Reginleif Saga

第四歌章  霧の娘エノーラ



 連れて行かれたのは、岩の隙間におがくずをかき集めて作った、粗末な住処だった。
 扉も無ければ、窓も無い。ただの岩屋だ。真ん中には、種火が細々と燃えている。その周りには、くしに刺した魚が焼いてある。
 「本当に、こんなところに住んでいるのか。」
レヴィンは、呆れてしまった。「他の人間は」
 「あたし一人よ。人間、という意味ならね。」
少女は、レヴィンに火の側に座るように言い、自分は、襤褸の下に抱えていた籠を取り出して、中から引っ張り出した得体の知れないものを料理し始めた。
 岩の隙間を、かさかさと何かが這っていく。生き物の気配はするのに、さっきから、姿を見たのはこの少女だけだ。その少女も、顔まで深々と襤褸で隠し、顔も見せようとはしない。
 「食べるものは、どうしている」
 「たまに海草が打ち上げられるわ、波の高い日にはね。それと、海鳥が魚を落としていく。あとは…、…たまに流れ着く難破船の食料ね」
そう言われれば確かに、岩屋の中には、どこかの船からころげ落ちたらしい樽や木箱がいくつも積み重ねてあった。
 「この近くは、よく船が難破するらしいな。」
 「ええ、そうね」
 「霧の入り江には化け物が出る…と、町では噂されているんだが」
 「まぁそうでしょうね。町に行ったことは無いけどね」
少女のそっけない返答に仕舞いに苛立って来て、レヴィンは、思わず身を乗り出しかけていた。
 「あんたは―――」
 「エノーラよ。そっちは?」
待っていた、といわんばかりの返し方だった。
 「…レヴィン」
 「そ、レヴィンさんね。あんたは、ここへ何しに来たの」
 「オレは…」
 「化け物退治? それとも肝試し?」
 「人に会いに来た。」
少女は、一瞬手を止めて、穴だらけの布の下から彼をまじまじと見つめた。視線が合った。
 「ドゥンヘーデの町の墓守りに、霧に入り江に会うべき者がいると言われた。それが誰かは言われなかったが」
 「……。」
 「心当たりはあるか?」
少女は、ゆるく視線を足元に落とす。
 「あたしのことだと思う。ここに住んでいるのは、あたし一人きりよ。それは間違いないもの。」
間違いない、と、断言する口調だった。
 「でも、その前に、あんたのことを話してくれる? あたしに会いに来る人間なんて、いないはずだもの。」
 「そうだな。もし本当にグレーシルの言ったのがあんただとすると、あんたには聞いてもらわなくちゃならない」
そこでレヴィンは、これまでのことを話し始めた。
 埋め火がじわじわと足元を暖めていた。
 聞いている間中、娘はほとんど瞬きもせず、みじろぎひとつしない。霧は、外を白く染めて、中にいる者を閉じ込めようとしているかのようだった。

 「ふうん、あんたも呪われているんだ。」
 聞き終わった後、エノーラは、さして驚いた様子も無く、そう呟いた。
 「あんた『も』? …」
 「あたしも呪われた身よ。でなきゃ、こんなところにいるはずがないわ」
どこかで、ざわめくような音がした。
 「驚かないでね。」
少女は、ゆっくりと己の頭に手をやって、被っていた襤褸布を引き降ろした。まとめるともせず、伸ばし放題の恐ろしげな髪は、若いはずなのに真っ白だ。
そして、その顔は―――
 その顔の半面には、禍々しい硬質な皮膚が、まるで鱗のように張り付いて、青い静脈がびくびくと波打っていた。思わず目を背けたくなるような、恐ろしい容貌だった。
 「あたしは、物心ついたときからこうだった。母さんが呪ったの、ひどく人を恨んだの。体もそうなのよ、まるで化け物みたいでしょう。」
そう言うと、少女は悲しげに布切れで眼差しを覆い隠した。
 「母さんは、男の人に遊ばれたんだって言っていた。本気じゃなかったんだって。捨てられた時には既にあたしを身ごもっていて、その人を恨みながら、この岬であたしを産んだの。」
 「それだけで、そんな…顔に?」
 「呪いを作ることは簡単よ。人の気持ち次第なの、何かを強く呪えば、それだけでいい。母さんはあたしに、誰からも愛されない呪いをかけてくれた。あたしが、母さんのようなひどい目に合わずに済むように。そして、あたしが誰も愛せないように。…だからあたしは、母さんのように悲しまなくて済む」
エルノーラの瞳の色は、この辺りに住む人々の、どの色とも違っていた。淡い緑、透けるような静かな色だ。その瞳と、赤い唇だけを見ていれば、愛くるしい少女と誰もが思うのに。
 レヴィンは、そのひどく痛々しい現実に溜息をついた。
 「それで、あんたの母さんは? もう、いないのか?」
 「いいえ」
どこかから、また咆哮が聞こえる。苦しみに喘いで空を掻くような、そんな声だ。
 「母さんは、蛇になったの」
 「蛇?」
 「そうよ。深い絶望の中で、強い恨みや憎しみにかられた人間は、人ではない、大きな蛇になるのよ。」
 「まさか…」
霧の入り江には、大蛇のような化け物が出る、と。
 「母さんを捨てた人は船乗りだったの。だから母さんは、船を見ると、いてもたってもいられない。」
この娘の母親なのか。
 「ここは、神に見捨てられし者たちが住まうスカルディ。あたしたちのような者には、この霧の中以外、どこにも行くところは無いのよ。」
 「そんなことはない。」
 「他にどこへ行けというの?」
エノーラは大声で笑った。
 「あんただって、ここに来たでしょう。呪われし者は、みなここへ流れ着く。そして、ここから出ることは出来ないのよ。」
 「馬鹿な」
立ち上がって、表に出ようとしたレヴィンは、はっとした。霧が…動いている。
 まるで、生き物のように。その向こうから、ゴオオッと激しく叩きつける風の音が聞こえる。霧と岩とがぶつかり合い、擦れあって、この奇妙な地形を作っているのだ。
 「ここから出て、それで、どうするの? 行くところも無いくせに」
 「オレが知りたかったのは、呪われたまま生きていく方法なんかじゃない。呪いを解く方法が何処かにあるはずだ」
 「そんなものがどこにあるの? 誰も救ってくれやしない。母さんがあんなに苦しんでいるのに、誰も助けてくれなかったじゃない。皆ただ怯えるだけだった。遠巻きにして見ているだけだった」
その言葉で、レヴィンはふと思い出した。解放してやってくれ、と、言った女の影…。
 やはり、あれは夢ではなかったのだ。
 「人ばかり頼りにするんじゃない。自分の手で切り開けばいい」
彼は、剣に手をやった。
 「使えるの?」
 「少しくらいなら扱える」
 「違うわ、剣の扱いじゃない。それには禁じられた古い神々の魔法がかかっている」
エノーラは、咎めるように言った。彼女の目は、柄の部分に薄く刻まれた文字に吸い付けられている。
 「その剣を使うことは、追放されし悪しき神々に縋ることだわ」
 「光の神の罰を受けるというのか。それとも、古えの神々に呪われることが怖いのか? オレもあんたも、既に呪われた身だというのに」
少女の視線がレヴィンの手元から這い上がり、彼の視線を捕らえた。
光の神は、正しき者に祝福を与え、罪を犯した者も救うという。
 だが、この世の全てを作ったという全能のその神は、その手から、幾つもの命を取り零した。この岬に繋ぎとめられた者たちを、見捨てているではないか。
 「怖いわけじゃないわ。ただ、確かめたかっただけよ。」
一瞬の動揺はすぐに消え、平静さが声を覆い隠した。
 「夜になれば、少しは霧が晴れる」
エノーラは淡々とした口調で言い、ひとつ、ため息をついた。
 「入るのは簡単だけれど、出て行くことは難しいわよ。行くなら、行きなさい。――でも、また戻ってくることになるかもね。」
レヴィンは、黙って入り口の側に腰を下ろし、外を吹き荒れる白い風を眺めていた。
 少女は、まだ何かを隠しているのかもしれない。
 だが、そのことを敢えて、レヴィンは口にしなかった。

 エノーラの言ったとおり、夜になると、霧は少し収まってきた。
 レヴィンは岩屋を出て、尖った岩の隙間を、体を傷つけないようすり抜けて、岬のへりに立った。その向こうには、ぼやけた暗い海がうっすらと広がっている。月は、朧に東の天の縁に貼りついている。
 昼間の生き物たちは相変わらず、視界の端にかすかに触れるや否や素早く姿を隠してしまう。時々見える細い手足のようなものが、昔話に出てくる醜い黒い小人を思させた。
 それらは古い神々の生み出した生き物で、海を渡ってきた新しい神に追われて、いつのまにかいなくなってしまったのだという。
 決して祝福されることのない生き物。古い神々が去ったあとでも、その神々の生み出した生き物は、まだ生き残っているかもしれない。
 呪われし者、救いの届かぬ者は、みなここへたどり着く。
 だが、ここから出ることは出来ないのだろう。
 岬の下で波に洗われる白い骨を見つめていた、その時だった。
 オオオッ、と、咆哮が轟いて、レヴィンは思わず後退った。
 「何だ?!」
見上げる空に、白く輝く鱗が流れる。大きい。
 飛沫とともに飛び上がったそれは、ただの海蛇では無かった。ふっと彼を見た黒い瞳は、知性の輝きを秘めている。
 しかし、視線が合ったのは一瞬のこと。
 動揺し、動きを止めた者をあざけるように、巨体はうねり、くねりながら空を飛び越えて、岩場の向こうへ沈んでいく。レヴィンは我に返り、慌てて崖の向こうに目をやった。下は、肋骨のように尖った岩が突き出す暗礁だ。飛び込めば、串刺しになってしまう。
 だが、蛇のために、そんな心配などする必要は無かったのだ。
 白い巨体は岩場を楽々と飛び越えて、はるか遠くに水冠をつくり、沈んでいく。暗い海がその体を呑み込んで、波紋に星の光が揺れた。
 信じがたい光景だった。
 船乗りたちの言う、「巨大な白い蛇のようなもの」が、本当にいたとは。
 「あれが、…化け物か」
レヴィンは、体の奥底に何か熱いものを感じた。恐れとも、敬いともつかぬもの。それは、人が古来から神や怪物に抱いてきた、ごく自然な気持ちだったろう。
 彼は、何かに引き寄せられるように、岩を滑り降りて、波打ち際に立った。
 霧は、完全には晴れていない。
 朧月。
 満月から少し欠けた、しかしまだ丸い姿を保った月が、ぼやけた空の向こうに浮かんでいる。
 足元を潮が洗い、尖った岩が淡い光の中に危険なきらめきを宿している。あまりに岩が多い。ここから、船で海に出ることは難しいだろう。
 そして、陸の出口は、つねに濃い霧に覆われている。
 まるで、外界と隔絶して孤立させるためだけに作られたような岬だった。呪われた者を閉じ込めるために? 神が救済を拒否した者たちを住まわせるために?
 それとも、何かを守るために…?

 はっ、として、レヴィンは振り返った。
 人の気配だ。さっきまでは誰もいなかったのに。
 いつしか雲が出て、月は、隠れている。
 「何だ…?」
海が銀色に光ったような気がした。しかし、それは海ではなかった。女性だった。
 泡の波打つように美しい、長い銀髪の女。真っ白な長い衣はつま先まで垂れ、しっとりと濡れている。見開いた目は…
 …怯えたように見開かれた目は、空虚に、黒い。
 「あんた、一体どこから」
 「生きているの?」
その声は呆然として、信じられない、というような響きだった。
 「生きているのね。生きている人間が、ようやくここへやってきたのね」
 「誰だ、あんた」
レヴィンは反射的に剣に手を伸ばす。もっとも、何者であるにせよ、女に刃を向ける気は毛頭ない。
 「わたしは…」
言いかけて、レヴィンの手元に視線を走らせる。黒い瞳が伏せられ、声が沈みこむ。
 「わたしには名前が無い。かつて持っていた名も、もはや私のものではなくなってしまったわ」
呪われた名を口にすることは出来ないのだ、と、静かに項垂れたあと、わずかな沈黙をおいて、女は呟くように言った。
 「お願い。エノーラを。あの子をここから連れ出して。ここは生きた人間の住むところではないわ」
 「何だって?」
 「エノーラを。あなたなら…」
風が吹いて、雲が過ぎる。月の光が戻ってくる。
 女は、びくんとなって大きく体を振るわせると、両手で顔を覆った。
 「行きなさい。はやく。月は狂気を呼び覚ます」
どこかで、遠く吼える声が聞こえた。
 波打つ銀の髪が翻り、女は、岩の間へ姿を消した。あまりに急いだために髪が岩に引きちぎられ、波間に長い一房の銀色が、残される。
 レヴィンは膝を折り、波間に漂う、しっとりとした、その一掴みの髪を持ち上げた。
 夢ではない。
 揺れて残る長い髪を見つめて、レヴィンは呆然と思った。その女は、確かにそこにいた。
 だが…消えた。
 ここには、生きている人間は一人しかいないのだと、エノーラと同じことを言った。
ならば、あの女性は何者だ? 死人が出歩いているとでも、言うのか。
 「エノーラ…。俺が、ここで会うべき人間…?」
彼女を連れ出せば、何かが変わるのか。それとも、あの化け物を倒すのか?
 分からない。だが、どのみち、ここから出る方法は考えなければならない。こんなところに、いつまでも閉じ込められているわけにはいかない。
 そう、自分には、…帰るべき場所がある。

 この時になっても、レヴィンにとって帰るべき場所はただひとつ、故郷ソルマルケルの町だけだった。


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