<第三章>

ブレ


 研究者たちのいた部屋を過ぎたあとは、再び静かな灯に照らされた回廊。
 行く手に、両開きの扉が現れた。取っ手は金、表面には細かな装飾が刻まれ、鈴付きの注連縄で封印されている。ここが神殿の最深部なのだと、雰囲気が示している。
 意を決して、ルークは、取っ手を両手でつかみ、ぐいと引いた。鈴は音を立てず、紐はするりと外れて、扉の向こうの世界が顕になる。風が押し寄せてきて、心構えをするいとまもなく、吸い込まれるようにして部屋の中へ蹌踉めき込んだ。

 部屋の中は――漆黒の闇だった。
 足元も。天井も。目が慣れてくるにつれて、周囲に星のように浮かんでいる小さな無数の光に気がついた。鏡面のような、曇り一つない真っ黒な石がルークの姿を足元に上下さかさまに映し出している。”事象の境界線”そっくりだ。違うのは、空に煌々と輝く白い月がないこと。
 部屋の中央に、白っぽいものが見えた。
 部屋の扉が開かれたのを知って、伏せていたそれは、ゆっくりと体を起こす。衣擦れと、鈴の音。ユージェニーが一歩、あとすさる。
 「どうして、あなたがここにいるのです? ユージェニー…」
 「兄さん…」
ルークは、ユージェニーを下がらせながら、精一杯それっぽく聞こえるよう悪そうな表情を作って言った。
 「おれたちが脅して連れてこさせたんだよ。」
ヴァージニーは、かぶりを振った。
 「無駄です。この神殿に侵入してからの行動は、”ガーディアン”を通して見せてもらいました」
袖を振るシャン、という音とともに、背後の扉が閉ざされる。ミズハが駆け寄ろうとするが、一瞬遅く、扉のあったところは何もない闇の空間へと変わっている。 
 「え? え?! 入り口、消えちゃったよ!」
少女の手は、宙に虚しく空振りする。ヴァージニーは、うっすらと笑みを浮かべている。
 以前、フォルティーザを訪れた時はヴェールで顔を隠していたから、顔を見るのは初めて――だが、確かに、首から上はウサギのようだ。ユージェニーに比べればわずかに骨ばっていて、ハシバミ色の毛並みの襟足のあたりがカールして見える。
 「おれたちを始末するつもなりか。そのあと、どうするつもりだ? バージェスは、この世界をどうするつもりなんだ?」
 「正しき姿に導くのですよ…」
 「邪魔者を全て、始末して?」
沈黙。否定ではない。
 「ヴァージニー、どうシて外の世界の人間を神殿の中へ? それに、あの沢山の飛空艇は一体…。争いはいけない、と、何度もわたくシに仰ったではありませんか。どうシて?」
ヴァージニーの赤い目が、細くなる。
 「それは”建前”という奴なのですよ、ユージェニー。貴方ももっと大人にならなくては。世を総べられるのは強い者だけ。絶対的な力。それこそが世界を平和に導くために最も簡潔で完璧なものです。バージェス様は強くなられなければならない。この世界を統治するために、唯一の神となるために、もっと、もっと」
 「そのために、他の力ある存在を食って力をつけるのか? 世界中の精霊や神のコアを食っただけで飽きたらず、食料となる精霊も生み出そうと」
ルークの問いには答えずに、ヴァージニーは背に垂れていたフードを上げ、ヴェールで顔を覆い隠した。闇の中、真っ白なローブに身を包んだ男は、異質な存在そのもの。その手に、小さな金色のものが現われた。

 ――リィ――…ン。

 音が聞こえた。長く余韻を引いて、空間いっぱいに響き渡る。
 「兄さん…何を…」
 「今一度、貴方に機会を与えまシょう、ユージェニー」
 「えっ?!」
めりめりと空間が裂け、赤い炎とともに何かが首をもたげる。空に輝く燃え盛る炎の川、…いや。あれは――
 「バージェス様は、裏切り者は必要ないと仰っておられる。何をすべきかは、自身でお考えなさい」
 「何を、言って…ヴァージニー…」
 「下がれ!」
ルークは、ユージェニーの腕を掴んで思い切り後ろに引っ張った。炎の熱気が辺りを覆い尽くし、翻ったローブの袖口を焦がす。巨大化したバルゴスと、その背には赤い長い髪が熱気に煽られてひらめいている。
 「マル君?!」
 「ミズハも下がれ! あいつ… 何か様子がおかしい」
さっきまで部屋だと思っていた場所は、何時の間にかだだっ広い空間に変貌していた。どんなに後ろへ下がっても、壁には突き当たらない。たしかに立っているはずなのに、足元は硬い床ではなく、どこかふわふわとした空気のようなものに思える。星のような小さなきらめきだけが支配する闇の中、ともすれば、左右の間隔さえ失われそうになる。
 あとすさっていたルークは、何かに躓いた。足元で上がる小さなうめき声。腕にはめられた銀の腕輪が、闇に抵抗するかのように青白く輝いて見えた。
 「…ジャスパー?!」
慌てて、抱き起こす。
 「ルーク、悪ィ。ドジ踏んで捕まっちまって…」
 「そんなの問題ない。無事…ってわけでもないけど、とにかく見つかって良かった。一体何があった?」
 「鐘の音だ…」
ジャスパーは、脇腹を抑え、ルークに支えられながら起き上がる。闇を切り裂いて、閃光が走った。ミズハの鳥たちだ。低い唸り声を上げ、バルゴスが鳥を避けるように首を大きく振った。鼻息が高く天井の方向に向けて吹き上がる。まるで火山だ。
 「…アイツだ」
ジャスパーは、肩で息をしながらうめいた。
 「あのバカが、あれに引きずられて俺の腹に尻尾くれやがった。ほんと、後でタダじゃおかねえ…いたたた」
それ以外にも、服や髪が一部焦げ、火傷の跡らしいものも見えた。「ちっくしょー…海の上なら、あんなの一発なのに…」
バルゴスはこちら見ようともせず、乱暴に尾を振り回し、むやみやたらと炎を吐き散らしている。危なくて、近付くことも出来ない。その間、リィン… リィン… と、鐘の音は一定の間隔で響き続ける。あの音には、かつて、ミズハも引きずられていた。もしかしたら…
 ルークは思い出していた。
 夢の中、足元に寝そべっていた二頭の竜。響き渡る鐘の音、赤いほうだけが反応して、首をもたげていた――。
 「鐘の音に操られてる、ってことか。どうすればいい? どうすれば、あの音を止められる?」
 「マル君! 目を覚ましてっ」
ミズハが飛び回り、なんとかしてマルドルゥインに近づこうとしているが、バルゴスが暴れまわるせいで上手くいかない。バルゴスは、知性をなくした獣のように、のたうち、炎を吐きまくっている。翼の起こす熱風は、ルークたちのところまで届いた。ミズハはうまく立ちまわっているが、普段より動きが鈍い。この空間では思うように風が起こせないためだ。ジャスパーも、水のないところではただの人間同然。このままでは、逃げることもままならず、力尽きるのを待つだけ。
 ルークの視線は、両手を握りしめて震えているユージェニーに止まった。
 「…ユージェニーさん」
彼女は、怯えたような赤い瞳をルークに向けた。


 ”今一度、貴方に機会を与えまシょう”

リブレ人の神バージェスの気配は、すぐそこにある――
 「鐘を止めて!」
ミズハが叫んだ。
 「信じるのは神様なんかじゃない。人に言われたことでもない。自分を信じて! 自分の目で見たことを信じて!」
 「あ、あ…」
ユージェニーは、両手で耳を抑え、固く目を瞑った。駄目だ。生まれてからずっと、バージェスの教えを刷り込まれ、都合のよい世界観を植え付けられてきた彼女には、それを裏切ることは出来ない。ことに、バージェスの気配が濃厚に漂う、この場所では。さっきから、すぐ近くでありながら遥かに遠い気配が、この世界を包んでいる。バージェスは今も、戸惑うルークたちを鳥かごの中の鳥のように何処かから鑑賞しているのだ。
 考えろ。
 ルークは、暴れまわるバルゴスの巨体に目を凝らした。
 多分バルゴスは、正気を無くしているマルに引きずられているだけだ。本体というべきマルドルゥインを正気に戻すか、引き離せば止められる。だが、止められたとして、ここからどうやって脱出すればいいのか。そもそもこの空間は、一体どんな理屈で、こんなに広がってしまったのか。夢の中の世界によく似たこの世界は、一体――

 「”事象の水平線”――」

声に出して呟いた時、ルークの脳裏に、閃くものがあった。月、そうだ。あの世界にはいつも、月があった。天高い場所に、白く冷たく輝く月が――
 「ミズハ、思い出せるか? ”事象の水平線”だ!」
 「…!」
翼をひろげて飛び上がったミズハが、はっとして頭上の一点を見上げた。
 「気配…見つけた! そこにいるのね!」
言うなり、少女は両腕を大きくはためかすように広げた。一直線に空に向かって飛んでゆく白い鳥、空間がうろたえたように揺らめいた。ルークは、ユージェニーに飛びつくと、腕を掴んで袖口の中に手を差し入れた。 
 「な、何をなさるんです!」
 「いいから、鐘を!」 
 「あっ」
ルークの手を払いのけようとユージェニーが腕を振るったとき、袖口から、金の鐘が零れ落ちた。床に当たって、跳ね返りながら澄んだ音を立てた。その音が、一定間隔で響き続けている鐘の音に共鳴し、両者は混じりあい、不格好な割れた和音となって響き渡る。

 リィイ――イィィイン…

 「ギャアアア!」
悲鳴を上げてバルゴスがどうと床に倒れた。泡を吹き、白目を向いて痙攣している。弾みで、背に乗っていた少年が吹き飛ばされた。床にたたきつけられ、赤い髪が床に散らばり、仰向けになって止まる。瞬間、ほぼ同時に、無限に思えた空間が奥行きをなくし、ちらついていた小さな光がかき消された。天井の一部が崩れ、激しい雨音が静寂の中に広がってゆく。
 外は、雨。
 月のあるべき場所にはミズハの体当たりで空いた大穴が穿たれ、神殿の最深部の部屋は、得たいのしれない異空間から、元の世界へと戻ってきた。
 「マル!」
 「触れるな!」
ルークは倒れている少年に駆け寄ろうとするが、熱が炎の壁となって立ち上がり、差し伸べた手を払いのける。炎はいっそう激しさを増し、ルークはやむなく何歩か離れる。だが、だが、よろよろと起き上がる足元はふらつき、息は荒い。
 「無礼者め…、余は… 炎の魔神なるぞ…!」
 「ルー君、危ない!」
ミズハの羽ばたきが、ルークを飲み込もうとする炎の方向をすんでのところでそらす。振り込んできた雨粒が少年の周囲の熱に触れて蒸発し、湯気へと変わる。バルゴスの巨体はぴくりとも動かず、いまだ炎を吹きあげているが、勢いはさっきより落ちている。
 ルークは足元に転がっていた金の鐘を取り上げた。
 「目を覚ませ!」
だが、振り下ろしてもそれは、うんともすんとも言わない。
 「あれ、…」
何度振ってみても同じだ。
 「ルーク、何してる!」
目の前で炎と風と水がぶつかり合う。相殺しあった力は、水蒸気となって空に飛び散った。ジャスパーが脇腹を抑えたまま駆け寄ってくる。 
 「よそ見すんな! 逃げんぞ、ここじゃロクに戦えねぇ」
 「でも、――」
言いかけたルークの言葉を待たず、ジャスパーは、舌打ちしてマルのほうに一瞥をくれ、ルークの腕を掴んで引きずった。見れば、マルが、両手に炎を抱え、ふらふらとこちらへ向かってくるところだ。少年の真っ赤な髪が熱気の起こす風に広がり、まるでそれ自体が炎のようだ。
 「あいつの力をナメると痛い目に遭うのは、フェーブルと戦った時に分かってんだろ! ここは海じゃねぇんだ。水がなきゃ、俺だって何も出来ねぇよ!」
 「仲間を置いていけないだろ?!」
 「だったら、どうやって連れ出すんだよ! …って」
ジャスパーが口をつぐんだ。ウサギの顔をした女性が、動いた。
 微かな衣擦れの音とともに、ユージェニーがルークの傍らに立った。ルークの手に触れ、握りしめられていた鐘を、そっと抜き取る。
 「…あの方は、炎の魔神と名乗りまシたが…。あの方は、そうなのですか…?」 
 「正確にはその一部、です。炎の魔神マルドルゥイン――だけど、危ない奴じゃない。魔神っていっても、人間とは共存してて、悪い魔神じゃ…」
 「お仲間… なのですか?」
 「大事な友達だよ!」
ミズハが上から叫ぶ。「傷つけたくないの。だから…」
頷いて、ユージェニーは鐘を掲げた。
 「…正しいことが何なのか、わたくシにはまだ見えません。けれど、一つだけ分かることがあります――」
一呼吸置いて、まっすぐに、鐘を打ち下ろす。

 リィン――…

さっきのルークの奮闘が嘘のように、鐘は、澄んだ音を響き渡らせた。続けて、二度、三度。ふいに、糸が切れたように少年が倒れこんだ。
 「マル君!」
ミズハが駆け寄る。ジャスパーは、驚いてハシバミ色の毛並みを見つめた。
 「…あんた、敵じゃないのか」
 「それはまだ、わかりません。でも、お友達同士が争い合うのは、悲シい…とても悲シいことです…。」
 「ジャスパー、手を貸してくれ!」
ルークが、バルゴスを上着で包んで抱え上げる。マルが意識を失うと同時に、そちらも本来の大きさに戻ったようだ。
 「マルも連れて、逃げるぞ。ミズハ、そっちは俺が。ユージェニーさんを頼む。」
 「わかった!」
だが、そう簡単に逃がしてくれるつもりは無いようだった。
 廊下に出たとたん、銃声が足元を抉り、向こうから押し寄せてくる一軍の”ガーディアン”の群れが見えた。
 ミズハの不可侵領域を頼ったとしても、傷を負っているジャスパーと戦えないユージェニー、それにマルとバルゴスまで抱えて、突っ切れる数ではない。逃げる方法があるとすれば――
 「こっちだ!」
ルークは、脇道に逸れ、記憶を頼りに行きに通った研究室を目指した。研究者たちは青ざめた顔で話し合っていたが、ルークたちがただならぬ勢いで戻ってきたのを見て、みな一斉に振り返る。
 「この中に、飛空艇を操縦できる人は?!」
ルークは、十五人ほどの男女を見回した。
 「とにかく飛べればなんでもいい。外にある、あの飛空艇を飛ばすんだ。ここから逃げる!」
 「逃げるって… そんなことが…」 
 「死にたいなら残ればいい。急がないと、敵が増える――」
 「ルーク、来たよ!」
ドアの隙間から廊下を伺っていたミズハが叫んだ。無機質なガーディアンたちのたてる金属的な足音が響いてくる。恐怖にこわばった顔をした、一人の小太りな男がおそるおそる手を上げた。 
 「あの… その、設計図を読んだのは私ですので… おそらくは…その」
 「頼んだ! ユージェニーさん、ジャスパー、先にこの人たちを頼む。ここで時間を稼いどく」
ルークは、上着ごとバルゴスをユージェニーに手渡した。
 「わかりました」
部屋の中は、蜂の巣をつついたような大騒ぎ。研究結果をポケットにねじ込む者、あたふたと机の引き出しを引っ張りだす者――、
 「急げ! 欲張ってると全員死ぬぞ」
ドアの鍵をしめ、つっかい棒をし、側の机を引き寄せてとりあえずのバリケードを築く。足音が迫ってくる。ドン、と重たい音がぶつかって、ドアは壁ごと大きく揺れた。そう長くは持たない。
 「ミズハ、さっきの回廊」
 「うん」 
 「あそこまで撤退しよう」
部屋の反対側のドアの外には、来る時ユージェニーの認証で開けた両開きの丈夫な扉がある。その先には、飛空艇を保管している巨大な空間がある。
 二人がそこまで駆けつけた時、先行して飛空艇に向かった人々は、既に渡り廊下から飛空艇のタラップまで辿り着いていた。最後尾にユージェニーが居て、人々を誘導している。ガーディアンたちは、静止したまま彼女の周りを遠巻きにしている。リブレ人を攻撃出来ないよう、仕組まれているのだ。
 飛空艇のプロペラは動き出し、間もなく最後の一人が乗り込もうとしている。ルークたちも、階段を文字通り「飛び」降りて合流する。二人の姿を見て、ユージェニーはふと、安堵の表情を見せた。
 「ユージェニーさん、誘導ありがとうございます! もう大丈夫だから、あなたも中へ」
 「ええ、――あっ」
彼女は、ルークたちの背後に視線を向けた。ルークが振り返ろうとした時、
 パン、と乾いた音が、空間に響き渡った。
 そこに見たのは、一筋の白い煙を上げる銃口を向けて無表情に立つ、ヴァージニーの姿。ミズハが何か叫んで、ルークを追い越して駆けていく。
 「な…」
再び前方を見た時、タラップにもたれかかるようにして崩れ落ちてゆくユージェニーの姿が見えた。
 「ユージェニーさん!」
駆けつけたミズハは、かばうようにユージェニーの前に立ち、キッ、とヴァージニーを睨みつけた。
 「自分の妹に、どうして!」
 「裏切り者は生かされません」
無機質な声で言い、ヴァージニーは集まってくるガーディアンたちに向かって命じる。「邪魔者は消えました。残りを捕らえなさい。」
 まずい。
 ルークは、ヴァージニーを追いかけようとするミズハの腕を掴んで、強引にタラップの上へ押し上げる。
 「早く中へ、今はあいつと話しても無駄だ!」
飛び立とうとする飛空艇めがけて、続々と、さらに町のほうからも、ガーディアンたちが集まってくる。闇の中から浮かび上がる無数の銀の体。細いもの、巨大なもの、奇妙にねじ曲がったもの…、それらは、この整いすぎた町にはあまりにも不釣り合いに、おぞましいほどに不自然な形をしていた。
 銃弾が入り口をえぐる。
 飛びついてくるガーディアンたちを振りほどき、無理やり入り口を閉ざすのと同時に、船体がぐらりと大きく傾いた。
 飛空艇はゆっくりと上昇しはじめていた。
 天井が割れ、雨雲に厚く覆われた空が目の前に広がる。操縦桿を握る学者は必死の形相で、三重に広がるリブレの城壁の外の平原を凝視している。
 ルークは、肩を撃たれたユージェニーの傷口を調べていた。出血はひどいが、急所は外している。それはヴァージニーの情けだったのか、それとも偶然か。
 雨が激しく船体に叩きつけ、機械音と入り混じって耳鳴りのように聞こえてくる。
 ユージェニーの真っ白だったローブは雨と血に染まり、まだらに汚れている。ルークが傷口をきつく縛り上げると、彼女は痛みに顔を歪めた。
 「すいません。今はこのくらいしか…。巻き込んでしまって、本当にすいませんでした」
ユージェニーは首をふり、一つため息をついた、大きな瞳の縁に、涙のしずくが生まれた。
 ルークは、ミズハの差し出したハンカチをヴァージニーの手に握らせ、その場を離れた。いずれユージェニーから話を聴くこともできるかもしれないが、今はまだムリだ。

 バージェスは、やはり”神魔戦争”前後の世界の変化に関わっている。
 ヴァージニーの言葉からして、バージェスは、世界で唯一の絶対的な神になろうとしている。それは奇しくも、メテオラの大陸の覇を求める望みと一致していた。神や精霊と呼ばれる存在たちの世界の絶対者たらんとするバージェスと、人の世界で絶対者たらんとするメテオラ。それが、両者を結びつけ、今、この大陸を不安に陥れている。

 船体が不安定に揺れ、ルークはとっさに壁のでっぱりを掴んだ。そういえば、この飛空艇はどちらへ向かっているのだろう。
 「ここにいたのか、ルーク」
半開きのドアの間から、ジャスパーが顔を出した。
 「操舵室? 操縦室っての? 先頭の部屋来てくれって、さっきの人間が言ってる」
一塊になって壁際に座り込んでいる学者たちの脇を通りぬけ、船首にある操縦室のドアを開ける。視界がさっと開け、目の前に、天と地の間の光景が広がった。操縦桿を握る男は汗だらだらで、しきりと計器をいじっている。ルークがやってきたのを見て、男はうろたえた目を泳がせた。
 「あ、ああ、君。こ、こ、こ」
 「落ち着いて」
 「これから…ど、どっちへ向かえばいい?」
飛空艇は、陸すれすれの低空を滑空している。計器の中でかろうじて見方の分かるコンパスが指している方向は、北。このまま飛び続けたら、北の山脈に激突してしまう。
 「フィオナへ向かってください。東南です。向き、変えられますか」
 「や、やってみる」
操縦桿をぐいと引っ張ると、船がいきなり斜めに傾いた。
 「うわっ」
 「ひ、ひぃっ」
慌てて操縦桿を戻すと、今度は反対側に。ジャスパーは、脇の窓に頭から思い切り突っ込んだ。
 「おい! 急すぎるんだって。もうちょっと、そっとやれよ!」
 「そ、操縦なんて、実際の操縦なんて初めてなんですよ! 使い方は知ってますが、理論だけで…」
空には分厚い雲がどこまでも続き、船首に叩きつける雨は真横に流れていく。そのときルークは、行く手の雲がもくもくと形を変えてゆくのに気づいた。青白くひらめく火が、雲の中を伝う。
 「避けて!」
 「え、え?」
ルークはとっさに、操縦桿を奪い取った。視界が真っ白になり、何かが削れるような嫌な音が頭上から聞こえた。ほんの数秒遅れて、ゴロゴロという重たい音。後ろの船室のほうから、ミズハの悲鳴が聞こえた。雷が苦手なのだ。
 「雷…?」
 「バージェスだよ!」
さっきの雲の辺りに顔が生まれていた。西の海からフォルティーザに戻ってきた日に見た、あの顔だ。両目が青白く輝いている。
 次の瞬間、ほぼ真上から、落雷の衝撃が襲いかかってきた。
 「まずい…!」
計器の一部がバチバチと音を立て、焦げ臭い匂いが中まで漂ってくる、ルークは、蒼白な顔色のまま操縦桿を握る操縦席の男に向かって怒鳴った。
 「浮かせてくれ! とにかく――飛べるだけ飛ぶんだ。雲を抜けられるまで…!」
船体がぐらりと傾き、機首を上げて地面から離れようとする。行く手には、明るい日差し、雲の切れ目の空が見え始めている。あそこまで行けば、バージェスが空から手出しすることは出来ないはずだ。
 雲の顔が目の前を通りすぎてゆく飛空艇にむかって口を大きく開ける。ぽっかりとした闇の中に、稲妻が走る。
 ドン、ドン、ドン! と、大きな爆発音が後ろのほうで聞こえた。窓から覗くと、何か大きな破片が、船尾のほうから落ちていくのが見えた。横からの雷が直撃したらしい。次の瞬間、がくん、と船体が揺れ、浮力を失った。地面がぐんぐん近づいてくる。雨の作る煙ったような薄い雲を突き抜け、広がる視界には村と畑、地平線の彼方へと続く黒い線路…
 「あわわわ… お、落ちるーー!」
 「…っ」
ルークは、眼前に迫る大地に向かって意識を集中させた。こんなところで、誰かを失うわけには――。
 悲鳴が響き渡る中、地面が迫ってきて、視界が真っ暗になった。

 斜めになった操縦室の計器と窓の隙間で、ルークは、肩の力を抜いた。覚悟していたほどの衝撃は、何時まで待っても襲ってこない。操縦席の男は、計器の盤に俯けに突っ伏したまま気を失っている。ジャスパーは操縦席の下の隙間にはまって、窮屈そうだ。窓の外は、土で塞がれている。だが、地面に突っ込んだにしては、窓はどれも割れていないし、機体も変形していない。
 苦労して後部の部屋まで這い上がってみると、そこも、固まっていた研究者たちがぐちゃぐちゃに折り重なってひどい状態だ。あちこちで呻き声がする。
 「ミズハ?」
 「ここだよ」
白っぽい輝きが浮かんでいるのが見えた。マルとバルゴスの体を両手に抱え、ひっくり返った箱の上に浮かんでいる。
 「外の様子見られるか」
 「やってみる」
意識のない少年の体をルークに預け、ミズハは、滑り台のようになった船体の中を飛んでドアに取り付いた。開け閉めはハンドル式になっていて、ドアの横のハンドルを回すことで開くことができる。
 重たいハンドルを回してドアを開くと、雨の音とともに、風が舞い込んできた。
 「どうだ?」
 「んと、畑に落ちたみたい。近くに線路が見えるよ。雲は――もうすぐ切れる。雨、止みそうだよ」
 「そうか」
ルークは、抱えている細い少年の体に目をやった。死んではいないが、これほどの衝撃でも目を覚まさないところを見ると、ただ気を失っているわけではないらしい。

 外に出てみると、確かにそこは、村外れの畑の端だった。いきなり空から落ちてきた飛空艇に集まってきた村人たちが、用心深く、遠巻きにして見ている。飛空艇は頭の部分を土にめり込ませ、器用に斜めに地面に突き立っていた。その、めりこんでいる部分は、まるで人間の両手が落ちてきた飛空艇を受け止めたような格好に固まっていた。
 「これ、ルー君がやったの?」
 「そうらしい。うまくいくかどうかは賭けだったんだが」
力に反応してくれる地面なら手を触れなくても形成することができると知ったのは、アガットの町に辿り着く前、”巨人の信奉者”の生き残りたちに拘束された時だ。リブレの町は、既に雨にけぶる西の地平線の先に見えなくなっている。この辺りは、バージェスの影響下にはない。ここがどの辺りかは分からないが、村の側を走る線路は大陸横断鉄道のものに違いない。
 雨は間もなく上がる。
 額を流れ落ちる水滴を拭うと、ルークは、無残に傾いた飛空艇の船体を見上げた。
 「さて、ここからどうやって帰るかな…。」
灰色の雲の切れ間からは、薄紅色の空と、気の早い星々の輝きが見え始めていた。


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