<第二章>


 高い空を流れる風が、雲をたすき状に吹き流していく。沖合から繰り返し押し寄せる波が白く泡立ち、島の輪郭をくっきりと見せていた。
 ルークたちの出発してきた大陸、ラヴィノーザ側から数えて四番目の島だ。前回ここを訪れた時には海が荒れていて気づかなかった、島を知り囲む岩礁や、緑に覆われた平らな島の上部がはっきりと見える。遠望鏡を手にしたルークには、さらに、以前はなかった櫓のようなものが島の端に立っているのも見つけた。通信を飛ばすための中継基地だろう。
 帰ってきた。
 ほっとすると共に、ここはまだラヴィノーザ沖の海域だということを思い出す。ジャスパーの故郷、黒い海竜たちの住む”青の洞窟”へと向かう海路の途中。母港フォルティーザへは、まだ遠い。
 ジャスパーは島へと向かっている。報告をかねて、補給のためにいったん立ち寄ることは既に連絡済み。デッキに上がると、心なしか覚えのあるような潮風が、土と緑の微かな香りを運んでくる。
 キャビンのすぐ側で、マルドルゥインが赤い髪を靡かせながら海を眺めていた。
 「あの島に寄るのか」
 「ああ。でも、すぐ出発する予定だ。…どうかしたのか?」
少年は、ちらと赤い瞳をルークに向け、すぐにまた進行方向に戻す。
 「あの島には奇妙な歪みを感じる。この辺りには火山がないというのに、微かな火の気配がある」
 「火の気配? …あそこには人がいるから、焚き火とかしてるかもしれないが、そのことか?」
 「そうではない。」
苛立ったように足踏みをして、少年は手すりに触れた。
 「火の気配だ。余に属するものの匂いがする。」
 「降りてみれば分かるかもしれない。すぐに着くよ」
実際、島はぐんぐん近づいて来つつあった。ジャスパーは波を蹴立てて勢い良く泳いでいる。島をぐるりと回り、行きにこの島に立ち寄った時に雨をしのいだ、岩陰の入江を目指している。ミゼットたちも、そこを上陸地点にしているはずだ。
 島を取り囲む崖の壁面に、岩盤が本をひっくり返したように割れ、その下が洞窟になっている穴が近づいてくる。遠くからでも、入り口のあたりに停泊している複数の船が見て取れた。大きな帆を持つ中型の帆船と、小型の、おそらく最新式の燃料で動く機関を持つ高速船。ハーヴィ号は、それらの隙間を縫うようにして洞窟の中へ滑りこんでゆく。
 入江に作られた簡易桟橋の上には、既にミゼットたちが待っていた。島からハーヴィ号の近づいてくるのを見ていたらしい。船尾の方にいたミズハが、表の方へ駆けてくる。
 「おーい」
 「ミズハちゃん! それにルーク君も。おかえりなさい! 無事でよかった」
 「はい」
 「ただいまー」
ミズハは、マルドルゥインのほうを振り返り、本人が抵抗する間もなく両手で肩を掴んで甲板の端に押し出す。
 「あとね。この子がマル君だよ」
 「あら、思ってたより可愛い子ね。初めまして」
 「……。」
少年は何と言っていいのか分からず、硬直している。その脇を、ルークが先に降りてゆく。
 桟橋に足をつけるとすぐに、ラスとウィルが取り囲んだ。 
 「ドラゴンの骨を掘り出したんだ。完全に骨格が見えるぞ。見て行くよな」
 「レムリアはどうだった? どんな生物がいたのか、話を聞かせてくれよ」
 「ちょっと、ちょっと、あなたたち」
ミゼットが割って入る。
 「まだ長旅を終えて到着したばっかりなのよ? ごめんねルーク君。上で暖かいお茶を入れるわ、一休みしながら話をきかせてちょうだい…ミズハちゃんも」
 「うん」
ミズハは頷いた。マルドルゥインはというと、ミズハが手をしっかり握っているために逃げられない。バルゴスは、一言も喋らずに主の側で落ち着きなく羽根を動かしている。
 「ドラゴンの骨…」
少年は呟き、先をゆく見知らぬ人々の背を見た。入江の先には地面が落ち窪んだようになった砂浜があり、日差しが差し込んでいる。浜辺の奥は壁になっているが、そこには、木で組まれた簡素な階段が設置されている。
 階段を上がっていくと、島の上部、平になっている平原に出た。潮風がさわさわと緑の草を揺らしている。
 ルークは目を見張った。前回ここを訪れた時は、まだ冬で、辺りには枯れ草が寂しくそよいでいるばかりだった。しかし今は初夏。新緑のあちこちに黄色い綿のような花が咲き誇り、その一部が茶色く剥がされた中で何人もが額に汗を流しつつ発掘に勤しんでいる。彼らの手元には、ドラゴンと呼ばれている見事な骨格が横たわっていた。
 「どう、驚いたでしょう」
足を止めていたルークの側に、ミゼットが側にやってきた。
 「こういうのの発掘はロマナーサ支部が得意だからね。応援に来てもらってるの。それから、あそこが、通信所を兼ねた作業小屋。」
ミゼットの指さした方角には、これもまた簡素な小屋と、海の上からも見えた通信用の塔。それでも足りない分は、テントが何張か建てられている。
 「私たちは、一番手前のテントを使ってるの。お茶の用意をしておくから、来てちょうだいね。」
言い残して、ミゼットは先に草原を横切っていく。振り返ると、ミズハとマルドルゥインは、何か話し合いながらまだ遠くにいた。
 「どうした?」
引き返して声をかけると、ミズハが答えた。
 「マル君が、突然立ち止まっちゃって。」
少年は、食い入るように、今まさに掘り出されて行く骨格を見下ろしている。その表情は真剣そのもの、というより、信じられないものを目の当たりにしたためか、緊張で僅かに紅潮している。
 「…何故、ここにある」
ようやく口を開いたマルドルゥインは、そう言うのが精一杯だった。
 「これが何故、ここに」
 「ドラゴンの骨のことか? 何か知ってるのか」
 「ドラゴン? とんでもない。これはサラマンダー。それがしと同じものです」
忙しなく少年の周囲を飛び回りながら、バルゴスは興奮したように鼻から炎を何度も吐いた。
 「炎の魔神の眷属たる聖獣の骨格です! しかもこの大きさ、間違いなく先代に仕えたサラマンダーの、それもかなり高位の…」
 「…守護隊長か」
マルドルゥインは、額に片手を当てた。
 「最後まで生き残った聖獣がいたはずだ。そう、守護隊長だ。体格も…ぴったり一致する。最後に見たのは、落ちてくる月の向こうの空に向かって突進していくところだった。そうだろう、バルゴス」
 「は、その…、それがしは、その時のことは」
 「この大きさに一致する聖獣は、他にいなかった」
 「間違いないのか?」
ルークは念を押す。確かに、骨には翼がある。バルゴスに似てなくもない。だが、ここは火の国からは遠すぎる――
 「間違いない。だが何故!」
少年は頭を振り、赤い髪を舞い散らせた。
 「なぜ、ここにサラマンダーの骨がある。なぜこんな、千年も経ったような姿で…」
 「待て。その話は、後にしよう」
ルークは少年を制して振り返った。準備が整った、と呼びに来るウィルがこちらにやってくるのが見えた。ここで話し合っていても答えは出ない。
 ミゼットは、すっかり準備を整えてルークたちの来るのを待っていた。
 「遅かったわね。そんなに、あの骨が気になった?」
 「いえ、ちょっと…。」
 「座って。ここからなら発掘現場もよく見えるわ」
折りたたみ式のテーブルと、同じく折りたたみ式の簡易椅子。テーブルの上にはクッキーと、湯気の立つ紅茶、それに果物が幾つか並べられている。少し高くなっているそこからは、発掘現場の全体が見渡せた。骨が、大きく翼を広げた状態で、軽く首を曲げて地面に突っ伏したような格好になっている様子も。
 「あの骨について、何か分かったことは?」
 「まだ何も。ロカッティオの魔法使いたちにも情報を送って協力してもらったのだけれど、こちらの大陸にあるどんな記録にも登場しないらしいわ。一つだけ似てるものがいるって聞いたんだけど、なんだったかしら…ええと」
ミゼットは、胸ポケットから小さな手帳を取り出す。
 「サーペント…ワイバーン…ヒュドラ…ナーガ…、ううん、なんだったかしら」
 「サラマンダー?」
 「あっ、そう、それ。火を吐き空をとぶトカゲ、サラマンダー。…あら」
ふと、ミゼットは椅子の背もたれに止まっているバルゴスに目を留めた。
 「そういえば、その子が連れているペット…」
ルークは、あわてて話を戻した。
 「ロカッティオの魔法使いは何て言ってたんですか。その、サラマンダーについて」
 「え? ああ、火の精霊の一形態で、ただし例外的に肉体を持つ生き物だとか。遠いどこかの大陸にある大火山に住む魔神が作り出した種族だそうよ。」
 「魔神ですか」
お茶のカップを取り上げながら、ルークはちらちらとミズハに視線を送る。マルドルゥインを黙らせておいて欲しいからだ。ここでその魔神本人が喋り出したら、話がややこしくなる。しかし幸いにして、少年は初めて口にする食べ物に興味津々で、今のところ話に加わってくる気配はない。
 「ただ、その魔神の住む場所っていうのが、どうやら普通には行けない場所だったらしいの。”こっちの世界じゃない”とか」
 「こっちの世界じゃない?」
 「ええ。詳しい話は、私も理解できなかったんだけれど…。異界の生き物だ、って」
 「あの骨の話ですか?」
ラスとウィルもテーブルに加わる。
 「あ、あとこれ、見たいだろうと思って持ってきたぜ」
そう言ってラスが差し出したのは、発掘現場の写真と記録の束だ。
 「そっちの大冒険の話は、通信で聞いてるから大筋は知ってるが、改めて聞かせてくれよ。レムリアはどうだった。」
 「報告したとおりです。少しは人が住んでるかと思ったんですが、どこも廃虚ばかりで…。」
話している脇で、マルドルゥインはこっそりとミズハに囁いた。
 「ここの人間たちは、仲間なのか」
 「うん。でも、マル君のことは詳しく伝えてないよ。ルー君やあたしのことも、多分まだ知らない」
ミズハは、そっと人差し指を口に当てた。
 「びっくりしちゃうから、火を使ったりしちゃダメだよ。」
 「……。」
少年は、無言でクッキーを口に放り込む。
 話は続いている。
 「月が落ちた跡…、一番小さな緑の月だって? そりゃまた大災害の跡だな。大陸ごと吹っ飛んでもおかしくない」
 「百五十年前だそうです。天文学は詳しくないんですが、何かこちら側にも記録があったりするんでしょうか」
 「うーん、協会の天文学専門部署に聞いてみるけど…。でも多分、何も出てこないと思うわ。月が消えた日、なんて聞いたこと無いもの。ただ、…そう、星座が消えた日のことなら聞いたことがある」
 「星座が?」
 「いま空にあるのは十二星座でしょ。でも、大昔は十六星座だったらしいのよ。」
ルークにとっては初耳だった。航海の技術として、十二星座の季節ごとの見え方や星座からの方角の割り出し方は学んで知っている。だが、その星座が昔と違っているなどという話は、航海術の教科書には載っていない。
 「いつなんですか?」
 「三百年くらい前だったはずよ。」
話は続いている。ルークはふと、テントの外に広がる島の光景に目をやった。
 風が草を揺らし、黄色い花々が泡のように波打っている。さっきから奇妙に黙りこくっているマルドルゥインは、そちらに視線を向けたままだ。
 そういえば、火の国の都――少年が百五十年を過ごしたというあの灰色の街には、草も花も無かった。火山の奔流に飲み込まれた時以来、町の地面は灰と冷えた溶岩に埋め尽くされたままだ。
 「ああ、そうだわ。言うのを忘れていた」
ふいにミゼットが声を上げ、ルークは、はっとなって視線を戻した。
 「海竜よ。そう、海竜。青の洞窟の海竜たち、覚えてるわよね」
 「ああ、はい。」
忘れるはずもない。冬のさなかに訪れたジャスパーの故郷では、ジャスパーの異母兄弟だという巨大な海竜の王に出くわした。
 「彼らの様子が、最近おかしくて。何か…落ち着かないというか。内輪もめでもしているのか、随分傷ついた海竜を見かけたわ」
 「内輪もめ?」
海竜たちは、海竜王ヴェリザンドが支配しているはずだ。前回訪れた時の様子からして、海竜たちは王に服従しており、逆らうような素振りは一切見せなかった。
 「海竜たちの王は、どうしているんですか」
 「それがね。以前は洞窟をあまり離れなかったのが、最近では表によく出てくるみたい。私も観測所と此処を往復している時に時々見かけるんだけど、ひどく苛立ってるみたいで。」
 「聞いてみればいいんじゃない?」
ミズハが話に加わってくる。「あの石で、お喋りできるよね」
 「シェムスールの石ね? 試みてみたんだけど、なかなかうまくいかないの。彼らはいつも不機嫌だし、こちらの言っていることは通じているはずなんだけど、ほとんど返事はくれない。あんまりしつこくすると船をひっくり返そうとするし」
 「そうなんだ」
やはり、気位の高い黒い海竜たちは一筋縄にはいかない。言葉が通じるだけでは、交流は成り立たないのだ。
 「帰りに聞いてみましょうか?」
 「そういうわけには。あなたたちは一刻も早くフォルティーザに戻る使命があるんでしょう」
 「どのみちヴィレノーザにいったん寄りますし、帰り道です。それに…」
海竜たちは独自の歴史を持っている。もしかしたら、ヴェリザンドが何か知っているかもしれない。
 「…そう。あなたたちにばかり頼ってしまって、申し訳ないわね。こちらも何か分かったら、すぐに連絡するわ」
 「ありがとうございます」
そんな風に話をしているうちに、時は流れてゆく。ミゼットのすすめで、ルークたちはその日、島で一泊することにした。束の間の休息、ここからは慣れ親しんだ大陸まであと一息だ。


 日が暮れて、発掘隊の面々が引き上げていく。
 テントや小屋に日が灯り、辺りは薄闇の中に飲まれてゆく。町とは違い、この島には街頭などはない。テントのある辺りを一歩離れれば、そこは月明かりの照らす闇ばかりだ。
 その闇の、深くえぐられた地面の穴の底に、無言で佇む白い顔の少年の姿があった。マルドルゥインの手のひらの上には、小さな火の玉が浮かんで、辺りを照らしている。
 「ここにいたのか、探したぞ」
ルークが声をかけても振り返ろうともせず、少年はじっと、足元の太い骨を見下ろしている。
 「どうにも解せんのだ。」
ややあって、ぽつりと呟いた。
 「なぜ、これがここにあるのか。海を越えて来たにしても、あまりにも遠い」
 「本当に、あれは百五十年前に居なくなったサラマンダーなのか」
 「さっき貴様の仲間の人間が言っていただろう。あのサラマンダーは、余が――正確には、余の先代が生み出した生き物だ。骨に刻まれた自分の力を誰が間違うものか」
 「ふうん、…まるっきり無から作る感じなのか。けど、あれバルゴスに比べたらずいぶんと大きかったな」
 「さよう、先代様のお力ならばあの程度はわけなく。ねっとね、今のマル様のお力ですと、それがしのような小物ひとつで精一杯…むぎャッ」
お喋りな従者の尻尾を無言でひっつかみ、マルドルゥインは、ぽい、と背後の闇の中に放り投げた。
 「ここは、貴様らの住む国に近いのだろう」
 「おれの国は、もっとずっと東。こっちの大陸は、たくさんの国に分かれてるからね。だけど、おれたちの大陸まで、あと十日ってところだから、まあ近いのかな」
 「…解せないことがもう一つある」
風でもゆらめくことのない手のひらの上の火が、かすかに震えた。
 「火の国の火山は、今は沈黙している。かつて大地の下を流れていた火の力が枯れてしまったのだ。その力が、ここまでの途上にあった」
 「海底火山か…」
火山は、約三十年前のグレイスとジョルジュの航海記録には出てこない。ここ数十年の間に現れたことになる。だが、
 「時間の流れが合わないな」
ルークは、眉をしかめた。「こっちで星座が変わったのが三百年前。そっちで月が落ちたのは百五十年前。火山が現れたのが三十年前以降…」
 「だが連続している」
 「それは、そうだけど…」
 「なあに? 二人で難しい話してるの?」
いつの間にかミズハが近くまで来ていた。夕食の後、ジャスパーの様子を見に行くと言って別れたはずだが。
 ルークたちを見て、少女はにっこり笑う。
 「よかった、仲良くなったんだね」
 「えっ?」
 「いや…余は、こんな奴と仲良くなど。」
 「ふふっ」
どんな言い訳も通じない、無敵の微笑み。マルドルゥインは、ばつが悪そうにそっぽを向いてしまった。ルークは慌てて話題を変える。
 「ジャスパーの様子は、どうだった」
 「あ、忘れるところだった。ちょっと大変なの、来て欲しいの」
 「大変?」
ミズハについて入江に行ってみると、確かに大変な状態だった。洞窟内には、ヒレで水面を叩く水音と、何やら唸っている海竜の声が響きわたっている。
 ルークは、上着から取り出したシュムスールの石をそっと海水につけた。途端に、石が騒々しい海竜たちの言い争いをそのまま通訳し始めた。
 「だーかーらー!」
ヒレで水面を叩いているのはジャスパー。
 「なぁんで俺が、そんなこと聞かなくちゃならないわけ? 俺そういうの関係ないし。ていうか、こんなとこまで迎えに来るとか空気読めなさ過ぎない? 俺らこれから帰るとこなんだけど」
 「関係ないかどうかは、王が決められることだ。」
むっつりとした聞き覚えのない声は、別の海竜。
 「とにかく王は、あなた様に一度お目にかかりたいと言っておられる。申し開きがあるならば、私ではなく直に王になされよ」
 「だーから申し開きってなんだよ、申し開きって!」
桟橋のあたりまで来ると、暗がりの中に、言い争いの主である海竜たちの姿が見えてきた。ジャスパーと向かい合っているのは、聞き覚えのない声の主だろう。がっしりした体格の、わずかに灰色かかったウロコの海竜だ。声からして、海竜の年齢でいう壮年期あたりか。苛立って水面を叩いているジャスパーが、まるで駄々をこねている若者のよう見えてくる。
 海竜たちは、桟橋を渡ってくる人間の姿に気づいて、言い争いを一時中断した。
 「一体、何の騒ぎだ?」
 「聞いてくれよ、こいつがさ!」
ジャスパーは、ルークに泳ぎ寄った。長い首から水が滴り落ちる。
 「洞窟のほうに何か異変が起きたのを、俺らが関係してるんじゃねーか、とか言うんだ。んなもん知らねぇっつの! だいたい、今までずっと旅に出てたんだぜ?」
 「その旅が問題なのです。”禁断の海”の向こうへ行かれたとか」
灰色のウロコの海竜は、静かな口調で諭すように言う。「そして、霧の向こうから力の均衡を乱すモノを連れ帰られた」
 「ほう、それは余のことか?」
マルドルゥインは腕組みをして、面白そうに見上げる。
 「おい、こいつは何者だ。」
 「海竜たちの王ヴェリザンドの使い、だろうな…たぶん」
ルークが言うと、ジャスパーも続ける。
 「そ。あのクソ王の使いだとさ。俺らがこっちの海域に戻ってくるのを待ち構えてたらしいぜ。」
 「この辺りも、海竜の縄張りなのか?」
 「正確には”禁断の海”までです」
マルドルゥインの問いに、灰色の海竜は、口調を崩さないままに淡々と答える。「王は西海を統べる者であらせられる。西の海は霧に呪われた”禁断の海”で閉じられている。」
 「へぇ、そんな話は今まで一度も聞いたことがないな」
ジャスパーは、ずいっと首を伸ばして向かい合う自分より二回りも大きな海竜を睨みつけた。「あの野郎の海なんて、せいぜい洞窟のあたりのちっぽけな海だけだと思ってたよ」
 「お戯れを。王は西の海すべてを統べるお方。貴方様はご存知のはずです。聞いたことがなくても、国土たる海の境界線は、その体にある海王の血に刻まれているはず」
一瞬の沈黙。
 「…俺にそんなもん期待するのは止めろと言ったはずだ。」
低く、唸るように言ったジャスパーの声は、洞窟の岩を微かに震わせた。羽ばたきながらやりとりを見守っていたバルゴスが、びくっとなってバランスを崩した。マルドルゥインはそちらを見ずに手だけを伸ばし、下僕が落ちかかるのを受け止めながら、面白そうに口の端を歪めてやり取りを見守っている。
 「で? 異変って一体、何が起きたんだよ。俺たちが向こうの大陸に行ってきたことと、どんな関係があるっていうんだよ」
 「冥界への入り口です」
 「は?」
 「西の海と北の海の境目に、深く海底の抉れた場所があります。そこには遥かな昔、海王ヴェリサリウス様が閉ざした冥界への入り口がある。冥界と呼んではいますが、正確にはまつろわぬ海の生き物たちが住む洞穴へと通じています。そのお陰で、洞窟周辺で民が襲われ、甚大な被害が出ている」
灰色の海竜は、言葉に力を込めた。「王の言われるには、封印を解いて扉を開く事ができるのは、海王以上の力を持つ者だけだと」
 「だからー。それが、俺何の関係があると…」
 「ここのところ、北天が騒がしいのです」
 「北天?」 
 「北天っていうのは」
ルークが割って入る。「神王…バージェスのことなのか?」
ぴく、とマルドルゥインの表情も動く。
 「詳しくは、存じ上げません。申しつかっているのは、これだけです。”北天の動きは、あなた方の動きと同調しているように見える”。そう言えば分かるだろう、と」
ジャスパーは、舌打ちした。
 「あのクソ王、思わせぶりな言葉で釣るつもりかよ」
 「でも、お話は聞いてあげたほうがいいと思う。」
と、ミズハ。「ジャスパーと同じ海竜たちが傷ついているんでしょ」
 「仲間じゃねぇし、知らないぞ。あんな奴ら。それに、そういうの守るのはクソ王の仕事だろうが」
 「でも、お話は聞こう。大事なことなんだと思う。でなきゃ、ジャスパーの戻ってくるの待ってたり、お使い寄越したりしないよ」
 「……。」
ジャスパーは少し迷ったが、ルークたちも同意している様子なのを見て、抵抗を諦めた。
 「しゃーねぇーな…。わーったよ、帰りにちょっとだけ顔見せにな。ちょっとだけだぞ。そう伝えとけ!」
灰色の海竜は深々と頭を垂れると、その巨体に似合わぬ静かな動きで波間に沈み、ゆっくりと洞窟を泳ぎだしてゆく。ルークの手の中で、青く輝く石はまだ力を失っていない。はあ、と一つため息をついて、ジャスパーは頭を軽く振った。
 「ここまできて、とんだ厄介事に巻き込まれちまった」
 「でも、向こうから声をかけてくるなんて只事じゃないぞ」
 「…分かってる」
水に半分顔をうずめながら、ジャスパーはむっつりとした表情だ。「けど、あいつには会いたくない」
 「駄々こねてる場合じゃない。拒否しようが認めたくなかろうが、向こうは一応、お前の兄さんなんだから。」
 「あーもう、ほんと都合のいい時だけ王の血がーとか言い出すのやめて欲しい…」
 「とにかく、明日夜が明けたらすぐに出発しよう。急いだほうがいい気がする。頼むぞ」
ジャスパーは、不承不承といった様子で返事すると、水の中にそのまま沈んでいった。まったく、落ち着くヒマもない。マルドルゥイン一人だけが、目を輝かせ、楽しそうだ。
 「面白くなってきたではないか。冥界の入口だと? 北天の動き? おい、何が起きるんだ」
 「まだ、わからないよ。でも…」
さっき使いの海竜が言っていたことが、気になっていた。
 霧の向こうから持ち帰った、とは、おそらく、炎の魔神…この少年のことだ。
 まだこの海域に入って間もないというのに、ヴェリザンドは何故かそのことを知っていた。そして、”動きが同調している”という言葉が本当なら、神王バージェスもまた、既に気づいていることになる。


 胸騒ぎがした。


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