Reginleif Saga

第十歌章 再生、そして



 レヴィンは、自分の手を見た。体全体が震えていた。どうして? どうしてこんなことに。
 「ナルヴィ! ナルヴィ」
駆け寄ったエヴァンジェリンが、必死で少年の体を揺さぶっている。
 「俺は、弟を…?」
 「ひどい! レヴィン兄さん、どうしてこんな!」
 「見えなかったんだ。一瞬、ナルヴィだってことが分からなかった。でも、俺は。殺すつもりなんて…」
 「殺す?」
顔じゅうを涙でぬらしたエヴァンジェリンが、顔を上げた。青い瞳がいっぱいに見開かれている。
 「…まだ、死んでないわ」
 「何?」
 「ナルヴィは、生きてる」
レヴィンは慌てて草むらに這い寄った。仰向けに倒れた少年の額には、浅く、剣の破片で傷つけられた痕があり、血がにじんでいる。
 しかし、斬られてはいない。
 細いうなじには、血の通う気配があった。
 剣が折れたからだ。レヴィンは自分の手元を見つめた。
 そのお陰で、致命傷を負わずに済んだ。
 古き神々の呪文がかけられたレヴィンの剣は、霧の王を倒したとき、その強い酸のような体液を浴びて、既に朽ちかけていたのだった。
 レヴィンは、振り返った。エノーラは顔を覆ってうずくまっている。
 「エノーラ。どういうことだろう。俺は、ナルヴィを殺すはずだったのに――」
少女が、ゆっくりと顔を上げる。彼は、はっとした。
 「エノーラ?」
彼女は、自分の顔を手でさすっていた。何度も、指先で肌の感触を確かめている。
 その髪は、もう、以前のように真っ白ではなく、肌は、鱗のような禍々しいものに覆われてはいない。
 いつか海辺で見た女によく似た、泡立つような銀色の髪をした美しい娘が、長いまつげに涙をためて、ゆっくりと、顔を上げた…。

 …そう、呪いを解くのは、ひどく簡単なことだったのさ。
 強い呪い同士が打ち消しあって、彼らは自由になれたんだよ。
エノーラにかけられた呪いは、誰からも愛されないこと、そして誰も愛せないということだった。けれど彼女は、いつしかレヴィンに、特別な好意を寄せるようになっていたからね。
 人を愛することのできるものは、きっと人からも愛される。
 レヴィンは、それを証明した。彼女を救おうとすることによってね。
 そのときエノーラの呪いは解けたんだ。そして、レヴィン自身のもね。
 なぜって、彼が殺すのは、「最も愛する者」でなくてはならなかったからだ。それはもう、ナルヴィではなくなっていたんだよ。
 呪いの力が発揮されるのは、たったの一度きりだ。その時を乗り越えてしまえば、人は、何の束縛も受けなくなる。
 呪いの主は、うまく欺かれたってわけさ。今頃は、墓土の下で歯軋りしているところか…いや、もうそんなことは出来ないか。とっくに土に返ってしまっただろうからね。
偽りの命もまた、呪いによって与えられたものだった。
呪いの主自身、その呪いに囚われたまま、何百年も苦しみ続けていたのさ。

 レヴィンは、もとの姿に戻ったエノーラと弟を引き合わせ、これまでにあった出来事を話した。
ナルヴィは兄とまた会えたことをひどく喜んで、自分が軽率だったことをしきりに詫びた。兄弟仲は悪くはならなかったよ、だってそうだろう、心から信じあう兄弟の絆は、そんなに簡単に断ち切れるものではない。
 だが、他の者たちはどうだっただろう。
 ユングヴィの屋敷は踏み荒らされ、略奪され、めちゃくちゃになっていた。
 レヴィンが屋敷に戻ったとき、そこには誰もいなかった。ただ死体だけが累々と転がっていて、疲れた顔の召使たちが、絶望的な後片付けをしていた。
 奥の間には、新しくしつらえられたばかりの祭壇があって、その上に、白い布を顔にかぶせられた若い娘が、物言わぬまま、胸の上に手を組み合わせて横たえられていたよ。
 「奥様が亡くなられたのです。若旦那さまは、かたきを取ると仰って、手勢を率いてソルマルケルへ向かわれました。」
それだけで、十分だった。

 馬で戻ったレヴィンが見たのは、火が放たれ、家という家が打ち壊された後の、ソルマルケルの町だった。
 ユングヴィが、あらん限りの金を投資して集めた荒くれたちによって、彼のかつての故郷、生まれ育ったその場所は、徹底的に破壊されたのだ。
もはや、何一つ残されてはいなかった。生き残った者は早々と遠くへ逃れて、辺りには生きた人の気配も感じられない。
 まだ煙の昇る町長の家で、彼は、地面に剣の突き立っているのを見た。
 その側で、アルドレットが我を忘れて号泣していた。そのかたわらに、頭から血を流してこときれている町長がいた。その向こうには白い手が横たわり、…彼の家族たちが、無残な姿で転がっている。
 「家族だったのさ。」
低く咳き込む声で振り返ったレヴィンは、柱にもたれかかるユングヴィを見つけた。彼の体からは、もう、あの違和感のある気配は消えていた。
 「あんなに反発してはいたけれど、こいつにとっては、自分の家族こそが“最も愛する者”だったんだろうと思う…」
ユングヴィは、腹に深い傷を負っていた。もう助からないことを、自分で悟っているようだった。
 彼はやはり覚えていたのだ。四人で塚を暴いたあの日のことも、幽霊の告げた恐ろしい呪いのことも。
 弱々しく微笑んで、言った。
 「俺は妻を失った、最も愛していたあの人を。馬鹿なことをした。ただ、あの人が欲しかった、それだけだったのに―――」
 「俺は…。」
ユングヴィは、首を振った。
 「レヴィン。お前の言うのは本当だったな。やはり、呪いというのは、あったんだよ。」
彼は微笑んで、静かに目を閉じて、…そして二度と、その目を開くことは無かった。

 ローニーは、町外れの家の中で、酒瓶を抱いて死んでいた。
 体に傷は何一つ無かったよ。ただ、異常なほどに太って、体中が黄色くなっていた。辺りには、食べ散らかしたごちそうが、堆く積み上げられて、異臭を放っていたそうだ。
毎日、食べたり飲んだりの、贅沢な暮らしがたたって、体を壊してしまったんだね。だけど、彼が死んだことに、誰も気がつかなかった。
 誰も愛することなく、誰からも愛されることはない男だった。
 ただ自分をのみ愛していたローニーは、自分だけの王国で王様になって、自分を滅ぼしてしまったのさ。
 かろうじて命永らえたアルドレットも、気が触れたようになってしまって、食べ物ものどを通らずに、やがて暖炉の火の消えるように死んでしまった。
 エヴァンジェリンは悲しんだがね。家族全員を、ほとんどいっぺんに無くしてしまっんだから。
しばらくは、何も手につかない様子で、側でずっと、ナルヴィがなぐさめていたよ。
 塚を暴いた若者たちのうち、生き残ったのはレヴィンだけさ。
彼はソルマルケルの塚の上に、大きな石を運んで置いた。ちょうどここにある、それ、このくらいの大きさの石さね。
「遠き日の記憶よ、ここに眠れ。そして二度と目覚めることなかれ」
そして、もう誰も、呪われた塚を暴くことなど無いように、と、願ったんだ。

 これは、もう、二百年も前の話さ。
 折れた剣はとうの昔に失われ、古い時代は霧の晴れるように過ぎ去ってゆく。
 人々はやがて、悲しい記憶も忘れ、また普段通りの暮らしに戻っていく。
レヴィン自身もそうだった。失われた緑は時とともに大地に満ちて再生する。
 残酷なことと誰が言えよう?
 過ぎ去りし遠き日のことを、その悲しい記憶を、ありのままに覚えていろというほうが残酷だ。人はどんなことに出会っても、心の傷を癒して強く立ち上がる。春の息吹が、冷たい凍土を押し割って明るい世界を求めるように。
 霧の岬も内海の化け物のことも、魔女のことも呪われた塚のことも、そうして、かつて運命に立ち向かった人々がいたことも、――すべては、遠い昔の記憶。そう、この丘に眠る、石の下のもの。
 もう、二百年も前の、過ぎ去りし日の物語さ。



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