<第二章>


 それから何日か過ぎた。
 元来た道を辿り、ルークたちは、最初に火の国に上陸した、無人の港町に戻ってきていた。

 心配していたハーヴィ号は、元通りそこにあった。だが、肝心のジャスパーの姿が見えない。
 「あれが、貴様らの言う船とやらか?」
バルゴスは、明らかに不安そうだ。「あんな小さな、小屋のようなもので海を渡ってきたというのか…?」
 「そうだけど」
 「帆がないではないか。どうやって動くのだ」
マルドルゥインも不思議そうな顔をしている。
 「ジャスパーが引っ張る。この辺りで待っててるはずなんだが…ちょっと待ってて。ジャスパー!」
ルークは、崩れた桟橋の先まで行って声を張り上げている。「待たせすぎたのかな。魚でも取りに――」
引き返そうとする足元で、黒い影が揺れた。
 「うわっ」
いきなり海水が持ちあがったかと思うと、次の瞬間、ルークは頭からシャワーのように水を浴びせかけられていた。
 「遅いぞ! 何日待たせる気だッ」
声は、ずぶ濡れになったルークの上着のポケットから響いてくる。海水に濡れたシェムスールの石が通訳しているのだ。ルークの後ろから、ミズハが駆けつけてくる。
 「ジャスパー! 久しぶりっ。元気だった?」
 「おう姫っち、そっちも。いやまあ、そこそこ楽しんじゃいたけどさ。ルークの奴がまたドジ踏んだんじゃないかと気が気じゃなかったぜ」
 「誰がドジだ」
頭を振り、髪から滴る水滴を払いながら、ルークはむすっとした顔で呟いた。「おれとミズハで全然扱いが違うじゃないか。」
 「そりゃ、だって、そういうもんだろ。」
 「何だよそれ。いいから、帰るぞ。船をもう少しこっちに近づけてくれ」
 「まさか、それも乗せてくなんて言わないよな」
と、ジャスパーは、見慣れない少年とサラマンダーにじろりと目を向けた。こちらの大陸には海竜などいない。突然海の中から現れた巨体に、マルドルゥインもバルゴスも固まったままだ。
 「マル君とバルゴスはお客さんだよ。」
 「そのガキはいいよ、まだ。けど、何だい? その赤い不恰好なダサいヤツは。鳥みたいにバタバタ飛んだりして」
 「ぶ、不恰好でダサいとは何事だ!!」
憤慨したバルゴスは、鼻息も荒く火を吹き出す。ジャスパーは驚いた様子もなく、ちょっとヒレの位置を正す。
 「悪い悪い、何しろあんまりにも可笑しいからさ」
 「可笑しいとは何だア! 確かにこのような姿ではあるが、それがしは由緒正しき炎の魔神の眷属、火の聖獣サラマンダーなるぞ!」
 「へいへい。俺はジャスパーだ、よろしく。まァ何でもいいや。姫っちが客人って言うなら乗せてやらなくもない」
ジャスパーは、頭の後ろの鼻から潮を吹き出した。
 「…船長はおれなんだけど、ジャスパー」
 「あれ、そうだっけ」
 「そうだよ、まったく…」
ルークは、ずぶ濡れのまま桟橋から船の側面にとりつけたはしごに飛び移る。
 「取り敢えず乗ってくれ。ジャスパー、最初に着いたあたりの森まで戻ってくれないか。段差のある海をもう一回越えなきゃならない」
 「また運ばれるのかよ」
 「仕方ないだろ? 今度は下りだけど、お前は無事でも船が壊れる」
 「仕方ねーな…。」
ぶつぶつ言いながらも、ジャスパーは久しぶりに船を引っ張れるのが嬉しいようで、いそいそと船の下の定位置へと潜り込んでゆく。おっかなびっくり、看板に這い上がってきたマルドルゥインをミズハが出迎える。
 「本当に…、こんな小さな船で海を越えられるのか…? 世界の果ての霧の壁を?」
少年は、まだ半信半疑のままだ。
 「うん。現にあたしたち、ここにいるじゃない。」
 「寝ることが足りないから、マルはキャビンのソファ使ってくれ」
船室の奥からルークの声が聞こえてくる。「あと船の中は狭いから、暴れたり燃やしたりしないでくれよ。」
 「誰が…」
 「主にバルゴス。」
 「ああ」
少年は、納得したように頷いて、側に浮かんでいるバルゴスにちらと目を向けた。「こいつは、興奮すると鼻から火を出しすぎるからな」
 「あんまり興奮しないでね。」
 「ええっ…。そ、そんな」
しゅんとなったバルゴスは、拗ねたような顔をしてキャビンの入り口で黒い翼を畳んだ。口元から、憂鬱そうな灰色の煙が漏れている。その様子を見て、ミズハとジャスパーは思わず笑い出した。
 船が水面を滑るように動き出す。
 周囲の水面から海獣たちが顔を出し、別れを告げるようにヒレで水面を叩いている。ジャスパーは首をもたげてそれに応え、さらに速度を上げた。ミズハは船首の手すりにもたれかかりながら、その様子を眺め、にっこり微笑んで髪を掻きあげた。ジャスパーはジャスパーで、彼なりの収穫を得たようだ。
 一方で、ルークは帰路につく準備で忙しかった。行きは順調だったが、帰りもそうとは限らない。帰路に費せる残りの日数は、十分とはいえなかった。
 「通信機が通じる海域まで出るのに、一週間はかかるな…。追い風だけど日数は縮まらないだろうし…」
壁に貼った海図には、行きの航路とかかった日数が細かく記されている。コンパスと定規を片手に思案していたルークは、ふと視線を感じて振り返った。
 いつのまにか、マルドルゥインがすぐ後ろに立って興味深そうに壁の図を見上げている。
 「それは、この大陸までの道筋か」
 「ああ。島伝いにここまで来たんだ。”闇の海”を突っ切る方法もあるけど、そっちは大型の船じゃないと厳しい」
言いながら、ルークはコンパスの蓋を閉じ、傍らの机の引き出しにしまった。エレオノール号がたどり着いたのが”火の国”の一部だったのだと、今でははっきりと分かる。持ち帰った岩のような生き物も確認出来た。報告された場所は、今回は通らなかった、沿岸部の何処かなのだろう。
 「船は、初めてなんだよな」
ルークが尋ねると、少年は頷き、少し眉をしかめた。「こ、こんなに揺れるものだとは思ってもみなかったぞ」
 「そのうち慣れる。気分が悪くなったら船尾のほうで吐いてくれ。船首だとジャスパーがいるから。」
 「吐くなど…」
むっとしたものの、マルドルゥインは明らかに具合が悪そうだった。
 「…揺れの問題ではない。余は炎の魔神だからな。その、海というのは、水だらけなわけで」
もごもご言っている少年をよそに、ルークは窓の外に視線をやった。船は、二つの国の境目の海峡を進んでいる。すなわち、進行方向の向かって右手が火の国、左手が巨人の国だ。そして行く手には、まだ見えてはいないが、海を分かつ「世界の果て」、霧の壁がある。今は真昼。その壁は伸ばした自分の手の先も見えないほどに濃く、流れ落ちる海の先を遮っているだろう。
 キャビンを通りぬけ、甲板に出ると、ミズハが振り返った。
 「また、夜になってから海を越えるんだよね」
 「そのほうがいいだろうな。階段を降りていくようなものだし、前も見えないんじゃ転びそうだ」
ミズハは、ちらと巨人の国のほうに視線をやる。
 「ご挨拶は、…いいの?」
巨人、ルー・ラー・ガのことだ。ルークは小さく頷いた。
 「そっか」
ミズハは、視線をまた船の進行方向に戻した。
 ルー・ラー・ガが伝えたかったことは、以前訪れたときにすべて聞いた。それに、巨人の国は、今のルークには、決して居心地のよい場所ではない。今のルークにとっての故郷は、フォルティーザの港町なのだ。


 波間に浮かんだハーヴィ号は、日が暮れ、星々が現れるのを、じっと待っていた。
 最初にたどり着いた、巨人の国の森の辺りだ。今は厚い霧に閉ざされている海の向こうには、かつてルークが住んでいた十三番目の島がある。
 西に傾いた大洋が水平線に差し掛かり空気から昼間の余韻が少しずつ消えてゆく。向こう側へと流れ落ちる海水の勢いは弱まりつつある。視界を阻む分厚い霧の壁は、ほころびを見せ始めていた。
 やがて空から昼の残り火が完全に消え、星々が支配する時刻がやってくる。
 「そろそろだね」
 「ああ」
ルークはキャビンに戻りながら、マルドルゥインとバルゴスに言った。
 「おれがいない間、船の中で暴れないでくれよ。」
 「何をする気だ?」
少年は、不思議そうな顔で寝台に横になるルークを見ている。船が揺れても落ちないようベルトで体を固定すると、ルークはゆっくりと意識を外に向けた。傍から見ていると、急に部屋の中の影が濃くなったような感じがしただろう。彼の意識が器を離れるとともに、船の外には、天を衝く巨大な影のような巨人が膝を波に洗われながら立っていた。
 悪寒を覚えてデッキに駆け出した少年は、見上げて一つ息をのむ。
 「あれが…、奴の本体か。」
 「で、でかい! マル様、マル様、やばいですよアレっ!」
バルゴスは興奮して飛び回りながら、鼻から火の粉を吹き出している。
振り返った巨人は、にやりと笑った気がした。その大きな手で二人の乗った船をいとも簡単に持ち上げると、もう片方の手で、水中からジャスパーの巨体を軽々と持ち上げる。輝く翼を生やしたミズハが、その脇をすいっと飛んでいく。輝く翼の導きに従うように、巨人はゆっくりと海の中を歩き始める。ゆっくりと。砕ける波のしぶきも巨人の小脇に抱えられた船までは届かず、背後に広がる黒々とした大地ははるか眼下だ。
 「――これが、巨人の長、ルー・ルー・ド…」
低くつぶやき、少年は、首に下げた革紐の先にある指輪を握り締める。その表情には、恐怖とも羨望とも付かない複雑な感情が入り交じっていた。


 段差のある海を越え、夜明け前には霧の壁の反対側についていた。「最果ての島」。島伝いの海路の終着点だ。
 朝日が昇る前の海は静かで、澄んだ水の底にはまだ魚たちの姿がある。島の反対側の入江に船をとめ、一行は島でしばしの休息を取ることにした。
 「ここに戻ってくるのも久しぶりだね」
 「だな」
島は相変わらず緑をたたえ、荒れ果てた火の国とは対照的な穏やかさで旅人を和ませてくれる。ルークは休憩もそこそこに、島に生えている(かつて自分が育てていた)食べられる木の実や果実を集めにかかった。航海中の食料にするためだ。長い航海中、保存食ばかり食べていると体調が悪くなるのは、知識としても経験としても知っている。それに、帰りは乗員も増えている。少しでも余裕があったほうがいい。
 岩によじ登って籠に果実をもいでいた時、かすかな砂を踏む音に気づいた。振り返るとマルドルゥインが、一人で立っていた。
 「どうかしたか?」
 「あ、いや…」
切り出しづらそうに足の先で砂を蹴り、少年はちょっと視線を逸らした。「さっきのお前の姿だ。あれが貴様の本性なのだな」
 「言っとくが、今のおれは人間だ。あっちも否定はしないけど」
視線を戻し、赤く色づいた果実をもぎ取る。
 「それでも昔のままの力を残しているのだろう」
 「昔のままじゃない。双頭の巨人の半分は死んだ。今あるあれは、大して力を持たないもう半分、”思考と再生の首”、――そう呼ばれてた方だけだ」
 「それでも」
少年は食い下がる。「その首の力は失われていないのだろう」
 「……。」
手を止め、ルークは振り返る。
 「なにが言いたい?」
 「つまり貴様は、その人間の器の中に、かつてのままの力を持っているということだ」
マルドルゥインの赤い瞳が燃えるように輝いている。「そのような姿になっても、――力は昔のままなのだ」
 「昔のままじゃ…」
 「巨人共は力在る者に頭を垂れる。その姿でも、貴様は奴らを従えられる」
それだけ言って、少年はふいと踵を返した。ルークは、ぽかんとしている他に無かった。だが見間違いでなければ、去ってゆくその時、少年の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 ――悔し涙か。
 ルークは、ばつの悪い気持ちになりながら、手にした果物を籠の中に置いた。マルドルゥインに肉体的にも精神的にも、子供のままだ。強気な発言を繰り返していても、力の大半を失っていることが辛いのだろう。
 しかし、だからと言って何をしてやれるわけでもない。
 力の大半を失ったという意味では、ロカッティオの魔法使いたちだって同じ。むしろ神魔戦争以前からの力を残している存在のほうが、この世界では稀有だ。存在そのものすら消えてしまった者が多い中、生き残れただけ、まだ、幸せなほうだったのだ…と、そのうち分かる時が来るだろうか。


 最果ての島を後に、ハーヴィ号はいよいよ帰路についた。今回も濃く視界を閉ざし、太陽でさえ、分厚い霧のヴェールの彼方にぼんやりとした輪郭を見せているだけ。行きの航路では、霧が出てきたのは、十二番目の島のあたりから。そして霧を抜けるまで、行きは五日かかった。帰り道も同程度の日数がかかるはずだ。
 色とりどりの光が反射して霧に踊る。
 「なんとも、落ち着きませんなあ…」
バルゴスは、窓に張り付いたままため息を付いた。狭いキャビンの中を振り返れば、彼の主もまた不機嫌そうにソファの端に腰を下ろしている。小さな羽根を羽ばたかせ、火トカゲは主のそばに寄った。
 「マル様、お顔の色が優れませんが」
 「狭い。」
そう言って、少年はむっつりとした顔を天井に向けた。
 「潮の匂いがキツいし、尻は痛い。することもない。おまけにやたらと揺れる。船は好きになれん」
 「そのうち慣れると思うよ」
と、ソファの後ろに吊るしたハンモックの上から、ミズハが言う。「でも、あたしもちょっと退屈になってきちゃった。ねえ、お話ししようよ」
 「…話?」
 「何がいい? なんでもいいよ。でもマル君、聞いてもあんまり自分のこと、教えてくれないよね」
 「……。」
少年は、視線を落とす。
 「国のこと、昔のことは話したくないのだ。屈辱的な過去など」
 「まァ記憶の継承が不完全で、あまり覚えていないというのが正確なとこですがな。」
余計な口を滑らせたバルゴスのほうを厳しく睨み、少年は一つ咳払いした。「…余は炎の魔神、それ以上語ることはない」
 「炎の魔神って、火の国を守ってたんでしょ」
 「そうだ。そこにいるバルゴスのような聖獣と、火の精霊たちを従えてな。」
 「どのくらいいたの?」
 「サラマンダーはおよそ二百。精霊は大小あわせて数千ほどだ。今は… 皆消えてしまったが…」
そう語る声は、次第に小さくなってゆく。
 「…やめだ。昔の話はどうも湿っぽくなって面白くない。こんなことになったのも、憎き天空王バージェスめのせいだ! ええい、忌々しい」
 「そういえばさ」ミズハは、ハンモックの上で体勢を変え、少年のほうにきちんと向き直った。「そのバージェスって人が、月を落としたって言ってたよね。どうして分かったの」
 「決まっておる。奴自らが名乗ったからだ。」
答えたのはマルドゥインではなく、バルゴス。鼻から荒っぽく息を吐き出す。
 「辺りが闇に包まれたかと思うと空が割れ、あの岩が降ってきたのだ! 転生の儀式の最中を狙いおって、なんと卑劣な。それはもう、この世の光景ではなかった…」
 「見てたの?」
 「ああ」
マルドルゥインは、硬い表情で頷いた。
 「…それが、余の記憶に焼き付けられた、最初の光景だった。あの声は今でも決して忘れない。嘲るような鐘の音と、侮辱の言葉は脳裏に焼き付いておるわ」
 「鐘…。」
 「何だか、面白そうな話してるじゃないか」
話し声を聞きつけて、奥の船室に続く廊下からルークが姿を現す。少年はむっとなって口を閉ざした。
 「そいつは、どうして火の国に攻撃を仕掛けたんだ? 理由は何か喋ったのか」
 「何もだ」
 「名乗っただけ? 本当に?」
 「だから、昔の話はしたくないと言っておるだろうが!」
乱暴に床を蹴り、少年は荒っぽくキャビンのドアを開閉してデッキのほうに消えていく。濃い霧に包まれて、その後姿はあっという間に見えなくなった。
 ルークとミズハは、顔を見合わせる。
 「聞いちゃだめなことだったのかな」
 「さあ…、どっちかっていうと、おれのことが気に入らないみたいだ」
 「貴様は巨人の長だからな」
訳知り顔のバルゴスは、主人の代わりとかわり、軽くルークを睨む。
 「巨人は長年に渡り火の国に何度も侵略を仕掛けてきた、いわば宿敵のようなもの。今は敵ではないとはいえ、心を許すなどありえん」
 「そんなこと言われても」
ルークは、頬をかいた。
 「おれだって昔のことは殆ど覚えてないんだよ。自分が何者だったかすら、思い出したのは最近の話だし…。」
自らの半身との戦いも、つい最近のことだ。
 「だけど、この先も一緒に旅をするなら、昔のことは置いといて腹を割って欲しいんだけどな。天空王バージェスが何者なのか、どうして月を落としたりしたのか、情報が必要なのは事実だ。」
ミズハも頷く。
 「一緒にいるんだもん。敵とか関係ないよ」
 「……しかし、なあ」
バルゴスは、尾を振りながらうろうろとソファの上を行ったり、来たりしている。「あのお方は、それがしの説得など意にも介されぬだろう。昔からそういうお方なのだ。」
 「バルゴスとマル君って、友達じゃないの?」
 「それがしは、ただの下僕である。聖獣サラマンダーとは、炎の魔神様によって創りだされた生命体であるからして」
 「でも、ずっと一緒にいたんだよね。」
 「それは…そうだが…。」
火トカゲは、口ごもる。重ねるようにミズハが言う。
 「だったら下僕なんておかしいよ。ずっと一緒に暮らしてるなら大事な家族だよ。」
話している間にも、船は霧の中を進み続ける。だが、表へ出ていった少年が戻ってくる気配はない。ルークは、心配になってきた。
 「ちょっと見てくる」
デッキに続く扉を開け、霧の中へ出てゆく。異常に濃い霧は、まるでミルクの中を泳いでいるような気分だ。伸ばした腕の先すら見えず、うっかりかると何かに足を取られてしまいそうになる。
 「マル! 何処だ」
太陽の光が薄ぼんやりと反射して、周囲で色とりどりに踊っている。進んでいるのか、戻っているのか、狭いデッキの上にいるはずなのに、現在位置も分からない。
 「マル!」
声さえも霧に阻まれ、届いているのかどうか自信がない。さまよっていた手が手すりに触れた。船の先端まで来たのだ。
 「船尾の方に行ったのかな? さすがに海に落ちたらジャスパーが気づくと思うけど…」
引換仕掛けた時、ルークは、手すりに縛り付けた樽の影で蹲っている赤い髪の少年に気がついた。
 「ここにいたのか」
ほっとして、手を差し出す。「中に戻ろう。外じゃ足元が危険だぞ」
 「…戻らぬ」
 「何でだよ」
 「何もかもが気に食わぬ!」
ルークとマルドルゥインの間に勢い良く炎が燃え上がり、熱が一瞬、周囲の霧を吹き飛ばす。
 「うわっ」
ルークは後すさった。髪の焦げる匂い。赤い瞳を輝かせながら立ち上がった少年の周囲には、正真正銘の炎が渦まいている。異変に気づいたジャスパーが、海面から顔を出す。海水をぶっかけようとするのを、ルークは手で制し、自分を睨みつけている少年にむかって諭すように語りかける。
 「よせ。こんな狭いところで暴れたら、自分もただじゃすまないぞ。」
 「こんな狭いところに閉じ込められねばならんのが気に食わぬのだ!」
叩きつけるように言葉を吐き、少年は首から下げた指輪を握りしめた。
 「巨人などに命運を握られることも、余が失った力を下賤の巨人などが持っていることも! 分かっておる、今のままではバージェスめを倒せる可能性などない。指輪を取り戻したところで、かつてのどれほどの力が残っているというのか。無様だ。あまりにも無様だ。このまま無効の大陸へ渡ったところで、余は…余は…」
そこまで言ったところで、ふつりと緊張の糸が切れたように炎が消え、少年は声を上げて泣きだした。火から水へ。ジャスパーは、ぽかんとして甲板の上を見下ろしていたが、罰が悪そうな顔になって水面の下に姿を消した。
 泣きじゃくる少年を半ば強制的に抱えるようにして、ルークはキャビンに戻ってきた。霧は変わらず、船の周囲を渦巻いている。霧が薄れるのは、日が暮れてから。そして、この濃い霧に閉ざされた世界を抜け出すには、最低でも、あと何日かは航海を続けなくてはならない。


 空気が冴え渡り、星々の支配する夜がやってくる。
 その夜は風もほとんどなく、波は穏やかで、海の表面はまるで鏡のように静まり返っていた。空に残された一つだけの月が海を照らし、波頭を銀に染める。大海原をゆく小さな船のほか、動くものは何もない。船首に立つルークは、星の角度を確かめていた。かつてここを通った時に見た星座は、今は様変わりしている。季節が移り変わろうとしているからだ。
 背後でキャビンの戸が閉まる音がした。
 「マル君、寝てるみたい」
ミズハが隣にやってくる。
 「きっと不安だったんだね。生まれた国を出てきて、知らないところに行くんだし、そこは自分の国を滅ぼした敵のいる大陸だし…」
 「偉そうな口きくわりに、意外と中身は見た目通りだからなあ。」
 「そうだね。百五十歳とは思えないね」
今回のことは、思い通りにいかない子供の癇癪とも取れた。それに、彼にとってこれから向かう先は、いわば敵地なのだ。
 「…考えてみたら、おれたち、この短期間で色んなところに行ったよな」
 「うん?」
少し前までは神魔戦争時代のことなど漠然としか認識していなかったのに、気がつけば、その戦争の真実に深く関わってしまっている。多くの結末を見、消えてしまった存在、変わり果てた存在、生き残った存在――自分も含め――を、目の当たりにしてきた。
 「神魔戦争は、君にも無関係じゃない」
 「分かるよ。あの、島の上に浮かぶ大岩でしょ?」
ルークは、小さく頷く。
 「”悪い王様が海をひっくり返した時、岩が落ちてきた”…前に、そう言ってたよな」
 「うん。お母さんにそう教わった」
 「無関係だとは思えない。火の国を壊した月の欠片と… ”霧の巣”の空から落ちてきた大岩」
 「同じ人がやったってこと?」
 「そんな気がする。だとしたら、”悪い王様”はバージェスで、サラサさんと敵対していたことになる。神魔戦争っていうのは、もしかして――」
予感は形になり、散らばった断片は朧気に一つの形を描こうとしている。だが、まだ何かが足りない。精霊たちの消失、千年前に始まった異変、消えたもう一つの月。その時、ルークはふと絵思い出していた。”神魔戦争”について、巷で歌われる、誰でも知っているあるフレーズを。
 
 ”平らなテーブルだった世界は丸くなり、
 三つあった月が一つになり”

空を見上げる。月は――相変わらず、あばたづらをこちらに向けたまま、静かに輝いている。

 ”世界の果て”
 ”平らなテーブルだった世界”

神王と魔女。あるいは、女神と魔王。
今いるこの世界は、変わってしまったあとの世界…だとしたら、変化が起きたのは何時なのか。一体誰が、それを認識していたのか…。


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