<第二章>

界の王


 うららかな初夏の日差しを受けて、船は進んでゆく。じりじりと肌を焦がすように照りつける真夏の太陽ほどではないものの、しばらくデッキに立っていると熱を帯びた皮膚が赤くなってくる。
 四つ目の島を後に、ハーヴィ号は海竜たちの住まう「青の洞窟」を目指していた。波は穏やかなのに何処か落ちつかないのは、これから待ち受けている何かのせいなのか。
 「――鳥たちが、いない」
船首に立って風に耳を澄ませていたミズハが言った。「海鳥たちの声が聞こえない。どうしたんだろう…、この辺り、静かすぎるよ」
 船首の波間から、ジャスパーが顔を上げ、何か言う。
 「なんだって?」
 「魚も少ない、って。どこか海の底で良くないことが起きてるみたいだ…だって」
 「冥界への入り口とか言ってたな」
ヴェリザンドの使者が言っていたことだ。海竜たちが襲われている、とも。
 と、ふいに船ががくんと揺れた。急に泳ぐ方向を変えたような揺れ方だ。
 「ジャスパー?」
船首の下を覗きこむと、黒い影が船を離れて戸惑ったように泳ぎまわっている。白い飛沫が上がり、黒っぽい頭が現れると、忙しなく何かを告げる。ミズハは、ぱっと振り返って船の反対側へと駆け出した。ルークも続く。
 視線の先に、波間に見え隠れする、くすんだような色の白っぽい何かが見えた。尖った背びれを持ち、それはまるで大きな魚のように見える。いや、魚というよりは、鮫――
 「あれは…」
ルークが思い出すより早く、ミズハが叫んだ。
 「フォルティーザで船を襲ってたやつだよ!」
間違いない。近隣の船を次々と襲い、転覆させていた”鮫男”だ。ルークにも襲いかかってきたことがある。あの事件以来、フォルティーザの近海で見ることはなくなったのだが…
 「見張られてる」
 「見張られてる?」
 「うん。嫌な感じ…」
ルークには感じ取れないが、穏やかに見えるこの海で、何かが起きているらしい。ヴェリザンドの呼びつけは、どうやらルークたちにとっても無関係ではなさそうだ。


 ”青の洞窟”は、ラヴィノーザ観測所のすぐ側の崖下にある。穏やかな波と風が洗う洞窟の入口には、警戒するように長い首をもたげる大人の海竜たち。辺りには甲高い海竜たちの声が定期的に響き渡っている。海竜たちは、ハーヴィ号が近づいてくるのにとっくに気がついていた。島まで迎えを寄越したくらいだ。ここまでの航路は、ずっと見張られていたのかもしれない。
 洞窟の入口にたむろしていた海竜たちが道を開け、無言に船を見下ろしている。ジャスパーは波間から首をもたげ、何かをこらえるように緊張した面持ちで海竜たちの見下ろす中を洞窟の中へと進んでいく。洞窟の天井は宮殿のように三角にえぐれ、ハーヴィ号がそのまま中に入ってもまだ余裕がある。水面下の白い砂に反射した光が海水を通して洞窟の中の壁や天井に反射し、真っ青な紗のように怪しくゆらめいている。
 マルドルゥインもデッキに出てきた。
 「ここが海竜の巣とやらか?」
 「ああ。この奥に、海竜の王がいるはずだ」
少年は、初めて見る青の世界に驚嘆している。しかしバルゴスは、気に入らないというように鼻から炎の吐息を吐いた。 
 「ここは水の力が強すぎます、マル様。それに雰囲気も悪い。まるで敗戦後のようだ」
 「敗戦後?」
言われて初めて、ルークは気がついた。前にここに来た時は、数百頭の海竜たちが集まっていて、もっともっと騒がしかったし、子供や母親と思われる海竜の姿も少しは見かけた。それが、今では海竜の姿はまばらで、そのうちの大半が少なからず傷ついている。以前は向けてきた敵意のある視線は消え、代わりに、ぴりぴりするような張り詰めた気配がある。
 行く手に光が見えてきた。
 岩の割れ目から斜めに光の指す大広間、その奥の平らな岩の上が海竜たちを統べる王の玉座だ。ハーヴィ号はゆるやかに停止し、船底が軽く砂にこすれる衝撃があった。ジャスパーは船の下から体ごと頭を持ち上げ、玉座の上を睨みつけた。ひときわ大きな黒い海竜、顎から首の周りにかけて青く輝くウロコを持つ海竜王ヴェリザンドが、威厳を保ったまま慇懃な動作で一行をねめつけた。だが、その尾の先が大きく傷ついていることは、隠しようもない。
 ルークは、ポケットから取り出したシェムスールの石を海水につけた。石が青白い輝きを取り戻し、海竜たちの言葉がそのままでは理解出来ないルークやマルドルゥインのために通訳を始める。
 「久しいな、ジャスパー。よくも”禁断の海”を越えて生きて戻ってきたものだ。」
 「そんな話をするために呼んだわけじゃないだろ」
ジャスパーはいつもの調子のつもりだろうが、言葉にはどこか元気がない。洞窟にやってきた時から、海竜たちを襲った事件がただならぬものであることを察してしまったからだ。ヴェリザンドの傷を見て、それは確信に変わった。
 諦めて、彼はため息混じりに呟いた。
 「あんたの、そんな情けないザマは見たくなかったよ。…ったく、だから、ここには来たくなかったんだ」
 「勘違いするな」むっつりとして、ヴェリザンドは体の向きをわずかに変えた。瞳が威嚇するようにきらめき、赤い口に牙が光る。
 「この程度の傷で我が戦えなくなるわけではない。今でも、貴様程度なら軽くひねりつぶせるのだぞ」
 「へいへい。ま、その話は後にしようぜ。…で? 一体誰が、気高くお強いあんた様にそんな手傷を負わせたんだい」
 「――冥王フェーブルだ」
低い声が、洞窟内の空気を揺らす。差し込む明るい外の日差しが釣られて揺れ、天井に大きな波紋を描く。以前は多数いた、玉座の周りに侍る海竜たちも、今はまばらで、みな警戒するようにこちらを見ているだけで一言も発しない。
 「ここから西へ行ったあたりに、北の海から流れてくる海流が交じる岬がある。北の海との境界線だ。冥界の穴は、そこにある。長年封じられて、海は穏やかだった。その封印が破られたのだ」
 「へええー。その冥王ってのは、まさかサメみたいな姿をしてないよな?」
ぴく、とヴェリザンドの表情が動く。冗談のつもりだったジャスパーは、眉をしかめた。
 「……おいおい、まさか」
 「鮫の姿ではない。奴はな。暗い水底に隠れていて、どんな姿なのかは想像もつかん。だが、下僕どもは確かに鮫のような形をしている」
ルークが口を開いた。話に割って入る。
 「もし、そいつらが、おれたちの見たことのあるやつなら、三年以上前にはもう海にいた」
初めてフォルティーザ近海に鮫男が現れたのは、何年も前の話だ。
 「封印がほころび始め、しもべの何匹かが外へ出ていることは知っていた。しかし数は大したことがなく、発見次第排除してきたし、ほころびも長い年月によるもので、すぐには問題はないと思っていた。封印が完全に解けたと知ったのは、ほんの一ヶ月ほど前のことだ」
 「また封印し直せばいいじゃん。」
 「は、いかにもお前らしい浅はかな考えよ。」
ヴェリザンドは大きく首を逸らした。
 「そう簡単にいくものか。あれは我が祖先、海王ヴェリサリウスの施した封印ぞ。破るにも、かつてのヴェリサリウス以上の力をもたねば不可能と思われたものだ」
 「要するに、平たくいうとだ」
ジャスパーはヴェリザンドの空威張りなど微塵も気に掛けた様子がない。
 「あんたは…その、ご立派なご先祖様、ヴェリサリウスほどの力を持ってないので封印出来ません、封印を破った奴も自分より強いんで勝てません、と。そう言ってるわけだ?」
 「……。」
殺気にも似た、冷たい沈黙。さすがのルークも、慌てて船首から身を乗り出す。
 「おい、ジャスパー。もうちょっと言い方考えろよ」
 「何だよ。じゃ、どう言えばいいっての? 俺らだってどうしようもないだろ。あの鮫男相手に、前にどんだけ苦戦したと思ってんだよ。俺と姫っち二人がかりで、あのざまだぜ?」
 「相手が水の奥深いとこにいるんじゃ、戦えないよね」
と、ミズハ。「何か力になれることはあるかもしれないけど、でも…」
 「方法なら、ある」
苦々しげに鼻を鳴らし、海竜の王は一つ、すうっと大きく息を吸い込んだ。そしておもむろに息を止め、間をおいてハーヴィ号のほうめがけて、ゆっくりと息を吐いた。途端に船が大きく揺れ、沈み始めた。
 「?!」
一瞬、船底に穴でも空いたのかと思った。だが違う。看板から水面までの距離は変わらない。正確には、甲板から海底までの距離が縮まっている。周囲の水面はそのまま、船の周囲だけ、海面が割れて左右に水が引いているのだ。
 あっという間に、船の周囲の海水は消え失せていた。白い砂浜があらわになり、船底が直に砂にめり込んでいる。だがそれも、ほんの一瞬のこと。
 退いていた波が左右から戻ってきて、船の側面に打ち付ける。揺れながら、ハーヴィ号の船体は再び浮き上がり始めた。そして、周囲と同じもとの高さまで戻ってくる。
 「これが、祖先から受け継いだ我が力だ。」
 「……すごいな」
ルークは純粋に感心した。海竜がこんな力を隠していたなんて、今まで誰も知らなかった。
 「ジャスパーにも出来るんじゃないのか」
 「は? 俺? いや無理無理、そんなの…」
 「出来る」
憮然とした表情で、ヴェリザンドは断言した。
 「海王の血を引くものは、その青いウロコが出る歳になれば出来る。方法を知らないだけだ。これは王家の秘技だが、この事態では致し方ない。教授しよう、不本意ながらな」
 「ちょっ、何勝手に決めて…」
左右からじりじりと、大型の海竜たちが迫ってくる。ジャスパーを逃がさないためだ。ジャスパーは、しまった、という顔で周囲を見回した
 「話は、まとまったのか?」
その時、少年の声が響き渡った。マルドルゥインは、赤い髪をなびかせ、バルゴスを従えて船首に立つと、正面からヴェリザンドを見上げた。
 「ならば、今度は余の質問に答えよ。冥王だか何だかの話はどうでもいい。それがバージェスとどう関係する。貴様は奴のことを何か知っているのか」
 「ほう、…これはこれは」
ヴェリザンドは、面白そうに口元をを歪めた。
 「残念ながら奴のことを詳しく知る者はそうは居ない。我とて存在以外には知らぬ。…だが、興味があるな。火の精霊従える小さき者よ、なぜそれを知りたがる?」
 「余は炎の魔神だぞ」
 「魔神か。海王と同格の存在だったということな。」微かに笑う。「…かつては」
 「余を愚弄する気か?!」
 「そんなつもりはない。が、残念ながら、我は”禁断の海”の向こうのことは知らぬ。どんな魔神が何人いたのかも、な」
そう言った後、そっけなく、だが簡潔に、ヴェリザンドは質問の答えを口にした。
 「北天の神王は、ここから北の大地にいる。――しばらく鳴りを潜めていたのが、ここのところ力を増してきているようなのだ。何やら人間どもも使ってな。陸の上のことゆえ、それ以上のことは分からぬ。確実なのは、何者かが封印をとかねば冥王を自由にすることは出来なかったということだ。」
 「そいつが、封印を解いたと?」
 「かつての海王と同等か、それ以上の力を今も持ち続けている存在は、そうは居ない」
マルドルゥインが更に問いかけを投げるより早く、海竜たちの王は、体を起こし、従者たちに向かって高らかに宣言した。
 「会見は終わりだ。納得しようとするまいと、協力してもらわねばならん。ジャスパーを奥の間へ連れてゆけ! 船の客人たちは、洞窟の入り口か、望むなら外まで丁重にお送りしろ」
海竜たちがいっせいに集まってくる。その動きで、洞窟の中では波が渦を巻く。海竜たちりの巨体の前に、ジャスパーですら赤ん坊のようだ。
 「お、おい! ちょっと待…」
 「ジャスパ… うわっ、と」
船が揺れる。見れば、別の海竜が船の下に潜り込み、向きを変えようとしている。
 「どこに送ればいい?」
船をひっぱっている若い海竜は、そう言って目をぱちぱちさせた。「あんたたちを送り届けるように言われてる」
 「え、…えっ、と」
ルークは、困って眉を寄せた。
 「じゃあとりあえず、ラヴィノーザの桟橋まで。ここのすぐ近くにある。崖の下だ」
 「了解」
いつものジャスパーが引っ張っている時より幾分ぎこちなく、船は滑りだす。ミズハは、洞窟の奥を振り返った。
 「ジャスパー、大丈夫かなあ」
 「大丈夫なんじゃないか、あの様子だと。どうやるのかは知らないけど、王家の秘技とかいうのを教わってくるだけだろ」
ヴェリザンドは、かつて拒否した異母弟まで巻き込んで、戦力にしようとしている。それだけ切羽つまっているのだ。
 「…あの傷、たぶんヴェリザンドは今、満足に泳げないな」
玉座の上に横たわっていた姿を思い出しながら、ルークは呟いた。鮫男に襲われた時にジャスパーが受けた傷とよく似ている。あの時ジャスパーですら、傷が完全に塞がるまで一ヶ月かかった。厄介な相手だというのは、たかが一匹に翻弄された経験からわかっている。それが、今は何匹もいるのなら。
 船の通り過ぎる側で、傷ついた海竜たちがこちらに視線を向けている。酷いものだ。今にも死にかけているものや、背中の皮が剥ぎ取られ、骨が見えているもの。被害は甚大だ。姿が見えない子連れの海竜などは、どこか奥に隠れているのか、遠くの海に避難しているのかもしれない。

 桟橋にハーヴィ号を送り届けた後、船を引っ張ってくれた海竜は、ろくに会話もせずそそくさと元きた道を戻っていった。
 後に取り残された格好だ。崖の上に観測所の人々は今は四つ目の島での発掘に携わっていて、もぬけの殻。ジャスパーがいなければ、ここから先、船を動かすことも出来ない。 
 「ジャスパー、どのくらいで戻ってくるのかな」
 「さあな。でも、何週間もかかるって雰囲気ではなさそうだった。気になるのは、北の海との境界線って話…」
ルークは、船室から持ってきた地図をキャビンの簡易テーブルの上に広げた。ヴェリザンドの話だと、冥界の穴とは”青の洞窟”から西にある岬だという。このラヴィノーザは西の海の中でも、南に出っ張っている辺りだ。ここから西へ行くと大地は大きく北へ抉れている。岬というと、一つしか無い。抉れた湾状の地形の端、大きく付き出した半島の先にある鯨岬だ。
 「…メテオラか」
 「えっ?」
 「前にも行っただろ、ここはメテオラからそう遠くない。少し陸の奥に入ったあたりはもうメテオラの領地なんだ。」
指で地図をなぞる。
 「…それに今は、岬のあたりまでメテオラの勢力圏内なんだよ。ミゼットさんから聞いた。メテオラに隣接する幾つかの国が国家連邦を離脱したらしい。――ここの海辺の国が、その”幾つか”なんだ」
確かに、無関係とは思えない。リブレと手を結んだメテオラが、リブレから提供された技術を使って建造した飛空艇で周囲を脅かし、その脅しに屈した国と隣接する場所で、海竜たちにとっての災難が蘇った。それはあたかも、リブレの影響が拡大していくのと連動しているようだ。
 「ふふん、こちらの大陸は、随分と楽しいことになっているではないか。」
 「笑い事じゃないぞ、マル。お前だって狙われてるかもしれない」
 「願ったりだ。こんなに早く、奴に関われるとは思っても見なかった」
赤毛の少年は、心底嬉しそうだ。「それで? そのリブレとやらは何処にあるのだ。そこが奴の本拠地なのか」
 「…すぐに乗り込もうなんて思うなよ。リブレの情報はなにもないんだ。何百年も前から、外部との交流を断ってる。行って戻ってきた人間もいない」
言いながら、地図と一緒に船室から持ってきた通信機のネジを巻く。とりあえずは、フォルティーザへの連絡だ。ヴィレノーザまでは到着したこと、ただそこで問題が発生していて、フォルティーザへの帰還は少し遅れそうだということ。ここで起きている出来事についても報告しておかなければならない。蓋をあける時、ルークはかすかに緊張した。レムリア大陸への旅の途上では、直接やり取りをしていたのはヴィレノーザの観測所の面々だった。フォルティーザにいるジョルジュたち馴染みの人々と話すのは、ほぼ半年ぶり。
 だが、久しぶりに互いの声が聞けるはずだったその通信は、何故か雑音まじりでコール音がいっこうに帰ってこない。
 「…おかしいな、ここからなら通じるはずなのに」
首をひねりながら、ルークは何度もネジを巻き直した。通信機が壊れているようにも見えない。それに、ほんの数日前までは確かに使えていた。
 その時だ。コツ、コツと窓を叩く音がして、外のデッキの上に、見知らぬ女性が立っていた。
 「あの、ハーヴィ号…ですよね? これ」
 「そうですが。」
ややぽっちゃりした、小麦色の肌の若い女性は、キャビンに集まっている三人と一匹の顔をぐるりと見回した。動きやすそうな揃いの濃紺の上下、羽織っているジャケットには見覚えがある。
 「えーと、あなたは、ヴィレノーザ支部の方?」
 「はい、リアーチェです。観測所で留守番を。」
 「あー…」
ルークは、ぽんと手を打った。「里帰りしてる職員がいる、って、そういやミゼットさんが確かに言ってた」
 「はい。前に皆さんが来られた時は、ちょうど不在で。今はここの留守番です。上から見てたら、海竜が船を引いてきたものですから、もしやと思って降りてきたんです」
そう言って、リアーチェは表情をほころばせた。口元に小さな笑窪が生まれる。
 「ドラゴンの島を通過されたのは聞いてます。これからフォルティーザへ帰港されるんでしょう」
 「そのつもりで、連絡を取ろうとしたんですが…その」
通信機に視線をやる。
 「通じないんですね? ここのところ、よく起きるんです。酷い時間帯にはとなり町までの通信もだめで、しかもここのところ時間が長くなってきてます。沖合まで出るとそうでもないんですが、陸のほうはもう、昔ながらの電信機に切り替え始めてますよ」
 「電信機…って、あの、電話線に受話器を繋ぐやつですか」
 「そうそう。電波を飛ばすのが駄目みたいなので、しかたがないんです。フォルティーザ支部への回線もつなげますよ、上に来てくだされば」
 「ほんとですか? 助かります。」
電信機は先時代の代物のような骨董品だが、外部からの影響を受けにくい。いちいち線を張り巡らせなければならないのが難点だが、とにかくどんな方法でもジョルジュたちと話が出来るのに越したことはない。
 崖の上に立つ小さな観測所は、以前来た時とほとんど変わっていなかった。壁のイルカの絵も、庭にひっくり返されたボートも。
 「こちらです」
リアーチェが案内したのは、建物の町側にある書斎のような部屋だった。机の上には不恰好なばかでっかい交換器。それに繋がる太い電話線は、崖の上から町のほうまで柱の上を這うようにして伸びているのが窓の外にはっきりと見えている。
 「急ごしらえの設備だから…。でも、ちゃんと通じるんですよ。」
申し訳なさそうに言い、リアーチェは受話器を取り上げた。「フォルティーザ支部でいいですか?」
 「ええ、支部長のジョルジュさんか、秘書のアネットさんがいればいいんですが」
頷いて、彼女は壁に貼ったメモ紙を見ながらダイヤルを押していく。メモには接続された各支部への通信番号が書かれているのだ。ヴィレノーザの番号もある。ということは、復興がある程度完了したのだろうか。
 「ちょっと待っててくださいね。途中で交換器を介してるので、繋がるまで少し時間が」
その時ルークは、机の端に積み上げておいてある書類の束に気がついた。写真や、地図、それに報告書など。
 「これは…」
リアーチェが振り返る。
 「この報告書、どうしてここにあるんですか」
 「えっ?」
ルークが手にしているのは、ここまでの帰路での定時報告でミゼットたちに送ったもの。ちょうど、先週ぶんの通信内容だ。
 「フォルティーザに届いていると思ってましたが」
 「ごめんなさい、今週は通信状態が悪くて、ほとんど繋がらないんです。通じる時間帯に纏めてなんとか送ってはいるんですが…」
リアーチェは申し訳なさそうな顔になる。「口頭で伝えられる報告書の内容は、電話口で読みあげてます。でも、写真や海図をリアルタイムで送れる状況ではないんです。最悪は郵送…という方法もありますが…」
受話器の向こうで、ぷつっという音がした。
 「あ、繋がった」
 「もしもし?」
差し出された手からひったくるようにして、ルークは受話器に耳を当てた。かすかなノイズとともに、重たい受話器の向こうから懐かしい声が響いてくる。
 『その声は… ルークですね? 元気そうで何より』
ほっとすると同時に、言葉が堰を切ったように溢れだす。
 「元気ですよ、今のところ。それより、一体何が起きているんです? ジョルジュさん。国家連邦からの離反国、通信機の不調、それに冥界の穴とか… こっちの送った報告は、一体何処まで届いているんです?」
 『ルーク、落ち着いて下さい。報告書は、先週分までは届いていますよ。ですが、冥界の穴というのは? 』
 「鮫男がまた現れたんです。今度はヴィレノーザに、しかも一匹じゃない。海竜たちが襲われてる」
電話機の此方側、すぐ傍らで、息を呑む音が聞こえた。リアーチェだ。口元に手を当て、青ざめている。ということは、彼女も、ヴィレノーザ支部の人々も、まだそこまでは知らなかったのだ。
 『…その話は初耳です。誰に聞いたのか、と聞き返すまでも無いですね。海竜たちはどうしてます』
 「戦うつもりらしいですよ。それで、ジャスパーも戦力扱いされてる。嫌がってるけど、あいつは多分、手を貸すと思う。それで帰還が少し遅れる連絡をしようと思っていたんです。敵の居場所は鯨岬。海竜の王は、リブレ人の神と関係があると言ってます」
 『……。』
僅かな沈黙。受話器の向こうで、ジョルジュがいつものように長い指を組んでいるのが目に見えるようだ。
 『国家連邦からの離反国は二カ国だけですが、今のところメテオラと新たに同盟したわけではありません。また、他の国々が離反する動きも今のところはありません。ヴィレノーザが再建され、国家連邦の機能は戻っています。協会本部も機能しはじめした。そこは安心して下さい、ルーク』
ミズハとマルドルゥイン、それにバルゴスも、受話器から漏れ聞こえてくる声に耳を澄ませている。
 『ただ、通信の不調についてはどうも分かりません。西の内陸ほど通信障害が酷いようです。海上の通信には問題がないので今のところ船の航行に大きな問題は出ていませんね。あなた方の今いるヴィレノーザ支部のあたりは壊滅的ですが、ここフォルティーザは殆ど影響なしです。』
 「いつから始まったんです?」
 『数ヶ月前からですね。』
予想していた通りの答えだ。”北天の動きは、ルークたちの動きと同調しているように見える”。…ヴェリザンドの言うことは、間違いではないのかもしれない。
 「さっきも言った通り、フォルティーザへの帰還はこちらで起きている問題に対応してからになるので、少し遅れます。今わかっている情報をお伝えします。調べていただきたいことが」
通信に交じる、かすかなノイズ。ルークが話している間、ミズハは窓の外の空に目をやっていた。晴れた空にはゆっくりと雲が流れ、不安を煽り立てるものは何一つ存在しない。しかし彼女の表情は険しく、まるで。そこにいる見えない敵を牽制しているかのようだった。


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