<第二章>

果ての島へ


 通信機から、かすかな雑音とともにミゼットの声が響いてくる。
 『通信確認、こちらラヴィノーザ観測所。聞こえますか?』
 「こちらハーヴィ号、通信良好です。現在、沖合い一つ目の島付近」
ラヴィノーザを出て数時間。朝もやの中、ハーヴィ号は通信を確認しながら島をたどり始めていた。確認されている十三の島のうち、最も手前にある一つめの島は、大陸から目視で確認できる距離にあり、近隣を航海する船が訪れることもある。ここまでは、ちょっとした遠足レベルでしかない。
 『その島の入江に壊れかけた桟橋が見える? 昔はそこに小さな漁港があったらしいの。今はめったに使われることがないけどね』
通信機を通じて、ミゼットの声が聞こえてくる。
 『そこから先がほぼ未知の海域ね。どこまで通信が通じるかわからないけど、気をつけて。うちのスタッフは何時でも待機してるから、何かあったらすぐ連絡を頂戴』
 「ありがとうございます」
ルークは、窓の外に目をやった。普段より進む速度が早い。”青の洞窟”と同種の海竜たちから離れたくて、ジャスパーが飛ばし気味なせいだ。壁の海図に目をやる。このぶんだと、明日にはニつ目の島が見えてくる海域に到達する。
 デッキに出ると、ミズハが翼を広げて、周囲に鳥たちを飛ばしていた。鳥たちは、周囲の風向きや、水面近くの障害物を波の上から見分ける事ができる。
 「そっちはどう? 何か異常は?」
 「ううん、何も。お天気はいいし、しばらく順調だね。」
少女は船の舳先から波の下に目をやる。そこには、ジャスパーの黒い影が伸び縮みしているのが見えていた。
 「頑張ってるな」
 「このあたりは、まだ陸に近いから落ち着かないんだって。」
振り返れば、遠く水平線のあたりに微かに岸辺が見えている。今たどっている航路の先にある浅瀬は、かつてシェムスール人、つまり海竜たちの祖先が暮らしていた大陸が、水没して出来たものだという。島々はその名残り。だとすれば、この辺りは海竜たちの「行動範囲」ということになる。
 雲の流れが早い。
 沖合に出てからずっと、向かい風に押し戻されているような感覚がある。
 「ジョルジュさんは、”最果ての島”まで半年近くかかったと言ってた。」
 「この船だと、もっと早いんでしょ?」
 「行きはね。島のある位置がわかってるし、風に逆らってジグザグに進まなくて済む。ただ、戻りは追い風を受けられないぶん、こっちが遅いと思う」
何かトラブルが発生した場合の遅延を計算に入れての、最大十ヶ月、だ。おまけに、極端な浅瀬の海は、島として見えている以外にもあちこちに岩礁が出っ張っており、海流の流れは複雑だ。ジャスパーに任せていられるハーヴィ号など特異なほうで、人の手で航路を定めるとなると、気を抜くことが出来ない。
 最初の島が通りすぎてゆく。ミゼットの言った通り、半ば海水に浸かった桟橋が見える。
 船はいよいよ、地元の船が行き交うこともなく、何かあってもすぐに助けの来ない領域へと踏み込むのだ。だがそこはまだ、海竜たちの領域であり、過去にグレイスやジョルジュの辿った航路でもある。
 「…大丈夫。”闇の海”とは違う。正常だ」
計器類に目を走らせながら、ルークは呟いた。操舵は基本的にジャスパーに任せているとはいえ、気温計、気圧計、湿度計、方位磁石など、洋上で現在位置と気候状況を知るための装置はハーヴィ号にもひと通り揃っている。
 「どう違うの?」
 「”闇の海”は、計器が嘘をつくか、天候が嘘をつくんだよ。磁石がとつぜんひっくり返る。これは磁石が騙されてる。とつぜん湿気が高くなる。これは天気がおかしくて、ありえない速度で気候が変わってる。ミズハのいた島のあたりは、それほど顕著じゃなかったけど。」
 「ふーん」
少女は首を傾げた。
 「島の周りはしょっちゅうお天気変わるけど、あんまり気にしたことなかったなー」
 「”霧の巣”の周りも激しかったけどね。航海に向かない海、危険が多すぎる海。だから”闇の海”なんて呼ばれてる。島もなくて迷ったり嵐しに遭ったりしたら終わりだから、エレオノール号みたいな大きな船しか渡れない」
 「この海は、そうじゃないってことね?」
 「ああ。この船でも問題なさそうだ、今のところは」
だが、海である以上、急激な天候の変化はあるし、場合によっては嵐が来るのは避けられない。


 風が出てきたのは、ラヴィノーザを発って十日ほど経った頃だった。
 現在地点は四つめの島の手前。三つ目の島を過ぎてから、かなりの距離が開いている。事前の予想では、次の島が航路上に点在する十三の島の中で最大のはずだ。十分な広さがあれば、通信の中継基地を築ける。四つめの島に到達したら、いったん島の状態を確かめるために上陸する手はずになっていた。
 風向きは相変わらず向かい風。船の進みが遅くなっているのは、そのせいだけではない。
 「ルー君」
甲板にいたミズハが、船室に入ってきた。航路図に現在地を書き込んでいたルークは、手を止めてふりかえる。
 「ちょっと来て」
甲板に出ると、ジャスパーが水面に顔を出していた。惰性に任せながら、ゆったりとひれを動かしている。
 「風が強くなってきたの。雨雲が近づいてきてる、このままだと夜には嵐になるかも。どうするか? って。」
このまま急いで進めば、島の近くまでたどり着けるかもしれない。だが島にたどり着いても入江など避難できる場所があるかは分からない。嵐を回避するために大回りの航路を取ることも出来るが、次に辿り着くべき島を見失う危険もある。
 「…このまま行こう」
嵐の中を突っ切ることは、滅多にない。もともとハーヴィ号は船としては小型で、嵐には強くない。敢えてこの道を選ぶのは、期限つきの航海だからでもある。
 「ジャスパー、頼む。最大速度で」
海竜は小さく声を上げ、水面に沈んでいった。と同時に、船全体が揺れ動く。ハーヴィ号は、白波を蹴立てて海を走りはじめた。
 風に湿気がまじり、冷たく横からも吹きつけてくる。雲行きが怪しいことは、ルークでも分かる。
 黒い雲が、行く手の水平線に低く広がっている。
 「夕方には荒れだしそうだな…」
呟いて、彼は甲板の上を見回した。
 「ミズハ、海に落ちそうなものないか確認して。ボートはしっかり固定するんだ。あと部屋の中のものが揺れて壊れないように片付けないと」
 「うん」
 「おれは、連絡を入れてくる」
船室に戻ると、ルークは通信機の回線を開いた。五つ目の島までは通信機が使える、という話だったが、既に今の地点でもかなりのノイズが乗っていて、通信機の声はほとんど聞こえない。
 「こちらハーヴィ号。ラヴィノーザ観測所、応答願います」
 『…い、…です。 ザザッ』
やはり駄目だ。ルークは窓の外を見た。嵐のせいもあって、ノイズはいつもより酷くなっている。通信機は魔石の共鳴作用によって遠距離と通信を行う装置だが、魔石の特性上、大気の状態や、近くの岩盤から出る波長に左右されやすい。
 『ルーク君? 聞こえる?』
ミゼットの声が辛うじて届く。
 「聞こえてます。嵐に接近しています。これから四つめの島に向かいますが、場合によっては次回の定時連絡が出来ない可能性が」
 『…何? ごめんなさい、よく聞こえなくて…嵐?』
 「嵐です。次回の定時連絡がなくても心配しないで」
 『…ザザッ』
通信は途切れてしまった。
 最初の雨粒が、ぽつりと窓に舞い落ちる。それはやがて、船全体を覆う薄い水のカーテンとなり、視界を白く覆ってゆく。ばたばたと屋根を叩く音が船内に響き渡り始めた。船の揺れが大きくなってきている。間もなく、船は黒雲に突入する。島影はまだ見えない。
 間もなく、周囲は夜のようになった。闇波が船首を洗い始めている。船は大きく上下に揺れた。
 「きゃ」
 「っと、大丈夫か?」
リビングに入ったところで、よろめいたミズハとぶつかりそうになる。
 「このぶんだと、島に辿り着けそうにないか…最悪、ここで碇を降ろすしか無いな」
航路を外れるよりはマシだ。少なくとも、この程度の波なら転覆することはない。
 「ジャスパーは、まだ頑張れるって言ってる」
 「無理し過ぎて岩礁にぶつかったりするほうが危ない。…島までの距離が分かればいいんだけど」
 「やってみるよ」
そう言って、ミズハは翼を広げた。光に包まれた翼は、物質として存在するものではなく、手で触れることは出来ない。狭い船内でも、壁やものにぶつかることはない。
 伸ばした腕の上に、数羽の海鳥が現れる。
 「真っ直ぐ飛んで!」
さって腕を振ると、鳥たちは天井を突き抜けて嵐の中へ消えていく。羽ばたきは、叩きつける雨音の中にかき消されてしまう。雨粒が大きくなり、音はさっきよりも激しい。
 「…島は近くだよ、でも、岩が沢山」
ミズハは、荒れ狂う波の向こうに鳥たちの風景を見ている。
 「船が避難できそうな場所は?」
 「反対側――島の反対側に洞窟があるみたい。」
 「そっちへ向かおう。」
波が横から船首に叩きつけている。波の抵抗に遭って、ジャスパーも辛いはずだ。何とか間に合えば良いのだが。
 と、その時、大きな波が、ぐいと船を空中に押し上げた。
 「わ、なんだ…」
足元が浮く感覚。波が砕けるとともに、ルークは床に叩きつけられた。壁に固定した戸棚が開いて、中から物がこぼれ落ちる。ソファが斜めに滑って壁にぶつかった。
 「ルー君、大丈夫?! …あたっ」
ミズハは逆に、飛び上がったせいで天井に頭をぶつけている。甲板とキャビンの間から海水が染みだしてくる。壁につかまりながら、ルークは辛うじて起き上がった。窓の外には、確かに島が見え始めている。しかし、周囲は荒ぶる波に取り囲まれている。ジャスパーは本能に従ってか、島を回りこみ始めた。それは横から打ち寄せる波に真っ向から挑む方向だ。
 「ジャスパー、…」
ルークは窓に張り付いて、荒れ狂う波の下を見つめた。手を貸すことは出来ない。ただ力尽きてしまわないように、海底に隠れた岩で怪我をしないように、祈るだけだ。
 やがて波が少しずつ収まりはじめた。嵐が過ぎたわけではない。島の反対側、洞窟状になっている岩陰に近づいたせいだ。海竜の巣と同じように、本をひっくり返したような形に大きな岩が折れていて、その下が空間になっている。空間は、ちょうど風を避ける方向に口を開けていた。
 静かに船が止まる。
 「ジャスパー」
ルークは、潮水に浸した石を手に、甲板の手すりから船首のほうを覗きこむ。
 「大丈夫か?」
青白く石が輝き、船の下から泳ぎだしてくる黒い海竜の言葉を伝える。
 「あー、…さすがに疲れた」
ジャスパーは、長い首を岩にもたせかけながら、ルークのほうを見上げた。
 「ムチャさせんなよ、兄弟。」
 「ああ、ごめん。――」
 「ま、俺は陸に上がれないし、たまにしかいいとこ見せられないからな。」
ルークは、思わず微笑んだ。
 「なんだよ、それ。」
 「…とりあえず、疲れたしもう寝る。」
 「ああ、お休み」
雨は岩肌を滝のように流れ落ちている。嵐の本体が迫ってきたのだ。あと一時間到着が遅れていたら、高波で島に近づくどころではなかった。間一髪といったところだ。
 黒雲の合間に光が走る。やや遅れて、ごろごろいう雷の音。どうやら雨だけでは済まないようだ。
 リビングを片づけるつもりでキャビンに戻ったルークは、ミズハの姿がないことに気がついた。
 「あれ?」
よく見ると、ソファと壁の間に栗色の髪が見えている。隠れているつもりなのか。
 「…何してるんだ、そんなところで」
少女は頭を抱えて縮こまったままだ。
 「隠れてないで、出て――」
外で、また空が光った。
 「!」
ミズハは声にならない悲鳴を上げ、ほとんど床に伏せんばかりになった。
 「もしかして…」
窓の外を見やる。「雷が…怖いのか?」
 「…うん」
目を涙でうるませながら。ミズハは頷いた。意外な弱点だ。怖いものなしのように思えたのに。
 「大丈夫、ここは岩の下だから雷は当たらないよ。落ちても船の中なんだし。ほら、出てこいって」
立たせようと掴んだ時、空が光った。
 「きゃあああ!」
ミズハは今までにない悲鳴を上げて、とっさにルークにしがみついた。
 「おい、ちょっ…歩けない」
演技でもなんでもない、本気で恐れているのだ。肩が小刻みに震えている。ルークは、ミズハの側に腰を下ろした。
 「ついててやるから。もう何時間かしたら、雨だけになる」
まだ日没まではかなり時間があるはずだが、外は夜の暗さだ。明かりをつけていない船内は、漆黒の闇に包まれている。流れ落ちる雨の音、岩に砕ける波の音。遠くで空が光る。
 海の上には雷を避けられる場所は無いんだな、と、ルークはふと気がついた。雨の中を飛ぶ海鳥にとって、雷雲に近づくことは自殺行為を意味する。暴風や高波は避けられても、雷だけはどうしようもない。雷を恐れるのは、特性上の本能のようなものかもしれない。
 光と音が遠ざかってゆく。いつしか、ミズハはルークの腕を掴んだまま、うとうとしかかっている。
 「寝てていいぞ。」
 「…うん」
そう言いながらも、手は離さない。ルークは苦笑して、戸棚から落ちてきたままになっていた毛布を掴んで少女の肩にかけてやった。外は嵐だというのに、それは奇妙に穏やかな時間だった。


 さらさらと流れるような静かな雨の音で目を覚ました。
 外は少し明るくなっているが、雨はまだ振り続いているらしい。傍らには、毛布にくるまったミズハがぐっすり眠っている。起こさないよう、そっとソファから立ち上がると、ルークは船の甲板に出てみた。
 昨日は気が付かなかったが、洞窟だと思っていた場所の奥は入江状になって開いていた。奥のほうには砂浜と緑が見えている。船のある場所からは浅瀬を伝って行けそうだった。
 ジャスパーが、ゆっくりと首をもたげる。
 「おはよう、ジャスパー。まだ出発しないよ。ミズハも寝てるし」
海竜は、首を岩の上に降ろして、再び目を閉じた。昨日はよほど疲れたのだろう。打ち寄せてくる波は荒く、まだ海に出られる状態ではない。
 この島が、ラヴィノーザ側から数えて四つめの、航路上で最大の島のはずだった。ルークは長靴を手に、ズボンを膝までまくりあげて船を降りた。ひざ下まで潮に浸かりながら、岩を伝って壁沿いまでたどり着く。そろそろ通信機の通信限界に達する。この島に中継基地が置けるだけの広さがあるのなら、ここから先も”協会”と連絡を取り合える可能性がある。島の全容を確かめなくてはならない。
 雨は霧状になって降り続いている。ルークは、雨具を頭からかぶり、奥に見えている入江のほうへ慎重に歩き出した。大きな岩が左右から圧力を加えられて出来た三角の洞窟の奥、島全体が二つに割れたような狭い割れ目の通路を抜けると、そこはすり鉢状になった空間。小さな砂浜をそなえた入江に、緑の蔦がしだれかかっている。登れそうなところは見つからない――が、ルークは落ち着いて崖に手を当てた。岩がめくれ、不恰好な人の姿をとって砂浜に歩み出す。
 ルークは、ゴーレムに上にあげるよう命じる。岩の人形は手を差し出し、ルークを載せると崖の上まで運んだ。昇降機代わりだ。島の表面は蔦と丈の低い草に覆われている以外、木は生えていない。荒涼とした、まっ平らな大地。まるで海中から岩の塊がそのまま生えてきたような。広さは申し分ない。だがルークは、その平らな島の上に奇妙なものを見つけた。 
 「…なんだ、これ」
最初は変わった形の岩だと思っていたが、様子が違う。草に埋もれるようにして横たわる細長い白い石、それは、…何か巨大な生物の骨、だった。
 人の何倍もあり、トカゲにも似た形をした生き物。ただし二組目の、通常は無いはずの腕が背中のあたりに在る。まるで翼だ、とルークは思った。今まで報告されたことのない生き物だ。過去の世界に存在し、今は絶滅してしまったものか、あるいは海の向こうにはまだ生きているものなのか。霧の流れる島の表面に、この骸は誰にも見つけられることなく、長い年月を横たわっていたのだ。
 ここは未知なる領域。今まで誰も――少なくとも最近になってからは――ここへは辿り着いていないのだ。


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