<本編2>

 22


 夏の雲が海の上にかかる季節になっていた。
 ソランから戻って来る頃には、オリーブの実は大きくふくらみ、色がつき始めていた。早摘みの分はそろそろ収穫時期で、手の空いている村人たちは日当たりの良い斜面で汗を拭いながら摘み取り作業に追われている。ロードも手伝いに出て、はしごに登って高いところの実に手を伸ばす。樹木越しにポルテのほうに視線をやると、青い水平線がわずかに見える。肩から提げた籠に摘み取った実を放り込みながら、彼は手を翳し、しばしそちらの方角を眺めやっていた。
 ソランから帰国するまでの間に起きた出来事は、ロードはほとんど関与していない。シャロットの話では、ヤズミンとの間で友好関係が結ばれ、今後、アステリアの<王立>とソラン王国の間で魔法使いの交流や共同研究が行われるようになる、ということだったが、詳しい内容は良く知らない。知る気も無かった。興味を示せば、ヤズミンもシャロットも、こぞって彼を引きずり込もうとしてくるに決まっていたからだ。
 知らないといえば、あのあとシエラとフィオがどうしたのかも、ロードは聞いていない。
 けれどそちらは、二人が話して決めればいいことだと思った。シエラはきっと、ヤズミンのもとに残るだろう。そして、賢明な彼女のことだ、"妹"フィオの秘密を自らヤズミンに話したりは、しないに違いない。
 「みなさん、お茶が入りましたよー」
丘の上からヒルデの声がする。籠を置いて登ってゆくと、家の前に折りたたみの椅子とテーブルが並べられ、焼きたてお茶菓子と湯気の立つポットが置かれている。焼き菓子は、ヒルデのお手製だ。
 「はい、ロードさんも」
お茶を注いだカップを差し出しながら、ヒルデがそっと囁く。「レヴィ様が来られてます」
 「レヴィが?」思わず手が止まる。
 「仕事が終わるまで待ってる、と言ってました。"ジュリオのほうは片付いた、手が空いたらイングヴィのほうに付き合ってほしい"って。」
 「ああ…。」
例の、人探しの件の続きだ。ティーカップに口をつけながら、ロードは、その後のことを考えていた。
 巻き戻し前の世界では、ジュリオは最後まで生存していて、塔の近くの町に家庭を持ったと言っていた。
 けれど今のこの世界では、十一年前に亡くなっている。同じ相手とめぐり合うことは出来ていたのか、家庭を持つ時間はあったのか、…確認も、どうするかの判断も、レヴィに託した。一人取り残され、生きる気力を失っているように見えたジュリオの老いた母親にも救いがあれば良いのにと願いながら。この世界でのシエラとフィオのように。
 カップの中身を飲み干して、ロードはヒルデに囁いた。
 「ちょっと行って来るよ。皆には、隣町に出かけたって言っといて」
 「はい。」
彼女は笑みを浮かべ、分かっているというように頷いた。レヴィが何処で待っているのかなど、聞かなくても判る。居間に入っていくと、上着を脱いでお気に入りのソファの上でくつろいでいたレヴィが体を起こす。
 「そっちの仕事は、もういいのか?」
 「それほど忙しい時期じゃないし、ちょっと抜けるくらい問題ない。――で? アテはあるのか? 相手は、あのリドワンだぞ」
 「抜かりは無い」
黒い上着を羽織ながら、彼はにやりと笑った。「既に不法侵入済みだ。」
 「…そいつは、準備のいいとこで。」
 「しばらくハルに動きを視ててもらったんだが、あのじいさん、滅多に自宅を出ないらしいんだよな。というわけで、行き先はノルデンの首都、レイゲンスブルグだ。」
レヴィが、内側から居間のドアに触れる。それから、何か考え込むようにドアノブに手をかけたまま向こう側の様子を伺い、思い切って押し開いた。



 夏にしては涼しい風が吹き込んでくる。
 目の前には白い尖塔の連なりと、高い城壁。その向こうには、尖った山脈の連なりが続いている。
 「…ここが、ノルデンの首都?」
初めて訪れる場所だ。足を踏み出すと、驚いたように鳥たちが飛び立ってゆく。振り仰ぐと、青空に向かって吸い込まれるように飛び立ってゆく灰色の鳩たちが見えた。
 「そ。ここがレイゲンスブルグ。ノルデン千年の都、難攻不落の三重城壁の首都――」
扉の閉ざされる音。振り返ると、レヴィの立っている後ろには、見張り塔の出入り口があった。どうやら、今いる場所は、どこかの城や館の屋上のような場所らしい。城壁のすぐ内側にあり、市街地が一望できる一等地だ。
 「緊張してるのか?」 
 「少しはな。<王室付き>の連中がいるわけだし」
 「シュルテンやフューレンにも<王室付き>の魔法使いはいたのに?」
 「他所とは全然違うよ。ここは奴らの本拠地だ。あと面倒なのが…あれだよ、…前にテセラとやりあってた頃に色々あっただろ。で、ぼくの顔を覚えてる奴がいる。」
 「顔? なんかマズいのか」
 「あー、あれだよ…流れで助けたりしたからさぁ…やたらと丁重にしてくる奴とか大げさに騒ぐ奴とかいて面倒くさいっていうか」
そう言って、彼は口ごもった。
 なるほど、それで一人で来るのがいやだったのだ。
 ロードは笑って腰に手を当てた。
 「安心しろ。少しは魔法の連中もしたし、何かあったらなんとかする。それより当面の問題は、目標と接触できるかどうか、じゃないか?」
 「下調べはしてある」
レヴィは、視線を屋上の端にやった。「そこの真下が、リドワンの部屋だ。」
 「……。」
ということは、ここが、<王室づき魔法使い>主席、リドワン・ド・ラルシュの居城なのだ。
 前置きもなく部屋の中に突然現われた二人組みを見るなり、書類机に向かっていたリドワンは、眉をちょっと釣り上げて片手を動かそうとした。魔石のはめ込まれた指環がその手にある。
 「あー、待て待て、イングヴィのことであんたにちょっと用事があっただけだ。すぐ帰るから」
ぴく、と老人の表情が動いた。
 「…イングヴィ? 誰のことだ。」
 「今更とぼけるなよ。あんたの長男だろ、嫡子扱いしてなかったみたいだけど」
レヴィは、手早く上着のポケットから赤い革張りの表紙をもつ手帳を取り出し、リドワンの目の前の書き物机の上にぽんと置いた。「唯一残ってた遺品だ。日記帳みたいだったから中身は確かめてない。あんたの好きにしろ。じゃあな」
ロードは慌てた。
 「おいレヴィ、そのまま帰るのか?」
 「長居してもろくなこと無いだろ、ノルデンの首都なんて」
 「…待て」
老魔法使いは、机の上の手帳から視線を上げた。突き刺すような厳しい視線が、二人に投げつけられる。
 「遺品、だと? お前たちは何を知っている。イングヴィなどという名の者は我が一族には居ないが、その者に何かあったのか」
 「居ないんなら聞くなよそんなこと」
部屋の出口の前まで来ていたレヴィは、今にも出て行きそうな雰囲気を醸し出しながら、興味無さそうに答える。「こっちは用が片付きさえすればそれでいいんだ」
 「昔の教え子に、そのような者がいた。十年以上も前に行方をくらませて、音沙汰無しだが」
 「ふーん、ド・シャールの家長と同じ魔法学校にいたのは、その頃かな?」
 「……。」
煽るような口調に、側にいるロードのほうが冷や冷やしていた。部屋の外には、すぐ近くに、幾つもの魔石の強い輝きが見えている。ノルデンの腕の立つ魔法使いたちだ。リドワンが合図したら、直ぐにもなだれ込んでくる。
 「…そうだ。魔法学校までは卒業させてやったのだ。だが、卒業の直後に姿を消した。何処で何をしていた? 知っているのか」
 「ある魔法使いに弟子入りしたよ。で、事故で死んだ。何があったか、何処で死んだかはぼくも知らない。」
 「嘘だな」
リドワンは薄く笑う。「ただの老人と侮っているのか? お前たちが何かを隠していることはお見通しだぞ。何が目的だ? 今更、こんなものを持ってきて、わしが揺らぐとでも思ったのか」
 「何だそりゃ」
 「お前たちのことは知っている。<王立>の連中と懇意で、都度仕事を引き受けているようだな」
 「それは、おれのほうだけだ」
ロードが答える。「こいつは関係ない。もっと言うと、おれも別に<王立>に所属してるわけじゃない。何なら、あんたの依頼を受けてもいい。内容次第だけど」
 「ふざけたことを」リドワンは右手を差し上げる。「ここがどこだか判っているのだろうな。合図をすれば、城の者たちがすぐに駆けつける。お前たちを拘束することなど簡単に出来る。何を知っているのか、口を割らせるのはそれからでも出来るのだぞ」
 「やってみろよ」
さっきまでノルデンの魔法使いを恐れていたくせに、レヴィはすっかり乗せられている。「あんたらの、そういうところが嫌いなんだよ。力でねじ伏せれば誰にでも言うことを聞かせられると思ってる。もっとも、それはイングヴィも同じだったけどな。あいつの場合は自信の無さの裏返しでもあったんだろうけどさ」
 「興味のない話だ。」
リドワンは、机の上の手帳を乱暴に押しやった。
 「それはシグニィにでもやるがいい。わしには用の無いものだ。」
 「シグニィ?」
 「母親だ。ロザリカに住んでいる」
 「……。」
数秒の沈黙ののち、黒髪の魔法使いは溜息とともに机に近づいて、手帳を取り上げ、元通りポケットに仕舞った。
 「無駄だったな、ここへ来たのは」
呟いて、背後の扉に触れる。
 「おい、レヴィ…」
言うより早く、彼は扉をくぐっている。ロードも慌てて後に続いた。
 「その力、あの人の前では使いたくないって前に言ってたのに」
 「あ、そうだった」
はたと気づいた様子で、レヴィは、手を自分の前髪にやった。「あー、むしゃくしゃしてて気がつかなかった。くそ、途中から完全にペースに乗せられてた。相変わらず食えないじいさんだな…」
 「おれのことも調べてたみたいだったな」
 「おおかたヒルデの兄貴あたりが調べたんだろ。ま、お前の素性なんてすぐ知れる。経歴上はごく普通の一般人だ。」
 「そうなんだけどさ…。」
リドワンが気に掛けている"正体不明"の魔法使いのうち、正体がすぐ分かるのはロードだけだ。正直、嗅ぎまわられるのはあまり良い気分ではなかった。
 諦めの気分で、ロードは、辺りを見回した。
 「…で、ここは何処なんだ」
さっきまで居た、灰色の岩で出来た大都会とは全く違う、柔らかな日差しと草原の広がる丘陵地帯が広がっている。出てきた場所は、どこかの牛小屋の入り口だ。牛たちののんびりとした声が、どこかから聞こえてくる。
 「ロザリカって言われたからな。たぶんノルデン東方の山岳地帯だったと思って、適当に近い場所に繋げたんだ。」
 「適当だなあ」
牛が首につけたベルの軽やかな音が聞こえてきた。目の前の通りを、牛を追いながら牛飼いがやってくる。
 「あ、すいません。道を聞きたいですけど」
ロードが呼び止めると、つば広の帽子を被った牛飼いが顔を上げる。
 「ロザリカって町か村、このへんにあったりします?」
 「ロザリカ? っていうと…ああー、あの山の向こうに確か、そんな町があったかな」
 「あの先か」
レヴィは手を翳して、家畜のたむろしている草原の向こうに視線をやっている。「案外、近くまで来られたな」
 「ありがとうございます」
牛飼いにお礼を言って、ロードはレヴィのほうに戻った。「このあたりのことは、どのくらい知ってる? おれは初めてで良く分からない」
 「ぼくも数回しか来たことはない。歩くのは今回が初めてだ。」
ということは、以前は鴉の姿で飛びながら通過したのだろう。
 「辺境だし山しかないし、人もろくに住んでないような場所だ。首都からはかなりの距離がある」
言いながら、レヴィは上着のポケットに手を突っ込んで歩き出す。ここがかなりの田舎だということは、ロードにもすぐに判った。すれ違う人はほとんどおらず、居るのは牛や羊ばかり。家もほとんどない。フィブレ村のあたりだってもう少し往来はある、と思えるくらいの過疎ぶりだ。大都市ばかりだと思っていたノルデンにも、こんな場所があったのだ。
 しばらく道なり歩いていると、坂道の向こうに小さな町が見えてきた。
 山の谷間にすっぽりと収まるようにして作られた、こぢんまりとした、だが、美しい町だ。山あいを下ってくる小川が町を横断するように流れていて、通りは河に沿って作られている。
 「ここが目的地、かな」
ロードは、町の入り口に掲げられた、いつ作られたのか分からない古びた「ようこそロザリカへ!」という看板を見上げた。木の板に描かれた字は風化して掠れかけている。磨り減った玄関の敷石、色の剥げた店の入り口。町全体が、同じような色あせた郷愁に囚われている。まるで過去の夢に浸ったまま眠っているかのような場所だ。
 ロードとレヴィは手分けして目的の人物を探すことにした。手がかりは、シグニィという名前だけ。それと、少なくとも過去に一度は、首都の大貴族と関わりがあったということ。
 小さな町のこと、手がかりはすぐに見つかった。
 「ああ、覚えとるよ。珍しく出戻ってきた人だな。この辺は、若いもんはみんな出稼ぎにいっちまって戻って来ん」
買い物をしながら話をした雑貨店の店主は、ひげをつねりながら寂しそうにそんなことを言った。
 「どこに住んでるんですか?」
 「川の上流の山の手かね。町の反対側さ。入り口に大きな木が植わっとる家に一人で住んどるよ」
情報を手に入れて待ち合わせの川沿いに言ってみると、レヴィもちょうど戻って来るところだった。
 「住んでる場所が判った」
 「こっちもだ。けど誰も、魔法使いの愛人だったことは知らないみたいだったな。息子の話も聞いたことがないと言ってた」
川の流れを遡り、言われた場所に家を探す。その家は、山の斜面に沿って家々の立ち並ぶ坂道の、いちばん奥にあった。入り口には確かに、見事な枝ぶりの木が一本、立っている。猫の額ほどの小さな庭があり、その奥が玄関だ。中に誰かいるのかどうか、外からでは分からない。
 庭に続く格子扉を押すと。錆びた甲高い軋み音をたてた。それがドアベル代わりだ。
 「すいません、誰かいますか」
声をかけると、奥のほうで人の動く気配がした。
 「どうぞ、開いてますよ」
中から返事。二人は顔を見合わせて、目の前のドアノブに手をかけた。
 玄関を開いたとたん、中から油のような匂いが流れ出してくる。ニス、皮。それにゲッソ。玄関には、まだ布の張られていないキャンバスの木枠が立てかけられている。ちょうど、家のあるじが前掛けを直しながら玄関に出てくるところだった。彼女の両手の汚れを見れば、ここが何をする家なのかは一目瞭然だった。
 「あらあら、見かけない子たちね。工房の見学?」
ぽっちゃりとした色白の女性が無邪気な笑窪を見せる。飾りっ気はなく、髪は無造作に頭のうしろに束ねられ、まくりあげたシャツの袖口は油で汚れている。想像していたのとは全く違う。レヴィもロードも、一瞬、言葉に詰まっていた。
 「…あんたが、シグニィさん?」
 「ええ、そうよ。」
この人が、本当にあの気難しいリドワンの愛人だったというのか。確かに、若い頃はさぞ美人だったろうと思わせるところもある。しかし今は、身だしなみにもほとんど気を使っていない、田舎に一人暮らしの中年女性だ。
 「イングヴィの母親だって聞いてきたんだけど…」
 「あらま、よくご存知ね。でも長いこと連絡も無いの。誰に聞いてきたの?」言いながら、ひょいっとレヴィの瞳を覗き込む。
 「リドワンに…」
 「ま。あの人に会ったのね? ということは、魔法学校の学生さん? 遠路遥々、大変だったでしょ」
 「いや…」
一瞬で距離を詰められたような気がした。無邪気だが、愚かには見えない…不思議な人だ。
 レヴィは、黙ってポケットから手帳を取り出すと、彼女の目の前に差し出した。シグニィの顔に浮かんでいた笑みが消えていく。
 「……そう」
彼女は、一瞬でこちらの言いたいことを察したようだった。両手でそれを受け取ると、優しく両手で表紙を撫でた。「あの子、もう居ないのね」
 それから、顔を上げて再び笑顔を作る。
 「入って。お茶していく時間くらいあるんでしょう? 散らかってるけど。」
 「いや…ぼくらは…」
 「若い人が来るのは久し振りなのよ。ね」
 「……。」
断りきれず、二人は玄関から家の中に踏み込んだ。玄関を通り過ぎるとすぐに絵の具やキャンバスの詰まれた物置のような部屋があり、その先に、天井の高いアトリエがあった。壁一面に立てかけられた大きなキャンバスは、ちょうど今から下線の上に色が乗せられようとしているところだ。旗を掲げた騎乗の騎士を先頭に、それに続く兵士たち。戦争の図のようだ。パレットと筆、それに擦り合わされたばかりの大量の顔料が、キャンパスの前の小さな作業机に載せられている。
 「その絵は依頼主の新築のお城の玄関に飾る用の注文よ。うちは本来は内装壁画が専門なんだけどね。」
窓際の机の上を片付けながら、シグニィが言う。「この町の納骨堂の壁画と天井画は私が描いたのよ。時間があったら、帰る時に見ていってちょうだいな」
 「画家なのか」
 「意外?」
 「いや、まあ…。」レヴィはどう答えていいのか迷っている。「…片田舎の画家が、どうやって首都の貴族の名家の当主なんかと知り合ったんだ?」
 「簡単なことよ。壁画を描きに行ったの、お屋敷に。当時は私も若かったし、師匠の下について、だけど」
テーブルクロスを直してティーカップを並べると、彼女は側に置いてある小さなストーブの上にやかんを置いた。夏だというのにずっと火が入りっぱなしなのだ。ロードが驚いた顔をしたのに気づいて、彼女はにっこりする。
 「絵の具を乾かすのに必要なの。それにこの辺りは夏でも夜が冷えるから。」
 「この大きな絵、完成するまでどのくらいかかるんですか」
 「んーそうねえ、早ければ半年くらい? 長いときは一年以上かかることもある。でも今回は構図も登場人物も向こうからの指定だったし。」
シグニィの頬に笑窪が浮かぶ。「この先頭の人が依頼人のご先祖様なんだそうよ。爵位を授かった歴史的戦争の栄光の場面。こういう依頼は良くあるわ。本当はもう少し、夢のある題材のほうが好きなんだけれど…。」
ロードは、明るく快活な話すシグニィの横顔の、後れ毛のあたりを眺めていた。もう一つの世界で見たイングヴィの、”今も生きていた場合”の姿と、今の彼女とは、確かに良く似ている。気位の高そうな口元と、どこか不安げな瞳を除けば、だが。
 「リドワンとは、やり取りはあるのか」
 「一年に一度くらいはね。お決まりの内容を書いた手紙と一緒に、いくらかのお金が届く。私はもう、そんなの要らないって言ってるんだけど。」
部屋の中を片付けて回りながら、彼女は答える。
 「この町へ戻る時、本当は息子も一緒に連れて来たかったのよ。でも父親に似て魔法の才能があったから、あの人に預けてきたの。そのほうがいいかと思ってね。」
 「けどあいつは、嫡子扱いはして貰えなかった。」
 「学校は出られたんでしょ? それで自分の腕があれば、楽に食べていけるじゃない。そのほうが幸せかなって――」
 「どうかな」
 「あの子、幸せじゃなかった?」
 「分からないよ。聞いたことも無い」
やかんが蒸気を上げる。
 「座って。お茶を入れるから」
窓際のテーブルの上には、三人分のお茶の用意がされている。
 「哀しまないんだな、息子が死んだっていうのに」
 「だって、とっくに諦めてたもの。最後に手紙が来たの、もう十五年も前よ。学校を卒業したら旅に出るって書いてあった。世界で一番偉大な魔法使いになる、って。それきりよ」
 「……。」
 「最後に会ったのなんて、もっとずっと前。あの子が歩けるようになった頃だったわ。私の顔も覚えてなかったと思う。ここへは一度も来なかったわねえ。貴族になりたがってたみたいだし…母親が平民出の、しかも絵描きだなんてね。忘れたかったんじゃないかなー」
 何も言えなかった。
 何も、聞けなかった。
 レヴィもロードも、一人で話し続ける彼女の言葉に耳を傾けながら、時々相槌を打ち、お茶を飲んで、工房を後にした。そして、その後で町のはずれにある納骨堂へ行ってみた。あのシグニィという不思議な女性のことが、絵を見れば少しは判るかとも思ったからだ。
 古びた石造りの納骨堂の外見は地味そのもので、最初は、一体どこに壁画があるのかと思いながら中に入った。けれど一歩踏み込んだとたん、そこには、別世界が広がっていた。
 「これは…」
ロードは息を呑んだ。紺色に塗りつぶされた天井一杯に広がる星空。夜空を泳ぐ白い大きな鯨。壁に向かって下ってゆく部分には広がる海と、水平線から顔を出そうとしている大きな月の輝きがある。反対側には真昼の空と輝く太陽。森と、大樹。山々の間には高い塔があり、その麓に鴉が羽根を休めている。
 眺めていると、不思議な気分になってくる絵だった。幻想的でとりとめのない夢の風景のようなのに、なぜか自分は、この絵の意味を知っているような気がする。
 「"お伽噺"、か」
 「え?」
 「"三賢者"の伝説だよ、この絵のテーマは。光の生まれる場所…始まりの物語」
振り返ると、レヴィは笑っていた。「やっと、少しだけあいつのことが判った気がする」
 祭壇の上に供えられたろうそくの光が、部屋の中いっぱいに描かれたお伽噺をゆらめかせる。
 「多分、あの母親の判断は正しかったんだろう。実際がどうだったにせよ、イングヴィは最後まで、自分はノルデン貴族だと思って誇りを持って生きていた。だから、どうしても欲しかったんだ。"身分"とか"血筋"とか、ぜんぶ越えられるものが。お伽噺の力が…。」
 「……。」
 「ま、ただの想像なんだけどな。」
取ってつけたような冗談めかした笑みで言うと、レヴィは、くるりと踵を返した。「うし、用事済んだし帰ろうぜ! 腹減ったしな!」
 「……。」
――叶わなかった願い。決して叶えることは出来なかった願い。
 イングヴィが求めていたもののことを、リドワンは知っていたのだろうか。シグニィに渡ったあの手帳には書いてあるだろうか?


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