8


 遠征軍が外から慌しく町に帰還したのは、急場ごしらえに門が作り直され、結界が元に戻った後のことだった。
 暖炉の側のソファでうとうとしていたソールは、ドアをノックする音で目を覚ました。暖炉の縁にまるくなっていたティキも顔を上げる。
 「どうぞ」
ドアが開いて、フリーダが入って来る。
 「アストラッドが帰って来たの。」
砦に着いたばかりの時に聞いた――、フィオーラのつれあいで、この砦の本来の指揮官だという人物だ。
 「これから話をするところなんだけど、一緒に来てくれる?」
頷いて、ソールは腹の上で眠っていたヤルルとアルルを両手でそれぞれつまみ上げながら立ち上がる。
 「ふぁ?」
 「んー、なぁに…まだ眠いよう」
二人は寝ぼけ眼をこすり、宙ぶらりんになったまま羽根をばたつかせる。
 「寝てたいなら寝てていいぞ。」
 「やだあ、ソールと一緒にいく…」
上着のポケットに滑り込みながら、ヤルルはひとつ大きな欠伸をした。アルルのほうは、まだ半分目が閉じている。
 「二人とも、相変わらず、ソールのことが大好きね。」くすっと笑って、フリーダは先に立って廊下に歩き出した。
 「アストラッドは、救難信号を見て、大急ぎで引き返して来たって言ってたわ。城門が壊されてるのを見て、最悪も覚悟したって。――ソールのことはもう話してあるの。それで、会ってみたいらしいの」
 「ふうん」
彼女が向かったのは、最初にフィオーラと会ったあの居心地のいい居間だった。今日はそこに、フィオーラの向かい側に堂々とした体格の騎士が一人、杯を手に館の主人然とした顔で腰を下ろしていた。ソールたちが入っていくと、顔を上げ、口元の髭を歪めて笑顔を作った。
 「ほう。君が噂の、"巨人殺し"のソールか」
 「…? 何の話だ」
 「なに、氷の巨人どもを一人で片付けたというのでね。気に入らないかい?」
 「……。」
余裕に満ちた笑顔。強いな、とソールは直感的に思った。
 体じゅうからあふれ出す自信に満ちた気配は、熟練した戦士のそれだ。ベイオールなど比べ物にならない。雰囲気でそう分かった。この砦が守られてきたのは、単に結界のお陰だけではない、ということだ。
 黙っていると、アストラッドは微笑を浮かべて杯を置いた。
 「話を戻そう。まずは自己紹介だ」
そう言って立ち上がると、ソールに逞しい大きな手を差し出した。
 「私はアストラッド・フォン・ブラムス。かつては、この辺りはうちの領地だった。今では、この砦しか残っていないがな」
軽く握手したあと、ソールは、勧められるままソファの開いている場所に腰を下ろした。隣にフリーダが座る。ポケットの中はやけに静かだ。妖精たちは、そのまま二度寝に入ってしまったのだろうか。
 「それで、アストラッド。遠征の結果は? 向こうの砦は、取り戻せたんですか」
 「ああ…、さっきベイオールにもそのことをしつこく聞かれてな。結論から言えば、あと一歩で無理だった」
杯をぐいと干し、彼は小さく溜息をついた。「あの砦は、ドラゴンの巣になっていた」
 「巣? でも…」
 「もちろん本当の意味での繁殖ではない。あれは魔力によって生み出された生き物。だが、生み出されていたのは北の山のほうではなかったのだ」
 「どういうことですか?」
フィオーラが身を乗り出す。「あれは魔女のしもべでしょう」
 「ああ…。」
アストラッドは、ちらと部屋の中に視線をやった。まるで、部屋の中に他に誰もいないことを確かめるように。
 「魔女には協力者がいた。"黒い小人"どもだ。魔女の力を譲り受けて、あの砦を我が物顔に支配していた。」
 「黒い小人?」
 「うらぎりものだ、闇の世界についほうされた」
驚いたことに、ヤルルがひょっこり上着のポケットから顔を出して言った。
 「太陽の光を浴びると石になる」
反対側のポケットから、アルルも顔を出す。
 「お前ら、起きてたのか」
 「おきてるよぉ! ちゃんと聞いてたもん」
 「ははは、その子たちがフリーダの連れ帰った南の森の妖精か。さすがに良くご存知だ」
 「あいつらはキライ。やっつけにいくの?」
アルルがソールを見上げる。
 「敵ならな。そいつらが、あの黒いドラゴンを創ってるのか」
アストラッドは頷いた。
 「私も何匹かは始末したが、部下たちの消耗が激しくてね。そう沢山一度には生み出せないだろうから、取り戻すなら今が狙い目だと思うのだが。」
 「俺が行って来る」
間髪入れず、ソールは答えた。
 「残念だが今は、兵力に余裕がない。君に預けられる兵力は――」
 「俺一人でいい」
 「一人で?」隣にいたフリーダが猛然と食らいつく。「馬鹿なこと言わないで、道も知らないのに。私も一緒に行くわよ」
 「フリーダ…あなた、また無茶なことを」
 「私はいつだってこうでしょ、姉さま。それに、南の森まで行って戻って来られたんですよ。隣の砦くらい、何でもないわ」
 「ヤルルたちも一緒だよ」
ポケットから体を半分乗り出して、ヤルルがくすくす笑う。「黒い小人オシオキ、しなきゃ」
 「ソールがいれば負けないよ!」アルルもあわせる。
 「ふむ。…」
館の主たる騎士は、何か考え込むように顎に手をやった。フィオーラは、心配げに連れ合いと、妹とを見比べている。
 やがて、彼は言った。
 「――分かった。ではお願いしよう。けれどもし危険なら、すぐに引き返すように。」
頷いて、フリーダはちらとソールを見た。「いいわよね、ソール」
 「ああ」
ソールは妖精たちとともに立ち上がる。
 「ところで、…フリーダから聞いたのだが、君は"ブーリの一族"と名乗っているそうだが」
 「そうだけど」
アストラッドの興味深そうな視線が、こちらに向けられているのを感じた。
 「…都の賢者に聞いたことがある。始原の巨人、神々の始祖ブーリのことを。何者でもない、大地より生まれし者だとか」
 「始祖ですって?」
フィオーラは眉を寄せる。「では、あなたはこの子が"古えの神々"に連なるものだと?」
 「たまたまでしょ」
フリーダはそっけない。「"古えの神々"は死んだら岩になったりしないわよ。みんな消えてしまったんじゃない。」
 「そうだな。たまたま…かもしれないが、魔女のしもべたちを容易く退けるという力、私は少しばかり興味がある。詳しいことは王都で訊ねるといい。もしかしたら、君にとっても役に立つことが分かるかもしれないから」
 「覚えておくよ」
それだけ言って、ソールは踵を返した。



 まだ夜が明けて間もない時間だった。とはいえ、太陽の光が射してくる事はない、空はいつもの如く薄っすらと雲に覆われている。たっぷり飼い葉を与えられ、元気を取り戻したスキンファクシは、フリーダを見ると嬉しそうに蹄を鳴らした。
 「よしよし、外に出たいのね? いいわよ、ちょっと待ってて」
出立のために鞍を準備している側で、ソールは荷物と一緒に待っている。
 「本当に、いいのか」
 「何が?」
 「ついてくるってことだ」
 「危険だから? 道案内がいないと話にならないでしょ。それに、歩いていくより、この子に乗っていったほうが絶対早いじゃない」
 「そうじゃない。あんたの目的地は――」
手を止め、フリーダはしばらく間を置いてから、苦笑した。
 「王都へ戻ることも大事だけど。…目的だったその子たちが、キミと離れようとしないんじゃ仕方ないでしょ」
ヤルルとアルルは、ソールのポケットに入ったままだ。
 「あなたたち、どうしてソールがそんなに好きなの」
 「フリーダはすきじゃないの?」
ヤルルが、無邪気に首をかしげる。
 「え、私? …私は…どうかしら」
顔を背け、彼女は自らの馬を厩から引き出そうとしている。厩の辺りにいるのは二人だけで、今日は、ほとんどの人々が雪かきや壊れた障壁の修理のために出払っていた。
 「フリーダ様!」
突然、場違いなほど大きな声が響き渡った。顔を上げ、振り返ると、館のほうから大股にこちらに向かって歩いてくる若い騎士が見えた。
 「あらやだ、ベイオールに嗅ぎつけられたわね」
馬に飛び乗りながら、フリーダは眉を寄せる。
 「ついて来なくていいわよ! 私たちだけで十分だから」
 「そうもいきません」
ベイオールは断固とした口調で言い、あからさまにソールを睨んだ。
 「ご一緒します」
 「いいけど、足手まといにならないでよね。――ソール、後ろに乗って」
 「……。」
やむをえない。ソールは、敵意に満ちた視線を浴びながらスキンファクシの鞍の後ろに飛び乗った。
 「キュッ」
肩の上でティキが飛び跳ねる。馬に乗ると、ソールの肩の上よりずっと高い位置になり、視界が広がるのだ。
 フリーダが声をかけると、スキンファクシは一声いなないて、助走をつけるように厩の前の中庭を走り出した。その足がふわりと浮き上がり、城壁の上まで一気に駆け上がる。振り返ると、さっきまでいた砦は、あっというまに後ろに小さくなっていった。その砦から、追いかけるようにして黒ブチの、ベイオールの馬が追いかけてくる。
 「いいのか? 待ってやらなくて」
 「いいのよ。どうせすぐ追いついてくるし。それに、何かと煩いから」
フリーダの背中からは、苛立ちのようなものが伝わってくる。
 「あいつも…それなりに強いだろ」
 「ええ、癪なくらいにね。それで天狗になってるんだわ。だけど…それだけよ。」
時をおかず、ベイオールの馬がすぐ横まで追いついてきた。何も言わず、フリーダはさらに馬に拍車を当てた。冷たい風が体に叩きつけてくる。一面に真っ白な風景が、どこまでも流れてゆく。
 やがて、行く手に雪の中にぽつんと浮かび上がる灰色の石の塊のような建物が見えてきた。
 「あれが、目的地?」
 「ええ、そう」
ベイオールが馬を寄せてくる。
 「フリーダ様、そろそろ警戒を。」
 「分かってるわよ」
むっとしながら、フリーダは行く手に目を凝らした。アストラッドの率いた軍の通った足跡が、まだかすかに雪の上に残されている。砦の入り口の門は壊れ、そのあたりに戦闘の跡が見えた。今のところドラゴンは砦の外には出てきていない。
 「どうする?」
 「落とされるのは御免よ。下から行くわ」
馬が地面すれすれまで降下して行く。ソールは、それとなくベルトから鎚を引き抜いて、片手で鞍を掴んで体を支えた。なんとなく、嫌な予感がした。
 「あっ、あれ」
ベイオールが叫んで城壁の上のほうを指差す。はっとして見上げたときにはもう、遅かった。――目の前の雪が爆発音ともにはじけとび、スキンファクシは驚いて、いななき声とともに棒立ちになる。
 「きゃっ」
放り出されそうになったフリーダを片手で受け止めながら、ソールは雪の上に滑り降りた。石つぶてだ。城壁の上からこちらめがけて、誰かが投石器で石を打ち出している。ポケットから飛び出してきたヤルルとアルルが、何か叫んで宙に手を翳した。とたんに、辺りに不思議な色彩の空間が広がって、飛んで来た石はすべて勢いを失ってしまう。
 「ソール、あれ敵だよ!」
 「小人だよっ」
 「そうらしいな」
フリーダを地面に降ろすのと同時に、ベイオールが駆けつけてくる。
 「フリーダ様、ご無事ですか?!」
 「大丈夫よ。――あ、待ってソール!」
 「ここにいろ」
妖精たちの作る盾とともに、ソールはフリーダを置いて砦目指して走り出した。後ろでベイオールが何か怒鳴っているが、周囲の雪がはじけ飛ぶ音ではっきり聞こえない。門を潜りぬけたところで、投石の音が止んだ。しん、と静まり返った廃墟の中に、どこからともしれず、ぱたぱたと走り回る音が響いてくる。
 「どこだ…?」
辺りを見回していたソールは、気配を感じてとっさに腕を挙げた。その腕に、投げつけられた石が当たって砕け散る。
 「キキッ」
柱の影に黒い小さな姿が隠れるのが見えた。斜めに落ちた柱の上を走っていく、小さな後姿がちらりと見える。まるでネズミだ。羽根はなく、ヤルルたちとは似ても似つかない。
 「あいつら、元は妖精族だよな?」
 「そうだよ。でもうらぎりものだから」
 「ずうっとむかしに、妖精の王さまにさからって、罰としてみにくいすがたに変えられちゃったの」
背後で馬のいななきと足音が聞こえた。フリーダたちが追いついてきたのだ。
 「どういうつもりだ? 勝手に先へ行くなど!」
ベイオールはひどく腹を立てているようだった。
 「おまけにフリーダ様を一人にしていくなんて!」
きょとんとした顔になって、ソールは返す。
 「お前が側にいたじゃないか」
 「な、」
 「俺が的になったほうがいいだろ?」
それだけ言うと、視線を廃墟の奥に向けた。ここでよほど激しい戦いがあったのか、放棄されてから荒れ果てたのか、とりでの中は石とガレキの山と化している。どこに何があったのかも分からず、まともに歩けそうに無い。
 「ドラゴンの巣を先に潰したほうが良さそうだが、場所が分からない」
 「それなら多分、中庭だと思うわ。砦の一番奥よ。」
弓矢を装備して準備万端なフリーダが確信を持って言う。「ほかに、ドラゴンなんて大きなものを創れそうな広場はないもの。ここの造りはさっきまでいた砦とほとんど一緒よ。案内するわ」
 「キュッ、キュッ」
ソールの肩の上で、ティキが跳ねる。
 「…小人と違う気配? ドラゴンでもなくて?」
 「キュッ」
 「……。」
辺りには静けさだけがある。小人たちは皆、どこかへ隠れてしまったようだ。侵入者たちを退治する隙を狙っているのだろう。あるいは、こちらの力量を探っているのかもしれない。
 「おれが先に行きますよ」
そう言って、ベイオールは剣と盾を手に、勝手に先頭に立ってしまった。溜息をつき、フリーダがその後ろに矢を構えて続く。最後にソールが、妖精たちと一緒に続いた。辺りはしん、と静まり返り、動くものも、生き物の気配もない。降り積もった雪の上には、小さな足跡が無数に散らばっている。フリーダは、ちらりとそれに視線をやって呟いた。
 「"黒い小人"って、羽根がないの?」
 「うん、そうだよ」
ソールの上着のポケットから顔だけ出して、ヤルルが答える。
 「羽根はとられちゃったの。」
 「真っ黒になって、闇のせかいについほうされたの。まほうもつかえないよ」
 「ただの性悪なチビだ、大したことはない」
ベイオールは腰の剣に手をかけたまま、苛立たしげに言う。「だから魔女なんかについて、こそこそしているんだろう」
 「馬鹿にしてると、痛い目にあうぞ」
と、ソール。「見た目は変わっても妖精族だからな」
 「なら貴様も、見た目が人間に近いだけの巨人族だな?」
 「ちょっとベイオール! やめなさい」
フリーダは本気で怒っている。
 「フリーダ様もフィオーラ様も、こんな得体のしれない奴を信用しすぎです。アストラッド様まで、一体何をお考えなのか。もし、こいつが本当は敵だったらどうするんです? 人間じゃないかもしれないんですよ。」
 「人間じゃないだろうな、たぶん」
ソールは、あっさり認めた。
 「俺は、自分が何かなんて気にしたことはない。ただ、少なくとも、お前たちの敵じゃないのは確かだ」
 「なぜそう言い切れる?!」
 「俺がお前たちを敵だと思わないからだ。」
ベイオールはぽかんとなり、そのまま言葉を失ってしまった。フリーダもまた、困惑した表情で二人を見比べ、――口を開きかけて閉ざした。
 やがて、少年騎士は小さく舌打ちだけして、再び歩き出した。納得はしていない様子だったが、厭味を言う気は失せたようだった。
 「ベイオール。無理はしないで」
慌ててフリーダが追いかける。
 「無理? 無理をしているのは、そちらでしょう。だいたい貴方は、王女でありながら――」
廃墟の暗がりの中で何かが閃いた。カツン、と音がして、小石が足元に転がった。顔を上げると、傾いた柱の間に黒い小さな姿が走り去るのが見えた。それと同時に、天井から砂埃が落ちてくる。柱が傾き、鈍い音が響いた。はっとして、ソールは叫んだ。
 「走れ! 崩れる」
 「え?」
 「急げ!」
フリーダとベイオールの肩を掴み、突き飛ばすようにして奥へと走る。次の瞬間、背後から天井が崩れ落ちる重たい音と、衝撃が押し寄せてきた。
 「…なんて乱暴な」
砂埃を手で払いながらベイオールが毒づく。「無事ですか、フリーダ様?」
 「ええ。ありがとうソール」
振り返った彼女は、はっとした。ソールは、崩れ落ちてきた柱を片手で受け止め、それをどうしたものかと思案しているところだったからだ。
 「そ、…それ」
 「こいつを降ろすと、周りも一緒に崩れそうだ。お前たち、もうちょっと先まで離れてくれないか?」
振り返ったソールはこともなげにそう言い、柱を支える手を少し動かしてみせた。がらがらとガレキが崩れ落ち、辺りにほこりが舞う。
 「わかったわ…」
フリーダは後ずさり、ぽかんとしているベイオールの腕を掴んで走り出した。
 「ちょ、待ってくださいフリーダ様! あいつ…」
声が小さくなっていく。十分離れたのを見計らって、ソールは手を引きぬき、大きく跳びすさった。轟音とともに辺りに真っ白な砂埃と雪が舞い上がる。それらが静まっていったあとには、さっきまで立っていた廊下のあたりの天井がまるごと落ちていた。空が見える。壁も大きく崩れていて、フリーダたちが駆けて行った側の廊下は完全に塞がれてしまっていた。
 「まいったな…」
呟いて、ソールは崩れた壁から外を覗いた。そこから庭に出れば、外を回って追いつけそうではある。
 「ヤルル、アルル、平気か?」
左右のポケットの中から二人が顔を出す。
 「うん、へいき!」
 「お外にでたの?」
 「そうらしい」
空からは、ちらほらと雪が舞い降りはじめている。砦の入り口あたりに置いてきた二頭の馬も心配だ。日が暮れると夜目の聞く小人たちのほうが有利になる。急いだほうがいい。
 「ん」
一歩踏み出しかけたソールは、目の前で粉雪が不自然に渦を巻いていることに気づいた。肩の上にいたティキが鋭い声を上げて全身の毛を逆立てている。ヤルルとアルルは身を硬くして、声もあげずソールの上着のポケットの奥へと滑り込んだ。
 舞いながら立ち上がってゆく雪の柱がゆっくりと、白い女の姿を形作っていく。地面に長く広がるように垂れたドレスの裾。体に巻きつくように掲げられた腕にぴったりと貼り付く袖。大きく開いた襟ぐりからは、細い首と肩先のラインがあらわになっている。そして、最後に長い真っ白な髪。地面まで流れ落ちるようなそれがはっきりと現われた時、女は、ゆっくりと顔を上げ、瞳を開いた。
 切れ長の、長い睫に縁取られた深い青い色をした美しい瞳。
 だが同時にそれは、禍々しい気配を秘めた人ならざるものの気配を湛えている。ソールは、ベルトに挿した鎚に手を伸ばした。
 「何者だ?」
問いかけには答えず、女は、じっとソールを見下ろしていた。
 やがて、ぽつりと呟いた。
 『…絶えたはずの古き血の気配を感じる。そうでなければ、この私のしもべたちを倒すことなど出来ない…』
まるで壁一枚隔てて響いてくるような遠い声。それに、気配も妙に遠い。ソールは眉を寄せた。
 『お前は何者だ? いかなる国の者か』
 「"ブーリの一族"だ。」
 『……。』
奇妙な沈黙が落ちた。それは、納得したとも、名乗られた名を理解できていないとも取れない、奇妙な沈黙だった。今度はソールが訊ねる番だ。
 「もしかして、お前が冬の魔女って奴なのか? だったら答えろ。なぜ世界を雪で覆う? なぜ山から下りてきた」
 『無論、妾の国をあるべき姿に戻すため』
すうっ、と瞳が細くなる。細い腕と手の平が、花びらのように体の脇に広げられた。
 『妾(わらわ)は女王、沈黙と静寂の国を統べる者。人の子は騒がしい。――無垢なる獣たちだけなら生かしてやってもよい。静謐なる沈黙こそ妾の王国に相応しい』
 「俺の山も横取りする気か?」
 『この世界は妾のものだ。誰にも渡さぬ』
 「…戦う理由には十分だな」
一呼吸のうちに、ソールは飛びかかって鎚を女の頭に振り下ろしていた。だが、手ごたえは無い。冷たい空気を切る感触。そして、高らかに笑う声。別の場所で、女の体が大きく伸びる。
 『そんな小さな体で、一体何をしようというのか! ――だが、妾はお前に興味があるよ』
どこからともなく腕が伸び、ソールの頬に触れる。耳元に、甘い囁き声が響いた。
 『妾のもとへ来るのなら、お前は特別に生かしてやろう』
足が凍り付いていく。痺れたようになって、体が動かない。触れられた頬に霜が降りて広がっていく。間近に女の眼があった。美しい、だが全く生気のない白い肌。口元がゆっくりと歪み、何か呟こうとする。
 その時だ。
 「キュッ!」
ティキの声とともに、足を地面に縫い付けていた氷が割れた。ソールが素早く腕を振り上げるのを見て、女ははっとして跡退る。
 『おのれ、妾の力をはねつけるとは…よくも!』
 「俺のものは俺のものだ。勝手に取っていこうとするな」
体に降り積もった霜を振り払いながら、鎚を女に向ける。
 「呪いも効かない。俺の住みかも奪うつもりなら、お前は俺の"敵"だ」
一瞬、女の眼に憎悪が燃え上がる。しかしそれは炎でありながら冷たい、凍て付くような眼差しでもあった。
 『…それが答えかえ? ならば容赦はするまいよ。妾に逆らったこと、後悔するがよい!』
真っ白な髪が広がったかと思うと猛烈な吹雪が押し寄せて、ソールは思わず腕を翳して顔を庇った。渦巻く風と雪の中、視界が真っ白で何も見えなくなる。…やがて、それが収まったかと思うと、辺りには奇妙な静寂が訪れていた。
 しかし、それも数秒だけのことだ。
 突然、地面が揺れたかと思うとすぐ側の建物の向こうで岩が爆発するような音が響いた。 
 「! ソール、あれっ」
ヤルルが指差す。顔を上げたソールは、崩れ落ちようとしている見張り塔の向こうに通り過ぎてゆこうとしている、大きな黒い尾を見つけた。
 「まさか、ドラゴン? にしては、大きさが…」
 「キュ、キューッ」
ティキが興奮したようにソールの腕から頭へと走り回る。ソール自身も走り出していた。
 (あっちは…フリーダたちが向かった方向だ)
崩れ落ちた建物の破片が足元に飛び散っている。腕を翳して頭を守りながら、彼は、行く手から聞こえてくる轟音のようなものに耳を済ませていた。ドラゴンが暴れまわっているということは、フリーダたちがまだ生きているということだ。
 (間に合ってくれよ)
心の中で呟きながら、彼は雪を蹴立てて走っていた。


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