間、”賢者”がいない空白の期間が続いたのかは分からない。けれどそれは、歴代の記憶が、かつて存在した優れた魔法使いの伝承が霧散するには、十分な時間だったのだ。
 (闇繋ぐ扉が閉ざされた…っていうのは、最終的に<影>の生まれる裂け目を塞ぐのに成功したってことなんだろうか。けどそれ、裂け目の位置が判ってないと出来ないはずだよなあ。海の賢者もいないのに、どうやって…)
心の中で呟きながらレポートをめくっていたロードは、手を止めた。
 最後の方に、最近書き足されたような紙が挟み込まれていたのだ。
 それは、さっきガトから口頭で聞いた、釘の先でひっかいたような細い溝で文字の書かれていた読みづらい石の欠片の解読結果だった。報告書を提出したあと、最後に解読を終えた部分なのだろう。その内容を読んでいたロードは、最初に聞き流したときには気づかなかった一文に目を留めた。

 『彼女だけでは、長くはもたない』

 『風の主はやがて尽きる。ほかに頼るべき主はなし。』

 ("彼女"…?)
ユルヴィに聞いていた、風の賢者の系図が蘇ってくる。あの、二年だけ賢者の役目に就いていた女性。そして、「ほかに頼るべき主はなし」という不吉な言葉。
 (ほかに誰もいなかった…? そうか、たった一人で世界を支えようとしたのなら…)
たとえ熟練の魔法使いだったとしても、一人で"創世の呪文"を管理するのは維持するだけでも精一杯だ。世界を再生するどころではない。そしていずれは、あの時の、巻き戻し前の世界でのハルと同じように、力尽きることになる。
 ソファから立ち上がり、ロードは、報告書を手にしたまま部屋の中をうろうろと歩き回った。自分の考えが正しいのかどうか何度も迷い、だが、どう考えてもそれしか思いつかない。
 (この"女性"が二十一人目の"風の賢者"だとしたら、何でこのタイミングなんだ。<影>が大量発生してるときに、わざわざ代替わりしたりするか? 代替わりしたからこそ発生した? …いや、違う。ルーアンは"風の塔"を建ててる。残ってる記録からして、"暗黒時代"が始まったあとに作ってるはずだ。ということは、自らの死を予期して作ったのか? そして…二十一人目が継いだ…?)
 「ただいまー」
ヒルデの明るい声。思考が途切れ、振り返った時、居間に入って来るヒルデの姿が見えた。
 「…どうかしました? そんな顔して」
 「え、いや」
彼は慌てて報告書で顔を覆った。「ガト先生の報告書読んでたんだよ。久し振りに難しい話を読みすぎて、…ちょっと」
 「そうなんですね。それじゃ甘いものとかいかがですか? さっき、オリーブ絞り工場のおかみさんに貰ったんですよ。ほら!」
彼女は、手にしていた小さなかごをサイドテーブルの上においた。オリーブ油で揚げて砂糖をまぶした、おいしそうな菓子パンが入っている。
 「うまそうだな。遠慮なくいただくよ」
 「食べ過ぎないで下さいね? これから夕飯なんですから」
弾んだ声が台所のほうに遠ざかっていく。表面のぱりぱりする小麦粉色のお菓子をかじりながら、ロードは、ソファの上の報告書を見下ろしている。
 胸の奥のもやもやとしたわだかまりが、次第に色濃くなっていく。嫌な予感が大きくなっていく。
 これ以上は知ってはいけないような気がするのは、何故だろう。薄っすらと察してしまった真相が、当たりでなければ良いのに、と、願わずにはいられなかった。


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