Reginleif Saga

第七歌章  二つの家系



 さて、お話は、レヴィンの弟ナルヴィと、エヴァンジェリンへと戻ってきた。
 スカルディの霧が晴れたという話が広まるより、少し前のことさ。
 どこまで話したっけね。ああ、そうそう。二人は夜の間に町を逃げ出した。大人たちがすぐに気が付くだろうことは分かっていた。だから、急がなくてはならなかった。
 ナルヴィは用心深い子供だった、そして本当は、誰も知らなかったけれど、とても勇気のある少年だったんだ。
 優しい者は、みんなそうさ。
 他のものに優しくあるためには、自分が強くなくちゃならない。強くなくちゃ、何もさえてやれないし、受け止めてやれないからね。
 日が暮れて、獣たちが歩き回るような時でも、彼は怯えることなく歩き続けた。芯の強い子さ。怖がるエヴァンジェリンを元気付けながら、幾度もくじけそうになるのをこらえて。
 そうして、道なき道を歩いて、子供の足でも数日…、彼らはようやく、ドゥンヘーデの町へたどり着いた。あの頃のソルマルケルの近くには、それ以外に町はなかったからね。当然、アルドレットの家の者たちが目を光らせている。
 分かっていたのさ、でもね。エヴァンジェリンの体力が、もう限界だった。ナルヴィにしても、もともと体の丈夫な少年ではない。
 捕まって連れ戻されるか、森の中で野垂れ死んで獣の餌になるか。二つに一つだったが、ナルヴィに選択肢はなかった。 
 自分はともかく、一緒にいる美しい少女を獣の餌になどしたくない。ここまでが限界だと、悟っていた。
 「エヴァ、君は家に帰ったほうがいいよ」
そう告げたとき、少女は、瞳を大きく見開いて震えていた。
 「君にはこれ以上、無理だよ。家出したことで、大人たちもきっと分かってくれると思う。もしかしたらひどく叱られるかもしれないけど…、家出する勇気があるんなら、きっと大丈夫だ。」
 「どうしてそんなこと言うの。わたしのことが嫌い?」
 「そうじゃないけど。…僕には、君を遠くに連れていくことなんか出来ないよ。」
自分にとっても、ひどく屈辱的な言葉だった。力がない。まだほんの子供で、自分ひとりでは何も出来ない。悔しくても、彼は、それを認めるしか無かった。
 少女はうつむき、大きな瞳を伏せて、泣きたいのをじっとこらえていた。
 「行こう。」
ナルヴィは、嫌がる彼女を引き立てて町へ向かった。そこに行けば、彼女の家の誰かが待っているはずだ。その手にゆだねて、それから、自分はどうするのか。
 きっと、ひどくぶたれるだろう。
 ソルマルケルへは、もう戻れないと思っていた。
 なら、兄を探しに行こう。
霧の岬へ向かったというなら、そこへ行くのもいい。そんなことを考えながら歩いていた。
 子供が二人だけで歩いているのは、ひどく目立つ。おまけにエヴァンジェリンは、少女ながら美しい。ナルヴィは、周囲から投げかけられる、射るような視線を感じながら、自然とうつむいていく自分を感じていた。
 その時だった―――
 「ナルヴィ!」
聞き覚えのある声が彼を呼び止め、腕を掴んだ。
 それは、ここしばらく姿を見ていなかったユングヴィだった。驚いた顔をしている。
 「こんなところで何をしている。おい、お前…」
言いかけて、口をつぐみ、エヴァンジェリンと少年を見比べる。
 「来い」
ナルヴィが何か答えるより早く、ユングヴィは半ば強引に二人を宿に引っ張り込み、奥に押し込んだ。
外は、なにやら騒がしくなっていた。
 「お前たち、こんなところでウロウロしていたのか?」
 「ごめんなさい…」
 「町長の家は大騒ぎだ。お前たちを血眼になって探してるんだぞ。」
ナルヴィは、ユングヴィの顔を見上げた。心配とも、怒りともつかない感情だけでなく、何か、喜んでいるような気配を感じたからだ。
 「嫁入り前の娘を連れ出して、見つかったら、殺されるぞ。お前」
 「……。」
 「ごめんなさい。わたしが頼んだんです、わたしのせいなんです。」
エヴァンジェリンは必死に訴える。
 「ナルヴィは悪くないんです。わたしが…」
 「急に結婚しろなんていわれて、嫌だったんだろう? そりゃ普通は、そうだろうな。」
 「どうして知ってるんです?」
ナルヴィは、目をしばたかせた。
 「知ってるさ。アルドレットの動きは、ここらでも目だっている。新しい貿易ルートを開発しようっていうんだ、内海の商人たちの間じゃ、もっぱらの噂だよ」
ユングヴィの目が、油断なく光る。それは、ナルヴィなどには計り知れない、何かをたくらむ「大人の」目だった。
 コツコツと、誰かがドアをノックした。
 「入れ」
 「失礼します、若旦那。」
そろそろと、頭を下げた男が入ってくる。
 ナルヴィたちには、ちらりと視線を向けただけだ。ユングヴィに何かささやくと、すぐに部屋を出て行く。
 嫌な予感がした。
 「さて。お前たち」
ふいに、声の調子が変わった。
 「これから行くところも無いんだろう。だったら、うちに来ないか。」
 「え、…」
 「レヴィンとも約束したしな、面倒見るって。このままソルマルケルにも帰れないんだろう。」
有無を言わさぬ口調だった。
 ユングヴィは、何か良からぬことを考えている。
 だが、それが分かっていても、ナルヴィは断るすべを持たなかった。このまま帰りたくないことも…事実だった。
 きつく握るエヴァンジェリンの手が、痛いほど、彼女の気持ちを表している。
 「…よろしくお願いします」
彼は、低く声を絞り出した。
 「決まったな。」
ユングヴィは席を立つと、外で、何かを命令しはじめた。さっきの男のほかにも、何人か、いる。みな、ユングヴィに使われている者たちのようだ。
短い間に何があったのだろう、ついこの間まで、ソルマルケルで自分たちと変わらない暮らしをしていたユングヴィとはまったく別人のような口調だった。
 自分たちは、これからどこへ連れて行かれるのだろう。
 しばらくして、戻ってきた彼は、二人を立たせると、宿の裏手へ連れて行った。そこには中が見えないよう、窓に布を下ろした馬車が止まっていて、御者が待ち受けている。
 「乗れ」
 「あの…。」
 「急げ。アルドレットの家の者たちが感づいたようだ。邪魔されると面倒だからな。」
半ば無理やりのように、二人は馬車に乗せられた。あとからユングヴィが乗り込み、馬車は、すぐさま走り出す。
 ナルヴィにとって、そんな立派な馬車に乗るのは初めての経験だった。やわらかい座席に必死でしがみつきながら、ナルヴィは、出来うる限りの速さで頭を回転させていた。
 「心配するな。これから向かうのは、いま俺が住んでいる町さ。海沿いにある、港町だ」
 「港町…?」
 「結婚したんだよ。そこの、娘とな。」
それでようやく、ナルヴィには合点がいった。
 ここのところ姿を見せなかった理由も、急に暮らしぶりが変わった訳も。
 ユングヴィが思いを寄せていた娘は大富豪のひとり娘で、とても手の出せない高嶺の花だった。町の噂では、黄金を手に入れたことで、ようやく求婚に至ったのだと。
 婚約したらしいことまでは皆知っていたが、まさか、こんなに早く…それも、誰も知らないうちに、式を挙げてしまうとは。
 「どうして、言ってくれなかったの。」
 「親戚連中や何かに、式に呼べと言われるのが嫌だったんだ。田舎ものばかりだからな。」
そう言って、ユングヴィは視線をそらした。彼も、アルドレットと同じように、田舎くさくて閉鎖的なソルマルケルの町を、ひそかに嫌っていたのかもしれない。
 彼の母親は、もともと大きな町から来た娘だった。
ユングヴィの中にも、母親が見てきたような都会的な暮らしへの憧れが、眠っていたのかもしれない。
 馬車は走り続けた。
 誰かに止められることもなく、追いかけてくるものもなく。だが、自分たちがユングヴィに連れられてどこかへ行ったことは、すでに、エヴァンジェリンの家から来ていた人々にも知られているだろう。
 何の後ろ盾もないナルヴィ一人ならともかく、エヴァンジェリンを連れて行くことは、ユングヴィの家とアルドレットの家が決定的に対立することを意味していた。危険を犯してまで自分たちを連れていくのは、なぜなのだろう。友人に頼まれたから、というだけの理由では無いことくらい、ナルヴィにも薄々分かっていた。

 たどりついた館は大きく、この辺りには無いほど優雅で、出迎えた新妻の娘は輝くように美しかった。
 この辺りでいちばん大きな貿易商人の屋敷だ、と、ナルヴィは聞いた。ここの主は娘を目に入れても痛くないほど可愛がっており、本当なら、いくら引き出物を持ってこられたところで、名も無い田舎者に娘をくれてやるつもりはなかったのだが、つい最近、家の命運を賭けた大きな取り引きに失敗して危ういところ、ユングヴィが莫大な投資をして家を建て直してやったので、婚約を認めざるを得なくなったのだという。
 だが、そういった経緯はともかく、娘は、ユングヴィを心から愛しているようにも見え
た。むつまじい夫婦仲だった。そんなユングヴィが時々見せる暗い微笑みのほうが、ナルヴィには気にかかっていた。

 ――呪いをうけた者たちは、みな、別人のようになってしまうのだと。

 ――最も愛する者を殺すだろう。

 だが、そんなことは、もう、ユングヴィ自身も忘れているのかもしれない。
 人は、都合の悪いことは忘れていく生き物なのだから。
 ナルヴィとエヴァンジェリンは、見た目は歓迎され、客人として丁重に扱われて館に住むことになった。もっとも、扱いの差はすぐに現れてきて、彼らがより大切に接するのは、アルドレットの妹である少女のほうばかりだった。
 ナルヴィには護衛もつかず、召使いもいない。彼は自由に歩き回り、好きなことをしていた。
その反面、エヴァンジェリンのほうは閉じ込められたような暮らしをさせられていた。家に連れ戻されるかもしれないので、外を出歩くのは危険だ、と理由をつけて。
 彼女はそれを嫌がったが、仕方が無いのでずっと我慢していた。もともと、ソルマルケルの町でも、家人に監視される暮らしをしていたのだ。次第に、慣れていった。
何より、ユングヴィの婿入りした家は裕福で、何不自由のない暮らしだったのだ。
 その間ナルヴィは、この館での取引きや、商人たちの話に耳を傾けていた。飲み込みの早い子供だったから、大体の状況はすぐに理解した。
 ユングヴィが婿に入ったこの家は、内海での貿易を取り仕切っている。内海の貿易で、大きな利益を上げてきた。
 だが、アルドレットが新しく始めようとしているのは、外界との貿易という、全く未知な分野だった。内海の貿易なら、他のどこも取るに足らずだが、外界は、手の届かない領域だ。
 もしも、アルドレットの商売が成功して、客を取られたら。利益が減ったら?
 ここの人々には、そんな恐れがあるのだった。商売敵として、どうにかして今のうちに芽を摘んでおきたいと思っていた。
だから、エヴァンジェリンが外海の部族に嫁いで血族関係を結ぶことは、なんとしても妨害したかった。友好が結ばれなければ、アルドレットの目論見は失敗することが分かっているのだから。
 なんとしてもエヴァンジェリンを隠しておきたかった。彼女が家に戻れば、たくらみはすべておじゃんになってしまう。
重要なのはエヴァンジェリンのほうで、ナルヴィはむしろ言い訳のためのおまけに過ぎないのだ。
 それを知ったとき、ナルヴィの胸には激しい後悔の波が押し寄せてきた。
 ソルマルケルにいても、ここにいても、エヴァンジェリンは大人たちの「道具」だ。
だが本人はそれを知らない。知れば、誰も信じられなくなってしまうかもしれない。
 どうすればいい。
 ここにいれば、彼女は安全だと言い切れるだろうか。いや、それ以上に、自分は…、エヴァンジェリンがここでおとなしくしているための餌としか考えられていない自分は、どうなる? 本当にこれでいいのか?
 他に、どこに行けばいい?

 「おい、聞いたか。例の岬の霧が晴れたって話を」

 屋敷の中を、いつものように歩き回っていたナルヴィは、何気なく聞いたその言葉に、思わず足を止めた。
 それは、出入りの商人たちの会話だった。
 「ああ。ここのところ、例の白い化け物も出なくなって…。」
 「旦那様の船も、あの化け物に沈められたんだっけな。しかし、一体誰が」
 「それは、本当ですか。」
たまりかねて、ナルヴィは商人たちの話に割って入った。レヴィンは霧の岬へ向かったきり、行方知れずだ。霧が晴れたのなら、もしかすると、戻って来ているかもしれない。
 商人たちは、顔を見合わせた。
 「まあ、本当かどうかは知らないが、もっぱらの噂だよ。突然、嘘みたいに霧が晴れて、見たこともない気味の悪い魚が浜辺いっぱいに打ち上げられたらしいぞ。岬に行ってみた連中もいたらしいんだが」
 「人は? …その岬に、人はいなかったんですか。」
 「さあな。そこまでは知らないよ」
それきりだった。
 だがナルヴィの胸は、確信に高鳴っていた。
 兄が戻ってくるかもしれない。
 そのことだけが、この屋敷での、唯一つの心の支えだった。

 誰も気がついていなかったがね、悪いことというのは煙のように、空気に乗ってすこしずつ、すこしずつ、人の心に不安の煤を落としてゆくものさ。それを虫の報せと言うんだよ。
 どんな出来事だって、ほんの些細なことから始まるもんさ。人はそれを知らずに耳を塞ぎたがる。忘れようとするもんさ。不幸な予兆からも、そう、ことによっちゃ落ちている幸運からさえもね。
 そのころ、岬からそう遠くない浜辺に、ぼろぼろの船の残骸が流れ着いた。以前から、内海で沈んだ船が、打ち上げられることのあった場所だ。
 近くの村の人々も、船から落ちた荷物を拾いに行くことがあった。たまには、金貨の一枚か二枚、拾い上げることもあった。あまり歓迎されないもの、たとえば水死した船乗りの死骸などを、見つけることもあったんだが。
だが今回はいつもと少しばかり違っていた。
 船には、金目のものは何ひとつ見つからなかった。その代わり、死体ではなく、まだ息のある若い男が辛うじて引っかかっていた。―――
 ひどい傷を負っていた男を、村人たちは、もう助からないかもしれないと思いながら、連れ帰って手当てした。
 その次の日の、夜更けのことだ。
 声からして若い女と思しき奇妙な人物が村を訪ねて、その男の知り合いだと言った。
襤褸を頭からすっぽり被って、決して顔を見せようとはしなかった。まるで亡霊か何かのようだった、と村人たちは言うね。犬は怯えて尻尾を丸め、近づくと、赤ん坊は火のついたように泣き出した。
 誰の口からともなく、あれは魔女だ、と言い出した。
 もしくは死神だろうと。そんなものに取り付かれた男を、村においておくわけにはいかない。
 人々は、意識の戻った男に、村を出て行くように勧めた。よくあることだった。小さな村では、人助けよりも、村の平和を守ることのほうが大事にされる。
 男は、傷の手当てを感謝して、何も言わずに村を去った。
 その後の行方は、杳として知れない。


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