<第二章>

竜の棲む海


 冷たい海風を切り裂いて、ハーヴィ号が進む。すれ違う船はなく、海には、見渡す限り自分たちの船しかない。
 冬至祭りの頃には漁師たちも海へは出ない。沖合いはそうでもないが、港に近い近海は少し波が高くなり、魚が捕りにくくなるからだ。

 珍しく他の支部からの依頼での仕事だった。
 今回の目的地は西の海、”青の洞窟”。黒い海竜の繁殖地で、特別保護区という名目で”協会”預かりとなっている。管轄はラヴィノーザ支部。”巨人の信奉者”の襲撃事件があった時も無傷のまま残った支部で、他の支部と異なり、教育機関――つまり、学者を養成する大学を活動の主体としている。自ら調査は行わず、もっぱら未開地学者たちの持ち帰った情報の研究・分析に当たる施設という位置づけなのだ。そのため、調査船や調査員はほとんど居ない。
 「ねえ、ルー君」
 「ん?」
ルークはコンパスを片手に海図で現在位置の確認をしているところだ。
 「ジャスパーって、今から行くとこで生まれたんだよね」
 「そうだよ。」
 「帰りたくない、って言っていたの。なんでだろ?」
手を止め、彼は入り口に立っている少女のほうを見やった。
 「帰りたくない?」
 「うん。」
 「うーん… なんだろうな。」
グレイスから聞いた話では、ジャスパーが群れから引き離されたのは、卵の状態だったという。孵化させたのはラヴィの支部の施設の中だったというが、それ以降、一度も群れとは接触しておらず、成長してからも再び洞窟を訪れたことは無かったはず。
 「ジャスパーは、育児放棄された卵だったらしい」
 「育児放棄?」
 「そう。大きな嵐で洞窟が壊滅状態になったとき、母親が衰弱して卵を抱けなくなったんだ。黒い海竜の群れは他人の卵には無頓着なことが多いらしい。母竜が死ぬ直前、見るに見かねたグレイスが孵化する直前の卵を持ち帰ってきて」
最初から、群れにもどすことは考えていなかった。黒い海竜の世界では、一度群れからはみ出した仲間は、たとえ同種族であっても再び受け入れることはしないと、今までの研究で分かっていたからだ。
 「じゃあ、ジャスパーって、自分のお母さんのことも、故郷も知らないの?」
 「たぶん。」
船は進み続けている。船の下で、ジャスパーが泳いでいるからだ。そういえば、この航海に出てから、ジャスパーは一度もルークに方向をたずねていない。初めて行く海域では、途中何度かは船を止めて、ルークに向かう方向を尋ねるのが常だったはずなのだが。
 知らないはずの故郷。しかし、海竜には帰巣本能があるという。
 あるいはジャスパーもまた、体のどこかで、故郷へと至る道を感じ取っているのかもしれない。


 洞窟が見えてきたのは、それから更に数日、海路を辿った後だった。
 比較的暖かだった南の海からの風が西から吹く気まぐれな季節の風に取って代わられ、雪の降るかわりにカラリと乾いた冷たいだけの空気が漂っている。
 前日まで海の上を覆っていた分厚い雲は今日は薄れ、切れ間から光が射している。
 洞窟の入口は、割れた岩盤の下にほぼ三角形に口を開けていた。本を開いてひっくり返したような形で、割れた部分には背表紙よろしく新しい土の層が積み重なっている。岩には、土が綺麗に積み重なった層が本のページのように水平に筋を作っていて、それも本を思わせる要因になっていた。
 洞窟のすぐ脇、崖を登った先に小さな監視施設が立てられており、”協会”の旗印がひらめく。洞窟に近づくにつれて船の速度は落ち、やがて完全に止まってしまう。ジャスパーが水の中から首をもたげた。
 「ジャスパー、岸につけて。あの建物に行きたいんだ」
甲板から身を乗り出したルークが指さすと、ジャスパーは一声、小さく声を上げて水中に戻ってゆく。洞窟からはまだ数百メルテは離れているが、ここからでも、入り口にたむろする海竜たちが不審そうな顔つきでこちらを見ているのが分かる。
 「あんまり嬉しくないみたいだね」
隣に立つミズハが言う。「ジャスパーも、あそこにいるひとたちも」 
 「ひと? …ああ、海竜か。」
 「迷惑そう」
 「まあ、あんまり人に慣れる生き物じゃないからさ」
ハーヴィ号は、洞窟を大回りに迂回して、少し離れた岸壁についた。そこには小さな桟橋が作られており、崖の上の施設まで続く急な階段が崖に張り付くように作られている。ルークは時計を見る。ほぼ予定していた通りの時間だ。
 「ジャスパーは、ここで待っててくれ」
船を降り、崖の階段を登ってゆく。途中で振り返ると、船の周りを落ち着かなさそうに泳いでいるジャスパーの影が、水面に小さく見えた。崖の高さはそれほどでもないと思っていたが、意外に海面から距離がある。
 崖を登り切ると、そこは小さな中庭になっていた。
 気温と湿度を計測する機器をしまいこんだ百葉箱、長靴や手袋が屋根の下に吊るされ、白い建物の壁には誰が描いたのかイルカの絵が踊っている。エントランスには逆さまにひっくり返したボートが二つほど並べられていた。
 それらを眺めていると、階上からばたばたと足音がした。
 「あー、お客さん? ごめんごめん。」
駆け下りてくるのは、海釣りをする漁師たちが着るような防水ジャケットに身を包んだ女性学者。潮焼けした赤っぽい髪の毛を無造作に頭の後ろでまとめ、ジャケットの腕には”協会”の印がついている。そのせいもあって、どこか”逆さ大樹の森”で出会った女性未開地学者のカーリーを思い出させた。
 「はじめまして、ミゼット・ホールディよ。フォルテ支部から来てくれたのよね」
と、握手を求めるように手を差し出しながら彼女は言った。女性にしてはゴツゴツした大きな手だ
 「ルーク・ハーヴィです。こっちはミズハ」
 「よろしくね。ちょっと今みんな出払ってて、私一人しかいないんだけど――あ、荷物はある? ここ手狭でねえ」
 「船においてあるから、大丈夫です。泊まるのも船で大丈夫」
 「寒いんじゃないの? ここの二階なら一応、泊まれるわよ。寝心地がいいかどうかは別として。早速だけど、時間あるかしら」
ミゼットの喋るペースは早い。ここのリーダー格の学者なのだろう。てきぱきとした動きで一階奥の中庭に面した部屋に入っていく。
 そこは会議室のようだった。部屋の中央には大きな丸テーブルがあり、地図や写真が広げられている。だが、飲みかけのコーヒーが床に置き忘れられ、脱ぎ捨てられた上着がソファの上に散らばって、とても落ち着いて話を出来る環境ではない。
 「何だか…、忙しそうですね」
 「まあねー。うち、元々人手不足なの。予算もないし」
言いながら、ミゼットは机の上に散らばった資料を片付けている。
 「えーっと、あれはどこにやったかしら…ちょっと待ってね」
ルークは、部屋の壁際にある本棚のほうに目をやった。乱雑に積み上げられた専門書や、報告書を閉じたファイルの数々。何故か本と本の間に酒瓶なども突っ込まれているのを見て、ルークは苦笑した。ホコリだらけで、しばらく掃除もしていない様子だ。
 その中に、時計と一体になった写真立てがある。左側は止まって久しく、見当違いの時刻を指したまま止まっている時計。上部には、「ラヴィノーザ支部 青の洞窟観測所一同」の文字。右側の写真には、この写真立てのつくられた当時と思われる古びた写真が飾られていた。
 ルークの視線に気づいて、ミゼットは手を止めた。
 「ああそれね、前任の所長の置き土産。私はここの二代目。あなたのお祖母さんもいるはずよ? 探してみて。」
 「グレイスが?」
近づいて写真立てを取り上げ、埃を払う。こびりついた曇りのようなものは取れないが、写っている十人ほどの人物ははっきりと見えた。後ろにあるのはこの建物だろうか。今はないが、当時は風車のようなものも併設されていたらしい。
 「本当だ」
どれがグレイスなのかは、すぐに分かる。後列の一番端、控えめにはにかむような表情で写っているグレイスは、以前のハーヴィ号で見つけたあの写真と同じくらいの年齢に見える。
 「あなたのお祖母さんはラヴィの大学出身だったらしくてね。最初はここに務める話もあったらしいんだけど、本人が断って―― あ、あった!」
振り返ると、ミゼットが資料の山から一枚の大判の写真を引っ張りだすところだった。
 「これで話を始められる」
 「何、これ?」
さっそくミズハが覗き込んでいる。
 写真に写っているのは、崖の壁面だった。一面の青い壁、その中に、まるで閉じ込められたまま時を止めたかのような、見事な海竜の骨格が綺麗に埋もれている。
 「これが今回問題になってる化石よ。洞窟のかなり奥のほうにある。」
 「すごいですね。…完全な姿だ」
 「ええ。大発見よ。でも喜ぶことばかりじゃなくて…。ここのところ、洞窟は崩壊が進んできているの。」
ミゼットが差し出した次の写真では、岸壁を遠目に映している。そこには、周囲の壁が剥がれ落ち、崩壊していく様子がはっきりと映しだされていた。
 「ここの岩は特殊でね。本のページを積み重ねたようになってるでしょう」
 「元は海中にあった、って感じですね。地震か何かで今の形に盛り上がったんじゃないかな」
 「そうね。だから、かつて海の中にあった化石が見つかることが多いのだけれど、何しろここは海竜の繁殖地だから…。」
と、彼女はため息をつく。
 「調査は彼らのご機嫌しだい。自由に調査は出来ないのよね」
写真の中には、水中から首を出したり、水面に出た岩の上に寝そべったりして撮影機を睨みつけている、大小様々な海竜たちの姿が写っている。
 「おれたちを呼んだのは、そのため?」
 「ええ、そう。これだけの大発見を、みすみす崩落で失うわけにはいかないと思ってね。――ずばり言うわ、お願いしたいのは交渉役」
 「交渉…」
 「海竜たちを何とか説得出来ないかと思ってね。私たちがこの化石を取り出すまで、手を出さないでいてくれたらって」
ミゼットの言わんとしていることは分かっている。黒い海竜は知性が高いぶん気性が荒く、人間の飼育下で育っても、人には慣れずに結局海に戻されてしまうことが多い。ジャスパーは、人間と共存出来ている唯一の例だ。
 「でも、あいつ嫌がると思います。」
 「どうして?」
 「ここの海竜のことは仲間とは思っていないようなんです。ここが故郷なのは、知っているみたいなんですが…」
ジャスパーは、明らかに戻ることを恐れ、嫌がっている。卵の状態で群れから引き離されたものを、仲間が受け入れてくれないのかもしれなかった。
 「とりあえずは、やってみます。明日、洞窟に行ってみますよ」
 「お願いね。そのときは、私も一緒に行かせて。今日はこれからちょっと出かけなきゃだから――」
言いながら、ミゼットは上着のポケットから鍵の束を取り出し、机の上に置いた。
 「これ、ここの建物の鍵。誰も来ないと思うけど、頼むわね。」
 「え、どこへ…」
 「ラヴィの大学。講義があるの。これもお仕事だからね。夜には戻るわね」
時計にちらりと目をやり、ミゼットはあっというまに出ていってしまった。表で車のエンジンのかかる音がして、やがて遠ざかってゆく。
 ルークは、海と反対側の窓から外を覗いてみた。今いる崖の上の監視施設から急な道を下った先には、ラヴィノーザの町がある。中央部にあるのが支部を兼ねた大学と研究施設。町からは小さな入江と浜辺に繋がっている。つまり、この施設だけ、崖の上に隔離された恰好なのだ。
 どうしてこんな不便なところに施設を作ったのかは前任者に聞きたいところだが…、町も、洞窟の入り口も見下ろせるのだから、交通の便さえ我慢すれば、一番よい場所とも言えるのかもしれなかった。
 「さて、」
と、ルークは、まだ写真に見入っているミズハのほうを向いた。「どうする? 説得だって」
 「お話するだけなら、出来るよ」
少女は、首をかしげる。「でもこれ、――この大きい海竜の骨、外に出すのは駄目だと思う」
 「どうして」
 「このひとたち、これが大事なものだって言ってる気がする」
ミズハは、撮影機を睨みつけている海竜たちを指した。
 「まあ…な。ご先祖様の遺体を別の種族が持ちだして研究しようってことなんだから」
黒い海竜の知能は、人間のそれとさほど変わらないとも言われている。倫理感覚や感情の起伏に差異はあれど、人間より遥かに長い寿命を持つ海竜たちは、場合によっては人ど同等かそれ以上に知性的でもある。
 冷たく乾燥した風に乗って、どこか遠くから海竜の吠える声が響いた。
 ここはもう、穏やかに海鳥たちの舞う南の海ではない。太古の生き物たちの統べる西の海なのだ。


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