Reginleif Saga

”エイナルの夢”



 竜が倒れて、熱い血潮が流れている。シグムントは、まだ生きていた。たった今、息絶えたばかりの竜の顎から、小人の鍛えた剣を引き抜くところだ。
あの珍しい異国のマントは、竜の火にも燃え尽きることなく、端が少し焦げただけで済んでいた。
 (終わったな)
腕を押さえたオランが、よろめきながら近づいてくる。
 (オラン、傷は大丈夫か)
 (かすり傷だ、心配ない)
だが、オランの右腕はだらりと垂れさがり、竜の炎によって、骨まで焼かれていた。
遠目にも、もう剣を持てるにならないだろうということが、見て取れた。
 (お前は生き残った。…行け。レノーアには、お前の行った場所で待つよう伝えておいた)
 (ありがとう)
剣の血を払い、鞘に収めるその動きを、エイナルは視線で追っていた。
 (あの子を、幸せにしてやってくれ。約束だ)
 (…必ず)
その場所に背を向けて、シグムントは馬に飛び乗った。疾風のように、駆けて行く。

 「駆け落ちだ」
エイナルは呟いた。
 「シグムントは、駆け落ちの手引きを頼んだんだ。竜を倒して戻ったら、レノーアと一緒に国へ帰るつもりだった」
 「そう、彼はレノーアを連れて戻ることを望んだ。竜殺しの英雄が連れてゆくのなら、もしかすると、レノーアの祖父も、それを許したかもしれないな。
 …だが、運命というのは、いつだって皮肉なもの。見てごらん」
馬は森へと差し掛かった。シグムントはそこで馬を下りて、水に己の姿を映している。
 「これからレノーアに会いに行くのに、竜の血に染まった恐ろしげな格好では、彼女を怖がらせてしまうと思ったのだろう。
 ほんの少しの優しさと、気の緩みが、普段なら決して在り得ない隙を作った。幸せへの予感、希望…、それらはみんな、ほんの少し後には、いっぺんに崩れ去ってしまったのだが。」

 シグムントは剣を外し、マントと服脱いで馬にかけ、泉に身を浸す。
 ここを出て真っ先に抱きしめる、柔らかな髪の娘のことを思っていたかもしれない。それとも、彼女とともに国に帰りついた時の歓声を、夢見ていたのかもしれない。

 だがそれは、結局、かなわぬ夢だった。
 運命は残酷に微笑んだ。切り開かれた道を真っ直ぐに駆け出そうとした男の背後に、暗い影が忍び寄る。
 エイナルは、誰かの手が梢にかけられた剣を取るのを見ていた。
 手はゆっくりと剣を鞘から抜き放ち、泉に忍び寄り、まだ竜の血に染まったままのその刃を、何も気付かない背中に向かって、振り上げる。
 「駄目だ! コレール…」
その瞬間、シグムントが、弾かれたように振り返った。
 エイナルの叫びが、時を越えて霧の向こうに届いたかのような錯覚。しかし、コレールは構わず、刃を振り下ろし、すべての憎悪を叩き付けた。

 音は聞こえない。
 風も吹かない。
 霧の中で、エイナルは、はるか昔の殺人を見ていた。
飛び散った赤いシグムントの血に染まって、泉は、みるみるうちに黒く濁る。コレールは剣を握り締めたまま、無表情に、沈んでゆく王の姿を眺めていた。
 「…彼を殺したのは、コレール…。」
やっとの思いで口を開いたエイナルが呟いた。

 そう、シグムントを殺したのは、コレールだ。

 「“むかしむかし、婚約者を奪われて嫉妬にかられた一人の男が、相手の男を殺しました”。
 …これも、よくあるお話だがね。竜に殺せなかった男を殺したのは、英雄でも何でもない、ちっぽけでありふれた男だった。
 竜退治の代償が、この卑怯な一撃さ。シグムントが本当に欲しかったのは、栄誉でも、財宝でもない。この世にたった一つの美しい宝、彼にとっては国ひとつ買える財宝よりも価値のあった、そう、“彼女の微笑み”だけだったのだが。」
ベリオンの声を聞きながら、エイナルの頬には、知らず涙が流れていた。
 はるか昔に死んだ、知りもしない一人の男の運命を思うと、幼い頃、この物語をはじめて聞いた時のように、胸が締め付けられるようだった。
 「…レノーアは、約束の場所でずっと待っていた。」
霧の中に、姿が浮かび上がる。
 俯いたまま、花の輪を作り続けていた彼女は、何かに気付いたように、はっと顔を上げた。
 画面が変わった。海だ。港を見下ろすその崖に、彼女は、ただ呆然と立っていた。
 (どうして?)
彼女の目は、港を出てゆこうとする船の甲板に釘付けになっていた。遠く、色さえもかすんでいたけれど、彼女にとっては見間違うはずもない。それは、見慣れた、シグムントのマントだった。
 「それは、コレールの仕組んだことだった。異国の豪華なマント、その珍しい織物を、彼は、港の船乗りたちに、服と一緒に売り払ったのだ。そのときに、条件をつけて…出航するとき、そのマントを着て、甲板のいちばん目立つところに立ってくれ、と。
 奇妙な条件だったが、破格の安値だったから、買い入れた男は一も二もなく従った。もしもこの男が不誠実だったら、あんな悲劇は起きなかったかもしれない」
レノーアの両目に、涙が溢れた。
 船はあまりに遠すぎて、彼女には、そこにいるのが恋人だとしか思えなかった。
それでも彼女は信じたい、と、信じようとしていた。追いかければ間に合うのでは、とも。
だが、踵を返し、港へ向かって走り出そうとする彼女の前に、何かかが立ちふさがった。
 (レノーア、何処へ行く)
彼女は息を呑んで立ち止まった。
それは、馬に乗り、ぎらついた目をした婚約者、コレールだった。
 (あいつは、もういない。お前を置いていったぞ)
 (嘘)
 (俺に隠せると思ったのか? お前が隠れてあいつと何をしていたか、俺が全部ばらしてやろうか。)
 (嘘、)
 (あいつがみんな喋っていったんだ。お前は遊ばれたんだよ。さあ、俺のところへ来るんだ)
 (嘘よ。あの方が私を騙したというの? 私を置いて、国へ帰ってしまったというの?)
レノーアは、数歩、うしろへ後すさる。それを見て、馬を降りたコレールが足早に近づこうとする。
 (来ないで!)
彼女は悲鳴を上げた。
 (来ないで。嘘だと言って。私は…私は…!)
 (レノーア、お前は俺のものだ!)
 (嫌!)
男を突き飛ばした反動で、レノーアの体が海に向かって傾いた。彼女の目は、どこか遠いところを見ていた。暗い絶望。希望の光さえ見えない、闇の空。
 そして、目の前にいる男の腕にとらえられるよりも、死へと続く自由を選んだのだ。
 あっ、と思う暇もなく、彼女は崖から一歩、足を踏み出す。
光にきらめく、泡立つような銀色の髪。いっぱいに見開かれた大きな瞳。涙の粒が滑り落ちて、頬を離れた。
 (レノーア!)
必死で手を伸ばしたコレールの指は、むなしく宙を掻いただけ。
 引き寄せようとして拒絶されたその腕は、二度と、彼女を抱くことは無かった。
 そして――。

 いつしか、霧の中には、オランと、コレールとエイナルだけが取り残されていた。
 二人の男は、エイナルには気づいていない。時の霧の向こうから、こちら側は見えないのだ。
 町の人々のさざめきが漂う。噂する声が聞こえる。
 「竜が倒されたその後、シグムントの姿が消えた。レノーアもまた、いなくなった。」
声だけが聞こえる。霧が濃く、小人ベリオンの姿すら見えなかった。
 「一緒に駆け落ちしたのか、それとも、シグムントが乙女を攫って国へ連れ帰ったのか。
 いずれにせよ、彼が望んだところで小さな集落には、竜退治の英雄が望むだけの報酬を払う力は無い。強力な異国の王の支配から、逃れる術も知らなかった。それが若い娘の一人で済むのなら、むしろ身内の娘が立派なところへ嫁ぐことが出来て良かったのだと、人々は幸せな方向へ噂を広げたものさ。
 だがね、真実を知るオランは違っていた。
 手引きをしたのは彼自身だ。二人は、無事に出会えたら、ひそかに一度、屋敷へ戻り、おさ長に最後の挨拶をするはずだったのだ。コレールは、そこまでは知らなかった」
 (コレール、本当のことを言え。)
オランは、夜遅く、したたかに酔って町に戻ってきたコレールを問い詰めていた。
 (なぜお前が、シグムントの剣を持っている。レノーアはどうした。二人はどこへ消えたんだ)
包帯で吊られた右腕は使わずに、無事な左腕で、コレールの胸倉を掴む。
 (答えろ! まさかお前、シグムントを…)
 (そうさ!)
酔いで真っ赤な顔をしたコレールは、舌を噛みそうになりながらメチャメチャに怒鳴っていた。
 (俺が殺してやったよ、この手で。竜殺しの英雄をな!)
 (お前…)
オランの目に怒りが走る。
 (殴るのか、オラン。その使い物にならない手で俺を。殴れよ。だがな、あいつはもう戻って来ないぜ。レノーアもな)
 (お前は…なんということを…。)
左手の力が萎え、オランの手を離れたコレールは、その場にずるずると座り込む。緩んだ瞳には、混迷の色だけが渦巻いていた。
 (レノーア…。)
いつしか、コレールは、だらしなく口を開けたまま泣き出していた。
 (お前まで死ぬことは無かったんだよう。レノーア、そんなに俺が嫌いだったのか? 何でだよう。俺はただ、お前が…お前がいなくなるのが寂しかった…それだけなのに…。)
 (そうだ、ただそれだけのことで、お前は大それた罪を犯したのだ。だが、悔やんでも、もう遅い)
オランの顔には、悔悟と苦しみの皺が深く刻まれていた。
 (俺が手引きをしなければ、二人のうちどちらかは生きていたかもしれない。俺もお前の共犯だ。…剣を貸せ)
彼は、コレールの手から、竜とシグムントの血に染まった、その剣を取り上げた。
 (お前は何も喋るんじゃないぞ。俺も、この話は、決して誰にも喋るまい。永遠に…、誰にも知られないように…。)
霧が激しく渦を巻いて、辺りの景色を飲み込んでいく。オランも、そしてコレールの姿も。
 霧の中で、何かが動いた。
 大きなもの。竜? …違う。竜はシグムンドによって倒された。ならば、それは何だろう。
 (お前は裏切られた)
虚ろな声が響く。
 (偽りの愛…。裏切りの代償…。婚約者を欺いてまで通じた男は、お前を捨ててしまったよ。 
 悔しいかね? 悲しいかね? そう、もっと後悔するがいい。暗い思いを抱いたお前は、美しい…。)
ゆっくりと立ち上がる、白い大きなもの。蛇だ。赤く輝く目をした蛇が、苦しみに満ちた咆哮を上げながら、霧の奥に沈んでいく。
 空を切る音が悲鳴に聞こえて、エイナルは思わず耳を塞いだ。白い靄がゆらめき、渦の中で形を取り、ゆるゆると岩の上を歩き出す。
 崖の上に濃い霧が立ちこめたかと思うと、咲き乱れていた白いクローヴァーの花も、瑞々しい葉も、酸を浴びたように黒ずんで、次々と枯れてゆく。
 霧の中で、何かが、暗い笑みを浮かべた。その足元から、黒い醜い生き物が次々と生まれてくる。
 「霧の王だ!」
エイナルは、咄嗟に何かを掴もうとした。それが何なのかは、自分でも良く分からない。一度も帯びたことのない、剣を掴もうとしていたのか。
 だが、彼が武器を手にするまでまなく、後ろから誰かが飛び出して、霧の王めがけて刃を振り下ろした。

 その剣を、彼は見た。
 柄に刻まれた模様は既に薄れたが、神々の名を記した文字はまだ、きらめいている。
 オランに良く似た青年。自分にも、それから、他の誰かにも似た…
 霧がちぎれ、黒い生き物たちがみなかき消され、その向こうから、レノーアによく似た銀色の髪の少女が浮かび上がる。剣を手にした青年は、顔を上げ、開いている左の手を真っ直ぐに差し出す。
 少女はためらいがちに、自分の手をその手に重ね、そして…
 霧の中で最初に見た、幸せそうな乙女と同じように…、優しく、柔らかく微笑んだのだった。


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