<第二章>

界の王


 かすかな水音に目を覚ましたのは、夜半を過ぎた頃だろうか。
 観測所で泊まっていくように、というリアーチェの誘いを断り船で眠っていたルークは、硬い寝台から起き上がって窓の外を見た。月の表面を雲が流れ、波に反射する光が明滅する。その波間に、黒っぽいものが浮き沈みしている。――まさか、鮫男だろうか。
 警戒しながらそっとデッキのほうを覗くと、桟橋の上に長々と寝そべっているものが見えた。ほっとするとともに、拍子抜けした。
 「なんだ、ジャスパーか」
甲板からはしごを伝って桟橋に降り、近づいてゆくと、ジャスパーは「もう勘弁」と言いたげな顔で片目だけを開け、すぐに閉じた。
 「ずいぶん疲れてるみたいだな。で? 特訓の成果は」
ちょっと目を開け、ジャスパーは面倒くさそうに鼻息を海面にかけた。小さな波が起こり、ざわざわと海が割れ…かけたように見えたが、すぐに本来の波にかき消されてしまう。
 「…こんな感じ?」
海水につけた石が青白く明滅し、言葉を翻訳する。「あーもう疲れた。寝るから、話は明日にしてくれよ…」
 「わかったよ。」
立ち上がりかけるルークの後ろから、声が追いかけてくる。
 「あ、言い忘れてた。攻めこむのは明朝、夜明けとともにだそうだ」
振り返ると、ジャスパーはだらしなく頭を桟橋に載せたまま、もう眠りに落ちかかっている。
 「だから一眠りしたら、もう行かなきゃならないんだ。今のうち、なんか言っとくことって…ふああ」
 「随分、焦ってるんだな」
 「もう何人も死んだらしいからな」
 「お前も協力するんだな」
 「ん…ま、最初はどうすっかなーって感じだったんだけど、母親が死にかけてる側で、ぴーぴー泣いてるちっさいのが居てさ。なんていうか、…昔の自分みたいで、見てられなかったんだ。クソ王に協力してやんのは癪だし、あいつらなんて別に仲間だと思っちゃいないけどさ、けど…」
 「……。」
波が、黒い巨体を静かに洗っている。
 「おれも行くよ、ジャスパー。構わないだろ」
眠りに落ちかかりながら、言葉にならない声でもぐもぐ言い、ジャスパーはそのまま寝息を立て始めた。よっぽど疲れていたのだろう。
 ルークは桟橋の端に立って、月明かりの照らしだす海を眺めた。たった一匹でも、海中では海竜をも凌駕する破壊力を持つ異形の怪物。たとえ海王の力を受け継いでいたとしても、ヴェリザンドに勝算はあるのだろうか。


 夜明け前、――その時間に目覚めていて、偶然にも海岸沿いにいた者は、白み始めた水平線に黒っぽいものがびっしりと浮かんでいるのを見たはずだ。それは、海面を埋め尽くすような海竜の群れだった。潮を拭きあげているもの、長い首を持ち上げて吠えるもの。近海から集まってきた海竜たちだった。彼らの起こす騒々しい音は、崖の上の観測所まで届いていた。
 目を覚ましたルークが船のデッキに出てくると同時に、ミズハとマルドルゥインも観測所から桟橋まで降りてきた。
 「これは何の騒ぎだ。それとも祭りか?」
少年は、なぜか楽しそうだ。
 「海竜たちが出陣するらしい。冥王とやらを倒しに」
振り返ると、ジャスパーも大あくびをしながら目覚めたところだった。うるさいなあ、とでも言いたげで、まだ眠り足りない顔をしている。
 「無論、余も付き合うぞ」
 「えっ、マル君も?」
驚いた声を上げたのはミズハだ。
 「何だ、その意外そうな顔は。こんな祭りに参加しない手はなかろう。この炎の魔神がついてやるのだ、ありがたく思えよ。」
 「戦力は多いに越したことはないと思うけど、…その」
ルークは、頬をかいた。この少年の力といえば、これまで見てきたものは、小さな炎を浮かべるとか、熱風を起こすくらい。
 「なんだ、その顔は。まさか余の力を侮っておらんだろうな」
 「い、いや。…泳げるのかなって。万が一、海に落ちたりしたら…」
 「そこは心配には及びませぬ」
なぜかバルゴスが胸を張る。
 「マル様が海に落ちた暁には、それがしが責任持って引っ張りあげますゆえ!」
 「…つまり泳げないんだな。」
 「泳げないわけではない」
少年も、なぜか胸を張る。
 「泳ぎという技術は、受け継いでおらんだけだ!」
 「…はあ。」
とはいえ、泳げないのはルークも同じだ。
 だが、果たして勝ち目があるだろうか。以前、鮫男をとらえようとした時は、ジャスパーが重い傷を負い、船も航海できないほど損傷した。鮫男の鮫と牙は、鉄板に覆われた船体ですら易易と切り裂ける。海に潜られてしまえば、容易に攻撃は出来ない。
 ルークのそんな不安をよそに、船は動き出す。ジャスパーは、ハーヴィ号を引いて海竜たちの輪の中へ向かってゆく。朝日が水平線に達し、東の空に光があふれる。金色に輝く波の合間に、ヴェリザンドはおつきを従えて待っていた。
 少し離れたところで、ジャスパーが泳ぐのをやめる。打ち寄せる波が黄金色の飛沫となり、無言で向き合う二頭の海竜たちの間に降り注いだ。
 「…この船も連れていくのか、って聞いてる」
ミズハが通訳する。ヴェリザンドは、船のほうに向き直った。
 「”たとえ奴らに食われかけていても、助けてやる余裕はない。覚悟はいいか?” って」
 「ああ。」
ルークは、頷いた。「ジャスパーだけ行かせるわけには、いかないからな。」
 「ふふん、余の力を思い知らせてくれるぞ」
 「――みんな、覚悟はいいよ」
ミズハが答えると、ヴェリザンドは口の端を軽く持ち上げ、何か言ったようだった。
 「言ったでしょ」
少女は、腕を背中のほうに回しながら、巨体を見上げて言う。
 「ジャスパーは、あたしの大切な家族。この海があなたのものでもいい。誰がどの海の支配者かなんて関係ない。あたしは行くよ」
小さく唸って、ヴェリザンドは左右の海竜たちに向かって合図した。先頭を行く海竜が長く首をもたげ、甲高い鳴き声を上げる。それが合図だった。
 群れが動き始める。何百、いや、千を越す数の海竜たちが、揃って同じ方向へと。ハーヴィ号もまた、その流れの中に巻き込まれてゆく。夥しい数の海竜たちの動きに、海の流れが変わるほどだ。
 「…これが、ぜんぶ海竜なのか」
これだけの数の海竜たちが、すべて海竜の王の支配下にある。ヴェリザンドの威光は絶大だ。ルークは、群れの中でもひときわ目立つ、黒い巨体を見やった。
 波間からジャスパーが顔帆出す。
 「”気に食わない奴だけど、王サマとしちゃあ、まぁ、悪くないらしい”って」
 「…そうなんだろうな。でなきゃ、血筋だけでこれだけの数が従うわけない」
 「ふん。海竜の王、面白いではないか」
マルドルゥインは、ゆっぱり悔しそうだ。「かつては、余とて…。」
 群れは、洞窟から西へ進む。海に突き出す崖の抉れた場所にたどり着いた時、海の流れが変わった。
 「風の感じ… 変わったね」
ミズハが呟く。確かに、さっきまでに比べて風が冷たく感じられる。北の海と交じり合う場所へ到着したのだ。ルークは、方角と岸の形を地図で確かめた。
 「あれが半島。先にあるのが鯨岬だと思う」
ここまでは何もなかった。問題は、ここからだ。
 「ジャスパー」
呼びかけると。水面下から黒い頭が浮かび上がってくる。「あと、どのくらいで着く?」
 首を振って、ジャスパーは隣の海竜に何か話しかけている。
 「…もうすぐだ、って。ヴェリザンドさんは、静かすぎるのを気にしてる。でも、場所なら、あたしも分かるよ。あそこ」
と、指差す方向には、かすかに灰色の風が渦を巻いているような場所がある。
 「いやな気配。それに、あそこから声がする。こっちを待ってるみたい」
 「余も感じるぞ」
マルドルゥインは腕組みし、にやりと笑う。
 「冥王だとか言っていたな。なかなかによい名前ではないか、この、濃厚な死の気配。魚肉の腐ったような匂いで鼻がひん曲がりそうだぞ」
 「匂い…?」
 「見て」
行く手に、海面が白く濁っている場所がある。そこには、大小様々な魚の死体が一塊になって浮いている。濁った目を空に向け、一匹としてまともな形を残しているものはいない。確かに、ひどい匂いだ。この辺り一帯の魚すべて根こそぎ死に絶えたかと思うほどの夥しい死体が、海を埋め尽くしている。
 「こいつは…ひどいな」
袖口で鼻を抑えながら、ルークは顔をしかめた。
 「冥王とかいうのがやったのか?」
 「分からんが、そいつが海を愛でる良き存在でないのは確かなようだな。」
遠くから、幾重にも重なるように高い声が響き渡る。海竜の群れが散らばり始めている。ジャスパーは一瞬、動きを止める。と、脇に近づいてきた海竜が何か囁いた。ジャスパーは、振り返って何か言いたげな顔をした。
 「どうした?」
 「行かなきゃだめみたい。ジャスパーと、ヴェリザンドさんで、海底への入り口をこじ開けるから…って」
ジャスパーは、小さく頷く。
 「海が割れるから、少し離れてたほうがいいって。」
近づいてきた別の海竜が、船の下に潜り込み、ハーヴィ号を岸のほうへ動かし始める。海竜たちは、一点を取り囲むようにして集まっていた。
 「岸までつけてくれ。どこか岩礁でもいい」
ルークが言うと、船を動かしている海竜は、言われた通り岬の手前にある岩礁地帯まで船を運んだ。ルークは船から岩に飛び移り、感触を確かめた。
 「固いけど、上々だ」
 「何をする気だ?」
と、マルドルゥイン。
 「こうする」
ルークの手のひらから送り込まれた力が、岩に染み渡ってゆく。やがて岩は動き始め、波の下に隠れていた大きな欠片がむくむくと起き上ってくる。褐色の岩で出来たゴーレムはルークを肩に載せ、ふくらはぎの辺りまで波に浸かりながら、悠々とその場に立っている。
 「ほう!」
少年は嬉しそうに目を輝かせる。「そういえば、貴様は仮初の命生み出す巨人の長だったな。」
 「乗るか?」
 「いや、構わん。」
首を振ると、マルドルゥインはかたわらに浮かぶバルゴスをちらと見た。「必要があれば余も飛んでみせる。だが、今はまだその時ではないようだな。」
沖合では、集まった海竜たちが戦の始まりを告げる咆哮を上げていた。もたげられた長い首は森のよう、低く、高く、重なりあって響き渡る声は、まるで音楽のようだ。
 二頭の海竜が、その中心にいた。視線で合図しあい、大きく息を吸い込むと、力を合わせて海に向かって念じる。ビリビリと空気を震わすような衝撃。眉をしかめたミズハは、さっと背に輝く翼を現し、空に舞い上がる。大きな波がハーヴィ号めがけて押し寄せてくる。ルークの乗るゴーレムは、間一髪、波が船をさらってひっくり返す前に宙に持ち上げた。それでも、かなりの衝撃があった。胸まで波に洗われながら、ゴーレムは僅かによろめいた。ルークは、振り落とされないよう岩にしがみついているのでやっとだ。
 「すごい波だな」
 「海が割れるよ」
ミズハが指差す方向、海竜たちの輪の中で、海が割れ、水が引いてゆく。その中から白っぽい煙のようなものが立ち上る。あらわになってゆく海底には、丸く並んだ灰色の岩があった。冥界への穴、海竜たちがそう呼んでいたものだ。
 と、海が揺れた。
 ヴェリザンドが一声吠え、穴の底を睨みつける。沸き上がってくる何か。穴の縁にゴポゴポと濁った泡が沸き立ったかと思うと、何かが勢い良く飛び出してくる。
 鮫男たちだ。
 手足の生えた鮫のような姿をしたそれらは、奇声を発しながら海竜たちに向かって飛びかかってゆく。戦いが始まったのだ。首に絡みついた鮫男を振り落とそうと、海面に力いっぱい叩きつける者。仲間の背中に噛み付いた鮫男に食らいついて引き剥がすもの。血が飛び散り、皮膚やウロコが舞う。辺りは騒然となった。
 ゴーレムの上からその様子を見守っていたルークは、ヴェリザンドとジャスパーだけは、まだ動こうとしないのに気がついた。割れた海の底を見下ろしたまま、何かを待っている。
 まだ、何かがいる。
 「冥王、フェーブル…か」
鮫男たちの親玉というべき存在。それは、まだ穴の中にいる。
 「なんだ、期待していたのに親玉は出てこんのか」
 「みたいだな、…って」
振り返ったルークは、真っ赤に燃え上がる生き物が浮いているのに気づいて思わずぽかんとなった。真っ赤な空飛ぶトカゲが、背中にマルドルゥインを乗せて自らの翼に炎を纏いながら羽ばたいている。
 「えっと、…まさか、それ」
 「どうだ、驚いただろう! これが、それがしの真の姿なのだ。」
にやりと笑う顔はいつもの姿に比べてずいぶん凄みがあるが、口調は確かにバルゴスだ。
 「もっとも、この姿になれるようになったのはつい最近というか、貴様らが指輪を取り戻してくれたお陰というか…あいたっ」
背中のマルドルゥインがお喋りな従者の頭を思い切り殴りつけたのだ。
 「ふん、だが余の力はこんなものではない。ゆけ、バルゴス」
 「ははっ」
 「っておい、何処へーー」
熱の尾をひきながら、炎の翼を持つサラマンダーは一直線に海中の穴へと向かってゆく。
 「ミズハ、フォロー頼む」
 「うん」
ジャスパーは顔を上げ、空から近づいてくるマルドルゥインとミズハを見た。
 「はっはっは、苦戦しているようだな!」
穴の上を旋回しながら、マルドルゥインは胸を張った。
 「その中にいる奴をあぶり出せばいいのだろう? 余が手助けしてやる」
言うなり、少年は首に下げた指輪をはめ、手を空中に掲げた。何やらつぶやくと空中に炎が現れ、一気に大人の頭ほどの大きさまで膨れ上がる。
 「いくつほしい? それとも、もっと大きくか? ほら!」
楽しげに笑いながら、少年は大小様々な炎の球を生み出し、次々と穴の中に投げ込んでゆく。海の底のほうで何かが蠢き、燻るような匂いがしてきた。
 マルドルゥインは、ミズハのほうを振り返る。
 「見ているだけではつまらんぞ。この中に何がいるか見たいのだ。手伝え」
 「わかった…」
くるりと服の裾を翻すと、ミズハは穴の反対側、マルドルゥインと向き合うあたりに移動した。掲げた腕の上に白い輝きに包まれた鳥たちが生まれたかと思うと、その数は次第に増してゆく。
 「行け!」
腕を振り下ろすと、白い群れが一斉に穴の中へ突入していく。岩と何かがこすれるような凄まじい音がしたかと思うと、灰色の何かが穴の縁までせり上がってきた。
 「見えた!」
バルゴスが羽ばたきながら、鼻から炎の息を吐く。「これは、でかいですぞ」
 「いいじゃないか。面白くなってきた」
笑いながら、マルドルゥインは真っ赤な髪を潮風に散らすまま、両手を頭上高く掲げた。その手に、特大の炎の玉が生まれる。
 「さあ、もったいぶらずに、さっさと姿を見せろ!」
投げ落とした炎がはじけた。我慢できなくなったのだろう。灰色の巨体が穴の奥から這い出してきた。ミズハの鳥たちにまとわりつかれ、頭の先が少し焦げているが、それにしても

 巨大だ。

 あまりの巨大さに、海竜たちですら一瞬、動きを止めたほど。あの中から這い出してきたそれは、気だるげに頭を振ると、大きな口を開いてよだれを垂らした。人間にも似ているが異様にひょろ長い腕。ウロコのない、灰色のたるんだ皮膚。黄色く濁った目らしきものは体の側面にそれぞれ八つずつ並んでいる。
 穴の底から立ち上がったそれは、周囲をじろりと睥睨すると、掠れた声で笑った。―ーいや、笑うような鳴き声、かもしれない。周囲に散っていた鮫男たちが同じ声で答える。それが合図だった。
 突然、一番外側にいた若い海竜が悲鳴を上げ、尾を振り上げた。尾の先に鮫男が噛み付いている。見れば、海竜たちの群れの外側で、おびただしい数の白っぽい頭が生身に見え隠れしている。
 総攻撃を待っていたのは、冥王フェーブルのほうだった。海竜たちは取り囲まれてしまったのだ。
 ヴェリザンドが吠える。ミズハは、ゴーレムとともに近づいてくるルークに向かって叫んだ。
 「こいつを抑えて! 逃げられたら、狙えないっ」
海の中へ滑り込もうとする巨大なフェーブルの尾を、ゴーレムがしっかと掴む。ぬるぬるした皮膚は掴みづらく、まるで海蛇のようだ。
 「マル君、頭を狙って!」
 「言われなくてもそうするとも!」
ヴェリザンドが突進していく。少し遅れて、ジャスパーも続いた。配下の鮫男たちは他の海竜に任せ、親玉を叩こうというのだ。だが、手足を持つウナギのような形をした冥王のほうも、ただ攻撃されるままではない。ミズハの放った鳥たちを水の中に沈んでかわし、空中から近づいてくるバルゴスめがけて海水を跳ね上げる。
 「うおおっ、と」
空中で急ブレーキをかけたバルゴスの体が傾き、マルドルゥインがずり落ちそうになる。
 「こら、何をしている! 気をつけろ」
 「すいませ…」
空中に長い腕が伸びる。直につかもうというのだ。
 ジャスパーが思い切り体当たりしたお陰で、指は虚しく宙をかき、バルゴスは大慌てで高度を上げる。
 「この!」
マルドルゥインの放った炎がフェーブルの腕を焼く。うめき声を上げながら、巨体はゴーレムに掴まれている尾を残して水の中へと消えた。この頃には、既に誰もが悟っていた。海の底に住む生き物にとって、最大の弱点は火なのだ。フェーブルは、この場にいる誰よりも、マルドルゥインを恐れている。認めざるをえない。
 「マル、頼む。浮かんできたところで狙ってくれ。おれたちがサポートする」
 「よいぞ。貴様ら、余の偉大さがようやくわかってきたか!」」
マルは上機嫌だ。
 「よかろう、大盤振る舞いだ。ははは、燃えろ! 燃えろー」
少年の放つ火は、岩礫のように、槍のように、自在に空を飛んで次々と鮫男に命中していく。海面に浮かび上がってきたフェーブルも、その様子を見て大慌てで海中に頭を沈めた。逃すまいと、ジャスパーが食らいつき、海が割れて大きな水しぶきが上がった。そこへマルドルゥインの放った炎がぶつかり、一瞬にして蒸発した海水が煙幕のように漂う。
 「…凄まじい力だな」
ルークは舌を巻いた。バルゴスの背にまたがる少年は、疲れも見せず、無制限に炎を生み出し続けている。燃え盛る炎を自在にあやつるその姿は、確かに、「魔神」の片鱗を感じさせる。ミズハの力もそうだが、この少年の炎も、使い次第では恐ろしいものとなりうる。
 (けど、それは…おれも、同じか)
ふと、破壊されたヴィレノーザの街を思い出して、ルークは自嘲した。ジャスパーも含め、ハーヴィ号の乗員は今や、誰もみな、人並み外れた力を秘めた「わけあり」な者ばかりになってしまった。
 ヴェリザンドは鋭く吠えながら、周囲で戦っている海竜たちを鼓舞している。上から見る海は鮫男と海竜たち、双方の流す血で赤黒く染まっている。海の中で繰り広げられている戦いは見えず、どちらが優勢なのかもわからない。ゴーレムは黙々と、足に噛み付いてくる鮫男たちを捕まえては握りつぶしている。ゴーレムの進む後ろには、砕かれた白っぽい残骸が点々と浮かんでいる。それは愉快な光景ではなかったが、自分自身の手を使わずに済むだけ気が楽だ。ミズハは、フェーブルを牽制しながら、劣勢な海竜たちの援護もしている。彼女の生み出す白い鳥たちは、戦場となっている海のあちこちを飛び交っている。遠くから見ると、カモメの群れが魚の死骸をついばむために集まって来たように見えるだろう。
 思うように動けない冥王フェーブルは、じりじりしていた。体の側面にある十六の目は忙しなく動きながら、最も隙のある相手を見つけようとしていた。炎に包まれたサラマンダーはうまくない。動き回る白い鳥も、硬そうな岩の生き物も簡単には組み敷けそうもない。ならば――。
 フェーブルは頭を海中深く沈めたかと思うと、隙を突いてヴェリザンドに真下から飛びかかった。その体を咥えると、空中高く持ち上げる。
 「マル、待て!」
ルークは、はっとして、今まさに炎を放とうとしているマルドルゥインの前にゴーレムを割りこませた。その弾みでフェーブルの尾を締め付けていたゴーレム腕がゆるむ。いまだとばかり、フェーブルは長い尾を打ち付けてゴーレムを突き倒し、海中へと逃れる。海に投げ出されたルークは必死で藻掻いた。急降下してきたミズハが、沈みかけていたルークの腕を間一髪で掴んで空中に持ち上げる。
 「大丈夫? ルー君」
 「ごめん、…それより、奴は?」
ジャスパーが何か叫んでいる。その声に呼応するように、周囲の海竜たちが集まってきた。自由になったフェーブルは、ヴェリザンドを加えたまま海中に姿を消した。そのフェーブルを逃がすな、とでも叫んでいるのか。
 岩のゴーレムは膝を砕かれ、半ば海中に没している。動きの鈍い岩の人形では、うまくフェーブルを捕まえらない。それに、砕かれてしまってはおしまいだ。ならば。
 「いったん岸へ戻る?」
 「ああ、頼む」
ミズハは、鯨岬の上にルークを下ろした。
 「ありがとう、ここでいい。行ってジャスパーたちを」
 「うん」
ミズハは翼を広げると、一直線に海竜たちのもとへ飛んでいく。
 ルークは、一つ息をついて気持ちを落ち着けると、静かに目を閉じた。岬の上を吹きぬける風が頬を撫でる感覚が、次第に遠くなってゆく。
 そして再び目を開けた時、眼下には、敵味方入り乱れて波立つ赤黒い海があった。
 巨人は、一声、天に向かって長々と吠えた。その声に、海竜たちも、冥王のしもべたちも一瞬動きを止め、振り返る。影のように暗く、半透明の体をしたそれは、波を蹴立てて乱戦のさなかへ突進してくる。どちらの味方かは、確かめるまでもなかった。
 乱舞する白い鳥の中心で、ミズハが叫ぶ。
 「ルー君、ここ!」
答えるように吠え、巨人は懐中に拳をつっこみ、灰色の鮫の尾を掴んで力任せに水面まで引きずり出す。口には、ヴェリザンドがまだ、がっちりと咥え込まれたままだ。ヴェリザンドは呻きながら、拘束を解こうともがいている。ルークは両手でフェーブルの顎をつかむと、力任せに口をこじ開けた。巨人の怪力に、フェーブルの顎が奇妙な音をたてて外れた。ヴェリザンドの体が海に落ち、赤い泡が周囲に浮かび上がる。
 おつきの海竜たちが、王の沈んだ場所へ競い合って突進していった。フェーブルはというと、上体を海の上に晒したまま、巨人の体に尾を打ち付けながらもがき、逃げ出そうと試みている。
 と、突然その体が燃え上がった。フェーブルの口から苦しみの絶叫が漏れた。
 サラマンダーに乗ったマルドルゥインが、にやりと笑いながら通りすぎてゆく。業火に絡みつかれた冥王の体からは、皮膚の漕げるような嫌な匂いとともにどす黒い煙が立ち上る。熱の中でのたうちまわりながら、フェーブルの動きは、次第に緩慢になっていった。
 海竜たちが勝利の雄叫びを上げる。
 見れば、フェーブルの手下の鮫男たちは、あらかた片付けられていた。黒焦げになっているもの、海鳥たちに引き裂かれて細切れとなっているもの、海竜たちに噛み砕かれたもの。戦いが終わり、辺りは静寂に包まれつつあった。
 ぼちゃん、と音がしたのに気づいて、ルークは手元を見下ろした。燃え尽きようとしている黒焦げの体から何かが滑り落ちたのだ。ミズハが舞い降りてくる。鳥たちを使って、波間から何かを拾い上げる。
 それは、奇妙な生き物だった。白っぽく、背中のあたりからは髪の毛ともヒレともつかない長いものが伸び、水かきの張った手足のようなものがある。背を丸めた小さな老人のようにも見えるが、顔のあるべきところには、尖った歯の並ぶ大きな口だけしかない。
 「…何これ」
 「さて。察するに、本体だろう」
羽ばたくバルゴスの背から、マルドルゥインが言った。
 「ふん、見かけの図体はデカくても、中身はそんなもん、ということだな」
 ルークは、焦げたフェーブルの体を波間に捨て、かわりに、ミズハからその奇妙な生き物を受け取った。陸へ運ぶつもりだ。巨人の後ろに、ミズハとバルゴスがついてゆく。海竜たちは無言でその姿を見送っていた。


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