<第二章>

竜の棲む海


 ハーヴィ号に戻って、海竜たちとの調査許可の話がついたことを伝えると、ミゼットは大喜びだった。
 「流石ね、依頼して良かった! 本当にありがとう」
 「どうしますか? このまま調査に?」
 「出来れば一度戻りたいの。そろそろ他の職員も戻ってきているはずだから」
ジャスパーが水面から首を出して、一声。
 「ジャスパーも帰りたい、って」
風が冷たくなってきている。雲行きが怪しい。確かに、今から調査に入るよりは、装備を整えてきたほうがいいかもしれない。それから、次に来るときはハーヴィ号ではなく、ジャスパーを連れてこずに済む船のほうがいいだろう。
 「これで依頼は終わりなんですよね」
と、ルーク。今回の目的は調査ではなく、調査補助の依頼だった。化石の調査はそもそもルークの専門外だ。居合わせたところで、手助けが出来るとは思えない。
 「何か別件で、急ぎの司令がある?」
 「いえ」
 「それなら、調査の目処がつくまで居て貰えないかしら。この先も交渉が必要な場面があるかもしれないし、そろそろ年越しでしょう」
 「年越し――」
ミゼットに言われるまで、そんなことを思い出しもしなかった。
 冬至祭が終わり、間もなく年が変わる。大陸に散らばっている調査団とのやり取りが欠かせない”協会”は、年末年始でも無休だが、世間では一定期間はお休みに入る。港や商店街も休業してしまう。
 「急がないなら、少しゆっくりしていかない? ラヴィノーザの町は小さいし、大学は休みだからろくに見るものもないけどね。でも、うちの観測所は毎年、年越しパーティやってるのよ」
 「パーティーって?」
ミズハが食いついた。「宴会みたいなもの?」
 「そうよ。ま、大したことは出来ないんだけど。経費でピザとケーキくらいは買えるわ」
 「いいなあ!」
少女は目を輝かせている。ルークは苦笑した。確かに今は、そう急ぐ用事もない。
 「分かったよ。あとでジョルジュさんに伝えておく。」
 「やったー」
年越しの日までは、あと一週間を切っている。一週間ほど滞在してラヴィノーザを離れれば、ちょうど初漁の頃にフォルティーザの港に帰りつけるはずだ。


 崖上の観測所に戻ってみると、二人の男性職員が戻ってきていた。
 「ああ、所長。お戻りでしたか。そちらは…」
 「フォルテからの援軍よ。首尾よくいったわ、今日からでも調査に入れる。」
 「マジっスか!」
大声を上げてガッツポーズをとるのは、がっちりした体格の若いほう。もう一人は少し小太りだが、こちらも、漁師のような逞しい腕をして、腕にも顎にもゴツゴツした岩のりのような髭が生えている。
 「紹介するわね。この観測所の職員でラスとウィル。もう一人、リアーチェって若い女の子もいるんだけど、いま年末で故郷に戻っててねぇ」
 「よろしく」
 「うほ、女の子だ! 女の子の船員かー」
二人はそれぞれに握手のために手を差し出す。
 「ルークです。こっちはミズハ。」
 「よろしくねー」
静かだった小さな観測所は、一気に賑やかになった。
 「大学の講義は今日で終わりだから、丁度良かったわ。化石の搬出はムリでも、三人いれば正確なデータが取れる」
 「機材の防水、用意します。明日の朝イチでいけるように」
 「ええ、そうして頂戴。ボート降ろして。岩の割れ目の奥だから、船じゃ無理。」
ラスとウィルは、さっそく準備にとりかかる。生き生きとして、嬉しそうだ。
 「おれたち船に戻ってます。何かあったら呼んで下さい」
ここでは、手伝えそうなことはない。

 崖下のハーヴィ号に戻ってみると、ジャスパーは相変わらず船の真下の影に隠れていた。
 桟橋を渡ってくる足音を聞きつけ、呼ぶ前から水面に顔を出す。不機嫌そうだ。
 「なんだよ。早く帰りたいって?」
そうだ、というように潮を吹く。
 「仕方ないだろ。ミズハがパーティーに出てみたいっていうんだし。それに、お前の仲間がお前に襲いかかってくることは、一応は無いんだからさ」
 「あたしのせいにしないでよー」
ジャスパーは、首を振って水面すれすれまで顔を沈めてしまう。
 「…あんなの仲間じゃない、って。」
 「そうか…」
いつ、どうやって知ったのかは分からないが、ジャスパーは、自分が望まれていなかったことを理解しているようだった。衰弱した母親が仲間たちに見殺しにされたことも。その後、人間が助けてくれなければ卵のまま死んでいた。人と共存している、唯一の黒い海竜。彼は群れに戻ることは許されず、故郷にも迎えてくれる家族はいない。
 「心配しなくても、お前の故郷はおれと同じフォルティーザだよ。それに、家族なら、おれがいるじゃないか。な」
ぷいと首を振って、ジャスパーは沈んでいってしまう。だがそれは、嫌だからというよりも、何か照れ隠しのように見えた。
 「…ミズハ、さっき言ってた話だけどさ」
 「なに?」
 「海竜の王様…ジャスパーが弟だって言ったんだよな?」
 「うん。」
少女は頷く。
 「前の王様は年をとってて、嵐で死んだって。雄の子供は今の王様とジャスパーだけ」
 「…なるほど。」
年の離れた異母兄弟。海竜の社会が人間と同じようなものなのだとしたら、ジャスパーは、王権が移譲される丁度悪いタイミングで生まれてきたことになる。ジャスパーの母親は、王権を巡る争いに巻き込まれて死んだようなものだ。彼が故郷や同種属を嫌うのも無理は無い。
 「あとね、あの王様、ルー君のことを知ってた」
 「何?」
 「つい先ごろ、南の海で騒ぎが起きた――とかなんとか。あたしのお母さんと同じだね。近くの海で起きてることがだいたい分かるみたい。それに、海の生き物たちの噂話って伝わるの早いから。」
 「さすがは海竜の王を名乗るだけはある、ってことか。…」
同じ力がジャスパーにもあるのだとしたら、遠く離れた故郷のことや、自分の生い立ちをどこかから知っても、おかしくないのかもしれなかった。
 ミズハは、うーんと大きく伸びをした。
 「ね、ちょっと飛んできてもいい? この海の風、いつもの海とちょっとだけ違う感じなの」
 「ああ。でも、あんまり目立たないようにな」
 「大丈夫だよ、鳥のほうの姿で飛ぶから」
 「えっ…」
ルークが慌てて顔をそらすのを見て、ミズハは笑った。
 「もー、そんな顔しないでよ。船の中に服脱いでいくから!」
 「……。」
このごろ時々、ミズハは分かっていてからかうような言動を見せるようになった。ルークが戸惑ったり、恥ずかしくなったりするのを面白がっているふうでもある。アネットの影響かもしれない。アネットもよく、同じようにしてルークをからかうことがあるからだ。
 ルークは桟橋の端に腰を下ろして、気持ちよさそうに海の上を飛ぶ白い海鳥の姿を眺めていた。風は冷たいが、防寒具の上から肌を刺すほど強くはない。波の合間に、魚を捕る海竜たちの黒い背中がちらほらと見えている。よく似た姿の白い海竜とは違って、彼らは冬でも休眠状態にはならない。
 この辺りの海に、白い海竜はいない。もっと南のほうに住む。
 姿は似ているが、性格も生態も全く異なる、という話は、何度もグレイスから聞いていた。おそらく、全く異なる種族なのだ。白い海竜は海蛇から進化したと言われているが、黒い海竜については未知な点が多く、体の構造にしてもよく分かっていない。あの、壁に埋まった化石は、その謎を解き明かすきっかけになるかもしれないのだ。ミゼットたちが夢中になるのも無理はない。
 背後で、ちゃぷんと音がした。
 「なんだよ」
振り返らなくても、ジャスパーなのは判っている。
 沈黙。
 あるいは、何か話しかけられているのかもしれないが、”海の言葉”はルークには分からない。感じていることや言いたいこと、互いの意志の疎通はできるのだが、人間同士がするような具体的な会話は成り立たないのだ。
 「おれにも、お前の言葉が分かったらいいんだけどな…」
呟いて、ルークが振り返った時にはもう、ジャスパーは船の下に沈んでゆくところだった。

 日が沈み、夜も吹ける頃、月が出た。
 きれいに半分に割ったような半月は海のほうから昇り、天の高いところを通って、陸へと傾いてゆく。…そして、月がまだ沈みきらぬうちに、白く靄に包まれる朝がやって来る。


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