21


 帰り着いた時、ローグレスの王都はお祭り騒ぎだった。
 まだ完全に空は晴れていないものの、もはや雪は降らず、長年積もり続けていた雪は溶け始めていたからだ。はっきりと分かるほどに空気が軽くなり、最早外を歩くのに真冬のコートは必要なかった。まだ冷たい、けれど大地の目覚めを感じさせる早春の気配。暦の正しい季節が何だったのかなど、もはや関係なかった。十年以上に渡って続いていた冬が終わる。これから始まるのは新しい季節――"春"なのだ。
 ソールにも、まだ実感は湧かなかった。それに、魔女を倒したときのことがまだ胸の奥にひっかかっていた。
 それでも、喜びに溢れる人々の前では言い出せないままに日は過ぎていき、不安をかき消すように雪は消えてゆく。いつしか、彼自身も、不安を忘れかけていた。


 ローグレスへ戻ってから一週間ほど過ぎた日のことだった。
 祝宴が催されるというので、城の中は朝から大忙しだった。召使いたちが駆け回っている。特にすることもなく、ソールは町の見下ろせるテラスの上でぼんやりと風景を眺めていた。薄曇りの向こうに、青空の色がかすかに透けて見える。ようやく取り戻したその色は、どんなに眺めていても飽きることはない。
 「いたいた。ここだったのね」
フリーダの声がした。王都に戻ってきてからはドレス姿だったが、今日はいつもより盛装している。
 「…まだその服なの? せっかく、上等の上着を姉様が準備してくれたのに」
 「あれは何かひらひらして面倒だったから」
ソールは、ちょっと肩をすくめる。「この服も着づらいんだよな。元のがいいのに」
 「最初に来てた、あのつぎはぎだらけの獣の皮ね」
フリーダは、くすくす笑う。
 「あの時のソールは、ほんとに酷い格好だったわ」
 「…そうかな」
 「ええ。今のほうがいいわよ。髪の長さだってそのくらいがちょうどいいし――あ、顔は毎日洗ったほうがいいわよ、絶対。それから、たまにはお風呂には入ったほうがいいわ」
 「…そうか」
 「……。」
風が吹きぬけてゆく。初めて出会った時から、まだたった数ヶ月しか経っていないことを、ソールは今更のように思い出した。
 しばしの沈黙のあと、フリーダは、思い切って口を開いた。
 「ソール、いつ森に帰るの?」
 「これが終わったら、明日にでも」
とっさに、反射的にそう答えていた。フリーダは驚き、目を大きく見開く。
 「そんなに早く? 少しくらいゆっくりしていけばいいのに…」
 「いつまでも、家をそのままにはしとけないしな」
 「そう…」
ソールは、町のほうに視線をやった。早く帰りたい。それは確かだ。けれど、…何かが胸の辺りでもやもやしている。まだ何か、遣り残していることがあるような、そんな気がするのだ。それが何なのかに気づくのが怖い気がした。
ソールの傍らで、妖精たちが騒ぎ始める。
 「ぼくらもソールと一緒だよ。置いていかないでね」
 「おい、お前らは自分の森に帰らないと…」
 「だめ。ソールにはアルルといっしょ。いいでしょ?」
 「うーん、まあ、俺はいいけどさ。お前らの家族は…」
振り返ったソールは、少女がぼんやりと足元を見つめていることに気づいた。
 「フリーダ?」
 「あ、えっと、何?」
あわてて、彼女は顔を上げる。
 「こいつら、ついてくるって言ってるんだけど…こいつらを直接預かったのってフリーダだよな。どうすればいいと思う」
 「それは――、いいんじゃないかしら。南の妖精の森だって、雪が止んだばかりでしょうし。使者を仕立てて、預かった子供たちがヴィークリーズにいることを伝えるから…」
どこか、心ここにあらずといった様子だ。何か気になることがあって、話を急ぎたいのだと、ソールはそう思った。
 「フリーダにも色々、世話になったな」
 「いいえ。お世話になったのは、こっちのほうだわ。雪が止んで、ようやく冬が終わった。もう、魔女のしもべに恐れて城壁の中に閉じこもる必要はない。私たちは…また外へ出てゆける」
じっと見つめる、緑の瞳。その瞳が何か言いたげで、口を開いて問おうとしたちょうどその時、後ろで声がした。
 「祝宴の準備が整いました」
廊下からテラスへと続く扉の前に召使いが立って、頭を下げている。歩き出しかけたソールは、フリーダがその場を動こうとしないのに気づいて足を止める。
 「どうした?」
 「私は、…もう少し、ここで風に当たってから行くわ。しばらく一人にしてくれる?」
テラスの端に立って背を向けたまま、彼女はぽつりとそう言った。心に引っ掛かるものはあったが、敢えて留まる理由を見つけられず、ソールは彼女をその場に残して歩き出した。ここはフリーダの家なのだから、後から来ても道に迷うことなどあるまい、と。



 宴の準備のされた広間には、既に人々が集まっていた。フィオーラにアストラッドといった、懐かしい人々もいる。
 「ソール! 久し振りね」
 「やあ、君。ただ物ではないと思っていたが、やはり私の眼に狂いはなかったな」
その向こうには、オラトリオが杯を手に影のように腰を下ろし、端のほうでは人狼族たちがちゃっかり肉の皿を取り囲んでいる。彼らも、この宴が終わったら、故郷に帰るはずだ。
 頃間にはは、普段こういう場に出てこない妖精たちや、地下にいた小人たちもみんな出てきていた。妖精たちは果物や焼き菓子を手に飛び回り、小人たちは酒ばかり飲んでいる。視界の端で、ベイオールが柱の影に隠れるようにして立っているのが見えた。戻ってきてから、顔を合わせるのははじめてだ。
 彼はソールと一瞬だけ視線を合わせたあと、なぜか、すぐに逸らしてしまった。少し離れた場所には三女のフルール姫がいる。妙に距離をとったまま、あまり楽しそうな様子ではない。使用人たちが行き交い、壇上には女王ゲルダがいて、笑みを浮かべて賑やかな広間を見渡している。
 そんな喧騒に包まれた宴の部屋の真ん中を、ソールは、フィオーラたちに促されて部屋の奥に座している女王ゲルダの前に出て行った。脇には、はじめて女王と謁見した時と同じように、長女のフローラとハルベルトが腰を下ろしている。
 ソールが近づくと、フローラが立ち上がって杯を差し出しながら口を開いた。
 「ソール殿、今日はどうか、存分に楽しんでいってくださいな。今日は、あなたがた遠征軍のための宴でもあるのですから」
 「皆、英雄よ。冬の魔女を倒したのですからね」
フローラが朗らかな声で言う。
 「それなんだけど…。」
言いかけて、ソールは迷った。魔女を倒したと思ったあの時、ふと過ぎった疑問の正体が分からない。ずっと考えていたが、確信の持てることは何もなかった。
 「…いや。何でもない」
 「気にかかることでもあるのですか?」
ゲルダは、穏やかな声で訊ねる。
 「ちょっと…な。あいつが、どうして人間の男を凍らせて並べてたのか、その理由が分からなくて」
 「まあ…」
フローラは口元に手を当てる。「もしかしたら、そこにお父様も?」
 「かもしれない。でも魔女を倒したあと、氷ごと消えてしまったから」
 「…そう」
女王は手元に視線を落とし、隣のハルベルトは腹立たしげに溜息をつく。
 「魔女の考えることなど分かるものか。この私も、危うくそこでコレクションにされるところだったのだ」
 「そうね。もうこれ以上、犠牲が出ることはないのだわ。もう…」
話題を変えようと、フローラは立ち上がり、明るい声で妹たちのほうに向き直った。
 「さ、こんな話はもうおしまいにして、楽しいことをしましょうよ。フィオーラ、あなたの楽器はどこ? 明るい歌をお願い。フルール、ソール殿にまだ挨拶していないでしょう。こっちにいらっしゃい。」
 「……。」
 「フルール?」
異変に気づいたのは、その時だった。
 「キューッ!」
ソールの頭の上でティキが毛を逆立てて叫んだとたん、さっきから微動だにしていなかった少女の体がぶるっと震えた。
 次の瞬間、彼女の目の前にいた男性が悲鳴を上げながら瞬時にして凍りついた。甲高い笑い声を上げながら、少女は両手を広げる。
 「アハハ! 滑稽だわ。皆、一体何を祝っているの?」
女王が険しい表情で立ち上がり、ハルベルトが剣を手に妻と女王を守るように玉座の前に立ちふさがる。オラトリオが素早く杖を振り上げた。風の精霊の作る結界と、フルールを中心に噴出した冷気とがぶつかりあって、広間に霜が下りていく。悲鳴。怒号。腰を抜かしている者以外はみな、われ先にと広間の出口に殺到する。広間の中心は、瞬時にして凍り付いていた。
 「一体どういうことだ!」
腰の剣に手をやりながらかけつけてきたベイオールが、ソールを睨む。ソールはというと、敵意に満ちた視線を向ける少女の眼前に、一人、残されていた。周囲にはもう誰もいない。
 「お前は…まさか、冬の魔女?! いつ、フルールと入れ替わったんだ」
 「入れ替わっただなんて。あたしはフルールよ」
くすくすと笑いながら、フルールの口元がいつか見た艶やかな笑みを浮かべていく。
 「孤独の心…絶望の心…渇望、欲望…報われぬ心。ああ、今なら分かるわ。苦しむのはもうおしまいよ。あたしのものにならないのなら、すべて凍らせてしまえばいいの…」
ベイオールがびくっとなる。
 「フルール様が…魔女になった…?」
 「そうよ。声が囁いたの。人はみな欲望を持っている。報われぬ強い欲望を抱く心の隙間に吹く風は、冷たく心地よい。あたしは手に入れる。凍らせて、すべてを手に入れる!」
 「おのれ、卑怯者め!」
ハルベルトが火を吐くような勢いで怒鳴る。「どこまで人を弄ぶつもりだ、魔女めが!」
 「あらあら、ひどいお義兄様…ふふふ」
少女は白い喉を仰け反らせて笑い、それから、じっとハルベルトを見つめた。
 「まさか、あたしを殺す?」
 「……。」
ハルベルトは、血が滲むほどに唇を噛み締めたまま、フルールを見つめている。ソールは、そんな二人を見比べながら、動けないでいた。魔女の力は、あの時感じたほど強くはない。オラトリオの張る結界で押さえ込めるほどだ。フルールを組み伏せることも容易いだろう。けれど――一体どうやって、フルールを元に戻せばいいのか分からない。
 その時だ。
 覚悟を決めたように、視界の端からベイオールが猛烈な勢いで突っ込んでいくのが見えた。それは、誰にとっても完全に予想外の行動だった。
 「ベイオール?!」
フィオーラが叫ぶ。彼は武器も手にせず、素手のままフルールの体を抱え込んだ。
 「ベイオール、何をする気だ」
 「すいません…こうなったのは、おれのせいだ。だから…だから…せめて一緒に…!」
暴れていたフルールの手足が、やがて静かになってゆく。必死で彼女を押さえつけていたベイオールは、はっとして体の力を緩めた。
 「…フルール様?」
駆け寄ったオラトリオが、床の上でぐったりしている少女の首筋と腕の脈を図る。
 「大丈夫、息はある。気を失っているだけのようだ。…すぐに部屋に運んで。手当てをせねば」
 「僕が運びます」
ベイオールがフルールを抱き上げる。立ち上がったとき、彼の体からはぱらぱらと氷の破片が落ちた。床の上にも、柱にも、真っ白に霜が降りている。そして、広間には魔女が残した冷気が残されていた。
 拳を握り締めたまま立ち尽くしていた女王ゲルダが、崩れ落ちるように玉座に腰を下ろす。
 「ああ、なんてこと。」
老女王の額には、乱れた髪の毛が一筋落ちる。
 「スニルダとラヴェンナ以外にも、まだ他に冬の魔女がいたとでもいうの?」
 「スニルダですって?」
フィオーラが不思議そうな口調で問い返す。アストラッドは怪訝そうだ。
 「フィオーラ、知っているのか」
 「知っているも何も…古い歌にある有名な悲劇の王女の名ですよ。伝説の美女スニルダ。エデルの国の年老いた王のもとに嫁ぐも、嫉妬心を抱いた奸臣によって無実の罪を着せられ、無残に処刑されたという」
 「その話は、私も知っているぞ」
と、エデルの王であるハルベルトが頷く。
 「それに、魔女が何人もいたとは知らなかった。何故もっと早く言ってくれなかったのです、女王」
 「分かったのは出立の少し前なのですよ」
ゲルダは言う。「けれど、その大昔のスニルダが王女だっというのなら、魔女とは違うのではなくて?」
 「いえ、待ってください。スニルダ…ラヴェンナ…、もしや…」
あごに手をあてて、アストラッドが考え込んだ。
 「偶然の一致だと今まで気にも留めていなかったのですが、北の山のふもとに、二百年ほど前に滅びた小国がありました。その国の最後の女王の名が…ラヴェンナ。」
 「アストラッド!」
フィオーラが声を荒げる。
 「あなたこそ、どうして今までそんな大事なことを」
 「関係があるなどと思いもよらないよ。子供の頃に聞いた話なのだ。我が母上の故郷が北の地だった」
 「まさか――」
 「…冬の女王というのは、代替わりする? いや。正確には、人間の女たちを取り込んで生きながらえるものだというのか」
ソールは、冬の魔女ラヴェンナを倒した、最後の瞬間のことを思い出していた。一瞬、別人のようだと思ったこと。魔女が凍りつかせた男たちの中にいた、北の小国の王たちだという甲冑姿の二人の男のこと。
 「…俺が倒したのは、冬の魔女の"本体"じゃなかった、ってことか」
全員が、ソールのほうに顔を向けた。
 「ソール殿」
 「様子を見てくる」
踵を返し、彼は広間を後にした。入り口のあたりには、怯えた表情の召使いたちがたむろしている。恐怖が、魔女の残した冷気と同じようにわだかまっている。
 「オラトリオたちは?」
 「フルール様のお部屋に…」
一人が、青ざめた顔のまま廊下の端を指す。そちらに向かって歩き出そうとしたソールは、ふと、誰かが足りないことに気が付いた。

 フリーダだ。

 宴が始まってから、広間に入ってきた様子はなかった。それに、この大騒ぎの中にも一度も姿を見せていない。
 ふと気配を感じて振り返った彼の頬を、ふわりと冷たい風が撫でて去って行く。
 (――まさか)
それはほとんど勘のようなものだった。彼は記憶を辿り、さっきフリーダと別れたテラスを目指して廊下を走った。テラスへの出口は、まだ開いたまま。そして、テラスの向こうに見えている空は夕暮れの赤味をほんのりと帯びている。
 「…!」
息を飲み込んで、彼はテラスの前で足を止めた。
 床には、一面に氷が張り付いていた。手すりには真っ白に霜が降り、ひんやりとした冷気が辺りに漂っている。
 そして、――そこにいたはずのフリーダの姿は、消えていた。


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