<第二章>

界の王


 目を開けると、大地があった。柔らかな草の感触。青臭い香りを吸い込みながら、ルークは体を起こした。感覚が戻ってくる。振り返ると、すぐ後ろでミズハたちが捕らえてきたフェーブルの本体らしき生き物を見張っていた。
 「さて、こいつをどうするか…だな」
腕組みをするマルドルゥインの傍らでは、いつものサイズに戻ったバルゴスが黒い翼を忙しなく動かしている。
 「さっさと焼いてポイしちゃいましょうよ、マル様。なんか臭いですし」
 「確かに。魚の腐ったような匂いだ」
 「…待ってくれ」
ルークは、立ち上がってその生き物に近づく。目もない、貧弱な手足しか持たないその生き物は、さっきまでの姿からすると可哀想になるくらい小さい。
 「お前は本当に、”冥王フェーブル”なのか?」
もぐもぐと、くぐもった音が口から漏れる。
 「答えろ、話ができるなら。なぜ海竜たちを襲った? それに以前、おれのことも襲おうとしただろう」
 「…海竜たちは」
ひび割れた、喉の潰れたような声が漏れる。
 「海竜たちは海王の子孫だで。ヴェリサリウスの子孫達に復讐すだんだ。長年閉じ込められでだ、当然だ」
 「襲って…どうするつもりだった。全員殺すつもりだったのか」
ぶよぶよとした白い生き物は、醜くにたりと笑った。
 「喰う」
口元に並んだ、鮫のような小さな無数の歯が光る。
 「コア喰う。心臓喰う。んで、おで、また強くなる」
 「…力を取り戻す、ってことか」
 「そだ」
にたにたと笑いながら、フェーブルは嫌な匂いのする息を吐く。ルークは、嫌悪感を抑えながらさらに質問する。
 「お前の住んでいた、あの穴の封印を解いたのは、誰だ」
 「……。」
フェーブルの口元から笑いが消えた。沈黙。
 「正直にいえ。でないと」
マルドルゥインが手をかざす。そこに小さな炎が生まれるのを見たフェーブルは、体を震わせた。
 「……分からない゛」
 「分からない?」
 「恐ろしい力、おでを引き上げた。力奪ったのもそいつ、この世界にいる。おでの世界、突然消された。おでの世界、暗い水の底、死の世界…戻りたい…、ここは眩しい、ここはおでの世界じゃない…」
 「恐ろしい力というのはバージェスのことか?」
マルドルゥインは、一歩踏み出した。
 「貴様はそいつを知ってるのか。言え! 力を奪ったとはどういうことだ。世界を消した? 奴は一体、何を企んで――」
その時だ。
 天がひらめいた。
 はっとして、ミズハが叫ぶ。
 「下がって!」
叫びながら、マルドルゥインとルークに体当たりする。二人とも、ミズハの体に押し倒されるようにして、もんどり打って地面に転がった。冷たい風が頭上すれすれを掠めたのは、ちょうどその瞬間。
 すぐ側で、何かが折れるような鈍い音がした。
 仰向けに倒れこんだルークに見えたのは、空から伸びる白い腕が、フェーブルの体を持ち上げ、虚空へと消えてゆくところ。雲ひとつない青空の、その腕は青い虚空のまっただ中から唐突に生えていた。
 「…っ痛たたた」
後頭部をさすりながら体を起こしたマルドルゥインの体の下で、バルゴスはぺったんこに押しつぶされて目を回している。
 「今のは、一体…」
足元を見た少年は、地面がえぐれているのに気づいて口をつぐんだ。さっきまでフェーブルのいた辺りは大地が草ごと毟り取られ、周囲は真っ黒に焼け爛れている。そして、ぶよぶよした白い生き物の姿は影も形もなくなっている。ほんの一瞬の出来事だった。
 「あの腕が、そうなのか」
ルークは、まだしがみついているミズハの肩に手をやった。
 慎重に周囲の気配を確かめ、もう安全だと分かると、ようやくミズハは肩の力を抜いた。起き上がったマルドルゥインは、きょろきょろとあたりを見回す。
 「奴は…」
 「連れていかれたな。どうやら、あの空の上にいる奴は、こっちの動きを見ていたらしい。」
少年は、赤毛をかきあげながら吐き捨てる。
 「文字通り、高みの見物ってやつだ。気に食わん!」
その通り、ルークだって気に入らない。しかし冥王フェーブルが消えてしまった以上、もうここで出来ることは何もない。
 「…戻ろう。ジャスパーたちが心配だ」
ルークは岬の上から。岩礁にひっかかり、波間で揺れているハーヴィ号を見下ろした。海には、普段通りの静けさが戻りつつある。波間に浮かぶ奇妙な死体も、数日のうちには海底に沈むか、沖合へ流されるかして、掃除屋たちに食べ尽くされてしまうだろう。


 青の洞窟の入り口は、しんと静まり返っていた。
 勝利の余韻もなく、喜びもない。傷ついた仲間を手当する者がいれば、息絶えた亡骸を静かに運ぶ者もいる。冥王とそのしもべたちを退けたとはいえ、海竜たちも大きな犠牲を払ったのだ。
 ハーヴィ号が洞窟に入ってゆくのを止めようとする者は、誰もいなかった。ジャスパーに引かれた船が玉座の控える大広間のような空間に入った時だけ、一頭の大きな海竜が咎めるように近づいてきたが、玉座の上からの一声で、静かに引いていった。
 ヴェリザンドは、体じゅうから血を流し、岩に首をもたせかけていた。傷が深いことは、ひと目見ただけで分かった。傷口の皮膚は赤黒くめくれあがり、おつきの海竜たちが血止めの薬草を懸命に咀嚼し、次々に口で塗りこんでいる。
 その姿を見て、ジャスパーは一瞬、ショックを受けたようだった。だが、ヴェリザンドが何か言うと、すぐにむっとしたいつもの表情になる。
 「何だって?」
 「じかに聞いてみたほうがいいと思うよ」
ミズハに言われて、ルークは翻訳の力を持つシェムスールの石を海水につけた。青白い輝きとともに、二人の話し声が流れだしてくる。
 「無様な姿だな。もうちょっとマシな戦い方はなかったのかよ?」
ジャスパーの声だ。
 「あんなムチャな戦いを仕掛けて、もしルークたちが手助けに来てくれなかったら、どうするつもりだったんだよ。」
 「勝算のない戦いなどせぬ」
ヴェリザンドの声は、いつもよりは大人しかったが、傷を負っていても威厳を保ち続けていた。
 「我らが負けるなどあり得ん。たとえ犠牲は大きかろうとも」
 「だからって!」
 「喧嘩は後にして、こっちの話を先に聞いてもらえないかな」
ルークが、二人の間に割って入る。以前はルークのことも「人間め」などと呼んであからさまに見下していたヴェリザンドだったが、今回は素直に口を閉ざした。
 「フェーブルは死んだ。…天から伸びた腕に連れ去られた。おそらく、あれが神王バージェスだと思う」
 「そしてお前たちは無事だった」
黒い瞳が、きらきらと輝く。「思ったとおり。そうだろうとも。お前たちならば、あの手をかわすと思っていた」
 「…どういうことだ?」
 「そろそろ全部話してくれてもいいんじゃねぇのか」
ジャスパーは、じろりと台座の上の傷ついた海竜王を睨みつけた。
 「あんたは何を知ってる? 思わせぶりな言葉で俺たちをまんまと引っ張り込みやがって。何が勝ち目のない戦いはしない、だ。俺たちが来ることを計算に入れた上での”勝ち目”だろう! なら、俺たちは見返りを要求してもいいはずだよな? バージェスとかいう奴について知ってること、あらいざらい喋ってもらうぜ!」
 「――良かろう。西の海の果てまで行き、成り行きとはいえ王家の秘技を手にした貴様には、曲りなりにもその権利はある。……」
岩の上で頭の位置を変え、海竜たちの王は、傷の手当をするおつきのものたちに、しばし下がっているよう命じた。ヴェリザンドが一つ息を吐くと、周囲にうっすらとした霧の膜のようなものが生まれ、洞窟に反響する音がすべて消えた。足元に打ち付ける波のかすかな音さえ聞こえない。これで、会話の聞こえる範囲にはヴェリザンドとジャスパー、ハーヴィ号の面々しかいなくなった。
 「いかにも、バージェスだ。姿も正体も知らんのは事実だ。だが封印を解いたのは奴だろう。そうでなければ、我が感知できぬことなどあり得んからな」
 「ほう、それを知っていて、けしかけたのか」
マルドルゥインは、にやりと笑って腕組みをする。
 「それは否定せん」
 「フェーブルを連れていった、あの腕は?」
 「命を奪うもの」
静かな声でそう割って入ったのは、ミズハだった。
 「…あれは、命を奪うもの」
 「そうだ。食われたのだ。おそらくな。――奴は、フェーブルと我を戦わせ、負けたほう、あわよくば両方を食らうつもりでいた」
 「何のために…」
 「世界の王となるためだ」
ジャスパーは、ぽかんと口を開けた。
 「それって、つまり―― 世界征服、ってやつか? おいおいおい」
長い尾で水面を叩く
 「何だソレ、本気でそんなのやろうとしてる奴が今時いんのかよ? 冗談抜きで? 子供の空想じゃあるまいし」
 「だが奴にはそれが出来る」
ヴェリザンドは笑っていない。静かな眼差しはジャスパーを通り過ぎ、ルークとマルドルゥインに留められた。
 「霧の向こう、禁断の海を越えて来た者よ。あの霧がなぜ禁断と呼ばれているか教えてやろう。――その向こう側へ行った者は、”二度と戻って来られない”からだ。その霧の先は確かに世界の果て、――異界へと通じていた」
 「異界…?」
 「フェーブルの住まう穴を、我らは”冥界の穴”と呼んでいた。そして我の知らぬ者たちよ、お前たちは異界からこの世界へやって来たのだ。恐らく、魔界と呼ばれていた場所からな」
 「ちょっと待って下さい」
ルークは慌てた。「あそこは、ただの海です。確かに普通の船で越えるのは難しいけど――向こう側にはかつては人間だって住んでいたし、こちら側と同じように、木や草があって、空と大地がある。なのに、異界って…」
 「成る程、合点がいったぞ」
 「えっ?」
マルドルゥインは、薄い笑みを口元に浮かべている。
 「さっき冥王のやつが言っていただろう。ここは自分の世界じゃないとか、突然連れだされたとか。もう忘れたのか?」
 「いや、覚えてるよ。でも、それがどう関係して――」
 「世界は変わったのだ。”書き換えられた”と言うべきか。」
 「ど、どういうことなのですかマル様」
 「月が消え、星天が書き換わった日のことだ!」
かすかに苛立った口調で言いながら、少年は、忙しく羽ばたく火トカゲの脇をすり抜けて歩き出す。
 「何が起きたのか、今ようやく分かったぞ。奴は世界に干渉したのだ。世界の果てが果てでなくなったのなら、その先にあるものは何だ。かつては無かった世界ではないのか」
 「”平らなテーブルだった世界は丸くなり、三つあった月が一つになり、冥界と妖精界が地上と統合され”―― 冥界と妖精界が統合され…」
 「そして我らの住む世界も、だ」
ぴたりと足を止め、マルドルゥインは赤く燃える瞳をヴェリザンドに向けた。
 「そういうことなのだな?」
海竜の王は、満足気に頷いた。
 「全ての世界を支配するために。」
ルークは、唖然としたまま言葉もなかった。世界を繋ぐ? 書き換える? そんなことがもし本当にひとつの存在によって引き起こされたのだとしたら、その存在は、確かに世界の全てを支配出来る。
 ――神王バージェスとは、それほどの力を持つ存在なのか。
 「千年前、最初の異変は海で起こったという」
ヴェリザンドは語りだす。半分目を閉じ、まるでその光景を思い浮かべているようだ。
 「気温が上昇して水面が上がり、多くの陸が海に沈みはじめた。千年前だ。陸に住む種族の多くが故郷を失い、動けないものは死に絶えた…。海の流れが変わり、海に住まう精霊たちも死んだ。大雨が降り、山が崩れ、山の生き物たちの死体が海まで流れ込んだ。全てが変わっていった。変わらぬものなど何一つ無かった。そして奴は、――すべての世界に手を伸ばしたのだ。」
目を開き、静かに一言。
 「力を持つ全ての存在を喰らい、自らの力とするためにな。」
 「……。」
誰も、声を発しなかった。神魔戦争の真実を知ろうとはしていたが、この内容は予想していなかった。
 ルークは、ちらとマルドルゥインのほうを見た。 
 少年は、沈んだ表情で爪を噛んでいる。無理もない。国を滅した仇だとしても、敵に回してどうにか出来る相手ではない。ルークも同じだ。ただ途方に暮れていた。
 その時、澄んだ少女の声がした。
 「あいつは今も、他の生命を奪おうとしてる」
全員が、ミズハのほうを見た。
 「さっき見たとおりだよ。あいつまだ、諦めてない。また、誰かが狙われる――そうでしょ?」
 「力あるものから順に食われていく」
ヴェリザンドは口元を歪める。
 「どういうわけか、奴は海の魔女だけは苦手なようだがな。」
 「おれたちも、それにあなたも、狙われるかもしれないってことか。あの白い手に?」
 「心配してもらう必要はない。ここにいれば、奴も手出しは出来ん。天空王とかいう名の通り、奴は空から見える場所しか手を伸ばせん。フェーブルを使ったのは、我をここから誘き出すためでもあったのだろう…」
ヴェリザンドは、ひとつ息を吐いた。周囲を覆っていた音を消す水蒸気の膜が消えた。洞窟の壁に打ち寄せる波、海竜たちのざわめき、天井から滴り落ちる水滴、音が戻ってくる。
 「――我の知っている話は、これで全てだ。お前たちがこの先、何を見、どうするかは我の知るところではない。」
ヴェリザンドの周りに、傷の手当の続きをしようと、おつきの海竜たちが戻ってくる。ジャスパーは、ハーヴィ号の下に体を潜り込ませようとした。
 「待て。」
立ち去りかける船を、ヴェリザンドが呼び止める。
 「褒美を取らせよう。」
 「は? 褒美? そんなもん…」
海竜の王は、口を開いた。
 「受け取れ、この、一番奥の牙にかかっているものだ」
ミズハが翼を広げ、ヴェリザンドの側に降り立った。
  「どれ? これかな。」
口の中から取り上げたのは、大人の頭がすっぽり入りそうな大きさの銀の輪だった。波のような奇妙な模様が刻まれているほか、飾り気もない。口を閉じて、ヴェリザンドは言った。
 「ジャスパーに渡せ。使い方はそのうち分かるだろう」
 「わかった」
ミズハが戻ってくると、ジャスパーはあからさまに嫌そうな顔をした。
 「何だよ、それ。要らないよ」
 「そんなこと言わない。せっかくくれるんだから、大事にしないと。はい、口開けて」
 「えー…」
 「黙って受け取っとけよ。」
甲板の上からルークも言う。「落とすなよ」
 「ちぇっ。」
渋々口を開き、ミズハが輪を奥の歯にかけるのに任せている。輪が歯にはめられると、ジャスパーは居住まい悪そうに口をもぐもぐさせ、黙って船を動かし始めた。それを見届けて、ヴェリザンドはゆっくりと頭を地面に置いて目を閉じた。
 「おい!」
洞窟の中に、ジャスパーの声が響く。半分目を開けると、広間の入り口のあたりで首をもたげ、ジャスパーが叫んでいた。
 「くたばるんじゃねーぞ。王様なんてつまんねー役目は、てめーしか出来ないんだからな。じゃあな!」
それだけ言うと、若い海竜は再び海中に姿を消した。船の作る波の道が、洞窟の入口の方へ、ゆっくりと遠ざかってゆく。ヴェリザンドはにやりと笑い、――苦痛に歪む表情を隠すように、再び目を閉じた。
 岩の隙間から降る光が、揺れる海面に反射する。

 世界がひとつになって以来、禁断の海を、世界の境界線を越えて、領海の外まで旅した海竜はジャスパーをおいて他には居ない。海王ヴェリサリウスの子孫たちの誰ひとりとして、異界へ行こうと試みた者すら現れなかった――。


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