<第二章>

竜の棲む海


 翌朝――、ルークは、観測所二階の硬いベッドの上で目を覚ました。
 枕元には、まだ濡れた上着がかけてある。毛布から出ようとすると、とたんに寒さが押し寄せてくる。波は昨日より収まっているが、相変わらず風は強いまま。空には、相変わらずの分厚い雲が垂れ込め、いつ雨が降ってきてもおかしくない。
 「あ゛ー…飲み過ぎたかも…」
 「うえええ」
ミゼットとラスは、会議室でぐったりしている。
 「久しぶりだからって、はしゃぎすぎましたねえ」
ウィル一人が、てきぱき昨夜の片付けをしている。「お。目が覚めました?」
 「おはようございます。その…」
 「飲みすぎですね。いつものことです」
あっさりと言う。「片づけはやっておきます。それより、連れの女の子のほうは、いいんですか? 船に戻るってさっき出ていきましたよ」
ミズハの姿が見えないと思ったら、そういうことらしかった。
 ルークは、会議室のテーブルの上に置かれていた石を取り上げた。ウィルが片づけの際に除けておいてくれたものらしい。

 昨夜と同じように急な崖の階段を、桟橋へと下る。一晩経って、階段はすっかり乾いていたが、桟橋は相変わらず黒く海水に濡れたままだ。ミズハは、その中ほどに立って海を見つめていた。
 「どうした?」
 「ジャスパーがいないの」
振り返るなり、少女は言った。「どこかへ行っちゃったみたい」
 「えっ…」
ハーヴィ号の下に目をやる。昨夜の、泳いでいく姿が思い出された。まさか、あのまま一晩戻ってきていないのか。
 「昨日…、なんだか機嫌悪そうだったんだ。おれに水かけて泳いでって、そのまま」
 「ケンカしたの?」
 「してないよ。パーティーってけっこう面白いんだな、とか、そんな話をしたくらいで…。」
 「探さなきゃ」
ミズハは、一呼吸で背に翼を生み出した。彼女の周囲に風が沸き起こり、触れることのできない光に包まれた海鳥たちが数羽、生まれ出る。
 「まさかとは思うけど、洞窟には行ってないよな」
 「わかんない。でも――あのひとたち、ジャスパーのこと嫌いみたいだった。戻れなくなってるのかも…」
ちら、と崖の上に目をやる。ミゼットたちは、昨日のパーティ疲れで寝込んでいる。多少のことがあっても、気づかないだろう。
 桟橋を戻って、波の打ち寄せる崖に手を当てる。
 意識を集中させると、岩はやがて生き物のように動きだし、自ら剥がれ、あるいはすでに崩れた岩の欠片が集まって、次第に巨人の形を作ってゆく。岩をゴーレムの形にするのは、堅いこともあって時間がかかる。ただ、砂よりは頑丈だ。
 ルークは、水面からのっそり立ち上がる巨人が差し出した手に飛び乗り、その肩に移った。このあたりの海は遠浅だ。これなら、水に濡れずに高い視点からジャスパーの姿を探せる。歩き出す巨人の足元で、魚たちが慌てふためいて逃げてゆく。
 ミズハはもう、かなり沖合まで出ていた。周囲を鳥たちが旋回している。ルークは、昨夜ジャスパーが泳いでいった方向を思い出していた。そう遠くへは行っていない気がする。近場で、どこか一晩隠れていられそうな場所…。
 観測所のある崖の先まで出たとき、彼はふと、崖の向こう、洞窟と反対側に小さな岩礁のようなものがあるのに気がついた。波に洗われ、ほとんど岩の先しか見えないくらいだが、洞窟のような影が見える。
 「あそこ…か?」
それは、ほとんど勘だった。
 ルークはゴーレムをそちらに向けた。胸まで波に濡れながら、岩の巨人はゆっくりと岩礁へ向かって歩いてゆく。


 波の打ち寄せる岩礁は、いくつかの岩から成っていた。もとは大きな岩だったのだろう、ひびが入って割れ、真ん中の部分が崩落した結果、そこに洞窟のようなスキマを作っているのだった。ゴーレムから降りるとすぐに足元を波が洗う。ルークは、ずぶぬれになりながら岩の奥を覗きこんだ。
 「ジャスパー!」
声は狭い空間に反響する。奥はそう深くなく、波は岩の中では穏やかだ。狭くて、ゴーレムを連れて入るわけにはいかない。
 足を滑らせないよう気をつけながら、ルークはそろそろと洞窟の中に足を踏み入れた。体は濡れているが、潮風が遮られるだけでも少しはましな気分だ。
 「ジャスパー、いたら返事しろ!」
奥のほうで影が動いた気がした。壁にぴったり身を寄せるようにして、何かがうずくまっている。間違いない、ジャスパーだ。ほっとして、ルークは足を止めた。 
 「何やってるんだよ。心配したんだぞ、ほら、帰ろう」
入り口に戻ろうと背を向けかけたとき、
 「――お前に心配される筋合いはないね!」
声とともに、いきなり、ばしゃんと頭から海水をひっかけられた。不意打ちだったので、ルークは足を滑らせて肩まで沈んでしまった。
 「…ぷはっ!  おい、何す――」
小さな笑い声、それから沈黙。そこにはジャスパーしかいない。
 ルークは、ぽかんとした。今のは…、一体誰の声ダム?
 「…?」
 「とっとと帰れよ。パーティーだか何だか知らないが、楽しくやってればいいさ、ふん」
ふてくされたような声。ルークは、暗がりの中に目を凝らした。聞き覚えのない声だ――だが、何故だか、それがジャスパーなのだと確信を持てる。間違うはずもない。ルークは、一歩洞窟の中に足を踏み出した。
 「何でそんなに怒ってるんだよ。おれ、何かしたか?」
 「人間にでも、なんでもなっちまえばいいんだ。陸で楽しくやってろよ。昔はぼーっとして、とても人間になんかなれっこなさそうな奴だったのにさ。友達もいなくてぼっちがいいとこで。泳ぎも出来ないくせに船なんか乗って、何度助けてやったと思ってるんだ。ドンくさくてさ、俺がいなきゃ何も出来なかったくせに」
少し腹が立ったが、よく考えると確かにその通りなのだった。ジャスパーがいてくれたから、グレイスがいなくなったあとも調査航海に出られた。それに、聞いているうちに気が付いた。ジャスパーが言っているのは、「過去の」ルークの話なのだ。
 ルークが黙っていると、腹立たしげに海水をたたく音がした。
 「あーもう、どうせお前には言ってることなんて通じないんだ。いつもいつも、俺が何言ったって、どうせまた俺のことも何もかも忘れて、どっか行っちまうんだ。ほら、とっとと帰れよ! 行っちまえ!」
 「行かないよ!」
吃驚して、影が一瞬固まった。
 「どこにもいかない、もう忘れたりしない。その…、ごめんよジャスパー。今のおれになってから今まで、ずっと我慢しててくれたんだよな…」
 「…俺の言葉が、分かる?」
すうっと、黒い影が奥のほうから伸びてきた。ジャスパーの顔が、目の前に近づいてくる。
 「どうなってるんだ?」
 「こっちが聞きたい」
二人は、しばらくじっと、お互いを伺うように睨み合う。
 「…ほんとにジャスパー、お前が喋ってるんだよな?」
 「ああ、俺だよ。」
 「お前、今までずっと、こんなふうに? おれが分からなかっただけで、ずっと答えててくれたのか――?」

 と、その時だった。
 表で、ゴーレムの吠える声がした。波が急に荒くなって来ている。足をすくわれ、流されそうになるルークをジャスパーが捕まえた。ルークが首にしがみつくと、ジャスパーは波をかき分けて岩礁の外へ向かって泳ぎだす。
 何時の間にか、周囲はおびただしい数の黒い海竜たちに取り囲まれていた。ゴーレムが威嚇しているせいで近づけないが、明らかにこちらに敵意を向けている。 
 「これは、一体…」
 「愚かな奴隷の息子よ!」
どこからともなく、高らかな声が響いた。だがそれは、すぐ身近なところから発せられている。ルークは、はっとしてポケットをまさぐった。潮に濡れて青く光る石――、声はそこから聞こえてくる。石が、通訳しているのだ。
 ジャスパーは、歯をむき出して低く唸った。
 「クソ王のヴェリザンド様のお出ましかよ。」
海竜たちの輪の奥に、ひときわ大きな黒い海竜の姿が見えた。洞窟の中にいたときと同じように、周囲に少し小さな海竜たちを従えている。輪が割れて、ヴェリザンドはお供とともにジャスパーの正面までやってきて、ぬっと巨大な首をもたげた。
 「人間どもを洞窟に引き込んだのは誤りだった。よくも先祖の遺骨を辱めてくれたな」
 「あの岩の判押しみたいなやつのことか。洞窟は勝手に崩れてたぜ。下敷きになりかけたのは俺だ」
 「天罰だ。そのままつぶれてしまえば良かったものを!」
ジャスパーはむっとした表情になったが、黙っている。石が変換するジャスパーの声は若者、対するヴェリザンドの声は、威厳に満ちて、人間でいうと中年男性くらいに聞こえた。ふたりは、ルークがそこにいることなど忘れているようだ。
 「しかし問題はそれではない! 天井の崩落だけなら予測していた。自然に任せて朽ちるのは許せた。あの人間たちは、遺骨の一部を持ち去ったのだ!」
 「な、…」
ジャスパーの首にしがみついたままのルークは、ぎょっとした。確かにミゼットたちはあの時、骨をサンプルとして持ち帰りたいと言っていた。だが、岩を削ろうとしたとき天井が落ちて、持ち出しは中止になったはず。そのあとのことはルークもジャスパーも見ていない。ミズハも何も言っていなかった。あるいは、調査の最後で崩れた弾みで欠けた骨の一部を見つけでもして、拾って持ち帰ったのだろうか。
 「そんなの知るか。俺は見てないし。」
 「知らぬとは言わせん。貴様が連れてきた人間たちのしたことだ」
 「つーか、あれは俺の仲間じゃないし。俺の連れは、この首にひっかかってるショボいのと、姫っちだけだよ!」
 「…ふん、あの娘か」
ミズハに言及したとたん、なぜかヴェリザンドは一瞬、ひるんだ。
 「かつてこの西海を統べた海竜王ヴェリサリウスの末裔ともあろう者が、南海の魔女の下僕に成り下がって戻ってくるとはな。だが、あんな小娘に恐れをなす我ではないぞ!」
 「だーかーらー」
ジャスパーは苛立ちながら片方のひれで海水をたたく。
 「俺べつに姫っちを脅しのネタにして、あんたから王位奪いに来たりしてないし! このヒョーロク玉がどうしても連れて行けって言うから渋々引っ張って来てやっただけで、仕事終わったらもう帰るし! だいたい、奴隷の子だとかなんとか言ってたくせに、俺に王の血とか求めるわけ? それおかしくない?」
 「貴様…」
ルークは、このやり取りをあっけにとられて聞いていた。海竜たちは、たまに唸ったり体を動かしたりするだけで、会話をしているような雰囲気はなかった。なのに、今ははっきりと、彼らの唸り声が言葉になって聞こえる。
 これがミズハの言っていた"海の言葉"というやつなのだとしたら、普段ルークが全く気付いていない沈黙の中で、彼らはどれほどの言葉を交わしていたのだろう。それにしても、ジャスパーのよくしゃべること。
 「あの、すいません…」
ルークは、思い切って話に割り込んだ。二頭の海竜が、じろりとルークをにらみつける。
 「なんか今、言葉がわかるみたいなんで、割り込ませてもらいますが」
 「その石だ」
ヴィリザンドは、こともなげに言ってのけ、首をしゃくった。ルークの上着のポケットのあたりから、青い輝きが漏れている。
 「それも、勝手に持ちだしたな。」
 「石…シェムスール人の遺産だとかいう、これですか?」
 「それはもともと、我らが他種との意思の疎通のために持っていたものだ。特に人間どもの言葉の発声はややこしい。海の生き物には、構造上ムリだからな」
 「へえ」
ジャスパーも初耳といった様子で、面白そうな顔をする。「こっちから人間と意思の疎通なんて、はかったことがあったんだ?」
 ヴェリザンドは、人間でいう、眉をしかめるような顔をした。
 「…遠い昔の話だ。遠い遠い、な。そしてそれは誤りであった。今はもう、無用の長物だ。」
 「じゃ一個もらっても別に文句ねーよな」
 「……。」
 「あの、…話を戻します。とりあえず遺骨の件は確認してみます。たぶん手違いだと思うんですが、もし持ち帰ってしまっているなら返却します。それで許してもらえませんか」
 「ふん、人間風情が我と交渉すめつもりか? これだから、人間など」
 「それでいいじゃない」
空から声が降ってきた。翼の音とともに、ミズハが舞い降りてきて、岩礁の上に降り立つ。彼女の周囲を舞う海鳥たちも一緒だ。ヴェリザンドは、一瞬ひるんだ。
 「…魔女め」
 「あたしはミズハだよ!」
ヴェリザンドがミズハを恐れているのは、今や明らかだった。最初に二人が対峙した時に感じたのは、やはり気のせいではなかったのだ。
 「ジャスパーは、あたしの家族の一員なの! 苛めたらだめ。」
 「ふん、いいだろう。ならば、そいつを何処へでも連れて行け。だが、この西の海は決して――」
 「だーからー、こんな狭い海どうでもいいの! 俺は色んな海に行くんだから」
ジャスパーは、お供を連れて去っていく海竜たちにむかって、思い切りあかんべーのような仕草をとった。いや、人間のその仕草とはかけ離れていたのだが、ルークには、何故か分かった。
 「ジャスパー?」
 「…何」
 「お前、意外と口が悪いのな。」
 「ほっとけ」
言うなり、ジャスパーはいきなり首を伸ばし、ルークを放り投げた。
 「うわっ、…」
ゴーレムがそれをキャッチする。帰るぞ、というように首を振り、ジャスパーは波間を桟橋に向けて泳ぎ始めた。ゴーレムの手のひらの上で茫然としているルークの傍にミズハが降りたつ。
 「どしたの? 帰ろうよ」
 「あ、…うん」
ゴーレムがゆっくりと歩き始める。
 「なんか、ジャスパーと話せるなんて思ってなかったから」
 「あたしは、ずっとお喋りしてたよ。」
 「そうだな」
すぐ傍で交わされている会話にも、ジャスパーの呼びかける言葉にも、今までずっと気づいていなかった。想像したことさえなかった。どんなふうに思って、何を望んでいるのかも。


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