<第二章>

果ての島へ


 霧が出てきたのは、十二番目の島に到達しようかという頃だった。
 絹織のような目の細かい霧の奥には辛うじて島影が見えているが、それもギリギリといったところ。しかも進むにつれて霧は濃くなり、やがて、船首に立っていると船尾が完全に隠れるほどになってしまった。空は完全に覆われ、薄ぼんやりとした光が拡散して太陽の方角も定かではない。
 「参ったな…」
前もってジョルジュに聞いていたとおり、ではあるのだが、まさかこれほどとは。計器も狂ってしまっていて、方角も距離もつかめない。
 ジャスパーが海中から顔を上げた。
 「大丈夫って言ってるよ。水の中なら方角分かるって」
 「次の島がけっこう小さいんだ。方角は、南南西。ここから五日くらいの距離」
海竜は頷いて、水中に姿を消す。船が動きはじめた。
 「しかし、すごい霧だな。」
 「うん、こんなのはじめて」
まるで生きているかのように、霧が踊る。ももいろ、橙、黄色。太陽を囲む光の輪が空に現れては消える。見ていると頭がくらくらしてくる。
 「何にも見えないなあ…。これ、吹き飛ばしてみてもいい?」
 「吹き飛ばすって?」
 「えいっ」
少女は翼を広げると、デッキを蹴って飛び上がった。大きく羽ばたくと、その周囲に風が生まれ、霧を押し戻す。船を中心にして沸き起こった風は思いのほか激しく、、海面を揺らして水面に輪を作る。船から振り落とされそうになったルークは慌ててデッキの端の手すりにしがみついた。
 「ちょっと待った待った! おれまで落ちる」
 「ごめんー」
ミズハは翼の動きをゆるめた。だが、今の一瞬の強風で、周囲の霧が晴れたのは確かだ。海面に目をやったルークは、思わず息を呑んだ。
 海底までも見渡せる、凄まじく透明な水。水中には色とりどりの花が咲いている。いや――花のように見えるそれらは、サンゴの森だった。美しい、あまりにも幻想的な水中の森。だが―― そこには、生物がいない。
 「どうしたの? ルー君」
 「魚がいないんだ」
これまでの海域は、種類は違えど様々な魚がいた。だがここは、まるで獣のいない森のようだ。
 「ジャスパー!」
ルークは、船首で海竜を呼んだ。黒い頭が水面に現れる。
 「魚がいないと思わないか」
不審そうな顔をして、海竜はミズハのほうを見た。
 「確かにいないよ、って。」
ミズハが羽ばたくのをやめたせいで、霧が船の周囲に戻ってきた。ジャスパーは再び海中に没する。ミズハもデッキに降りてきた。
 「どういうことなんだろ」
 「…分からない。魚のいない珊瑚礁なんて初めてだ」
さっきまで見えていた海面は、今はもう霧に覆われてしまった。周囲は再び濃い霧のヴェールに閉ざされてしまっている。海中にいるジャスパーはそうでもないのかもしれないが、デッキにいると、自分の伸ばした手の先も見えずに圧迫されているような気持ちになってくる。
 ルークたちは、航路をジャスパーに任せて船の中に入ることにした。キャビンの中まで白い霧の尾がついてくる。
 「次の島まで、五日くらいだっけ」
 「そう。」
 「久しぶりにゆっくり出来るね。」
ミズハは戸棚からいそいそと本を取り出している。
 「…お前は相変わらずだなぁ」
 「何が?」
本を開きながらソファに腰を下ろす。
 「いや。何でもない」
このくらい気楽なほうが、長旅には向いている。ルークはミズハを残して、地下階へ降りていった。船の胴体部分の中にあたる地下階は、めったに使わない簡易シャワーと洗い場、それにトイレが隣接している。ここで用を足せば、汚れた水はそのまま船尾方向に流れ出して海に捨てられる。反対側が、飲料水や食料などを貯蔵した食料庫。雨水をろ過して使うための装置もある。ハーヴィ号には燃料で動く船のような機関部がないおかげで、船体の中を広く使えるのだ。
 「まだ、余裕はあるな…」
水と食料の残りを調べて、ルークはほっとした。レムリア側で食べられるものが見つからなかった時のことも考えて、予定より余分に積んできている。たとえ再生の力があっても食あたりがキツいのは、ミズハの初期の手料理のお陰で十分に理解している。それに今回は、この航路の四番目の島に中継基地が作られている。最悪、そこまで戻ることが出来れば、水と食料の補給は可能なはずだ。
 問題はジャスパーのほうだ。
 ジャスパー用の食料は、非常用に積んできた乾燥した海藻類が二束だけ。せいぜい二日分にしかならない。海竜は魚や海藻を食べる雑食性の生き物だが、もし、この海域に食べられそうな魚や海藻が無ければ、ジャスパーは船をおいてまず食料さがしに出ることになる。
 この航路に入ってから、海鳥の姿を見かけないのも気になっていた。
 単に見かけなかっただけか、巣をかけるに相応しい島が無いだけかもしれないが、良港にはたいてい、海鳥たちのコロニーがあった。未知の海域を探索する場合、海鳥を基準にすることも多い。南の海なら、海鳥を見かければ、すぐ近くにそれなりの大きさの島があるとすぐに分かったのだが。
 「あの霧のせいなのか…?」
船室に上がりながら、ルークは呟いた。航路図を貼ってあるほうの部屋の窓から見える外の風景は、相変わらず真っ白だ。色とりどりに輝き、ちかちかと踊るさまは、まるで霧全体でひとつの生き物のよう。この世とこの世ならざるものの境界線――この霧の海に「世界の果て」の伝説が生まれたのも不思議はない。
 計器は狂ったまま、通信機も反応しない。次回の定時連絡は諦めるしかなさそうだ。
 簡易ベッドに横になり、ルークは腕を額に置いた。考えるべきことは沢山あったが、今は考えても仕方がない。波に揺られながら天井を眺めているうち、やがて、ゆるゆるとした眠りに落ちていった。


 「ルー君、ルー君」
ゆさぶられて、ルークは目を覚ました。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。目の前に、ミズハの顔があった。
 「星が出てきたよ」
 「星…?」
 「うん。霧が晴れてきたみたい」
そして、もう夜というわけだ。暗い船室を見回して、ルークは寝台から起き上がった。窓の外には、確かに波と星空が見えている。
 デッキに出てみると、昼とは打って変わって穏やかな潮風が吹きつけてきた。海面から、ジャスパーが顔を出す。
 「魚が戻ってきた、って言ってる。潮の流れが変わったよ」
 「ほんとに?」
どぼん、と大きな音がして、船のすぐ近くで大きな魚が飛び跳ねた。嘘ではないらしい。
 ジャスパーは、船を背中にひっかけて泳ぎながら、長い首を動かしては魚を次々とらえて飲み込んでいる。
 「美味しいみたいだよ。」
 「それは良かった、けど…。」
暗い波間には、銀色に輝く魚の群れが見えている。昼間は全く魚がいなかったのに、どうして急にこんなに沢山の魚の群れが現れたのだろう。
 「夜行性ってわけでもなさそうだな。…昼と夜で潮の流れが変わるのか?」
 「うーん」
ミズハは、空を見上げる。
 「知ってる海じゃないから、よく分かんない。でも、あの霧が出てたときと今だと、全然ちがうね」
 「明日もまた、霧が出るかな」
 「そんな気がする」
だとすると、今のうちにラスやウィルに連絡を入れておいたほうがいい。それに、ここはもう、”最果ての島”に近い。ここから先、どこまで通信機が使えるかは分からない。
 「不安なの?」
そんなルークの細々とした思考や表情の変化を感じ取ったのか。心の奥を見透かされたような気がして、ルークはぎくりとした。
 「ミズハは、不安じゃないのか」
 「どうして不安になるの?」
 「どうして、って…。」
デッキの手すりにもたれ、項の上で一つにまとめた髪を海風になびかせている少女の瞳には、長旅の疲れやストレスを感じさせる気配は何もない。翼をもち、自由に空を舞うことの出来る彼女にとっては、海全体が家なのだ。この狭い船に縛られている必要はどこにもない。
むしろ海風から遠い陸の上での生活のほうが、気疲れするのかもしれない。
 「…おれは、海に出る時は、いつも不安だよ。戻れるかどうか分からない。何かあっても、海の上では人は無力だしさ。」
 「そっか、ルー君泳げないんだっけ」
 「泳げたとしても、ここからじゃ陸までたどり着けるかどうか分からない。辿りつけたとしても、誰も通りかからない場所じゃ、二度と家に戻れないかもしれない。」
 「……。」
ミズハは、きゅっと眉を寄せ、考え込んでいる。
 「もしかして、…海に出るのって、すごく大変なこと?」
 「そうだよ。ミズハが飛べなくなった時のことを考えてみればいい。翼をなくすのと、船が壊れるのと同じことなんだ」
少女は、不思議そうな顔だ。
 「そんなに大変なのに、未開地学者は海に出るんだね」
 「そう。そうしなきゃ出会えないものがあるから。君のお父さん、ハロルドさんだって、そうして島にたどり着いた。だから、ミズハがここにいる」
そして、ルーク自身も。
 危険を冒して誰も知らない世界へ赴く者たちがいるからこそ、世界の姿が明らかになり、道が作られる。生きて戻れないかもしれないが、それ以上に知りたいと願う。不安はあっても、誰もまだ見たことのない世界を知る喜びは、それに勝る。


 白み始めた夜空を、見知らぬ星座が巡る。
 明け方前、ルークは早めに起きだしてデッキに出てみた。晴れた東の空は明るんできていたが、空の低いところには、既に薄紅色の靄がかかりはじめている。今日も早いうちから霧が出そうだ。
 船体に打ち寄せる波は穏やかで、ジャスパーは船の出っ張り部分に頭をひっかけて、うととしていた。海竜は肺呼吸する生き物だが、呼吸器官は頭の瘤の後ろにもある。頭が水面から出ていれば、体は水の中に沈めたまま、呼吸しながら眠っていられるのだ。
 ルークは船べりから水の中を覗きこんだ。透明な水の中、色とりどりのサンゴの森で、魚たちが動きはじめている。今はまだ、魚がここにいる。ということは、昼間だけ別の場所に移動するということか。
 波が揺れる。海面に映る船の影とともに、自分の影も波間に投影されている。
 不安の原因は、未知の海を旅しているからだけではない。目的地が近づくにつれ、別の不安が生まれつつあることを自覚していた。
 ルークは、”双頭の巨人”の片方、「思考と再生の首」から生まれた。そのものの現在の姿と言っていい。その事実を受け入れるには時間がかかった。しかし、受け入れられたとは言っても、過去のすべてを肯定できるわけではない。あのハリールードとかつては同じ一つの体を共有していたなどと、どうしても理解しがたい事実だ。
 かつての自分が、正反対の気性を持つもう一つの首と体を同じくしていた時、「何をしたのか」…。
 海の向こう、今から行こうとしている大陸は、双頭の巨人がかつて住んでいた土地でもある。ということは、ルークの過去の姿を知っている者がまだいるかもしれない。思い出せなくても、それが決して平和的な共存などではなかったことは、薄っすらと覚えている。”行動と破壊”の首、ハリールードが実際にやったことを考えれば、それと同じようなことが起きていたに違いないのだ。
 去りゆく夜を飾るのは、南の海では見慣れない星々。昔は知っていたはずなのに、いまは何も記憶にひっかかってはこない。
 ”闇の海”の向こうには、魔物に呑まれた大陸がある。フォルティーザの古い言い伝えではそう言われていた。その魔物とは、果たして何だったのか。自分ではないことを祈りながら、ルークは、水平線上で霧の中に滲んでいく朝日に視線を投げかけていた。


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