Reginleif Saga

第五歌章 青い目のエヴァンジェリン 



 その頃、外の世界ではどうなっていたかって、語らなくてはならない。
 霧の中は異界だった、中では時は飛ぶように過ぎていく。レヴィンはそれを知らなかったが、外では、とうに三月の時が流れていたのさ。
 いつしか季節は変わり、短い夏を過ぎて、冬にさしかかろうとしている。
 レヴィンの弟ナルヴィは、自分が戻らなかったら親戚を頼れ、と言われていたことを、ちゃんと覚えていた。残してくれた、いくばくかの蓄えのありかも知っていた。
 だが、兄の無事を信じていたこの少年は、冷たい風が吹き始める時になっても、決して家を動こうとはしなかった。レヴィンが不在と知って、町の欲深い連中は、少年に黄金の在りかを白状させようとした。まだ子供だから、騙せると思ったのだろう。
 けれどナルヴィは、決して口を開こうとしなかった。
 黄金はみんな、兄がどこかへ運んでいった。それを言ってしまうと、どこかにいる兄に迷惑がかかると考えた。
 年のわりに賢い子で、自分からすすんで他人を頼るようなこともしなかった。けれど、そんな少年を、町の人々は可愛げがないと疎んじるようになっていた。
 ただひとり、レヴィンの親友だったユングヴィを除いては。
 ユングヴィは、莫大な財産を持参金に、大きな町の富豪の娘と婚約した。近々、結婚するというもっぱらの噂だったが、約束はきちんと守る男だったから、親友の弟のことは気にかけていた。
 暇を見つけて通ってきては、何かしら世話をやく。何度も、親戚の家が嫌なら自分の家に来ればいいと誘っていた。しかし、ナルヴィは断り続けた。兄が戻ってきた時、家で出迎えたいのだと。
 あるとき、ユングヴィはため息まじりに言った。
 「こんなことは言いたくないんだが、ナルヴィ。レヴィンは戻らないかもしれない」
 「どうして?」
ナルヴィは、そんなことただの一度だって考えたことは無かった。
 「海辺の町で、レヴィンらしい男が霧の岬への道を聞いていたそうだ。そこには化け物が出る。何を考えていたのか知らないが、霧の岬へ行って、戻ってきた者はいない」
 「じゃあ兄さんは、その化け物を退治して戻ってくるよ」
少年は、自信たっぷりに言った。
 それきり、ユングヴィは何も言わず、通ってくることも、稀になってしまった。
 付き合いきれなくなったのかもしれない。
 ナルヴィは、人の心のよく分かる子だった。
 いつも兄のうしろについて、物影からそっと様子をうかがうような、少し引っ込み思案な子供だったからだろうか。
 ユングヴィには、戻ってくるとも知れない友人との約束より、もっと大事なものがあるのだと、ナルヴィには分かっていた。
 町の様子も、人々の変化も、よく見えた。
 兄の友人だった人々の様変わりも。
 酒場の前を通ると、毎日のように、にぎやかなどんちゃん騒ぎの声が聞こえていた。でぶのローニーが、美人をはべらせて、高い酒をがぶがぶ飲んで大騒ぎしていたんだ。金が飛び、宝石が惜しげもなく手渡される。どんなに使っても、黄金は尽きることなく湧いてくるのだとローニーは得意げに語っていた。それこそが、呪いだったんだがね。
 そんなで、ローニーは、以前にも増してうすのろになっていた。
 働かずに、毎日だらだらしているばかりだ。
そんなローニーの姿を見て、ユングヴィは、兄の言った意味を少しずつ理解していった
 もし、黄金を使って、働かずに暮らしていたら、きっとあんなふうになってしまう。それではいけないから、兄はすべての黄金をどこかへ持っていってしまったのだと。
 口の悪い町の人々は、黄金を手に入れたレヴィンが、弟の面倒を見るのが嫌になって逃げ出したのだと噂する。弟と財産を山分けするのが嫌だったから、と。
 そうすることで、羨む気持ちをごまかそうとしていたのかもしれない。
 彼らはナルヴィを哀れむふりをした。そのくせ誰も、この少年を気にかけてやろうとしなかった。

 いや……。

 ひとりだけ、気にかけていた者が、いたかもしれない。
 それはエヴァンジェリン、青い目を持つ、まるで人形のように可愛らしい少女だった。白い肌に、りんごのような頬に。
 町長の娘で、アルドレットの末の妹だった。
 この娘は、町長が妾に産ませた庶子だったけれど、その可愛らしさゆえに父からは溺愛されていた。家からもあまり出してもらえず、箱入り娘のように育てられていたが、同じ年頃のナルヴィとは、時々話をする仲だった。
 そのエヴァンジェリンが、家を抜け出して、こっそり会いに来るようになった。
 「ナルヴィ、元気だしてね。レヴィン兄さんはきっと戻ってくるから。」
そう言って慰めては、ポケットから、隠し持って来たお菓子など出して、置いて行く。
 いかにも子供らしい気遣いだった。
だが、ナルヴィもまだ子供なのだ。ひとりでも、話してくれる人がいることは嬉しかった。
 彼らは大人たちの目を盗んで語りあい、笑いあって、時を過ごした。ただそれだけだ。幼い少年と少女は、まだ、友達以上の特別な感情があることさえ、知らなかった。

 あるとき、エヴァンジェリンは、ずいぶん深刻そうな顔をしてやって来ると、こう切り出した。
 「あのね。…兄さまが、大きな事業をはじめるんだって。」
いちばん上の兄、アルドレットは、ここのところ引っ切り無しに町を出たり入ったりしていた。何か事業を起こそうとしているらしかった。そのために、屋敷を改造したいのだと。
 父親はひどく怒り、そんなことは外でやれ、と言ったが、彼は頑として受け付けなかった。ここが一番いい、外海と内海をつなぐ道の真ん中だから、このソルマルケルのためにもなる、…そう説得に説得を重ねて、ようやく、町長である父親の重い首を、縦に振らせたのだ。
 町は変わろうとする予感に満ちている。
 よそから大勢の人間がやって来て、町はにぎやかになるけれど、昔ながらののどかな風景は無くなるだろう。
 何よりエヴァンジェリンが心配していたのは、アルドレットの、何かに取り憑かれたような熱心さだった。
 「兄さま、ずっと変なの。まるで兄さまじゃあないみたい。それだけじゃないわ、家の人は、みんな…」
涙ぐむエヴァンジェリンを見ていると、ナルヴィもなんだか悲しくなってきた。
 「大丈夫だよ。僕の兄さんが何とかしてくれるよ。兄さんは、塚の幽霊のせいでみんなに呪いがかかったけど、それを解く方法を見つけるって出て行ったんだ」
 「でも、レヴィン兄さんもおかしくなっちゃったかもしれない。もう戻ってこないかもしれないのよ」
 「そんなことない。必ず帰るって言ったんだ。兄さんは約束は守るよ。父さんみたいに、戻ってこないなんてこと…ないよ。」
保証など何処にも無い。けれど、信じれば、必ずそうなるのだと、この幼い少年は思った。

 やがて冬がやって来て、エヴァンジェリンの肌のように白い雪が、ちらちらと降るようになっていた。
 町の真ん中に建つ大きな館は作り変えられて、少しずつ、少しずつ、町の人々の表情も変わっていく。今までは、内海のふちに住む人々だけが貿易で儲け、珍しい品物は、内海の人々から買うしかなかった。それを今度は、外海の向こうから取り寄せた品物を、内海のふちに住む人々に売ろうというのだ。
 荒れて貧しい外海にも、そこにしかないものがあった。
 内海の人たちが欲しがるようなもの、たとえば、北の海にしかいない海豹の皮などは、高値で売れる。海豹をたくさん捕ってきて売れば、町は豊かになる。
 ナルヴィも、北の海のことは少し知っていた。行方不明になる最後の旅の前、父親のウォーレルが話してくれたからだ。…それも、ずいぶん昔のことのように思えたけれど。
 やがて大きな商取引き館が完成するころになると、エヴァンジェリンは、もう訪ねてこなくなった。
 ユングヴィもいつの間にか町を出てしまったらしかった。ナルヴィは、たった一人になって寒い冬を過ごした。それは、ひどく長く、陰鬱とした季節だった。

 そんな、ある日のことだった。
 暖炉の側に体を小さくして、火に当たっていたナルヴィは、夢を見た。真っ白な霧の中で、兄がさ迷っている夢だった。
 (兄さん!)
声を上げて、駆け寄ろうとするのに体は動かなかった。
 レヴィンは、霧の中でいかだを作り、海に浮かべようとするが、岩にはばまれて上手くいかない。仕方なく岩を伝って道を探そうとするが、辺りは切り立った崖で、海沿いには行かれない。陸の道のほうも、濃い霧のせいで思うように動けなかった。
 彼は考えている。苛立ちながら、岩を殴る。
 ナルヴィは見ていた。
 兄の後ろに、何かがいる。ゆらゆらと揺れて、まるで、霧そのものが生きているかのように。その霧が、レヴィンの後をついてまわって、何ひとつ上手くゆかないようにしているのだ。
 (兄さん、後ろだよ! その霧の中に、何かがいる!)
ナルヴィは必死で叫んだ。声は届いていない。しかし、叫ばずにはいられなかった。
 その時、何かが通じたのかもしれない―――
 レヴィンは、ふっと振り返った。霧が戸惑うように揺れた。彼も気が付いたはずだ。
 手を伸ばして、掴もうとしている…そして…。
 ナルヴィの視界は、そこで途切れた。
 少年の意識を取り戻させたのは、開け放たれた戸口から吹き込んでくる冷たい風だった。そこには、蒼白な顔をしたエヴァンジェリンが、上着も羽織らずに立っている。やわらかく巻いた髪は、みぞれまじりの風にあおられて、かちかちに凍り付いていた。
 「どうしたの?!」
慌てて立ち上がったナルヴィの目の前で、彼女は、わっと声を上げながら床に泣き崩れた。
 「兄さまが… 兄さまが、わたしに結婚しろっていうの。」
ナルヴィの心臓が、音をたてて鳴った。そして知ったのだ。
 アルドレットは、事業を上手くゆかせるために、海豹取りのうまい北の海の部族に、美しい末の妹を嫁がせることにしたのだと。
 エヴァンジェリンは、結婚なんか嫌だった。
 まだ早い、と、以前なら言ってくれただろう父さえ、今では、兄の言いなりだった。ためしにやってみた取引での予想外の利益に目が眩んでしまって、もう、何も考えられなくなっていたのだ。
 この事業には、猟をする者と運搬する者が必要だ。海豹の運搬は、町の人々がする。だが、狩りは、どうしても上手くゆかなかった。それには、北の海のほとりに住む、髪も瞳の色の違った、ひどく訛のある言葉で話す人々の助けが必要だった。
 交換条件として、彼らは、青い目の美女が欲しいと言い出した。
 髪も瞳も黒いその部族の人々にとって、白い肌の好けるような女性は、憧れの的だ。
 そこでアルドレットは言った、ならば妹を差し出そう、と。そうすれば、自分たちとは親戚になる。先方もこれを喜んで承諾した。
 納得していないのは、嫁がされるとになった当人だけだった。
 「わたし、まだお嫁になんかいきたくない。会ったことも無いのに…」
 「わかるよ」
と、ナルヴィは言ったものの、まだ頭は麻痺したようだった。
 冷たく冷えたエヴァンジェリンの体を暖めるために火を燃やして、濡れた髪を乾かすためにタオルを持って来るのが精一杯。毛布を持ってきて、肩にかけてやるとき、彼の手は、震えていた。
 エヴァンジェリンが、遠くへ行ってしまう…。
 「知らない、会ったこともない人のところへお嫁に行くなんて嫌。嫌だって言うのに、父様も兄様も聞いてくれないの」
 「みんなおかしくなっちゃったんだ。やっぱり、呪いのせいなんだよ」
 「どうすればいいの?」
 「逃げよう。」
口をついてそんな言葉が出た。
 少女は、泣きはらした目を上げる。
 「僕がついててあげるから。どこか遠くへ逃げるんだ。」
 「ナルヴィも一緒?」
 「うん、…」
兄のことが少し、胸に痛かった。
 でも、今は、エヴァンジェリンをほうっておけない。
 「一緒に行く」
 「だったらいいわ。ナルヴィとだったらいい。」
 「じゃあ明日用意しておいで。夜になったら、町を出るんだ。僕はここで待ってる。誰にも言っちゃ駄目だよ、いいね」
少女はうなずき、真剣な表情で、唇を噛み締めた。
 外は激しく風が吹き荒れていて、雪の叩きつける窓の音が、これから町を出ようとする二人にとっては、ひどく激しく聞こえたものだった。
 だが、一度も町を出たこともないナルヴィと、世間知らずのエヴァンジェリンと、二人だけの家出が上手くいくはずもない。見つかって、連れ戻されるのが、おちだ。子供の足で行けるところなど、限られている。そして、稼ぐすべもないのに、永遠に暮らしていけるはずもない。
 それが絶望的な旅立ちであることを、ナルヴィは知っていた。
 でも、だからと言って、何をしてもみないまま、諦めてしまえるだろうか?
 運命に身を任せて、己の不幸を嘆く。
分かっていても、そんなふうに、大人のふりをするのは嫌だった。
 抗いたかった。
 たとえ、それが、取り返しの付かない結果になろうとも。


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