Reginleif Saga

第三歌章  スカルディ



  レヴィンの足は、軽かった。 
 手持ちの荷は、ごくわずか。ただ一人、街道をずっと南へ下っていった。海へ向かってね。
 誰も足を止めない。よくある光景さ。身一つで出稼ぎに行く若者はよくいるだろう。
 けれど、時々、若い娘は足を止めたかもしれないね。人ごみの中から、頭ひとつぶん抜きん出るほどの背があった。それほど体格はがっしりしていないが、いい衣装を纏えば、それなりには見えたかもしれないね。
 でも、それ以外に何の取り得があったわけでもない。着ているものは擦り切れた普段着だし、父親似の髪と、母親似の瞳と、…まぁ、この地方ではありがちな容貌だった。裕福な新しい民は、青い瞳のことが多かったけれど。
 …え? 他の者たち?
 そうか、他の者たちについては何も話していなかったね。ユングヴィと、アルドレットと、ローニー。

 四人は幼馴染だった。
 同じ町で、同じ年頃の男の子たちがつるむのは、しごく当たり前の成り行きだろう? ユングヴィは、体格のがっしりした一番の力持ち。アルドレッドは町長の息子で、長男だからと、いつか家を継ぐときのために勉強させられて、色んなことを知っていた。頭の回る若者だったよ。
 ローニーについては…、もう話したっけね。ちびで、でぶで、うすのろだって皆に馬鹿にされて、いつも人の後ろばかりついて回っていた。でも自分ではいっぱしのつもりで、いつか馬鹿にする連中を見返してやろう、と、そればっかり考えていたね。一緒に居ても、アルドレットなどはローニーをしきりと馬鹿にしていた。
 でも、レヴィンやユングヴィはそんなことはしなかった。誰かを馬鹿にするのは悪いことだと、教わっていたからね。
 そう、レヴィンとユングヴィは、いちばんの仲良しだったね。
 ユングヴィの母親は大きな町から来た新しい民の娘で、ユングヴィを産むとすぐに死んでしまった。だから、彼はレヴィンの母親に、息子のひとりのように一緒に育てられたんだ。レヴィンの母親も、ナルヴィを産んだあとすぐに死んでしまったがね。
 ユングヴィの瞳は、澄んだ青さ。新しい民の色だ。
 瞳の色なんて、どうでもいいことかもしれない。でもね、思うんだ。目の色は、その人に見える風景を違えないんだろうか、って。色の違う瞳に映る風景は、本当に、同じだと思うかい?

 レヴィンは、「霧の入り江」を目指すため内海を目指して歩いていた。
 内海と言っても、外海と繋がっている大きな海だ。大陸と大陸に挟まれていて、細長い半島が突き出している。その半島の南側が穏やかな内海、北側が荒れた外海なのだ。
 「聞いたか? また船が沈められたらしい。」
 「あぁ。今度は大きな船らしいな。」
側を、二人連れの旅人が通り過ぎていく。話し声が、レヴィンの耳に届いた。

 ―――内海には、怪物が出るらしい。

 そんなうわさは、寂れたソルマルケルの町にも流れてきていた。
アルドレットはムキになって迷信を信じるなど愚かだと否定していたが、ユングヴィは笑って、そんなものがいるくらいなら是非退治して名を上げたいものだと言っていた。
 ローニーはお決まりの、ひいいっという甲高い悲鳴を上げてぶるぶる震えていた。
 レヴィンは…、
 …どちらでも良かった。彼はいつもそうだった。中立に立って、ただ黙っているだけだった。無口なわけではない。喋るべきことが見つからないから、そうしているのだった。
 そして、たいてい、ユングヴィが「お前はどう思う」と聞いてくる。
 そこではじめて、彼は自分の意見らしきものを述べるのだ。
 化け物など、いても、いなくても、大して変わらない。自分には関わり無いことだから、と。
「沈められたのは、オーフェイグルのところの大型船らしいぞ。」
 「あの、大金持ちのか? ひゃあ、さぞかし財産がつんであっただろうに、もったいない」
 「大損だって。大きな取引がふいになっちまったらしい。なんでも、取引に間に合いそうも無いというので、無理に船を出したらしいんだが…」
 「急いでいたって、満月の晩に船を出すなんて、馬鹿さ。奴が現れて、船を沈めちまうんだから。」
男たちは、忙しなく歩きながら会話を交わしている。商人は、みんなそうだ。取引に遅れまいとして、少しでも遅れたら利が減るとでも言いたげに、せかせかと歩く。
 レヴィンは、黙って話声に耳を傾けていた。
 オーフェイグル、という名前には、聞き覚えがあった。どこで聞いたものか…どこにせよ、その名前には、権威があった。このあたりで最も大きな町の有力者、この半島で一、二を争う資産家だ。十年ほど前に、内海の向こうからありったけの財産を持って渡ってきた…。
 アルドレットは、商人になって富を築きたいと言っていた。
 もし彼が成功すれば、オーフェイグルのようになるのだろうか。

 『あの黄金を使うのか?』

 レヴィンには、おぞましい考えだった。呪われた黄金を使うなど。手をつけることは、逃れがたい呪いを確定的にしてしまうように思われた。
 目もくらむばかりのまばゆい輝きも、幽霊の青白い顔を思い出すだけで色あせてしまう。彼には、必要ないものだった。苦しくとも、日々の稼ぎで何とか生きていけるのだから。幼い弟だって、いつかは自立する。だから…
 …理由は、無かった。どっちでも良かったのだ。塚を暴こうと、暴くまいと。ただ一瞬、欲にかられたこと、興味があったことは事実だったが。

 彼は歩き続けた。
 野宿をしながらいくつもの町を通り越し、街道を歩き、そして4日目の朝、ようやく海が見えた。
 内海を見るのは初めてだった。静かに澄んだ湖の表面は、まるで鏡のように空を写して、どこにも霧なんてかかっているようには見えなかった。恐ろしい化け物が出るようにも。
 荒れた外海とは、まるで性格が違っているようだった。大型船がゆっくりと行き交っている。
 レヴィンは街道の終わる港町で道を尋ねようと思った。霧の入り江、と言われても、入り組んだ海岸線の続くこの内海の、どこにそれがあるのか分からない。知っている者がいればいいが。

 …だが、彼の思うより、その岬は知られた場所だった。
 「何だって? 霧の入り江? そいつは、スカルディのことを言ってるのかい。」 
港に向かう道で呼び止めた船乗りの男は、顔をしかめて、ひどく苦々しい口調でこう聞き返してきた。
 「…そういう名前なのか」
 「知らないなんて珍しいな。ここいらじゃ、有名な場所さ。三角に突き出した岬がある。その辺り一体がスカルディと呼ばれるのさ。深くえぐれて、波は渦巻く。夜には深い霧に包まれて、吹きぬける風はひゅうひゅうごうごういう。嫌なところさ。迷い込んだら、船は渦と波にあおられて出られない。しかも最近じゃぁ、化け物まで出るときてる。」
それではじめて、レヴィンは、くだんの化け物の出る場所を知ったのだった。
 「それは、どこにある。」
 「…あんたまさか、行くってのかい? やめときな。陸からだって、行かないにこしたことはない」
物好きな他所者を牽制する言い方だった。
 「会うべき者がいる。」
グレーシルは、そう言ったのだ。霧の入り江に会うべき者がいる、と。
 「どう行けばいい。教えてくれ」
 「それは…この町を出て、まっすぐに西へ向かえば出くわすが。あんた本気なのかい?」
レヴィンは、何も答えずに踵を返した。
 化け物がいようと、いまいと、大したことではない。たとえ、そこが呪われた場所だとしても、こちらだって、呪われた身なのだ。大した問題ではない。
 歩き出して、しばらく行きかけたときだった。
 「待ちな、待ちなって」
さっきの船乗りが追いかけてきた。
 「マジかよ、おい。何だってそんな場所に行きたがるんだ」
 「……。」
 「行くってんなら、そりゃ止めないけどさ。言ってないことがあるんだ」
男は、ひどく真面目な顔で、頭ひとつぶん高いレヴィンの顔を見上げる。
 「あそこの岬は、年がら年中霧に覆われて、朝も夕方も濃い霧に覆われて、陸からでも近づくことは出来ない。だが、太陽が上から照らす正午だけは霧が晴れる。本当だ。俺は船の上からこの目で見た」
 「正午か。試してみることにする」
 「おい…」
まだ何か言いたげな男を振り切って、レヴィンは足早に歩き続けた。理由を聞かれても、説明に困る。それに、説明する気もない。
 彼は足早に霧の入り江へと向かっていた。
 夜になり、月が出て、満月から欠け始めた白い輝きが頭上から行く手を照らし出している。誰も居ない道は、銀色に続く。左手には、静かな海がいつも見えていた。
 朝になる頃、疲れて道端の茂みに入って丸くなって眠った。そして昼の日差しで目を覚ました。
 そうして幾日かが過ぎ、月が半分に欠けるころ、レヴィンはようやく、それらしい入り江にたどりついていた。

 三角に突き出した岬がある、と、あの船乗りは言っていた。
白くぼんやりと霞む空の一角につきだした影がそれならば、そうなのだろう。確かに霧に覆われている。岬に続く細い一本限りの道も、霧の中に沈んでいて、近づこうにも、一歩間違えば切り立った崖から海に落ちてしまうだろう。
 夜だった。
 レヴィンは、岬の見える場所に腰を下ろして、じっと時を待っていた。膝の上には、鞘に収められた剣が載っている。人に向かって抜く気にはならなかったが、本当に化け物がいるというのなら、これを使うこともあるだろう。
 そう思いながら、うとうとと目を閉じた。

 夢を見た。
 …それは、ひどく難解な夢だった。
 骨をすり抜けて、頭の中に霧が染み込んでくるような感じがする。足元から這い上がり、まとわりつくような冷たい風に包まれて、体は内からから朽ちていく。しかし、それは錯覚に過ぎないのだ。
 手は、体は、元のままそこにある。霧の向こうに誰かの気配を感じて、レヴィンは、そろそろと膝の上の剣に手を伸ばした。
体は痺れたようで、顔を上げようとしてもうまく動かない。
 「その剣で何を斬るつもり」
 「誰だ?」
女の声だ。白い空気のヴェールに包まれて、影が動く。
 「何をしに来たの」
 「お前は…誰だ」
 「誰なの?」
オオオ、と、霧の彼方から、地を揺るがすような低い咆哮が響き渡る。苦悶に満ちた叫びだ。獣のもののようにも、人間のもののようにも聞こえる。
 つい、と、気配が動く。
「解放して、ここから。その剣なら…」
波の引くように、霧が影とともに離れていくのが分かった。
 「ま、待て…」
レヴィンは、痺れて重い腕をようやくの重いで体から引き離し、差し伸べようとする。

 そこで、彼ははっと目を覚ました。

 辺りは既に真昼の光の中だ。太陽は天の頂にある。濃い、ミルク色の霧は嘘のように晴れて、岬は、その尖った輪郭をくっきりと海の上にさらしていた。
 レヴィンの動きは素早かった。
 荷物をつかむと、大急ぎで岬を目指した。霧が晴れるのは正午だけだ。太陽が傾きだすと、また霧が出て、行く手を阻んでしまうだろう。
 そこは、黒々とした、岩だらけの土地だった。霧の覆っていた部分だけ、嘗め尽くされたように綺麗に苔が失われている。あちこちに尖った岩が突き立ち、酸でもかけられたように、深くえぐれている。正体をなくした白い骨が、ひび割れに挟まって転がっている。霧に迷い込んで岩にぶつかった哀れな海鳥の死骸も。
 おおよそ、生き物の住めるようなところではなかった。霧が晴れても、そこは異界のままだ。
 ウウ、と、低いうなり声がしたので、レヴィンは辺りを見回した。
 何か、生き物がいるのか。岩の割れ目を覗き込む。
 かさかさと音がして、奥のほうで、何かがうごめいた。だが、それは、縮こまってしまって出てくる気配は無い。
 視界の端に、黒っぽい影が走り抜ける。霧に濡れた岩はまるで何か生き物の体のようで、滴り落ちる水滴と深い穴に吹き込む風の音が、まるで、生き物の呼吸する音のように辺りに反響する。
 耳を澄ますと、ざわざわと、潮騒が迫ってくるような気がした。

 「ここよ」

低く、くぐもったその声で、彼はようやく我に返った。魂が産みに引きずられそうになっていた。
 振り返ると、突き出した岩の下に、うずくまる小さな影が見えた。もそもそと動いている…人間の手足だ。それに、人間の言葉を喋った。
 まだ若い。
 「こんなところで、何をしている?」
まさか、住んでいるとも思えなかった。こんな、四六時中霧に包まれた場所に人が住んでいるとは誰も思うまい。
 レヴィンの怪訝そうな視線に気づいたのだろう。その人間は…、たぶん少女だろう、ゆっくりと立ち上がって、レヴィンのほうに向かってくる。体に纏う黒っぽい、襤褸のような布から、水滴が滴り落ちた。
 「あんたこそ何しに来たの」
 「それは…」
言いかけたとき、オオオッ、と何処かで吼える声がして、突風のような風が吹いた。振り返ると、いま来た道が白い靄に包まれ始めている。
 「道が閉ざされるわね。しばらく帰れないわよ」
襤褸の下から白い腕が伸びて、レヴィンの腕をつかんだ。
 「ついて来て。足元に気をつけてね」
霧は足元から這い上がってくる。どこかで、キィキィと甲高い声がして、また何かが走り抜けた。霧が戻ってくることを、喜んでいるような気配だった。
 ここは、やはり異界なのかもしれない。
 腕をつかむ細い白い腕を眺めながら、レヴィンは、その手の主があやかしではないことを祈った。



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