Reginleif Saga

第八歌章 予兆



「そう、金髪の若い男だった。持っていたのは剣と古臭い箱が一つだけ。船が難破したにしては、ずいぶんと古い船の残骸だったね…」
村人は、大したことは知らないようだった。
 「後から来た女? ・・・あ、あの魔女のことか。いや、皆が魔女だと噂していたんだ。誰もいないはずなのに一人で話をしていたり、絶対に顔を見せなかったり。声は若いんだが、髪は老人のように真っ白だったよ。」
 その二人連れのことが噂になり始めたのは、スカルディの霧が晴れ、月夜の晩に化け物が出なくなってから少し後のことだった。
 何をするわけでもない。だが、彼らはどこにいても、人々の目を引いた。そして、いつからともなく、“霧の岬から来た人間”だという噂が広まっていた。
 人々の憶測は、時として真実を突くもの。
 浜辺に打ち上げられた男の体に、海で難破しただけではつきそうもない、奇妙な噛み傷や溶けた跡があったことも、噂に信憑性を与えていた。
 あの男が、魔女の力を借りて化け物を殺したのだ、と。
 恐れながら、しかし誰もが彼らの話を聞きたがった。
 しかし、当の本人たちは、どこへ消えたものか、人前には姿を現さなくなっていたのだがね。

 それは、エノーラが人前に出ることを嫌がったからだった。
 彼女はひどく怯えていた。レヴィンを探して海辺の小さな村を訪れた時でさえ、どうしていいのか分からずに、途切れ途切れの単語を繋いで必死の思いで話すことしか出来なかったんだ。
 無理も無い。
 この娘が知っていた人間とは、霧に迷い込んでうろたえる人々や、海辺に打ち上げられる息も絶え絶えの人間たち、それと、霧の薄くなったとき、街道の側まで足を運んだときに目にした旅人くらいのものだった。
 まともに、話をしたこともない。
 それ以外で知っている人間とは、…本当の意味で「知っている」人間は、母親だけだったのだ。
 「母さんは、月の出ていない夜は、あたしに歌ってくれたの。」
少女は疲れたような顔をして、言葉少なにレヴィンに語った。
 「ね、母さん。あの歌、なんて名前だったかしら」
ものを言わない白蛇は、少女の足元に身をかがめているだけだった。返事がないことを承知で、彼女は、母親だった「もの」に、話しかけてしまうのだった。
 外の世界をほとんど知らない、この少女は、人々の暮らす、当たり前の世界で息をすることさえ、苦痛に感じるようだった。
 彼女の生きていた狭い世界を壊してしまったのは自分だと、レヴィンは知っている。
 それが悪かったとは思わない。だが、この世界に馴染めないまま、どこにも居場所の無い少女を見ていると、ひどく後悔することもあった。
 かたくなに人との関わりを拒み、縮こまろうとする姿は、新しい神に追われてどこかへ消えてしまった古き神々のようだった。
 彼らは、人の来ない僻地の朽ちた小屋で何日かを過ごした。もう、ずいぶん前に人が住まなくなって、今では、風が凌げるだけの場所だ。
 エノーラは毎日、薬草や食べ物をとりに出かけてゆく。
 そうして、戻って来ると、レヴィンの傷の手当てをし、火を起こして、食べ物を調理するのだった。
 霧の岬での暮らしと、何も変わらない。
 誰も振り向かなければ、彼女はそうして、死ぬまでずっと同じ暮らしを細々と続けてゆくのかもしれなかった。
 いつしか表には雪が降り始めていた。
 平原が真っ白に染まるのは、時間の問題だ。
 傷の癒えたレヴィンは、ソルマルケルへ戻ることを考えていた。彼は、ナルヴィがもう町にはいないことを、知らない。弟のことが心配だったのだ。
 「ナルヴィに言ったんだ。冬になっても戻らなかったら親戚の家に行け、と。たった数日だと思っていたのに…」
 「霧の中では、時間の流れが違うのよ。老いるのは一瞬で老いて、若いものはいつまでも若いまま。」
エノーラは、ひとつため息をつく。
 「あたしは行けない、ごめんなさい。」
 「何故だ? 俺はあんたを迷惑だと思ったことはない。どうせ、行くところも無いんだろう。だったら、うちに来ればいい。」
レヴィンは心からそう言ったのだった。義務的なものではなく。
 確かに暮らしは豊かではないが、貧しくもない。
 この娘を、荒野にひとり暮らすままにしておくよりは、ずっとましだった。
 「でも、それだと、あなたにも迷惑がかかってしまうし…、あたしは…。」
 「あんたを霧の外に連れ出せといわれた。でも、それだけじゃない。」
炎に照らされた少女の顔は、いつもより白く思えた。いつからか、彼女は、レヴィンの前では顔を隠さなくなっていた。
 「人を怖がるな。あんたは人間だ。霧の外では生きていけない小人どもとは違う。」
 「醜さは同じよ。人からみれば、あたしなんか、化け物だわ。」
 「…それは、単なる見た目のことだ。中身は人間なんだ。どんな姿をしていたって、幸せになろうと思えば、なれる。」
エノーラはうつむき、膝の上にある、自分の手の甲を見つめた。ぱちぱちと、薪の音がする。
 「諦めるな。自分の人生だろう? 俺だって、諦めたくないからここにいる。」
 「…」
どんなに不可能に見えることでも、運命と呼ばれるものだったとしても、死ぬまで抗ってみたい。
 そうでなければ、人は、川に流れ行く朽ちた木と何も変わらない。どこかの瀬に行き着いて、新たな芽を吹くことも出来ないではないか。
 押し黙ったままの娘をひとり置いて、レヴィンは立ち上がった。小屋の中には、エノーラひとりが残された。
 「母さん。」
少女は呟き、火を恐れて物陰に滑り込んだまま出てこようとしない白い蛇に向かって小声で話しかけた。
 「あたし、どうしたらいい。母さん、あたしは何処へ行けばいい?」
今までに無い感情が自分の胸のうちに湧き上がるのに気付いて、エノーラはうろたえた。
 これまで見てきた人間たちはみな、死に掛けた存在だった。傷を負っていたからでも、弱っていたからでもない。死を恐れながら、生を諦め、運命を否定しながら、絶望を受け入れていたからだった。
 絶望した瞳には輝きが無い。死んでいるのと同じこと。
 だが、エノーラは、諦めようとしない目に、はじめて出会った。
 自分の容貌を恐れない者にも。
 霧を打ち払った剣は、運命をも切り開けるのかもしれない。その腕を、彼女は美しいと思った。生まれてはじめて、本当に「生きた」人間に出会ったのだ。
 耳から染み込んだ力強い言葉は、気付けば、自分の一部のように心地よく染み渡っている。
 「どうしよう。あたし…」
その声に反応するように、白い蛇がするすると動いて彼女の顔を見上げた。
 胸の前で両手を握り締めるエノーラの瞳には、炎が映り、赤く揺れ動いていた。


 ソルマルケルへ帰り着いたとき、レヴィンが旅立ってから、半年近くが経っていた。
 町はあまりに変わりすぎて、…レヴィンにとって、町を出たのは何年も前のことのように思えた。
 馴染まぬ活気と、見知らぬ人々と。
 かつて小さな田舎町だったソルマルケルは、いつも、退屈なくらい緩やかな平和な時が満ちていたのに、今は空気の中に、ぴんと張り詰めているものがある。
 それも、心地のよい緊張ではない。何かしら胸騒ぎがするような、気味の悪い空気だった。
 道行く人々がときどき足をとめ、彼のほうを見ては、すぐにまた歩き出す。
 よそ者に関わっている時間などない、とでも言いたげに。
 以前なら、知らない人間が町に来れば、すぐに何処から来ただの、誰の親戚だの、大騒ぎになったものだのに。
町の人々はみな、彼のことなど、すっかり忘れてしまっているようだった。どこかで見たような顔だと思いつつも、思い出すゆとりさえ無く、足早に通り過ぎていく。
 家には、…誰もいなかった。
 それどころか、メチャクチャに踏み荒らされて、人も住めない状態になっている。誰かが火をつけたらしく、家の半分は黒く焦げてしまっていた。
僅かな間に一体何があったのか、レヴィンには、想像もつかなかった。
 「おい、お前」
家の前で足を止めた荷馬車の男が、ささくれた声で怒鳴る。
 「そこで何をしている」
 「何って。」
振り返った彼の顔を見るや、男の顔色が変わった。
 「お前、…」
 「ここは俺の家だ。弟はどうした? 何があったんだ」
 「レヴィン。生きて…いたのか」
 「答えろ。ナルヴィはどこだ」
レヴィンの声に、ただならぬ気配を感じたのだろう。
腰に下げた剣の、使い込んだような黒ずみも目に留まった。臆病なものは、一瞬にして己の危険を感じ取る。
 「ま、待て。今、アルドレットを呼んでくる」
男は、転がるように荷馬車を降りて、通りを駆けていった。
 町がざわついている。
 たった半年留守にしただけで、こんなにも変わってしまうものなのか。
彼は、ここでは「よそ者」、望まれざるものだった。それが、風に乗ってひしひしと伝わってくる。
 レヴィンは、通りを横切ってやって来るアルドレットを見ていた。
 肩をいからし、長い毛皮の上着を羽織って左右に供を連れたその姿はまるで、古代の首長のようだ。鋭く射るような眼光は、もはや、幼かりし日を知る友人とは思えなかった。
 「生きていたのか。正直戻ってくるとは思わなかったぞ」
つっけんどんな台詞からは、以前のような気さくさも、親しみも、微塵も感じられない。
 「何があった。誰がこんなことを」
 「町の連中だ」
 「何故だ!」
 「お前の弟が、俺の妹を攫って逃げた。」
レヴィンは、ぐっと息を飲み、それから、低く聞き返した。
 「…エヴァンジェリンのことか。」
 「そうだ。いちばん末の妹をな。近々、嫁がせる予定だった。それをお前の弟が台無しにしたのだ。」
すべてが、信じられない言葉だった。
 「だから家を? ナルヴィもエヴァもまだ子供だぞ。嫁がせるのも早すぎるが、子供同士の家出を――」
 「必要な婚姻なのだ。この町のためには!」
高らかな宣言は威厳と確信に満ちて、まるで“王”のものだ。だがレヴィンは退かなかった。この小さな町の王を前にしても、恐れる気持ちは沸いて来ない。
 「ナルヴィはどこだ」
 「ユングヴィのところだ。奴が連れて行った。だが、奴め、知らぬ存ぜぬで通して、交渉に応じようともしない。腹黒い奴め。俺が取引に失敗することを望んでいやがる。あの欲深な男!」
地面に吐きつけるように、かつての友人を呪うアルドレットを、レヴィンは、信じられない面持ち見守っていた。
やがてアルドレットは、何かに気づいたように、ふいに表情を変えた。
 唐突に猫なで声に変わる。
 「…レヴィン。お前はナルヴィの唯一の身内だ。ユングヴィのところへ行って、ナルヴィを連れ戻せ。そうすれば、またこの町で暮らせる。」
 「むろん、そのつもりだ。だが」
彼は、アレドレットを睨み返した。
 「エヴァのことまでは知らんぞ。それに、家をめちゃくちゃにした償いは、してもらう。」
誰も、何も言い返さない。
 高揚した、殺気のようなものも収まっていた。人々を操っていた糸が、ふつりと切れたかのようだった。
 「レヴィン」
立ち去りかける彼の後ろから、もう一度、アルドレットの声が聞こえた。
 それは、聞き覚えのある、いつもの――、幼馴染の一人だった、あのアルドレットの声と、何ら変わりはなく。
 「あの噂は、本当なのか? お前が岬の化け物を殺したと」
 「…ああ。」
振り返りもせずに、レヴィンは答えた。
変わり始めたものは、もう元に戻りはしない。失われたものは、蘇ることはない。
 古きものは、遠く霧の彼方へ。
 「父は死んでいた。その敵討ちのようなものだ。」
背中に懐かしい故郷の残り香を感じながら、レヴィンは、もう二度とこの町並を見ることが無いような気がしていた。

 ユングヴィは、町を出て、今は海沿いの大きな町に住んでいるという。
 ソルマルケルの町と、ユングヴィの婿入りした大きな商人の家との対立も、あちこちで耳にした。ここのところ、その対立はさらに激しさを増し、あちこちで小競り合いが起こっているという。まさに一触即発の状況だった。
 レヴィンは途中で馬を借り、先を急いだ。急がなければならなかった。
 ”もうすぐ何かが起こる。”
 …はっきりとした予感が、彼の中には在ったからだ。
 エノーラを後ろに乗せ、日暮れまで馬を飛ばしてドゥンヘーデの町を通り過ぎ、ようやく海の音が聞こえる場所に出た。
 月の無い夜だった。灰色の雲が敷き詰められて、今にも雪が降り出しそうな。海からの風は冷たく、どんなに体を縮めても、眠れそうに無いことは分かっていた。
 物陰に身を隠して火に当たりながら、レヴィンは、雪が積もっては溶けて堅く凍りついた地面に、皮を敷いて腰を下ろしていた。少し離れた場所に、エノーラが小さくなっている。寒さに弱い蛇を胸に抱いて、けんめいに暖めようとしているようだった。
 日はとっぷりと暮れ、星も無く、夜明けまではまだかなりの時間があった。
 「家が無くなってしまったな。」
レヴィンは、小枝を火に放り込みながら自嘲気味に呟いた。
 「弟さんのことが心配なのでしょう。」
 「それも、ある。でもあいつは、たぶん大丈夫だ。力は弱くても、そのぶん頭のいい子だから。それより…」
心配なのは、アルドレットやユングヴィのことだった。
それに、あの、町の変わりよう。尋常ではない。呪いは自分たちだけではなく、近くにあるソルマルケルの町まで飲み込んでしまったのだろうか。あの町に住む者みなが、愛する者を失うのだろうか?
 「…俺も、どこか変わったんだろうか。」
ため息まじりに吐き出したその言葉に、エノーラが顔を上げた。
 「あいつらみたいに、俺も、変わってしまったんだろうか。俺を見る皆の眼は、まるで、おかしな生き物に向けるみたいだった」
 「変わっていない、と思うわ」
彼女は言った。
 「あなたは、最初からずっとそうだった。変わったとすれば、たぶん…いい方向によ。あの町の人たちとは違う。そう思う」
 「だと、いいけど。」
少女は顔を伏せた。自分がそんなことを言うのが、ひどく恥かしく思えたからだ。
 それからずいぶん長い間、二人は、押し黙ったまま火に当たっていた。
 長い、長い時間だった。
 やがてレヴィンのほうから、おもむろに切り出した。
 「これを、あんたに渡そうと思っていた」
 「え?」
差し出したのは、古ぼけた木の箱だった。岬の、壊れた船で見つけて、懐に入れていたものだ。表面の上塗りも、絵も剥げ、灰色の浮き彫りだけが辛うじて、かつては美しい箱だったことをうかがわせる。
 錆びた留め金を外すと、中から、ぽろん…と、乾いた音が響いた。
 「俺の父さんが持って海に出たものだ。中は水がしみこまないようになっているから、まだ音が出る」
ねじ巻き式のオルゴール箱だった。少し壊れて、ひと呼吸ごとにとぎれとぎれに謡うその歌は、さざ波のように優しく、流れ星のように切ない。
 「いいの?」
 「父を埋葬してくれた礼だ。弟には、海に生きる者が、海で戦って海辺に眠ったと言うよ。…それで十分だ」
船は荒波に木の葉のように舞って、人の命は、一夜の夢のよう。消えて流れて、儚く燃え尽きて、されど消えるまでの一瞬は、激しく輝く。
 エノーラは、箱をじっと見つめて、音に耳を傾けていた。それに雑じって、冷たい、海の音が聞こえる。
 「…レヴィン」
顔を上げて、視線が合った。
 「あたしは、あなたに会えてよかったと思う。」
無言で微笑んで、レヴィンは返した。
 「俺も、岬で出会うのがあんたで良かったと思ってる。」
 「こんな顔でも?」
 「顔じゃない。それに、きっと元に戻れるさ。解けない呪いなんかあるものか。俺の呪いが解けるものなら、あんたのだって、きっと。…」
おもわず少女の頬を伝い落ちた熱い涙の粒が手の甲に落ちて、それはまるで、磨き上げられた宝石のように、白い肌の上に散らばる。
 雲が切れて、星が空に。
 凍りついた道が青白く、行く手に照らし出されていた。



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