16


 もう日が暮れようとしている。ソールは、手早く作り上げた雪の壁を見上げ、かじかんだ手をこすった。天井さえない一晩の仮の宿、それでも風が凌げればなんとかなる。穴を掘り、掘り出した雪で壁を作って一夜の宿をこしらえるのは、ソールの役目だった。
 ローグレスを発って何日めか。ランプに油を足し、馬に餌を食ませるわずかな時間を除けば、ほとんど休みなく海を目指して駆けてきた。魔女の手下のドラゴンたちと遠目に遭遇することはあったが、戦うことはなく、ひたすらやり過ごしてきた。それも、都を離れるにつれて、敵を見かけることは少なくっていた。魔女といえど、無限にしもべを生み出せるわけではないのかもしれない。
 辺りに敵の気配がないことを確かめてから壁を滑り降りると、穴の底ではフリーダが地面に敷いた毛布の上に腰を下ろして地図とコンパスを広げていた。
 「まだ先なのか?」
 「方角さえ合っていれば、あと半日くらいの距離のはずよ。ここまでは順調ね」
足元では薪が小さな火をゆらめかせている。火は、ほんの少しだけだ。荷物を増やしたくなかったので、薪はほとんど持ってきていない。食料も、人間用よりは馬たちのためのものが大半だった。
 ソールは火の側に座って、一日中ずっと抱えていたランプに油を注ぎ足した。旅の間、何度もそうして火を絶やさぬようにしてきたのだ。ティキの姿は、出発したときよりもずっと小さくなって、今はもうほとんどランプの火と一体化して見えた。フリーダは、食い入るように火を見つめているソールの横顔を見上げた。
 「ティキは、きっと助かるわ。キミがこんなに心配してるんだから」
 「…だと、いいけど」
冷たい風が吹いてきて、火が揺れる。寒い。けれど、毛布を体に巻きつけて、じっと朝まで耐えているしかない。馬たちも、頭を垂れたまま、傍らでじっと眠っている。ティキが居た頃は、こんなに寒さを感じたことはなかった。
 「俺はずっと、こいつに守られていたんだって、今になって…」
 「ソール、自分を責めちゃダメだって言ったでしょ」
言いながらフリーダは、荷物から取り出した毛布を広げて、ソールの肩にばさりとかけた。
 「それ着て、少しだけでも眠って。あともう少しだから。今日くらい、私が代わりに起きてるわ」
 「……。」
手元のランプの火がかすかに揺れる。今は、側にフリーダがいてくれることがありがたかった。一人では、きっと不安に耐えられなかっただろう。彼女がいてくれるお陰で、辛うじて希望を捨てずにいられるのだ。
 (なあ、ティキ。もしお前が居なくなってしまったら、俺はどうすればいいのかな)
冷たい夜の沈黙が、静かに下りてくる。
 (俺を置いて居なくなったりしないよな…?)
死にも似た夜の沈黙。ゆらぐ命の火。生きていることのぬくもりと、死者の冷たさと。ソールは、風で吹き消されてしまわないようランプを抱えた。
 (お前の声が聞きたいよ、ティキ)
ランプの中で、応えるようにかすかに火が揺れたような気がした。眠ってしまうと、もう目覚めなくなるような気がして怖かった。夜明けまでの間、彼は、闇の中をじっと見つめていた。



 待ちかねた夜がようやく明け、最後の旅が始まる。風は冷たく、眼下には灰色と茶色の入り混じったまだらの大地が続く。雪の下の土の色が見えているのだ。
 「ふぁあ」
フリーダが大きく伸びをした。
 「大丈夫か?」
 「うん…平気よ。」
目をこすり、彼女は自分の馬のたづなを取る。眠たそうなのは、見張りをするからと夜明け前まで起きていたせいだ。ソールは、少し申し訳ない気持ちになってランプを抱いた。この旅も、あともう少しのはずだ。
 「この辺りは、ずいぶん雪が少ないんだな」
 「ええそうね。海が近いからかもしれない」
風に飛ばされないよう慎重にコンパスを取り出して、フリーダは、馬の走る方角を確かめる。
 「この先に海が見えるはずなの。"炎の山"は、そのすぐ近くよ」
 「海…、あれか」
大地と空の切れ目に、どちらでもない平坦な黒い色が見えている。風の感じが変わった。海の方角から吹いてくる風は、妙に生暖かく、しかも湿っている。
 「炎の山は…あっちだな」
馬の首を巡らせると、海の際に、ひときわ変わった大きな塔のような山影が見えている。馬首を下げ、近づいてゆくにつれ、その塔のような塊の上が大きく開いた火口になっていて、赤々とした火が燃えているのが見えてきた。大地の唸るような轟々という音も聞こえてくる。山の形は切り立った斜面が四方を取り囲むようになっていて、ふもとから登るのは難しそうだ。
 突然、フリーダの馬が空中で足を止めた。
 「きゃっ、どうしたのスキンファクシ」
馬がいななき、足踏みをして後退ろうとする。先に行こうとしていたソールは、それに気づいて引き返してきた。
 「どうした?」
 「ごめんなさい、この子、これ以上近づきたくないみたいなの」
フリーダの乗る白い馬は、いやいやをするように首を振り、山から離れていこうとしている。火を噴く岩の塊に近づきたくないのだ。
 「…そうか。俺のほうは大丈夫みたいだから、俺だけで行ってくるよ」
 「でも」
 「あの、海の側で待っててくれ」
そう言って、ソールは海に向かって突き出す岬の上を指差した。そこに目印のように塚が築かれているのが見えたからだ。
 「明日の朝になっても戻らなかったら、先に町に戻ってくれ」
 「ソール、…」
 「行ってくる」
フリーダの返事を待たず、彼は馬を走らせた。気が急いて、山までの残りの距離がやけに遠く感じられる。ようやく、ここまで来られた。大切に胸に抱いてきたランプの中の火は、もう、消えてしまいそうだ。
 風を切って、灰色の馬は火口の縁に着地した。一声いなないて、背に乗せた者に、これでいいかといわんばかりに鼻を鳴らしてみせる。
 「ああ。助かったよ、ありがとう」
馬の背から飛び降りて手綱を手放すと、ソールは、真っ赤に燃えたつ火を湛えた穴の奥を覗き込んだ。彼の立っている場所までは距離があるはずなのに、吹き上がってくる熱が顔に熱い。地獄の穴、とはよく言ったものだ。
 「ティキ」
ランプの蓋をとり、彼は、中を覗き込んだ。「見えるか? あそこに火がある」 だが、ゆらめく半透明な火の塊は、いっこうに大きくなる気配がない。
 ここでは遠すぎるのか。
 ソールは、火口の縁を見回し、降りられそうなところを見つけて足をかけた。眼下には、ぐらぐらと煮え立つ赤い溶岩の沼がある。岩の隙間からは灼熱の蒸気が噴出し、腐った卵のような匂いがつんと鼻をついた。フリーダが見たら、無茶だと悲鳴を上げたかもしれない。けれど、今のソールには迷っている時間はなかった。
 (ここで駄目だったら…俺は…)
汗を拭い、上着を脱ぐ。四方から押し寄せてくる熱に押しつぶされそうだ。息が上がる。ランプを抱えたまま、ソールは、出来るだけ火の近くへ行こうと火口の内側を歩き続けた。こんな場所なのに、不思議なことに火口へ続く内側の斜面には、石の柱や階段のようなものが埋もれているのだった。錆びた剣も転がっている。ここが火山ではなかった頃に、誰かが住んでいたのかもしれない。
 (そういえば、オラトリオが何か言ってたな。古き神々がどうとかって…)
柱に沿って歩きながら、ソールは、次第に奇妙な感覚に囚われていった。

 ――この場所のことを、知っている気がする。

こんな場所に来たことがあるはずはない。なのに、妙に懐かしい気がする。ティキの入ったランプを手に提げたまま、彼は何かに誘われるようにどんどん奥へ入って行った。
 やがて行く手に、炎に包まれた広場のよう場所が見えてきた。崩れかけた石組みの館――そう、確かに館だ。広場のように見える場所は、かつては庭だったのかもしれない。崩れた門と石畳、それに、水盤の跡のようなものが見える。
 (ここは…)
心の奥がざわつく。流れ落ちる汗を忘れて、ソールは小走りに駆け出していた。そこが、火口の一番底の部分だった。火は館のまわりを取り囲むように、まるで柵のように燃え上がっている。けれど、なぜか恐ろしいとも火傷をするとも思わなかった。火の中を踏み越えるようにして、彼は館の前に立っていた。
 形を保ったままの館の中に入ると、不思議な涼しさが体を包み込んだ。熱に晒され続けた肌を癒すように包み込む空気。そして、柱の間に、石で出来た寝台がひとつ置かれているのが見えた。
 そこに、誰かがいた。
 「……!」
近づこうとしたソールは、柱の手前で思わず足を止めた。
 寝台の上に横たわっているのは、編んだ長い金の髪をもつ一人の少女だった。ほっそりとした体に、真っ白な花嫁のような衣装を纏い、胸の上に組んだ腕を乗せて、瞼を閉じている。彫像にしては、あまりにも生きた人間に似すぎていた。そして――
 その顔は、いつだったか鏡で見た自分自身の顔に、そっくりだった。
 ソールは思わず自分の顔に手をやった。これは何かの魔法なのだろうか。それとも、暑さでおかしくなって幻を見ているのだろうか?
 どこかで鈴の鳴るような音がした。立ち尽くしたまま見つめているソールの目の前で、少女の瞼がわずかに動いた。瞳が開き、それから、ゆっくりと体を起こす。
 寝台の上から振り返った少女は、驚いたような眼差しでじっとソールを見つめていたが、やがて、確かめるように彼の名を口にした。
 「…ソール?」
ソールが頷くと、少女はいかにも嬉しげに笑った。長い衣装の裾をもどかしそうに脇へどけながら、立ち上がって数歩前に進み出ると、両手を広げる。逆らうことは出来なかった。おずおずと近づいていった彼の首に、少女は、勢いよく飛びついてぎゅっと抱きしめた。
 「ソール! 大きくなった。わたしの息子!」
 「え、……?」
思いもよらない言葉に、思考が停まる。
 そのとき、腕の中で、何かが身じろぎした。
 「…キュゥ」
 「ティキ!」
腕を離して、少女は慌ててランプの中をのぞきこんだ。
 「どうしたの?! こんな姿になっちゃって…ああ、それを貸して」
ソールの腕からランプを奪い取り、中から素手で炎をすくい上げる。ぽかんとして、ソールはただ、眺めていることしか出来なかった。この人は自分のことを息子と呼んだ。確かに顔はそっくりだが、見た目は、自分と同じくらいの年齢にしか見えない。
 「あの…」
 「隣、来て」
石の寝台に腰掛けて、少女は隣を手で軽く叩く。ソールは、おそるおそる、そこに腰を下ろした。何から聞けばいいのか分からない。そんな雰囲気を感じ取ったのか、少女は、手元にティキを抱いたまま、自ら話し始めた。
 「この子はね、この館のかまどの火をずっと守ってくれていた精霊なの。わたしと一緒にね。あなたを連れてマグニが出て行くとき、連れていってくれるように頼んだの。あ、そうだ。ここ、わたしの家じゃないのよ。わたしの女主人の館なの。もう誰もいないけどね。わたしのこと、マグニから何か聞いた?」
 「――…聞く前に、死んだ。」
ソールが言うと、少女は寂しそうな顔になった。
 「…そっか。」
短い沈黙。殆ど同じくらいの年にしか見えなかった少女の表情が、その時、一瞬だけ、ずっと年上の女性のように見えた。ソールは、不思議な気持ちでその人の横顔を眺めていた。まるで自分を見ているようで、そこに鏡があるようで、どうしても信じがたかったからだ。
 「わたしの名前はフッラよ、館を守るもの。ここでずっと眠りながら、館の女主人の宝物を守っていた。長いことね。誰かがここへやってきて、その人に宝物を渡せれば、わたしの役目も終わるはずだった。」
 「人間じゃない…」
 「ええ。かつて、ここに棲んでいた一族の最後の生き残り。大きな戦いが起きて、みんな消えていってしまった。わたしが最後まで残っていたのは、炎を乗り越えてくる英雄のために、それをとっておかなくちゃならなかったからなの」
そう言って、ソールの持っている黄金の鎚を指差した。
 「でもマグニはね、宝物なんて要らないからわたしが欲しいっていったの。ふふふっ」
笑って、ソールの頬に片手をやり、優しく撫でる。その感覚は、まるで雲のようでもあった。
 「楽しかった…、短い間だったけどね。でも、わたしは自分の役目を果たさなきゃならなかった。マグニは宝物なんて要らないって言ったけど、――それがわたしの役目だったから…その黄金の鎚と、ティキをあげたの。あ、あとお鍋もね。あの人ったらミルク粥が大好きで…あ、ティキは、ちゃんとあなたを守ってくれた?」
 「…うん」
それ以上の言葉が出ない。何と言えばいいのか分からなかった。言葉が続かない。
 沈黙が落ちた。
 「……あのさ、俺の母さん…なんだよな?」
思い切って、口を開こうとする。
 「無理にそう呼ばなくてもいいわよ。ちゃんと会うのは今日が初めてでしょ? でもね、わたし本当に嬉しいの。あーんなちっちゃかった赤ん坊が、こんなに大きくなって戻ってきてくれたこと。最後に会えたのがあなただったってこと」
 「最後?」
ソールは弾かれたように顔を上げた。そして、隣にいる少女の姿が、うっすらと透けたようになっていることに気が付いた。弱っていたときのティキと同じだ。存在そのものが、無に帰ろうとしている。
 「わたしたちの一族は"役目"に従って生きていた。役目が終わるとき、存在もまた費える。――守るべき宝物は、全てあなたに託した。古き一族の掟も、魔力も、秩序も、血の束縛も――間もなく解き放たれる」
瞳を閉じて、また開いたとき、その姿は一段と薄れていた。
 話したいことは山ほどあるのに、舌がもつれて言葉が出てこない。
 聞きたいことだって、あるはずなのに何も思い浮かばない。
 真っ白になっているソールの両手の上に、彼女は、暖かい塊を置いた。手元を見下ろしたソールは、いつの間にか元通りの、リスのような姿に変わったティキを見つけた。
 「わたしにしてあげられるのは、このくらい。ごめんね、大したことは出来なくて」
ソールは慌てて首を振った。
 「十分だよ。…十分すぎる」
 「辛い戦いを越えてきたのね。あなたも、この子も」
フッラは微笑んで、乱れたままのソールの髪を撫で付ける。「外の世界は、相変わらずなの? 戦いばっかり?」
 「そうでもないよ…。でもずっと冬なんだ、北の魔女の呪いのせいで。俺は、その冬を終わらせなくちゃならない。だから…」
無言に頷くと、少女は、腕にはめていた黄金の腕輪をはずし、それをソールの手の上に置いた。
 消えかけた両手が彼の体を抱く。それから、館の外へ向かって押しやる。
 「行きなさい。ここは間もなく、滅びに飲まれる」
その言葉が何を意味するのかは、考えるまでもなく分かった。外から押し寄せてくる熱が強まっている。フッラの輪郭が消えてゆくのにともなって、館の中にあった涼しい空気が失われ、山の中から噴出す火の音が勢いを増している。
 出口に向って歩き出した彼の後ろから、声が聞こえた。
 「ソール」
振り返ると、石の寝台の端に腰掛けたまま、少女が微笑んでいた。
 「あなたの名前、わたしがつけたのよ。わたしの一番好きなものの名前。ソール、『太陽』って」
 「……!」
 「さようなら、わたしの太陽。あなた自身が、わたしの一番の宝物だったわ」
館を出たとたん、熱を帯びた風が周囲から押し寄せてくる。けれどその風は、ここへやって来た時ほど熱くはない気がした。ソールは歩き続けた。一度も振り返らず、館のほうに視線もやらずに。背後でごうっと音がして、ひときわ大きな炎が立ち上がる気配がした。何かが崩れ落ちていく音。けれど、足を止めることはなく、唇を食いしばったままで歩調を速めた。
 ほんの僅かな時間しか隣にいることの出来なかった人の鮮やかな笑顔は、瞼の裏に焼きついたまま離れなかった。とめどなく流れ落ちる涙を拭うことも忘れて、ソールはずっと、唇を噛み締めていた。



 フリーダの待っている岬に辿り着いたのは、もうすっかり暗くなってからのことだった。
 闇の中にぽつりと灯されていた小さな火を目指して馬を走らせる。
 「ソール!」
近づいてくる馬の気配に気づいて、フリーダが立ち上がった。灰色の大きな馬は、焚き火の側を少し行き過ぎて立ち止まる。ソールは無言のまま、滑り落ちるようにして鞍から地面に降り立った。
 「大丈夫なの? ティキは?」
 「……。」
 「ソール?」
体の中が熱い。彼は、フリーダにもたれかかるようにしてその場に膝をついた。
 「ちょっと! どうしたの?! ソール…」
フリーダの呼び声が遠くなっていき、代わりに、明るい響きを持つフッラの声が、耳の奥で何度も残響のように繰り返される。自分が生を受けた、炎に囲まれた館、ずっと暮らして深い森と険しい山。旅をして来た凍て付いた冬の世界。
 (俺は、何者でもない)
どこか遠いところで光が揺れている。
 (――俺は、どっちでもない――。)
光の中で、一度も並んでいる姿を見ることのなかった両親が、手をとりあって笑ったような気がした。意識が沈み込み、そしてまた浮上していく。
 「…ん」
目を開けとき、ソールは、頭の下に何か柔らかいものがあることに気が付いた。
 「起きた?」
見上げると、フリーダの顔がある。慌てて彼は起き上がった。枕にしていたものは、フリーダの膝だったのだ。
 「悪い、ええっと…、俺」
 「いきなり気を失ったの。もう朝になるわよ」
口調だけは不機嫌そうだったが、咎めるようではないフリーダの声。ソールの表情を見て、困ったように顔を逸らす。
 「…拭いたら? それ」
その時になってはじめて、ソールは、自分の頬に伝っているものに気が付いた。
 「あれ、何でこんな」
あわてて袖で目尻を拭おうとしたとき、腕の上に、ひょいひょいっと飛び乗ってくるものがいた。
 「キュッ」
 「…ティキ!」
思わず両手で捕まえて、手触りを確かめる。
 「ティキ、元気に…なったんだな」
 「キュッ。」
 「良かった…」
拭こうとしていた涙が、ぼろぼろと零れ落ちる。慌てて袖口で必死に拭ったが、それは、次から次へと両目から溢れて止まらない。あの吹雪の夜からずっと胸の奥につっかえていたものが、今はもう綺麗に溶けて無くなったことを感じた。心の中にわだかまっていた不安も、疑問も、すべて。
 空の彼方に雷鳴の轟くような音が響き渡り、地面がかすかに揺れた。
 振り返ると、"炎の山"の上部が赤々とした炎に包まれ、黒い煙を上げているのが見えた。
 「噴火したみたいよ。良かったわ、あと一日遅かったら巻き込まれていたかも」
 「……。」

 "古き一族の掟も、魔力も、秩序も、血の束縛も――解き放たれる"

フッラの眼差しと言葉が、蘇ってくる。ソールは、手の中に握り締めたままだった腕輪に気づいた。最後に、彼女が手渡してくれたものだ。細い輪に蛇と植物の絡み合う優美な模様が刻まれている。
 「何? それ」
 「うん――ちょっと」
腕輪を上着の奥にしまいこむと、ソールは顔を拭って立ち上がった。東のほうから海風とともに光の気配が近づいて来る。薄曇りの空の向こうに、かすかな太陽の輪郭が見えた。
 (太陽…)
ソールは、右手を空に翳し、太陽の丸い光を掴むような仕草をした。そんな彼の姿を、フリーダは、不思議そうに眺めている。
 「行こうか」
馬に飛び乗ると、肩の上に、いつものようにティキがちょこんと座る。ほんの何日かぶりのはずなのに、ソールには、それが嬉しかった。フリーダも自分の馬に乗り、二頭は、並んで空に向かって駆け上がっていく。振り返って、ソールは、噴煙を上げ続ける塔のような炎の山の頂上のあたりに目を凝らした。今はもう、あの館も、石の寝台も、柱や階段も、跡形もなく炎の中に消えてしまっていることだろう。
 (さよなら。…母さん)
視線を戻し、彼は、これから戻ってゆく暗い西の彼方へと顔を向けた。
 今はもう、寒さは感じない。


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