18


 「でね、でね。目が覚めたら、ソールもフリーダもいなくて、皆に聞いたら二人だけで外に出ちゃったって聞いてね」
 「追いかけたかったんだけど、すぐに雪が降り出して…」
 「…ん、ちょっと待て」
ヤルル、アルルと、別れてからの話しをしながら廊下を歩いていたソールは、行く手に見覚えのある人影を見つけて二人のお喋りをやめさせた。廊下の先の、庭の上に突き出しているバルコニーの上に、ドレスの端と編みこんだ銀の髪が見えている。こちらに背を向けて立っているのは、ベイオールだろうか。何か、脇を素通りできるような雰囲気ではない。ソールは足を止めたまま、進むべきか、別の道から回っていくべきかを考え込んだ。その間に、聞くつもりのなかった話し声が耳に届く。
 「何ですか? 用があると仰るから来てみたのですが…」
 「あらあ、用は用よぉ。久し振りじゃない、戻ってくるの? 元気かなぁって思って」
 「お気遣い、ありがとうございます。何事もございません。それだけでしょうか」
 「それだけって。もぉお、つまんないわねぇ」
ベイオールに絡んでいるのは、三女のフルールだった。ぷうっと頬を膨らませ、手すりの上にひょいと腰を降ろす。
 「フルール姫、そんな座り方をしては危ないですよ」
 「いーじゃない、フリーダだってやってるもの。それともなあに? フリーダとは嬉しそうに話するくせに、あたしとは話したくないってことなの?」
 「あの…仰っている意味がよく」
 「諦めちゃいなさいよぉ、もう。フリーダは、あなたの思うような貞淑な女の子にはならなくてよ。それにあの子、あのソールって男の子と仲良くやってるじゃない。そっとしときなさいよ」
意外なところで自分の名を呼ばれて、ソールは思わず聞き耳を立てた。ヤルルとアルルも、ただならぬ気配を感じ取って口をつぐんでいる。ここからでは二人の表情ははっきりとは見えないが、二人の交わす言葉は、まるで抜き身の剣を叩き付けあっているかのようだ。
 「私は、あなたの婚約者です。そんな浮ついた理由でフリーダ様に接しているわけでは…」
 「嘘おっしゃい。見てれば分かるわよ。あなたはハルベルトの遠縁の貴族で、望めば誰の手だって取れるものね。あたしになんかほんとは興味ないんでしょ? 今だって花嫁候補が山ほどいる」
 「そんなこと…。」
 「あたし、別にあなたじゃなくてもいいんだから。嫌だって仰いよ、そしたら婚約なんて解消してあげるわ」
 「……。」
 「何とか言ってみなさいよ」
ベイオールの、押し殺したような声。
 「申し訳ございません…」
ぱん、と乾いた音が響き渡った。
 何が起きたのか分からずにいるソールの目の前に、突然、ドレスの裾を翻した少女が突進してきた。避けきれず、隠れるのも間に合わず、ソールはフルールにぶつかってしまった。
 「わっ、ちょ」
 「あ…」
真っ赤に上気していたフルールの顔が、ソールを見た瞬間、反転して青ざめた。そして、きっ、ときつい瞳で睨みつける。
 「盗み聞きしてたのね」
 「違う。通りかかっただけ…」
 「許さない」
肘でソールを突き飛ばすようにして、少女は、そのまま廊下の奥へと姿を消した。ぽかんとしたまま、ソールは、その場に立ち尽くしていた。
 振り返るとバルコニーの入り口に、頬を押さえて同じように途方にくれて立っているベイオールの姿が見えた。頬が赤く腫れているのは、ひっぱたかれたせいらしい。
 「みっともないところを見せてしまったな」
 「いや、見てないから」
それは本当だった。音は聞こえたが、ソールのいた場所からでは何が起きていたのははよく分からなかったのだ。
 「ケンカしてたのか?」
 「喧嘩など恐れ多い。フルール様とそんなことが出来るわけないだろう」
 「でも、婚約者なんだろ? なのに…」
ちらりと、フルールの走り去っていった方を見やる。彼女は、かすかに泣いているようにも見えた。
 ベイオールは、かすかに口元を歪めた。
 「…貴族や王族の婚約は、本人たちの意志とは関係なく決まるものだ。彼女との婚約は、六歳の時に決められた。親同士の意向で。おれは貴族といっても末席、向こうは王女様だ」
 「だからって…」
 「そんな話はいいだろう。それよりソール」
 「何だ?」
 「今日、お前の戦いぶりを初めて見た。城壁のあたりで、…お前は気が付かなかっただろうが、近くにいたんだ」
バルコニーの向こうに顔を向けて、彼はぽつり、ぽつりと言葉を落とす。
 「正直おれは、最初に会ったときからずっとお前のことが疎ましかった。こ汚い格好の田舎者のくせしてフリーダ様と親しげなのも、偉そうなのも、やけに自信たっぷりなのもだ。」
 「田舎者じゃないよぉ」
ソールの頭の上からヤルルが抗議しようとするが、隣にいたアルルに口を塞がれる。アルルのほうが、空気は読めるのだ。
 ベイオールはヤルルの言葉は聞こえていないのか、力なく首を振って続けた。
 「…敵わない、と思った。お前は、おれの知っているものとは全然違うものだ。」
 「何が言いたい?」
 「だから、敵わない、ってことさ。」
ソールは、ちょっと考え込んだ。
 「でもお前、強いじゃないか」
 「何?」
 「剣の練習してたのを見てたから。あのアストラッドって人ほどじゃないけど、強いだろ?」
ベイオールは顔を上げ、不思議そうにソールを見つめている。だが、ソールの表情からは、同情やお世辞に類する感情は一切読み取れない。
 「俺だって一人じゃ大したことは出来ない。ドラゴンや巨人とは戦えるけど、剣や弓の使い方は知らない。皆それぞれだろ。他人と比べる必要なんてあるのか」
 「……。」
ソールには、ベイオールが何を悩んでいるのかはっきりとは分からなかった。そして、それがどうして、フルールにひっぱたかれる原因になるのかも。
 「俺は、この戦いが終わったら家に戻る」
何気なくそう言った時、ベイオールがはっきりと分かるほど動揺したのがわかった。
 「ここが、俺のいる場所じゃないのは分かってる。お前たちの棲む世界に干渉するのは、この戦いが終わるまでだ。それまで我慢してくれるだけでいい」
 「――お前…おい」
 「じゃあな」
何か言いかけるのを待たず、ソールは足早に行くべきだった方向に向けて廊下を歩き出した。ベイオールが追いかけてくる気配はない。
 「何あいつ。よくわかんない人間だなぁ。」
頭の上に載っているヤルルが、ちらちら後ろを振り返りながら文句を言っている。
 「俺のことが嫌いみたいだから、…話を聞かれて、怒ってたんじゃないかな」
 「でも、どうして女の子に叩かれてたんだろうねえ?」
 「はあー、もぉお」
アルルが盛大に溜息をつく。「男ってみんな、ほんっとおばか! なんで分からないのぉ」
 「なんだよお。」
 「あのこ、フルールは、ベイオールのことがすきなのっ。で、ベイオールは、フリーダのことがすき」
ソールは思わず足を止めた。その勢いでアルルがぐいっとソールの前髪を引っ張ったので、彼は、勢いで頭上を見上げる格好になった。
 「ベイオールが?」
 「そうだよ! だから、フリーダと仲よしのソールのことが嫌いなの」
そんなことは、考えたこともなかった。いや、…予想もつかなかった。
 あらゆる種族の男女が、恋をすることは知っている。でも…。
 「アルル、そんなのよくわかるな」
 「女心は女にしかわからないのっ」
そう言って、小さな妖精の少女は胸を張った。
 「…でも、ベイオールは男の子だよね?」
 「うるさいっ」
 「あいた。叩かないでよー」
頭上の微笑ましい争いを聞き流しながら、ソールは、今さらのように、さっき見た二人の言い争いのことを思い出していた。
 人間同士の恋の話など、自分にどうこうできる話ではない。でも、自分がもし人間だったら、どうしたいだろう。どうすれば、誰も傷つかずに済むだろう。



 女王に呼び出されたのは、それからほどなくしてのことだった。
 再び通された謁見の間、傍らに黒衣の賢者オラトリオを従えた女王ゲルダは、玉座の上からおごそかに告げた。
 「すべての者の意見が一致しました。ソール殿、そなたに希望を託します。ローグレスの統治者の名において、この国にいるすべての者たちをそなたに協力させましょう」
それは、真円を少し過ぎた月が雲の向こうにうっすらと輝く夜のこと。
 前回の、絶望的な結果に終わった遠征から、ちょうど一ヶ月が経とうとしていた。



 失敗の許されない再度の遠征。けれど、今回は決して勝ち目のない無茶な戦いではない。その日、ソールは小人の鍛治屋を連れて厩に来ていた。グラニに蹄鉄をつけるためだ。
 「よしよし、暴れるなよ。もうちょっとしたら、お前また広いところに出られるぞ」
灰色の馬は、不機嫌そうに鼻を鳴らしながらもかろうじて大人しくしている。ソールが馬の首を押さえている傍らで、小人たちは、おっかなびっくり馬の足に触れていた。
 遠征のためにこの暴れ馬を使わせてくれ、と頼んだのだ。
 恐れ知らずで力強いことは、"炎の山"へ行った時の旅でよく分かっている。それに、ほかには北への長旅に連れていけるような馬がいないのだ。
 「ここにいたのね、ソール」
厩の入り口でフリーダの声がした。彼女は明るい表情で、見覚えの無い長弓を抱えている。
 「それは?」
 「親方に頼んで新しく作ってもらったの。前のより威力が上がってるのよ! これなら、少しはドラゴンにも通用するかも」
 「…ついてくるつもりなのか」
 「当たり前でしょ。」
彼女は、腰に手を当てた。「私がいないのに、誰がどうやって地図を読むのよ」
 「ん。そっか」
 「そっか、って。キミね――」
 「蹄鉄がつきましたよ」
振り返って、ソールは小人たちを見下ろした。
 「鞍のほうも直しておきました。以前よりは乗り心地がいいはずです」
 「そうか、ありがとう」
 「…その子、もうすっかりソールには懐いたのね」
フリーダが言うと、馬は、心外だというように低くいなないた。
 「従う気はない、ってさ。気位が高いんだろ。折角だし、ちょっと散歩に出てみないか」
 「散歩ですって?」
 「うん。あの鍋、そろそろ回収したいなと思って」
 「鍋…ああ」
少女は、呆れたような顔になった。「ミルク粥ね。キミ、ずっと言ってたもんねぇ」
 「寒いところに行くんだ。あったほうが嬉しいだろ」
 「まあ、そうね。いいわ、私も弓の試し撃ちをしてみたいし」
二人は、馬を引き出して馬具をつけた。空はどんよりと曇っているが、雪の降り出すような気配はない。もし降り出すとしても、対処法を知った今なら、すぐに雲を散らすことが出来るはずだ。
 「ソール、どこか行くのぉ?」
 「どこいくのー?」
出かける気配を察知したヤルルとアルルが飛んでくる。
 「俺の鍋、取りに行ってくる。それだけだから、ここで待っててくれ」
 「オラトリオにそう伝えてくれる?」
 「お鍋…わかった。」
 「ごはんまでに帰ってきてねえ」
 「ええ」
白と灰色と、二頭の馬が並んで空に駆け上がっていく。加速するのはフリーダの馬のほうが早かったが、いったん走り出してしまうと、ソールの乗っている灰色の馬のほうがずっと速い。
 白い大地が、視界を流れるように滑っていく。雪に覆われた世界は、以前とは全く違うものに見えた。頬を叩く風の冷たさも、遠くに見えている砦の灰色の壁も。
 ほとんど休みなく馬を走らせているうちに、二人は、凍った川に差し掛かっていた。以前はスキンファクシにフリーダと乗って越えた、ローグレスの国境の皮だ。今、行く手の空の彼方には、懐かしい山脈の雪を被った尖った姿が見えている。それを見た時、ソールの胸の奥には、何とも言い難い感情が込み上げてきた。
 ――いつか、あそこへ帰る。
 けれど、今はまだ。
 空を駆ける馬の高度を下げ、雪の上にひづめをつけたとき、ソールは、周囲に何か獣の足跡が点々と散らばっていることに気が付いた。古いものではない。何か、群れが移動したような跡だ。
 「ソール、あれ村じゃない?」
隣に追いついてきたフリーダが行く手の一点を指差す。確かにそうだ。雪の重みに潰れそうになっている屋根が僅かに見えている。
 馬の向きを変える。近づいていくにつれ、足跡は増えていく。視界の端に、灰色の獣がちらりと過ぎった。
 (…狼だ)
確か、以前ここで一晩泊まったときに狼を見た。村の入り口まで来て馬を止めたソールは、村の中にたくさんの狼が集まっているのを見て驚いた。低く唸りながら、建物の影や屋根の上から用心深くこちらの様子を伺っている。グラニはそしらぬふりをしているが、スキンファクシのほうは警戒して村の中へは入ろうとしない。フリーダは困惑している。
 「ソール、何なのこれ?」
 「さあ。」
少なくとも、あの時の村なのは間違いない。彼は馬を下りると、狼たちの見ている間を縫って、以前泊まった雪に覆われた小屋の入り口の戸を開いた。
 そのとたん、中にいたいくつもの目が一斉に彼に向けられる。ぬくもりをもった風。そして――
 「…何してるんだ、お前ら」
それは、思いも寄らなかった光景だった。狼の皮をまとった痩せこけた男女が、かまどの前に座ってミルク粥の入ったうつわを手にしていたのだ。置いていった燃料がかまどにくべられ、鍋が火にかけられている。ソールの視線に気づいて、男は低く唸りながら四つんばいでかまどの前に立ちふさがる。
 「その鍋は俺のだぞ」
 「グルルッ…」
 「取りにきたんだ。返してくれ」
狼たちが不満げな唸り声を上げる。食べ物のない群れが、この鍋から出るミルク粥を頼って生きてきたことは明白だった。だが、鍋をやってしまうわけにはいかない。
 「ソール、これ人狼族よ」
後ろからフリーダの声がする。彼女は、新調したばかりの弓に矢をつがえ、狼たちが襲い掛かってきたらいつでも反撃できるよう身構えている。
 「人狼…って、人と狼の間で姿を変えるやつか。そんなの、まだいたんだな」
 「怪物よ、魔女の手下かもしれない」
 「魔女チガウ」
よつんばいになっている男の側にいた女が、あわてて口を開く。よく見ると、女は赤ん坊狼を抱いている。
 「殺サナイデ。ワタシタチ…人ハ襲ッテイナイ」
 「でも羊や牛は襲うでしょう」
フリーダは弓弦に指をかけたままだ。ソールは、そっと手をやって彼女に弓を下ろさせる。
 「俺たちは魔女を倒しに北に行かなきゃならない。お前たちも来るか」
 「ちょっと…ソール! 何を言って…」
 「人手が足りないんだ。狼なら、馬がなくたって雪の上を走れる。ちょうどいいじゃないか」
ソールは、振り返って狼の姿でじっとこちらを見つめている者たちのほうも見た。
 「協力するなら食い物はあるぞ。お前たちだって、いつまでもこんな雪しかない土地で暮らしたくないだろう?」
低い唸り声。話し合うように群れのあちこちで声が交わされる。迷っているのだ。
 「――ドウヤッテ信ジレバイイ」
痩せこけた男が、値踏みするようにソールを眺めやる。
 「オマエハ…魔女ヲ倒セルノカ」
 「分からない。が、多分なんとかなる」
 「多分って…ソール、あなたね」
フリーダは呆れたような口調で、そんな言い方ではだめだと言おうとしたのだが、狼男は、しばしの沈黙のあと、口を開いた。
 「分カッタ。従オウ」
意外そうな顔のフリーダの肩を、ソールは、ぽんと叩いた。
 「だってさ。俺、こいつらを連れてあとから戻るから、先に帰って伝えててくれる?」
 「はぁ…キミって、ほんとよく分からない人ね」
 「まあな」
ソールは、かまどに近づいて鍋を取り上げる。
 「あーあ、ちゃんと手入れしてないからおこげだらけだ…。あ、ティキ。火はぜんぶ食べていい」
 「キュッ」
散らばっていた薪をかき集めると、ソールは、馬のところに戻って背中に荷物を積み込んだ。付いてくる狼たちは、全部で二十頭ほど。けれど、今は二十人でも味方が増えるのは嬉しいことだった。
 狼たちは雪の上に点々と足跡を残し、走り続ける。冬の女王の真っ白な世界を、無意識のうちに乱しながら。


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