Reginleif Saga

第九歌章 破滅



 レヴィンが屋敷の戸を叩いたのは、まだ夜の開けきらない時刻、と言っても、この季節はほとんど夜が明けることはないから、人々はとっくに起き出していた。
 寒い冬の空はいつもどんよりと沈んで、ほとんど日も差さない。人々は、短い夏の間に大いに行動するのだがね。

 誰か、と誰何する声に、彼は答えた。自分はソルマルケルのレヴィンである、ユングヴィに合わせて欲しい。ここに弟のナルヴィが来ていると聞いた――。
 家の中ではざわめきが起こり、慌しくばたばたと走る音がした。ややあって、レヴィンは家の中に招き入れられ、扉が閉まる。
 エノーラはひとり、屋敷の外で馬の番をしていた。
 雲の流れが速い。見上げた空は透き通るほどに高く、耳鳴りがするほど静かだった。
 なぜか、胸騒ぎがした。屋敷の中の、人の気配が強すぎる。
 馬のいななく声で、彼女ははっとした。くつわの音。はみを噛まされた馬が暴れて、馬具ががちゃがちゃ鳴っている。
 茂みの中に身を隠しながら、彼女は、音が通りすぎていくのを待っていた。早くレヴィンが帰って来ればいい。冷たい手を息で温めながら、彼女は、震える体を両腕で抱きしめた。ここは、霧の岬よりも寒い。たくさんの人の思いが交じり合って…。

 貿易商人オーフェイグルの屋敷は、レヴィンの思っていたよりずっと大きく、美しく飾り立てられていた。
粗末な服であらわれた自分が、ひどく場違いに思えるほどだ。
 「久しぶりだな、レヴィン。またこうして会えるとは思わなかった」
両手を広げて笑顔で出迎えるユングヴィは、立派な衣装を纏い、堂々として、この豪華な屋敷の中に溶け込んでいた。
 彼もまた、小さな町の“王”になっていた。レヴィンは、それがひどく恣意的なものに感じて、思わず眉をしかめずにはいられなかった。
 「ナルヴィがここにいると聞いた」
 「ああ。お前に面倒を見るように頼まれたからな。そうだ、紹介しよう…」
ユングヴィの後ろから、若い、美しい娘が現れる。
 「妻だ。結婚した」
紹介されて、娘ははにかみながら挨拶をする。
それは、エノーラとはずいぶん違った娘だと彼は思った。
 誰からも愛され、苦しむことを知らなかった、無垢な娘。白い顔は整って美しく、生まれながらに祝福されている。
 人の最も深い場所にある、炎のような暗い感情を知らない。誰もが持っている、呪いを呼び覚ます力のことを、彼女はおそらく、一生理解することはあるまい。
 「おめでとう。…ところで」
 「まあ、そう焦らないでくれ。ナルヴィは確かにここにいる。大方、アルドレットから何か言われて来たんだろうが、心配するな。エヴァンジェリンと、二人とも元気だよ。」
そこまで言うと、彼は、すうっと息を呑んだ。
 気配が変わったように思えた。
 「ここでは何だ。来てくれ、話したいこともある」
召使たちが道を開け、ユングヴィは館の主らしく堂々と、奥へ歩き出す。レヴィンは、後に続いた。そうするしかなかった。
 外にいるエノーラのことも心配だったが、それより、この屋敷を包む奇妙な空気が気になっていた。
 そしてその理由は、すぐに明らかとなったのだ。
 案内された、ゆったりとした応接室で、ユングヴィの杯を受け取った時に。
 差し出された杯の中には、赤い酒が入っていた。勧められて飲まないわけにもいかず、一口だけ飲んで話を切り出そうとしたとき、レヴィンは、自分の体が痺れたようになって、うまく動かないことに気がついた。
 「眠り薬だ、すまないな」
当惑したレヴィンの視線を受けても、ユングヴィの口調は、固く、冷えたままだった。
 「お前、何を…。」
欺かれることなど、予想もしていなかった。
 急に襲ってきた眩暈と戦いながらも、彼はまだ信じられなかった。
剣は持っていない。それは、エノーラに預けて来た。一体誰が、友人に家を訪ねるのに武器を持っていくだろう?
 意識を失いつつある彼の頭上から、残酷な声が響いた。
 「ナルヴィとエヴァンジェリンを結婚させよう。そうすれば、アルドレットの目論見も台無しさ。奴の代わりに、俺たちが外海との貿易を仕切らせてもらう。」
 「…何故、そんな」
 「お前はとっくに死んだ人間なんだ、レヴィン。戻って来てはいけなかった。化け物と一緒に果てるべきだったな」
血を流して屋敷の中を汚すことも、自ら手を下すこともしない。それが、今のユングヴィに示せる、精一杯の友情だった。
 「眠っているうちに海で溺れさせろ」
ユングヴィは、招き入れた召使たちにそう命じた。顔をそむけながら。
 「死体は持って戻って来い。ナルヴィに、兄の死体が海で見つかったと見せてやるのだ。」
そうすれば、少年は希望を失って、自分の言うとおりになると思ったのだ。
 召使たちは二人がかりでレヴィンを引きずり、荷馬車に載せて屋敷を出て行こうとした。
 だが、その時―――
 屋敷の裏手で、赤く、火の手が上がったのだ。

それは、突然のことだった。
 辺りに油の匂いが立ちこめ、火を付けるのに使われた干草が、厩を馬ごと燃やし尽くしていた。
 「何事だ!」
ユングヴィは、逃げ惑う召使たちを押しのけ、窓に張り付いた・
 暴徒たちは、塀を打ち壊し、手に手にたいまつを掲げて次々に乗り込んでくる。かすかな光に剣がきらめき、逃げようとしていた者たちが切り殺されていた。
 わあわあと、物凄い怒号が押し寄せていた。
 「わ、若旦那様」
 「あれは何者だ!」
 「ソルマルケルの町の者です。屋敷を打ち壊すつもりですよ」
 「何だと?!」
ユングヴィの顔色が変わった。ぎりぎりと歯軋りして、拳を握り締める。
 「おのれ、アルドレット。レヴィンに来させて、気をとられている隙を狙いやがったな。…剣を寄越せ!」
もはや、容赦する気持ちは無かった。一人残らず打ち倒し、もはや反逆できぬようにしてやる、と。
だがそれは、相手も同じことだった。
 眼下で殺し合いが始まるのを見ていたナルヴィは、急いで部屋を抜け出して、エヴァンジェリンのもとへ駆けつけた。
 少女も、この騒ぎに気がついて、不安に震える目をして、部屋の隅に縮こまっていた。
 いつもは必ずついている召使も、見張りも、今はどこかへ消えている。
 「来るんだ」
ナルヴィは、彼女の手を掴んで引っ張った。
 「何が起こっているの?」
 「君の兄さんが、君を取り返しに来たんだ。それで大騒ぎになっているんだよ。」
 「えっ…」
エヴァンジェリンの表情が凍りついた。
 「逃げなきゃ。早く」
彼らは、そっと廊下に抜け出して、辺りの様子を伺った。人はいない。おかしい。こんなに静かなはずはないのに。
 だが、その理由は、廊下を曲がったところですぐに分かった。
 召使たちと護衛が、背中から斬られて、折り重なって倒れていたのだ。
 「きゃ…」
 「見ないで!」
ナルヴィは手で少女の顔を覆い、視線をそむけさせた。
真っ赤に染まった絨毯に、まだ血が流れ出している。倒れてから間もない。もう、屋敷の中まで暴徒が入りこんでいるのだ。
 「じっとしてて」
少女から手を離し、少年は、おそるおそる床の上に落ちていた剣を拾い上げた。そんなものは使ったことがない。手にしたこともない。けれど、何も持たないよりはましだった。
 目の前に倒れている、この男の命を奪った者が、まだ、この近くにいるかもしれない。
 何かあれば、自分がこの少女を守らなくてはならないのだから。
 少年は片手に剣を握り締め、もう片方の手でエヴァンジェリンの手を握り締めて、慎重に歩きだした。屋敷の中のことは、よく知っていた。なるべく人に見つかりにくそうな裏戸を選び、外に出た。
 そこも、すでに死んだ人間で一杯だった。あちこちから、剣の打ち合う音や悲鳴が聞こえてくる。ユングヴィの家の者だけでなく、見知らぬ人々も、多くが傷を負って倒れていた。
 むっとする血の匂いで、彼は、思わず吐きそうになった。
 「どうして、こんな…。」
少女は泣いていた。
 「わたしのせいなの? わたしがいけなかった?」
 「君のせいじゃないよ」
ナルヴィは、手に力をこめた。
 「みんな、大人たちが悪いんだ。僕らは何もしていない、悪いことなんかしていない」
信じるように、何度も何度も繰り返して、彼は歩き出す。
 そう、何も――自分たちは何も、悪いことなんか、していない。

 騒ぎが起きたのは、エノーラも気がついていた。
 嫌な予感で首筋がぴりぴりしていた。何が起きたにせよ、屋敷に火の手が上がるのが、良いことのはずもない。
 彼女は馬を木に繋いで駆け出した。人目に触れることを恐れないでもなかったが、それより、レヴィンの身が心配だったのだ。
 正面の入り口は、既に、押し寄せる人々と押し戻そうとする人々でいっぱいだ。塀が崩され、辺りに瓦礫が散らばっている。彼女は裏口に回った。と、そこには丁度、出て行こうとしていた荷馬車と、取りすがろうとする人々がいた。
 逃げようとしているのではない。
 エノーラは直感した。なぜなら御者台に座る男たちの顔は、恐怖に引きつっているのではなく、驚きに満ちていたからだ。
 「おい、貴様、何を」
荷台に駆け寄ってきた怪しい女に、御者台の男たちは慌てた。
その隙に、人々は荷台にかかっていた幌を剥ぎ取った。何か金目のものを積んで逃げようとしているのではないかと思ったからだ。
 だが、そこには、縛られて転がった男がひとり、死んだようにぐったりと横たわっているだけだった。
 「レヴィン!」
エノーラは男の名を呼びながら駆け寄ると、その体を激しく揺さぶった。
 「…なんてこと。しっかりして」
 「この男の仲間か」
 「そうよ。あなたたち、この人に何をしたの?」
彼女の目は怒りに燃えて、襤褸の下から流れた髪は乱れていた。ただならぬ気配を感じた男たちは、顔を見合わせ、用心深く剣を向ける。 
 エノーラは悟った。
 この人間たちは、自分たちを殺すつもりだと。
戦う力は自分には無い。一人で逃げ出せば、命は助かるかもしれない。けれど、それは、決して選ぶことの出来ない選択肢だった。
 彼女は迷わず、頭から被っている襤褸布に手をかけた。そして、荒々しく剥ぎ取って、顔を露にした。瞬間、男たちの表情が凍りつく。
 「お前…一体」
彼女は、知っていた。自分の顔を覆う、呪われた、鱗のような皮膚が、どれほど恐ろしげに見えるのか。
岬を出て、たまたま通りかかった旅人たちに姿を見られたとき、彼らがこれまで示してきた反応のとおりに。
 誰も自分を人間とは思わなかった。
 岬に住む化け物の子と呼んで、ひどく恐れた。
 「…例の魔女か、あの、呪われた岬から来たという」
男の一人が、ごくりと喉を鳴らし、押し殺した声で呟く。
 「そうよ。あたしは霧の岬の魔女」
涙をこらえて、彼女は低く言葉を叩き付けた。今は魔女と呼ばれてもいい。それで、この男たちを追っ払えるのなら。
 「この人が、化け物を倒してあたしたちを従えたのよ」
 「何を、馬鹿な」
一人が剣を振り上げようとしたとき、シャアッ、と声をたてて、白蛇が彼女の胸元から滑り出た。それでもう、男は、すっかり戦う気を無くしてしまった。
 「あたしのこの顔を見なさい。蛇の呪いで死にたくなければ、去りなさい。それとも、今すぐに死にたいの!」
 「…ひっ」
彼らは顔を見合わせ、一歩ずつ、あとすさりはじめた。誰だって呪われたくは無い。得体の知れない、悪しきものに手を出すのは、馬鹿者だ。
 やがて屋敷のほうで騒ぎが大きくなって、彼らは、誰からともなくばたばたと走り去ってしまった。
 ほっとして、体中の力が抜けていく。だが、エノーラにはまだ、やるべきことが残っていた。
 彼女はレヴィンの体を引きずって、馬のところまで戻った。大柄な男を一人で運ぶのは、とても骨の折れる仕事だった。
 それから、彼が預けて行った剣を抜いて、縄を切ろうとした。縛り付けている縄はひどく堅く、彼女の震える手では、なかなか上手くいかない。
 「うう…。」
レヴィンが呻いた。眠り薬の効果が切れかけているのだ。
 「大丈夫よ、すぐに楽になるから。じっとしていて」
エノーラは少し焦っていた。ここも、じきに安全でなくなるだろう。一刻も早く遠くへ逃れなくては。いちばん大きな結び目を、ほどくことが出来さえすれば…。
 だがそれには、思い切って剣を振り下ろさなくてはならない。彼女は両手で剣の柄を握り締めた。そして、一気に…
 ナルヴィが見たのは、まさに、その光景だった。見知らぬ女が、ぐったりとした兄の上に剣を掲げている。その女の顔は化け物のように鱗に覆われ、目は爛々と光っている。
彼はどきりとした。霧の岬に出るという化け物を思い出した。
 「やめろ!」
少年は叫んで、慣れない剣を振りかざして走った。
 はっとして、エノーラが振り返る。剣が落ちた。
レヴィンはぼんやりとした意識のどこかで、弟の声を聞いたような気がした。だが、彼に認識出来たのは、剣をかざして走り寄ってくる人影と、目を見開いたまま逃げようともしないエノーラの姿だった。

 それは、一瞬の出来事だった。
 レヴィンはとっさにエノーラを突き飛ばし、彼女が落とした剣を拾い上げて、向かってくる「敵」に振り下ろした。
 「敵」は面食らったように剣で防ごうとした。
 ぶつかりあった剣が、甲高い澄んだ音ともに砕けて、「敵」は勢いもろとも地に伏せる。
その時、レヴィンは、ようやく気がついた。それが、ユングヴィの家の者でも、アレドレットの手の者でもなく、少年であることに。
 「ナルヴィ…?」
彼は呆然として、倒れた少年を見ていた。手から剣の残りが滑り落ちた。

 剣と、剣のかけらと少年の体は、草むらに沈み込んで、辺りにはごく僅かな静寂が―――

 それはエヴァンジェリンのけたたましい悲鳴によって破られるまでの、ごく僅かな―――

  ”最も愛する者の命を奪うだろう”

 塚の幽霊の陰鬱な声が、今、呪いの成就の時を告げたのだ。



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