<本編3>

 20


 丘を回りこみ、城の背後まで辿り着いたところでロードは足を止めた。ここはエベリアの町のちょうど反対側にあたる。丘の向こうの戦いの音はほとんど聞こえてこない。不思議なくらい静かで、今が本来は真昼だということさえ思い出さなければ、ごく普通のありふれた静かな夜としか思えないほどだ。
 月は、もう地平線の向こうに消えようとしている。
 (星空…か)
太陽と月の消えた暗い夜空を照らすものは、無数の星。夜道を照らすほどの明るさはないが、それがあるだけで空は闇一色ではない。淡い青、赤、黄色。星にも色んな色があることは、つい最近知った。…この無数の輝きの中に自分や、自分の知っている全ての人たちがいるということも。
 息を整えながら、ロードは目の前の隙間無く組み合わされた石壁を見上げた。エベリアの城は、風の塔と同じく大昔の"風の賢者"ルーアンによって建設された。その手腕に間違いはなく、千年の時を経てもいささかも劣化したところはない。石の一つ一つも相当な重量がある。力技で壁を崩すにしても、そう何箇所もやるのは無理だ。
 どうしたものかと思っていたとき、ふと、すぐ近くに掘り出されたばかりの大きな土の山が出来ていることに気が付く。
 土盛りのそばには最近掘られたように見える四角い人工的な竪穴がある。さらに目を凝らすと焼け焦げたテントや掘っ立て小屋のようなものの残骸。それに砕かれた石板や石碑のようもの…散らばったままになっているシャベルやはけ。
 これは一体何だろう、としばらく考えていたロードは、はっとした
 (発掘現場か!)
ガトが解読していた石碑の破片や石板は、エベリアの調査で掘り出されたものだと言っていた。あれはここから出てきたものなのだ。
 慌てて穴に近づいてみると、その底のほうは地上からはるかに下の方、人の背丈の五倍ほどの深さまで掘り込まれている。ロードは、以前この城に入ったときのことを思い出していた。何度も階段を下りて、…そう、確か目指す最深部は地面よりもずっと"下"のほうにあった。
 (なら、この壁の向こうは)
彼は穴の中に滑り降り、石壁に手を当てる。
 (たぶん、この辺りが最深部になる)
深呼吸して、ロードは目の前のすべらかな石の表面を睨みつけた。
 (石の塊を投げる練習は何度もした。これだって石の塊だ。切れ目は見えないけど…いや、切れ目はある。おれの両手に入るくらいの大きさ)
両手を当てたまま、今からやろうとしていることをイメージしようと試みる。
 (…身体で覚えてる。考えるな。)
石の表面がゆれ、細かな亀裂が走っていく。フィオが固唾を呑んで見守っているのが視界の端にちらりと見えた。
 (身体の底が熱い。魔法を使うのって、こんなに…)
一瞬、意識が遠のきかける。魔力を消費しすぎると倒れる、という感覚。<王立>の魔法使いたちが大きな魔法を使ったあとに疲れて座り込んでいた理由が、ようやく判った気がした。
 (けど――まだ、いける!)
力を振り絞って最後の一息で石を吹き飛ばす。確かな手ごたえがあった。
 はあっ、と息を継ぎ、頬に伝う汗を拭いながら顔を上げると目の前に、ぽっかりと大穴が空いていた。
 「…けっこう硬かったな」
ロードの足元には、両手で抱えきれないほどの分厚い大きな石が三つほど転がっている。どうやら巧くいったようだ。石の剥がれた穴の向こうには暗い廊下が続いていて、奥のほうからひんやりとした空気が流れ出してくるのを感じた。
 (いる)
その奥に蠢く、澱みのような何かの気配が判る。
 ロードは腰から太陽石のナイフを抜き、用心深く一歩踏み出した。明るい輝きを向けると、岩の隙間に慌てて逃げ込んでいく<影>の尻尾が見えた。ギチギチ、と小さな声が聞こえる。だが、外に出ているほどの数はいない。
 ハルからは"最深部への最短ルートを開いてほしい"としか言われていない。けれど、他のみんなが戦っているのに自分だけ、このまま何もせずに引き返すことは出来ないと思った。それに、ぐずぐすしていたらリューナスが、この入り口に気づいてしまうかもしれない。
 (レヴィ…まだなのか)
暗いままの太陽を見上げる。呪文の書き戻しに成功するまでは、レヴィもハルも元の位置を動けない。待っている時間が惜しかった。一人で中に入るなんて、ハルなら、きっと止めるだろう。でも。
 (今しかない)
一歩、壊れた壁の向こうに踏み込むと迷いは消えた。何もいないがらんどうの廊下を、彼は、太陽石の明かりだけを頼りに歩き出した。
 抵抗も罠もないことを知るまでに、そう時間はかからなかった。
 明らかに手薄だ。小さな<影>が彷徨っている以外、待ち伏せしているものもいない。
 (…まさか本当に、こんな方法で侵入されることは想定していなかった?)
敵らしい敵とも出くわさないまま廊下をしばらく歩いていくと、思いがけず見覚えのある場所にぶつかった。天井に沢山の魔石がはめ込まれた、隠し扉のあるあの広間だ。隠し扉が壊され、ぽっかりと暗い穴が空いている。何かの強い気配がその奥から漂ってくる。<影>のものとは違う、もっと根源的で、身体の奥からぞくぞくするような気配。
 (リューナスは…どこだ?)
見回していたとき、目尻にびりっとする痛みが走った。はっとして、ロードは反射的に身を引いた。目の前を鋭い鎌のようなものが掠めたのは、その直後。後ろへ下っていなければ、一撃で喉元をかき切られていた。
 「…っ」
 「アハハ、アハハハッ」
壊れたような多重音声の耳障りな笑い声が、闇の奥から響いてくる。
 「何者だ?!!」
掲げたナイフの光に照らし出されたのは、奇妙に捻じ曲がりながら、ゆっくりとこちらに向かって歩き出してくる――半透明な、人間。ぎょっとしてロードは一歩、後退った。長く垂れ下がった両手を振り回し、口から涎をたらしながら近づいて来るそれは、人間には見えなかったが、<影>でもなかった。
 「アハハッ、な、なぁに こ れ…身体が…からだがかるーいウフフアハハハ」
 「何…だよ、これ。」
見下ろしたとき、それが足元に引きずっている上着のようなものに気づいた。エプロン、スカーフ…人間の衣装。その奇妙なものの胸のあたりに染みのような赤いぽつんとした輝きを見つけた時、ロードの疑問は確信へと変わった。
 「まさか…人間…?」
 「そのとおり。失敗作だがね」
弾かれるようにして振り返る。とっさに向けた太陽石のナイフを見て、ゆらめく影のような男は薄く青白い笑みを浮かべた。
 「おっと、物騒なものを向けるんじゃない。せっかく歓迎してやろうというのに」
リューナスは、不安定にゆらゆらと揺れる奇妙な人型のほうに視線をやった。
 「そいつは魔力不足で転化が途中で停まってしまったようだ。人の器を完全に捨て去ることも出来ず、知能も失いつつある。いずれ個を失い<影>と一体化するだろう」
 「何…だよソレ! あんた、この人たちに永遠の命とか楽園とか約束してたんじゃないのか?!」
 「理論は完璧。実際に”こちら側”に来ることのできた者もいるよ」男は悪びれた様子もなく肩をすくめる。「最も、全員ではないがね」
 「ウソをついたってことか」
 「何、最初から言っておいたさ。”選ばれし者”だけが辿り着ける楽園だと」
 「……っ。」
睨みつけるロードの視線に気づいて、彼は口の端を釣り上げる。
 「納得がいかない、という顔だな」
 「当然だ」
片手を腰のベルトに走らせる。「お前のそれは楽園なんかじゃない。力無き人たちを踏みつけにして何が楽しい?」
放たれたナイフが空中で見えない壁に当たって弾き飛ばされる。だがそのナイフは勢いを失わない。続けざまに放った二本目のナイフが空中で交錯し、リューナスはぱっと鴉に姿を変えて後ろに飛び逃げた。掠めたナイフにちぎられた黒い尾羽が一枚、床に舞い落ちてゆく。この狭い空間では、どちらも動きは制限される。けれど、この条件なら優位なのはむしろロードのほうかもしれなかった。
 ロードは続けてナイフを投げつけた。直線ではなく途中で軌道を変えて、リューナスが注意を逸らせないように。スウェンとレヴィに言われた言葉を完全に理解出来たかどうかは分からない。けれど、難しいことを考えずに「自然に動く」ことを意識するようになってから、確かに、リューナスはロードの動きを止められなくなっている。
 「面白い技だ」
飛び回るナイフを、まるで煩わしい虫をかわすかのように叩き落としながら男は呟いた。「だが下品だな。昔は無かった。西のほうでも、今、外で戦っている連中の使っている道具も。興味深くはあるが、邪道で無様だ。」
 「だから何だ」
頭上で、石がズズッと動く。ぱらぱらと零れ落ちてくる小さな石のかけらを空中に作った見えない壁で防ぎながら、男の表情から僅かに余裕が消えた。
 「生き埋めになるつもりか? 心中はご免だぞ。」
 「必要なんだろう? おれがこの城を壊そうとしても、今は、必ず阻止するはずだ」
ぴくり、と眉が動く。
 (やっぱりそうか)
ロードは、隠し部屋のほうをちらりと見やった。外の<影>が時間稼ぎにしかならないことはリューナスも承知しているはずだ。それでもここを動かなかったのは、”動け無かった”からに他ならない。
 (ここには一体、何がある?)
 「――無駄だと言っただろう」
笑みの消えた青白い顔は、まるで人形のように生気がない。 
 「お前たちが何をしようとも、私の計画は覆らない。私が呪文の書き換えに成功した時点で既に結果は確定しているのだ――もはや止めることは出来はしない。」
周囲の壁を動かそうとしてもぴくりとも動かず、頭の芯が何かに押さえつけられているような感覚がある。これが魔法を阻止されるということか、と彼は思った。発動する以前の妨害。具体的なイメージを結ぶことが出来ず、考えが脳の表面を空しく滑っていく。けれど、体のほうは動く。ナイフを投げることも、殴りかかることも、やろうと思えば出来る。不思議と恐怖は感じなかった。殺意は感じないからだ――リューナスは、自分を本気で殺そうとは思っていない。「まだ」思っていないのか、それとも、その価値さえないと思われているのか。
 「計画って何なんだ? この場所にどんな意味がある? ルーアンは何故ここに、こんなものを作ったんだ」
 「決まっているさ。過去に蓋をして、完全に忘れ去るためだ。」
 「忘れ去る?」
 「この世界がどのようにして創られたのかを。」
生ぬるい風が抜きぬけてゆく。次の瞬間にも状況が一変するかもしれない緊張感の中で――彼には、互いの目を睨みあっていた。
 「世界の外を<闇>と呼ぶ。そのとおり、外には闇がある。だがこの世界は元々は闇より生まれたもの。ここはいわば”へその緒”。世界が生まれたその場所で、母胎となった世界と繋がっている場所なのだ。故に永久に塞いだままにすることは出来ない。決してな」
 「”海の賢者”がかつてここに住んでいたのは、そのためなのか?」
 「そうとも。人は忌まわしい記憶を頭の奥底に閉じ込めようとする。闇を恐れ、夜を照らそうとする。この世界がかつて<闇>の一部であったことを、あの連中は決して認めようとはしなかった。人の本質は光なのだと信じていた。お人よしのミルロ! この場所で背中から貫いてやった。あいつは最後まで、何が起きているのかも判らなかった」
 「……。それが、当時の”海の賢者”の名か」
 「ああ、名も忘れられてしまっていたのか。可愛そうな男だな。せめてルーアンが自慢の嘆きの塔に刻んでおいてやれば良かったものを」
クックッ、と小さく声を立てて笑う。
 「もっとも、この時代では"賢者"などというもの自体が忘れ去られたモノらしいが。当然だが。おまけに女子供が継承者、多少でも使えるのは三人のうち一人だけ。残りは雑魚だ」
怒りを覚えるよりも脱力感のほうが先に襲ってくる。この男は、何故こんなに…
 「ルーアンは…あんたの師匠は」
 「老害そのものさ。」ちょっと肩をすくめてみせる。「私の理論を否定するばかりで何一つ理解しないままだった。世界が終わると勝手に悲観して、山奥に引きこもって誰にも知られずに朽ち果てていった。」
そっけない、無価値なものに対するような口調。それがこの男にとっての師弟の間の感情だったのだとしたら、まるで実の親子のようだったレヴィとランドルフの関係とはあまりにも違う。天才的な頭脳を持ちながら、ただ一人、理解者すらないままにこの男は、諌めてくれる師も友も持たずに、鬱屈した感情のもとで生きた。そして――いつしか、自分だけの"世界"を求め始めた。
 「それでもルーアンはお前を"賢者"にした――信用していたはずだ。お前は居場所を知ってて、殺さなかった。それは――」
 「わざわざ手を下すまでもなかっただけだ」
そっけなく言って半透明な腕で前髪をかきあげるそぶりをすると、リューナスは、頭上の方を見上げた。
 「…さて、お喋りの時間ももう終わりだな」
 「何?」
その瞬間、足元の地面が小刻みに揺れ始めた。鈍い振動音。城全体が、いや、大地が揺さぶられている。
 「"鴉"様…」
か細い声。はっとして振り返ったロードは、隠し部屋の中から這い出してくる人の形をした<影>を見た。
 「転化は完了したようだな。何人だ? …思っていたより少ないか。まぁいい」
リューナスはロードに目もくれず、隠し部屋の入り口に近づいていく。
 「待…」
 「ロード!」
追いかけようとする彼をハルの声が呼び止めた。振り返ると、外から続く廊下をハルが猛然と駆けて来るところだった。後ろからレヴィとフィオが慌てて追いかけてくる。
 いまだかつて見たことのない全力疾走で駆け寄るなり、ハルは息を弾ませながらロードの前に立った。
 「最短ルートを開くだけでいいって言ったのに! 一人で突っ込むなんて」
 「ごめん、けど…」
 「きゃっ」
同時に追いついてきたフィオが、小さく悲鳴を上げた。足元の床の上でうごめく<影>のようなものに気づいたからだ。さっきまで辛うじて人だったそれは、今はもう、形を失いつつある。
 「これは…」
レヴィの表情が険しくなる。「本当に、人間を<影>に?」
 「星との接続が切られている…?」
呟いて、ハルは隠し部屋の向こうに視線をやった。「何かがおかしい。この城全体…そこの奥を中心に、法則が書き換えられてる感じがする」
 「外はどうなってる? レヴィがここにいるってことは、太陽の光は戻ったのか」
 「ああ。なのに、この城の辺りだけ暗いままなんだ。それで大急ぎで駆けつけたってワケさ」
 「外の戦況は?」
 「心配ない、光が戻ったからな。残りの問題は、そこの奥だけだ」
上着のポケットから手を出して、さっきリューナスの消えていった方向にわだかまる闇を指差しながら睨む。「ハル。奴は?」
 「……。」
長い沈黙。
 「視えないのか、この距離でも」
 「…いや。視えては…いる」困惑した表情だ。「でもこれは…」
 「面倒だな。入ってみりゃ判るだろ」
 「レヴィ! 迂闊に――
止めるのは少し遅かった。扉の失われたかつての隠し部屋に踏み込んだ途端、レヴィの姿が掻き消えた。
 「えっ?!」
慌ててフィオが駆け寄る。「どうなっ…」
 手を差し込んだとたん、彼女の姿も。
 「レヴィ! フィオ!」
 「ロード…」
ハルの手がロードの腕を掴むのと、ロードがフィオのあとを追うのが同時。一歩踏み込んだとき、足元がふわりとするのを感じた。地面ではない何かの上に足を置いたような感覚。そして、視界が突然、開けた。


 こんな城の地下にあるはずのない光景。――海だ。
 彼は、思わず目をしばたかせた。
 「…これは、一体」
幻覚とは思えなかった。色あせてはいるものの、きらめく海の波がはっきりとわかる。潮騒の音――海の香り。砂を踏む感触さえも現実そのもので、しゃがみこんで触れた海の水も、実際の潮水のように感じられる。
 「こんなものは前には無かった」
ロードの腕を掴んだまま、ハルが辺りを見回している。
 「どこかに飛ばされたのか? それにしては、全然色が無いけど」
 「いや。こんな風景は、世界中のどこにもない」
彼の視線は、すぐ背後にあるどこかで見たような形の二つの丘に留められる。エベリアの丘。
 「…もしかしたら、これは千年前の風景なのかもしれない」
 「まさか、リューナスが?」
 「だと思う。こんなことが出来るのは、彼だけだ」
先に入ったレヴィやフィオの姿はどこにも見えない。太陽があるのに輝きは弱く、光はあるのに眩さも熱も無く、世界には香りも感覚もあるのに、色だけが存在しない。
 「たぶん、この世界は本物だよ」
ハルが呟く。
 「たった一人で作り上げたもう一つの世界。僕らの管理する"創世の呪文"をベースに幾らかを流用して、残りを自分で組み立てた、――おそらく一人の魔力でも支えきれる大きさの。」
 「あいつは…あいつの言う"新しい世界"ってまさか、本当に…?」
 「楽園、には見えないけどね。」
二人はエベリアの町に向けてゆっくりと歩き出す。砂浜を抜けると、低木の森のようなものが現れた。
 (ここは…街道があるはずの場所…だよな)
今見ている風景がはるか昔のものだとすれば、まだ街道が無いのも当然だ。アステリアという国はおろかフィブレ村も、港町も、マルセリョートの水上の村も、おそらくまだ存在しない時代。隣を歩くハルの表情は硬く、無言のままだ。
 「…レヴィたちは?」
 「……。」
ハルは無言のままだ。見つからない、ということか。ここがリューナスの創った世界なのなら当然なのか、とロードは思った。
 "賢者"の持つ固有の力は世界を形作る呪文によって付加されているもので、全く別の呪文によって作られた世界では失われてもおかしくない。
 「に、しても妙だな」
重い沈黙を払うように、彼はわざと声を出した。「静か過ぎるっていうか、生き物が何もいない」
 「…生命の創造は、出来ないんだよ。」
ハルが呟く。
 「"創世の呪文"には書かれていない。死んだ者を蘇らせることが出来ないように、無から生命を創り出すことは、僕らにも、誰にも不可能だ。全く新しい法則を組み上げれば可能かもしれないけれど、この世界は僕らの世界を写して創られているから――。そう、"鴉"がやろうとしていたことが判ってきたよ。自分では生命を作り出せないから、僕らの世界から人間を連れていこうとしたんだ。自分の意に添う形でね」
ハルがぴたりと足を止めた。行く手に開けた広場のような場所が現われた。そこに、ロードにとって見覚えの在る女性がこちらに向かってくるのが見えた。幼い男の子の手を引いて、幸せそうに笑っている。以前見た時とは別人のようだ。
 「あなた、こっちよ。ほら、海が見える」
骨ばった手で海の方を指差しながら茂みを乗り越えようとした女性が、二人に気づいて立ち止まる。「あら。こんにちは、良いお天気ね」
 「……。」
ロードたちが黙っていても、気にした様子もなく女性は子供とともに海の方へ向かっていく。その後ろから、影を引くようにずるずると黒っぽいものが動いていく。見ていると、それは次第に人の形へと変わっていき、不安定に揺れながら地面から立ち上がると、おぼろげながら成人男性の形になる。
 「ハル」ロードは慌てて振り返った。「あの人、西の国で会ったことがある。夫と息子を戦乱で亡くしたって聞いた。それで"鴉"に――楽園に行けば死んだ家族に会えるって信じて…」
 「…記憶に合わせて<影>の形を変えたんだ」
ハルが押し殺した声で呟く。「"精神感応"の魔法で読み出した記憶を使ったんだろう。これが…」
 これが、リューナスの言う楽園、なのだとしたら。
 終わらない悪夢のようなものだ――。
 「望めば、君たちの失った愛する者を創り直す事も出来る」
はっとして、二人は同時に同じ方向を見る。そこに、よりはっきりとした姿のリューナスが立っていた。真っ黒なローブを被った、最初にロードが出会った時と同じ格好をしている。
 薄っすらと口元に笑みを浮かべながらリューナスが指を鳴らすと、目の前の地面の上に染みのような黒が広がっていく。それがゆっくりと立ち上がり、女性の姿を取ろうとした…瞬間、ばちんと音を立ててはじける。
 「止めろ。」
怒気を含んだハルの低い声。
 「どうして? お前は望んでいる。愛する女にもう一度会いたくは無いのか?」
 「まがい物など望むものか。それに、僕が彼女を守れなかった事実は永遠に消えることはない」
 「真面目だな。自分たちの立場は判っているのかな? ここは私の世界だ。お前たちは異物に過ぎない」
 「そりゃ嘘だな」
茂みの中から、黒い頭がひょっこり姿を現した。
 「レヴィ!」
 「いやー参った参った。途中でジイさんの亡霊に出くわしてさ、あの世に来たかと思っちまった」
 「こっちはお母様が出たよーもー、いやんなっちゃう」
反対側からフィオも現われ、じっ、とリューナスを睨んだかと思うと、いきなり胸に着けたブローチを杖に変えて構えた。そこから渦を巻くようにして炎が生み出される。
 「おっと」
これにはリューナスも少し驚いたようで、後ろに跳び退る。「危ないな」
 「先手必勝よ。とりあえずぶちのめせばいいんでしょ?」
 「まぁ、そうなんだけどさ」
レヴィは苦笑いしながら上着のポケットに手を突っ込み、すぐに笑みを消して真面目な顔になった。「…そいつの言うことは半分だけ真実で、半分は"嘘"だ。この世界は、まだ、そいつの世界じゃないぞ」
 「え?」 
 「元の世界と…ぼくらの世界と繋がってるんだよ。座標的には、ここはまだエベリアの地下室のまんまさ。お前がしたかったことは、ぼくの呪文に仕掛けたバックドアから必要な情報をトレスしてこの世界のコア部分を完成させることだ。構築が終わるまでは完全に切り離せないんだ。そうだろ?」
ローブに顔を隠した魔法使いが、おどけた様子で両手を肩の高さに上げて見せる。
 「ご名答だ。空間認知を精緻に使いこなせるとは、流石は…」
 「お世辞なんていらねぇよ。まさか現役の賢者全員を相手に無傷で逃げ切れるとでも思って無いだろうな」
白い顔に、何とでも読み取れそうな複雑な笑みがゆっくりと浮かび上がる。
 「――そうだな。一人くらいは、先に始末しておくべきだった」
悪びれた様子もなく、リューナスは呟いた。「ミルロはともかく、グズリーズを倒すのには三年かかったな。あいつがいる限り、どんなに体力を削っても兵士は無限に蘇るし、即席の魔法使いどももどんどん強くなって――もっとも、あいつが消えてからは楽なもんだったが。」
フィオが僅かに仰け反る。
 「それ…千年前の"森の賢者"、のこと?」
同僚たちへの言い草に、嫌悪感を覚えているようだった。
 「魔法全書はいつ書いたんだ。あんたが魔法を教えたんだろ? この世界を滅ぼす気だったのなら、何のために」
 「救済のためだ。まだ分からないのか? 魔力を扱えなければ、人本来の姿には転化できない。全ての人間には等しく知恵を手に入れる権利がある。本来の力を生かし、自由に生きるために。そのために、愚かな人間たちに”賢者”たちが独り占めしていた知識をばら撒いてやったのだ。その結果どうなった? この世界は? かつては王か何かのように崇められていた”賢者”が、今や世界の片隅に追いやられている。愉快なものだよ、ははっ」
 「それは…」
 「世界を司る者だなどと言われていたが、事実は世界を自由にする権限さえ持ち、絶大な力を与えられていながら、現状保持に腐心するしかなかった連中さ。何一つ救えなかった。この世の全ての苦しみをただ見逃してきただけの! 変わろうとも、変えようともしない!」
 「だったら君に、何が救える?」
突き刺すような言葉とともにハルは、波打ち際で楽しそうに笑い続ける女性の後姿を指差した。彼女の目は何も見ていない。足元で遊ぶ幼い子供の表情は虚ろで、穏やかな笑みを浮かべる父親らしき男性の顔は半分崩れかけたようになって、完全に再生されていない。
 「空っぽの人形に記憶を再現させるだけのままごとが、お前の楽園なのか。」
 「……。」
挑発しているわけではない。ハルは本気で怒っている。こんな顔を見るのは、シルヴェスタの森でハルガートと戦った時でさえ見せなかった。
 最早、言葉は不要だった。
 背後で海の波が砕け、その水滴が鋭い刃に変わって浮かび上がった瞬間から、戦闘は始まっていた。空気が軋むような音がして、空中に細かな光の粒が飛び散る。ハルの刃がリューナスの防御壁に阻まれて砕け散るのと同時に、フィオの炎が周囲を取り巻く。けれどそれは、打ち消せなかったごく一部の魔法が目に見えているだけなのだ。魔法の起動と、瞬間的な打消し。その繰り返しはあまりにも早すぎて、ロードには、リューナスが仕掛けようとしている攻撃がレヴィの力と相殺しあっていることしか判別がつかない。四人とも全く動かない。今までに何度も見てきた、純粋な魔法使い同士の戦いそのもの。
 (けど、おれは…)
ロードはナイフに手をやった。そこには、入れない。入っていっても足手まといになるだけだと…
 「おい、まずいぞ」
レヴィが呟く。「座標がズレてきてる。元の世界からの切り離しが始まってるぞ。このままだとこっちに取り残される。急いで片付けねーと…フィオ、もうちょい火力上げらんねーのか」
 「無理〜!」
少女が悲鳴を上げる。「打ち消されるから小分けにして撃ってるのに、半分以上不発なんだもん! 一気に大きいの出せないー」
 「ハル、…は、手一杯か」
 「…ごめん。ここでは<真実の眸>の力が…狙いが定まらなくて」
 「ちっ。時間切れになる前に飛べるか? こんな色も何も無いとこに取り残されるのはゴメンだぞ」
その時、ちらりとハルがこちらを見た。
 視線が合ったのは数秒。だが、ロードには彼の考えていることははっきりと分かった。
 (…終わらせる)
手を腰のナイフに滑らせる。ハルの眼の力が失われているこの世界でも、ロードの眼には、何故だか今でもはっきりと、リューナスの胸のあたりに滲むような赤い輝きが視えていた。
 攻撃に参加していないロードは、リューナスの視野の外にある。"賢者"でもなく、敵としては取るに足りないものと考えているのだろう。そこに隙がある。
 考えるより早く、手は動いていた。
 一瞬。軌道を修正する手間さえかける必要はなく、ナイフは一直線に三人の魔法の隙間をすり抜け、目標の真ん中に到達していた。
 「…!」
男の動きが止まった。次の瞬間、リューナスは、声にならないうめき声を上げて膝をついた。
 「な…くっ」
ナイフの刃の下から赤い染みが零れ落ちる。血ではない。魔石のかけらのようなものが零れて、砂の上に点々と散る。色の無いこの世界で唯一のその色彩は、異様なほど鮮やかさに目に映った。
 が、それも一瞬のことだ。
 次の瞬間、ハルとフィオの放った攻撃が同時に命中して、閃光と爆音、そして砂煙が辺りを包み込んでいた。
 「――やべっ」
空を見上げたレヴィが呟いた。「空間が破れる、飛ばすぞ!」
 いつもの、空間を飛ばされる時に感じるぐるりと世界が回るような感覚。
 だが、視界が変わったとき、目の前にあったのは見慣れた世界の風景ではなく、色あせたままの世界のどこかだった。
 「え?」
 「…逃がすものか」
振り返ると、胸の辺りを押さえたまま、荒々しく息をついている男がいた。


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