11


 地上に上がってきた時、既に日はとっぷりと暮れ、薄い雲の合間から夜の気配が忍び寄って来ていた。
 「不思議だわ、あの小人たちがあんなに頭を下げるなんて」
フリーダは頬に指をやって、不思議そうに首をかしげている。
 「祝福されし黄金、かあ…。それが、その武器の名前なのね? ソールは知ってたの?」
 「……。」
彼は答えない。螺旋階段を登りきったところで、フリーダが振り返ろうとしたその時、廊下のほうから騒がしい声が響いて来た。
 「ソールいたぁ!」「ソールぅ!」
ほぼ同時に、歓声を上げながら飛びついてきたのはヤルルとアルルだった。真新しい、白いローブのような裾の長い服を羽織っている。
 「あら、あなたたちも着替えてきたのね」
 「うん、なかまにもらったの」
 「あのねあのね、ソールに作ってもらったもね、気に入ってたんだけどね。こっちのほうが軽かったの」
 「そうか。あれは間に合わせだから、気にしなくていい」
ソールの新しい上着にポケットがないからか、二人はソールの周りをぐるぐる飛び回っている。
 「あとね。まほうつかいに会ったんだよ」
 「魔法使い?」
 「ソールに会いたがってたよ。ものしりのまほうつかい」
 「それはきっと、賢者のオラトリオね」
と、フリーダ。
 「彼は何でも知ってるのよ」
 「何でも?」
 「ええ。遠い昔のことから、何もかも。とても長生きで、先代の国王…私のおじいさまの時代から仕えてくれているの。魔女が攻めてきたとき、この街が守られたのも、彼の助言があったからよ」
話しながら、彼女は廊下のほうに向かって歩き出した。等間隔に並んだ燭台が照らし出す長い廊下は、まるで、光の花に彩られているかのようだ。だが、その廊下には誰もいない。こんなに大きな建物なのに、人が少ないな、とソールは思った。
 「…皆、もう寝ているのか」
 「え? まさか。」
 「それにしては誰もいない」
ちらりと窓の外にも視線をやる。「…人の気配が無いな」
 「だって、ここは王族と賓客以外は入ってこられない場所だもの。もっと騒がしい場所だってあるわよ。」
 「ふうん」
 「ソールは、静かなのが嫌い?」
 「いや。そういうわけでもないけど」
少し前までいた砦の、どこに行っても人の気配がする賑やかさとは対照的だと思ったのだ。面積も人口も、この街のほうが大きいはずなのに、かえって人の気配からは遠ざかっている。不思議だ。
 「フリーダ様、お客様たち」
振り返ると、絨毯の上を音も立てず、滑るようにこちらに向かって歩いてくるメイドがいた。ぴたりと足を止め、優雅にお辞儀をする。
 「お食事の準備が整っております。晩餐の間へお越し下さいませ」
 「わかったわ。行きましょう、ソール」
フリーダは、ソールの腕に手をやった。メイドが先に立って歩き出す。腕を引かれるまま歩きながら、ソールは、ちらりと隣のフリーダを見やった。心なしか、彼女は妙に誇らしげな表情を浮かべている気がする。
 「…食事ってことは、晩飯ってことだよな? また、あの広間みたいなところで取り囲まれるのか」
 「いいえ、まさか」
彼女はくすくすと笑った。
 「今度は家族だけよ。公式の場じゃないから安心してていいわよ。改めて、キミのこと皆に紹介させて頂戴」
扉が開かれる。
 部屋の中には、いくつもの燭台に明るく照らし出された四角いテーブルが一つ。真っ白なテーブルクロスの上に並ぶ銀の食器と、取り囲む人々。奥にいた女王が顔を上げ、入ってきた二人と妖精たちを見て、目尻に皺を寄せてにこりと微笑んだ。
 「お座りなさいな」
彼女の脇の席が二つ、空けられている。――向かいには、長女のフローラとその連れ合いがいる。そして、…
 テーブルの一番端にいた老人と目が合ったとき、ソールは、何か不思議な感覚を覚えた。敵意は感じないが、奇妙な驚きと警戒の入り混じったような視線。明るい色に彩られた部屋の中で、黒一色だけを纏った老人の姿は、まるで影のように風景に染みこんで見えた。それに、肩の辺りに何かがゆらめいて見える。
 (精霊…)
ソールの視線に呼応するように、ティキも低く声をたてた。火の精霊ではなさそうだ。ソールが見つめていると、老人はにこりと笑みを浮かべ、視線を外した。それと同時に、肩のあたりにゆらめいていたものが離れてゆく。
 「どうしたの、ソール?」
 「……。」
フリーダに促され、彼は席に着いた。すぐさま、隣にいたフルールが身を乗り出してくる。
 「ね、ね、どう? フリーダ。この服、あたしが選んであげたのよ。似合うでしょ」
 「ええ。ちょっとびっくりしちゃったわ、急に普通になったんだもの」
 「それだけなのぉ?」
フリーダの姉は不満げだ。「あんたが興味ないなら、あたし貰っちゃうわよ」
 「一体何のこと?」
 「こほん」
向かいにいたフローラの小さな咳払いで、かしましい少女たちは口をつぐみ、姿勢を正した。静けさが戻ってくるとともに、女王ゲルダが微笑みとともに口を開いた。
 「それでは食事にしましょうか。フリーダの無事の帰還と、お客人への感謝とねぎらいをこめて。今日はゆっくりしていってくださいね。ソール殿」
メイドがソールの前に杯を置く。
 「…ありがとう」
何気なく言ったつもりだったのに、メイドはちょっと驚いたように顔を上げ、なぜか少し顔を赤らめて慌てて去って行く。
 (…?)
隣でフローラがにやにやしている。フリーダは妙に機嫌が悪そうだ。何が起きているのか分からない。
 「乾杯!」
ハルベルトが杯を上げ、テーブルに向かっていた人々が同じように手元の杯を取り上げる。慌ててソールも従った。これが、この国での仕来りらしい。杯を干したあとは、めいめいがテーブルの上の気に入った料理をとりわけ始める。妖精たちは、乾杯など無視して、最初から果物の山に取り付いていた。一方でティキは、いつものように火の側にはいかず、ソールの肩に座ったまま、用心深そうに周囲を見回していた。
 「いいのか? お前も腹が減ってるんじゃないのか」
 「キュッ」
何かいる、と言っている。
 (さっきの精霊かな…)
ソールは、向かいのフローラとハルベルトの隣にいる黒ローブの老人にちらと視線をやった。老人は、さっきから一言も発言せず、料理をとるそぶりも見せず杯だけをちびちびと傾けている。意図的になのか、ソールが見つめていても視線を上げようとしない。部屋に入ってきたときに見えた精霊らしきものは、今は老人の周囲にはいないようだ。
 「気になるの?」
フリーダがそっと囁く。「彼がオラトリオよ」
 「あいつ、エルフだよな?」
 「えっ?」
言いながら、自分でもどうしてそう分かるのかは理由がつかなかった。ただ、直感的にそうだと思った。
 『正確には、半エルフだがな』
耳元で声が聞こえた。ティキが毛を逆立てて立ち上がる。ソールが振り返ると、老人と目が合った。こんなに離れているのに、声ははっきりと聞こえた。それに、
 「ソール、どうかしたの?」
 「いや、…」
声は、自分にしか聞こえていないようだ。
 『風の精霊を使って声を届けておる。それだけだ。そなたの火の精霊を鎮めてやりなさい』
ソールはティキに手をやった。
 『そう、それでいい。―――後で話をさせてくれぬか。今はまだ確信が持てぬのだ』
杯を傾けながら、老人は小さく頷く。ソールは小さく頷き返し、手元に視線を戻した。フリーダは不思議そうな顔をしていたが、彼が何も言わないのですぐに話に戻っていった。何といっても、母や姉たちと再会するのは久し振りなのだ。楽しげに旅の話をする少女を隣で眺めながら、ソールは、森の自分の家のことをぼんやりと思い出していた。
 明るくて、色とりどりで、食事も誰かが用意してくれる。
 ここは何もかもが違う。あの砦の中の町とも違う。こんな場所が、同じ世界の中にあったのだ。
 (でも俺は、あそこへ帰りたい)
険しい山々に囲まれた、静かな深い森。かつて先祖たちの還って行った土地。たった一人で暮らしていた、小さな丸太づくりの家――。
 思考を断ち切るように、隣からフルールがしだれかかってくる。
 「何、ソール君、ちっとも食べてないじゃなぁい。お口に合わない?」
 「美味いけど、…ミルク粥が食べたいなぁって」
 「はあ?」
彼女は面白そうにけらけらと笑い声を立てた。「そんなのが好物なの? じゃあ明日の朝、用意してもらいましょうか?」
 「いや、いい」
あの鍋で作った粥でなければ、同じ味にはならないだろう。
 春を取り戻したら帰ろう、とソールは思った。ここにいると、妙に心が騒ぐ。何か、今までに考えもしなかったことが溢れてくる。
 小人たちに手袋を作ってもらったら、ソリかスキーを貰って、それで北へ向かい、"敵"を倒して帰るのだ。そして、また元通りの暮らしに…あの頃の平和な暮らしに戻るのだ。



 扉を閉ざしてしまうと、彼は、ほっとして誰もいない廊下を見回した。
 用を足しに行くのを装って、席を立ってきたのだ。背後の扉の向こうからは、さざめくような笑い声と音楽の音がかすかに響いてくる。晩餐は終わる気配がなく、とりとめのない話が続いていた。その間に、あの黒一色の老人の姿は、いつの間にか消えていた。
 「これから、どこにいくの?」
目ざとくついてきたヤルルとアルルが、ソールの頭の上からたずねる。
 「おもしろいところ?」
 「さあ。あの真っ黒な奴を探しに行くんだ」
 「まほうつかいー?」
 「ああ。お前たちのほうは、食うのはいいのか」
二人はにこっと笑って、ソールの目の前にふわりと飛び上がる。
 「おなかいっぱい食べたからだいじょうぶ!」
 「もう飽きたー」
 「そうか。」
 『右へ曲がり、突き当たりの階段を塔の上へ』
耳の直ぐ側で声が聞こえた。『こっちだ』
 ソールは、声に従って歩き出す。晩餐の間の賑わいが遠ざかると、とたんに辺りからは人の気配が消え、静けさが落ちた。
 (広すぎるな、ここは)
分厚い絨毯のせいで、自分の足音すら聞えない。廊下の突き当たりまで行って、ソールはそこで足を止めた。突き当たりの壁に、小さな扉がある。腰をかがめなければ入れないような扉だ。それを開くと、中に螺旋階段が隠されていた。階段を通して、上のほうから風が吹いてくる。ずいぶん上のほうまで続いているようだ。
 入ろうかどうか迷っていたとき、背後で声がした。
 「どこへ行くのかしら?」
慌てて振り返ると、腰に手を当てたフリーダが、廊下の真ん中に立っている。彼女は、真っ直ぐに歩いてくるとソールの目の前でぴたりと足を止めた。
 「妖精たちまで連れて何処へ行くのかと思ったら。」
 「いや、こいつらはたまたまついてきただけで…」
 「トイレなら反対側よ。」
 「……。」
ソールは、はあっと溜息をついた。
 「一緒に連れて行っていいか?」
しばしの間のあと、声が返って来る。
 『…フリーダ姫か。仕方あるまい』
 「この声、オラトリオ?」
フリーダは驚いたように螺旋階段の向こうを見上げる。「どうしてあなたが」
 『お越しになれば分かる』
彼女はソールをちらと見、不思議そうな顔はしたものの、納得はしたようだった。
 「オラトリオのお招きなら、仕方ないわね。行きましょ、ソール。彼の部屋は、そのすぐ上よ」
そう言うとフリーダは、ひきずらないようスカートの裾をたくしあげて先に螺旋階段へと入った。彼女のすぐ後ろを、ソールも、ケープのように垂れた上着の裾を踏みつけないよう気をつけて歩いていく。
 やがて階段が途切れて狭い廊下に変わった。行く手には、両開きの銅の扉が立ちふさがっている。取っ手も何もなく、押してもびくともしなさそうだ。
 「オラトリオ、開けてくださる?」
フリーダが声をかけると、扉がかすかな軋み音とともにゆっくりと横へスライドしていく。漂い出てきた黴臭いような奇妙な香りに、ソールは、思わず鼻をひくつかせた。馴染みのない匂いだ。これは一体、何だろう。
 「失礼します」
フリーダと妖精たちが中に入っていく。ソールは遅れて、最後に部屋の中に入った。真っ暗で、足元もよく見えない。周囲は何か、背の高い戸棚のようなもので埋め尽くされている。
 背後で、扉が勝手に閉まってゆく。
 「オラトリオ?」
声が、高い天井に反響している。
 見上げると、戸棚は天井まで続き、高いはしごがかけられていた。ところどころに光の塊のようなものがちらついているのは、この部屋を照らすための光の精霊らしい。部屋の中心には丸いテーブルがひとつ置かれ、そこに、背後の闇と一体化するようにして杖に両手を乗せた老人が立っていた。
 「ようこそ、わが研究室に」
 「あんた、半エルフって言ってたよな。」
半ば皺と眉に隠れるようにして見える深い緑。抜け目のない眼差しは、まさしく年経た賢者のそれだ。「半分は人間ってことか」
 「そうだ…だが、そなたは違うようだな」
 「待って、何の話をしているの?」
フリーダは困惑気味に二人を見比べる。「エルフって?」
 老人は、小さく笑った。
 「姫様はご存知無かったのでしたな。このことは女王陛下と、先代陛下しか知らぬのです。――わしはエルフ族の生き残りなのですよ。本来は不老長寿の種族だが、わしの場合は半分が人間なのでな。このとおり、老いてしまっておるが」
 「えっ?! …そうなの?」
その反応からして、彼女は本当に何も知らなかったらしい。「長生きで物知りな賢者だって…そう思ってた」
 「正確には、二百五十年ほど生きておる」
老人は、いたずらっぽく笑って肩をすくめた。「まさか、こんなことでフリーダ姫にばれてしまうとはな」
 「びっくりよ。でもどうして、ソールには分かったの?」
 「何となく…」
 「なにそれ」
 「古い種族同士には、分かるものなのですよ」
すっと表情を戻し、オラトリオは、真剣な顔でソールを見た。「答えを聞く前に一つ無礼を承知で試させて欲しいのだ」
 「いいけど、何を?」
答えるや否や、彼の体に衝撃が襲い掛かった。
 「…?!」
まるで無数のムチに同時に叩きつけられたかのようだ。足元がゆらぎ、体が浮かび上がるような感覚。それとともに、電撃が走ったように体の奥が痺れる。ソールは思わず唇を噛むと、下腹に力を入れて前のめりに一歩、踏み出そうとした。その瞬間、叩きつけていた衝撃が弾け飛び、足の下の地面の感覚が戻って来る。
 「何をした」
ソールは、とっさに身構えながらオラトリオを見た。だが意外なことに、そこにあったのは信じられないというように目を大きく見開いて言葉を失っている老人の顔だ。彼は肩の力を抜いた。
 「大丈夫か? あんた」
 「あ、…ああ」
杖から片手を離すと、老人は片手を頭にやった。「驚いた…、まさか、一瞬でわしの魔力を無効化するとは」
 「オラトリオ」
きっと顔を上げてフリーダが詰め寄る。「私のお客様に、勝手に魔法をかけないでくれる? 失礼でしょ!」
 「すまぬ。しかし試してみたかったのだ。そしてようやく確信が持てた。わしの思い違いでなければ、その方は――"最も古き時代のもの"」
 「…どういうことだ?」
 「何か知ってるのね、オラトリオ」
二人は同時に口を開き、フリーダが後に続けた。 
 「"ブーリの一族"って何者なの? 巨人族とは違うものなのよね? 妖精たちは懐いてるし、小人たちは頭を下げるし…、分からないことだらけよ。」
 「ブーリとは、原初の時、無の大地の上に最初に現われしヒト」
澱みなく、影のような賢者は答える。
 「母なる大地の雌牛自らが生み育てたる種族の祖の名。そこから巨人族が生まれ、古き神々が生まれ、神々は妖精族と人間とを造り、巨人族は怪物たちを生み出した。ブーリは何者でもない。何者かになる以前の存在。強いて言うならば…"何も生み出さなかったもの"だ。」
 「……。」
ソールは黙っている。フリーダは、分かったような分からないような顔をして首をかしげている。
 「つまり…? ソールは、何…?」
 「原初の時より在りし者、ただ"ブーリの一族"と呼ぶしかないもの。かつての大戦では神族にも巨人族にも付かず、一足早くいずこかへ姿を消したと聞く」
視線が、ソールのほうに向けられた。「まだ、生き残っていたとはな」
 「今は俺だけだ」
彼は、ぼそりと答えた。「父さんは多分、…魔女に殺された」
 「なんと。冬の魔女か? あれも確かに古い存在だが、たかが妖魔に過ぎん。もし…いや…」
オラトリオは言葉を切って、手元に視線を落とした。
 「――そうか。"ブーリの一族"は戦いには不向きな種族だったな」
 「そうなのか? でも、俺は――」
 「そなたは、純血ではないからだろう。あらゆる種族は、男女でつがいにならねば子孫を残せぬからな。神々と巨人との戦争で多くの種が絶え、数を減らした。純血の種族はもはや、いくらも残っておらぬ。血統にうるさいエルフの一族でさえそうだ。今や生き残っているものは、わしのような半エルフばかりになってしまった。それですら数は少ない。」
 「待ってよ。それじゃ彼は"ブーリの一族"じゃないってことでしょう」
フリーダは、納得がいかないというようにオラトリオとソールの間に立ちふさがる。
 「彼は魔女のしもべを倒したわ。もう半分は何なの?」
 「わからぬ。だから試したのだ――そして彼派、わしの魔力を無効化した。魔女の魔力にも匹敵する力をだ」
少女の肩越しに、老人はソールのほうを見やる。
 「そなた、父が"ブーリの一族"の血に属していたのだな。では母親は?」
 「知らない」
 「……ふむ」
あごに手をやり、ヒゲをしごく。
 「奇妙なことだが、そなたの半分は、どうも人間では無さそうだ。それに、その精霊。――精霊は、本来であれば"契約"によってしか動かぬもの故」
 「キュッ」
尾を振り上げ、ソールの肩の上でティキが一声鳴いた。
 「そういえば、姉さまはティキが大精霊に匹敵するって仰ってたわ。全然そんな風に見えないけど」
 『本当ですよ、姫様』
突然、老人の後ろから声がした。誰もしなかったはずの場所に、風がくるくると渦を巻きながら集まっていき、ぼんやりとした人のような形をつくる。オラトリオは、その揺らめくような影に手を差し伸べる。
 「風の精霊シルフ。わしの従属精霊だ。二百年かけてようやく、ここまで実体を取れるようになった。人の言葉も覚えさせた。」
 『でもわたしは、人に触れることは出来ません』
目を凝らさねば見えない、陽炎のような人の形が囁く。声は奇妙に遠く、そこにいるのにそこにいないように、どこか部屋の隅のほうから響いてくるようだ。
 「そう。精霊が実体を伴うということは、この世界にそれだけ長く留め置かれたということだ。その、ティキという火の精霊は常に触れられる形で存在している。ということは、千年はくだらない時間をこちらで過ごしてきたはずだ」
 「千年…ですって? そんなの、…そんな昔から?」
 「キュッ」
 「人間の数える時間は、こいつには関係ない。」
代わりにソールが答える。「ティキは昔から俺と一緒にいる。その前のことは気にしたこともない。重要なことなのか?」
 「いいや。…もしかしたら、と思っただけでな」
何か考え込むように、オラトリオは言葉を切った。
 「――いずれにせよ、今のそなたは不安定な状態にある。未熟な状態で魔力を使い続ければ、体に要らぬ負担がかかる。わしでよければ、手ほどきをしよう。どこまで制御できるようになるかは分からぬが」
 「それをすれば、あの魔女に勝てるのか」
 「おそらくは」
それを聞いて、ソールは頷いた。「なら、頼む」
 「即答ね」
 「だって、そうしないと帰れないだろ」
ソールは相変わらず、そっけない。「いつまでも家を開けておけない。森に帰らないと」
 「……。」
フリーダは、二人を見比べると、口を閉ざしたまま背を向けた。そして、扉に向かって歩き出しながら言った。
 「じゃあ私は戻るわ。あとはよろしくね、オラトリオ!」
扉が開き、少女の姿が螺旋階段のほうに消えてゆく。そちらを見やりながら、ソールは小さく首を傾げた。一瞬だけ見えた、フリーダの腹立たしげな表情は何だったのだろうか、と思いながら。


********


 風が吹いて、薄曇の空にうっすらと月の輪郭が浮かび上がる。けれどそれ以上は空は晴れることなく、星々の姿はどこにも見えない。
 テラスに立つのは、白いケープを纏った女性と、その後ろに影のようにつき従う黒いローブの老人。
 「――そう。あの少年を鍛えることにしたのですね」
 「本人も同意してくれました。しかし、鍛えるといっても、この老いぼれのほうの身が持つかどうか」
笑って、オラトリオは杖に置いた自らの手に視線を落とした。
 「あの者の血は、古き種族の中でも最も古い。純粋であるがゆえに強すぎる魔力…果たして、わしのような半端者に制御のすべを見つけられるかどうか」
それは、女王ゲルダと賢者オラトリオの姿だった。城の最上部にあるテラスにはほかに人の気配はなく、辺りはオラトリオの精霊が見張っていて、どこからも盗み見られることなく、声を聞かれることもない。風が吹く。女王は、静かに自らの王国を見下ろしている。
 「そなたにそこまで言わせるとは、随分なものですね。彼は魔法は何も使えないの? あの精霊も、無意識に従えていると?」
 「魔法についてはそうですが、精霊のほうは、違います。シルフの見立てでは、本人の言うとおり本当に"兄弟"のようだと。――魂の深いところで繋がっているのです。人間でいえば、それは家族の情愛に等しい」
 「不思議なものね。精霊と家族になどなれるものかしら」
 「実際に起きていることですからな」
オラトリオは、苦笑する。「魔法といえば、あの者が"名付け親"になった二人の妖精にも会って確かめました」
 「ヤルルとアルルね。どうでしたか」
 「驚きました。妖精族は"名付け親"の影響を強く受けるものですが、…あの子たちはまるでヒトのような情を持っていた。おまけに、使える魔法は治癒と防御だけだという」
女王は、ちょっと首をかしげた。
 「珍しいですね。大抵の妖精の子は、自らの最初の欲求に従って魔法を選ぶものですが…なぜ、それを?」
 「"ソールを助けたかったから"だとか」
 「まあ」
女王とオラトリオは、顔を見合わせて笑みを浮かべる。
 「――そう。そういうことなら、あの子たちは当面、彼に任せるしかないわね。妖精族の女王様には申し訳ないけれど」
それから、すっと真面目な表情に戻る。
 「もしも彼が魔女に対抗しうるものであるならば、それはわたくしたちにとってまさに天からの恵みだわ。この長い戦いを終わらせることが出来るかもしれない。頼みましたよ、オラトリオ」
 「かしこまりました」
風の精霊が戻って来る。ふわり、と黒いローブが翻り、老人の姿は、頭を垂れたまま掻き消える。あとには、女王一人だけがテラスの上に残されていた。彼女の視線は、遠く、空の彼方を眺めている。過ぎ去ってきた時と、失われていった人の命を思うかのように、はるか遠く。



 同じ頃、ソールも空を見上げていた。寝室に与えられた部屋のテラスに座って、ぼんやり月の影を眺めている。
 扉がノックされた。
 「私よ。入ってもいい?」
 「どうぞ」
フリーダが中を覗きこみ、ソールの姿を見つけて足早に近づいてくる。
 「やっぱり。また寝てない」
 「やっぱりって?」
 「旅をしてた間も、キミ、ずっと寝てなかったでしょう」
腰に手をあて、座っているソールの真上から見下ろす。
 「知ってるんだから。いつ目を覚ましても、ずっと火を見つめてた。砦にいた時もそう、ベッドは一度も使わなくて、ソファでうたた寝ばっかり…」
 「寝なくても大丈夫なんだ。そういう体質だから」
 「それじゃ駄目」
きっぱりと言って、フリーダは部屋の中を指差した。
 「ちゃんと寝て! 明日からオラトリオのところで修行するんでしょ? 王都には警備もいるし、ここなら、キミが心配するようなことは起きないんだから」
 「でも、…」
 「まさか、自分の家じゃないところでは安心して眠れないなんていうんじゃないでしょうね」
 「…そうだけど」
 「はあ?」
 「落ち着かない。森を出てからずっと、知らないことだらけで、…外の世界のことは、俺は何も分からない」
 「……。」
ソールは、ゆっくりと立ち上がった。そうしたのは、手の上に妖精たちがいたからだ。ヤルルもアルルも、すでに完全に眠りこけている。彼らを起こさないよう部屋の中に入ると、そっとベッドの端に寝かせた。フリーダは、それを後ろで黙って眺めている。二人が眠っているのに気づかず、大声を出してしまったのが恥ずかしくなったのだ。
 「ごめんなさい、私、つい…」
 「いいよ。今日はちゃんと寝る」
テラスに続くガラス戸を閉めながら、彼は呟くように言った。
 「母さんのことなんか、あんまり考えたことなかったな…」
 「え…?」
 「何でもない。もう寝るから、出て行って」
 「あ、うん、…そうね。おやすみなさい」
ためらいがちに言って出て行くフリーダの後姿を、ソールは、それとなく視線で追っていた。
 ゆるく編まれた長い三つ編みが背にゆれ、扉の向こうに、それが消える。
 ひとつ溜息をついて、ソールは、ふかふかのベッドの上に腰を下ろした。あまりに柔らかくて、体が沈みこんでいきそうになる。
 暖炉の縁には、いつものようにティキがまるくなっている。
 「ティキ」
返事はなかったが、耳がぴくりと動いたのが見えた。「何かあったら起こしてくれ」返事するようにふわふわと尾が揺れるのを見てから、彼は、横になって目を閉じた。
 本当に眠るつもりはなかったのに、横になったとたん四方から闇が押し寄せてくるのを感じた。
 暗がりの中に舞い散る白。世界が黒と白の交互に覆われていく。泥に沈み込むような眠りの中には何も見えず、ただ、落ちて行くような感覚だけがあった。


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