<第二章>


 一枚の地図が、世界情勢を一変させた。

 人々の眼には、そう映ったことだろう。西の大国が国家連邦から離反し、”協会”は路線を一変し、海の向こうへ挑むことになった。神魔戦争の終結宣言から百年を経て、再び現れた巨人との戦いが契機となったと看做す者も多い。開拓合戦とでも言うべきこの時代、しかしその原因となったものが未知への恐れからでも純粋な冒険心でもなく、同じ人間の隣人への不信からだということを知っている者は少ない。
 「――メテオラが予定している飛空艇の建造数は二十。大小含めてだけどね。建造完了は一年後、らしいが、少なくとも半年後には半数が揃う」
 「ずいぶんと多いんだな…」
ルークは、船に備え付けの方位磁石などの計器の確認をしながらアーノルドの話を聞いていた。出発も迫った日、海には、この冬最後の雪がちらついている。暖房器具のない船内は冷えきっていて、防寒着を着ていても動いていないと寒さに耐えられない。
 アーノルドは、船内を見回した。船尾側にある仕事部屋 兼 寝室は、そう広くはない。通信を行う時や航海記録をつける時に使う机があるほか、小さな戸棚があるくらいだ。壁には航路図。ベッドは、ふだん壁に収納されている。
 「本当に、こんな小さな船で海を越えられるのか? 行先は――その、"闇の海"の向こうなんだろう」
 「今回は、"闇の海"を通るわけじゃない。その外縁上にある島づたいの航路。それに、むかしグレイスはヨット船で向かったんだ。この船でだって”最果ての島”までは行けるさ。」
壁に貼ってある航路図には、かつてジョルジュが辿った航路と島々が記されている。ラヴィノーザの観測所、そして海竜たちの住む”青の洞窟”のある岸辺から、最も沖合の”最果ての島”までは、大小様々な十三の島が連なっている。その先に横たわるのが、推定幅百ケルテ以下の海峡。ただし、対岸を目にした者は、グレイスやジョルジュを含め、まだいない。
 「――問題は、その先なんだ。”最果ての島”が本当に最果てなのかは、今のところ分からない。だけど、エレオノール号の観測データから推測する海岸線から考えて、エレオノール号着岸地点から西へ、千から二千ケルテほど離れた場所になるはずなんだ。ただ、気候や地形もだいぶ違うだろうし、エレオノール号の情報は参考程度にしかならない――」
 「…ルーク」
 「ん?」
 「やっぱり、君は凄いよな。」
 「なんだよ、急に」
 「いや。未知の領域に挑むのに、そんなに平然としていられるのがさ。誰も言ったことのない、何も分からない土地なのに」
ルークは笑った。
 「未開地学者なんて、みんなそんなもんだよ。それに、おれの場合は厳密には初めてじゃない」
 「何も覚えていないのなら、初めてと同じさ。」
そう言って、アーノルドは肩をすくめ、立ち上がる。
 「レムリアにはまだ、巨人がいると思うかい?」
 「…分からない。」
今いる大陸の輪郭がようやく分かったばかりで、その周囲の海については「未知」の領域。南の海を越えた先にある大陸は海岸線のごく一部、狭い範囲だけが記されていて、厳密にはそこが大陸だという確証もとれていない。
 それが、今分かっている世界のすべて。
 「アルは支援部隊なんだよな」
 「まあね。といっても、こっちから出来ることなんて殆ど無い。君たち次第さ。せめてシェムスール人の遺産の、あの石の分析くらいは進めておく。」
 「あれか…。」
”青の洞窟”で見つけた青白く輝く石と同じ石は、サンプルとして幾つかが既にラヴィノーザからこのフォルティーザに届けられている。該当の石は、海竜の言葉しか翻訳出来ないことが分かっている。しかも、ある一定の大きさがないと効果がないらしく、砕けた破片では翻訳機能は持たない。約十五メルテが翻訳の範囲で、それ以上離れてしまうとノイズが乗り、海竜の言葉は言葉として聞こえない。言葉の翻訳は、石が海水と反応して活性化している時にしか行われず、海水と同程度に作った潮水でも同じ反応を引き起こすことが出来る。塩分の濃度が変化すると反応しなくなる。
 ――等々が、これまでジャスパーの協力を得て分かった範囲だ。
 アーノルドが今日、ここへ来ているのも、その調査のついでだった。さっきまで協力していたジャスパーは、疲れたといって今は船の下に隠れてしまっている。
 「ジャスパーって、面白い奴だよね。なんかさ、君たち本物の兄弟みたいだよ」
 「まあ、付き合いが長いし、どっちもグレイスに仕込まれてるからね。」
話しながら、リビングのほうへ向かう。
 「この船はジャスパーと切り離せないんだ。あいつがいるから、おれは海に出ていられる」
 「いいよなあ。相棒かー…」
 「それに、今はミズハもいるし」
かすかな羽音が甲板のほうで聞こえた。と思ったら、元気のよい足音とともに、キャビンの入り口が勢い良く開く。
 「ただいまー、準備してきたよ!」
ミズハが、白い息を弾ませながら抱えていたバスケットをリビングの机の上に置く。中には昼食用のサンドイッチやビスケット、やかんに入れたお茶などが詰まっている。
 「お帰り、早かったな」
 「飛べれば直線だもん。ちょうどお昼に間に合ったね」
町の教会塔から、正午を告げる鐘の音が微かに響いてくる。ミズハは手袋とマフラーを外してさっそくバスケットの中身を並べにかかる。ルークは、ミズハの髪に手を伸ばして、ひっかかっていた雪を払い落とした。ソファに腰を下ろそうとしていたアーノルドは、何故かニヤリとした。
 「君たちってさ…ずっといっしょに住んでるんだよね」
 「ああ」
 「…問題ないのか?」
 「問題って? まあ、最近は謎の料理を食わされることもなくなったし、シャツを裏返しで畳まれることもなくなったけど…」
 「それだけ?」
アーノルドは、残念そうなため息を付いた。「せっかく可愛い女の子が近くにいるのにさ。君はそういうのに興味なさそうだもんなあ…」
 「どういう意味だよ。」
 「お話は、あとあと! 冷めちゃうよー。はいこれ、アル君のぶんね。あと、こっちがルー君の」
 「ああ、ありがとう。」
狭いリビング兼台所にあるのは、小さなコーヒーテーブルと、三人座るのがやっとのソファだけ。海が荒れた時でも大丈夫なように壁に固定された本棚と戸棚、それに簡易コンロなどを備えたキッチンと、洗い台の下の食器棚。入り口の側にまとめて置いてある救命器具。それで全部だ。普段の航海中、ミズハはこちらの部屋でハンモックを使って寝ている。
 「今回の航路、食料補給はラヴィノーザでやる予定なんだっけ」
 「そう。ここからまずラヴィノーザへ行って、そこで補給、それから島巡り」
 「ジャスパーが嫌がるから、補給終わったらすぐお出かけしなきゃだね」
チーズとスモークハムのサンドイッチを頬張りながら、ミズハが言う。
 「観測所の人たちが通信を担当してくれる。と言っても、どのくらい沖合まで通じるか謎だけどね。中継地点の置けそうな島を見つけたら優先で報告することになってる」 
 「南の海だと、”霧の巣”近くまで通信機は使えるんじゃなかったっけ?」
 「南の海は、島の近くまで海ばっかりだし障害物が少ないんだよ。西の海は岩盤のせいなのか、風のせいなのか、あまり沖合まで通信が届かないらしい。ジョルジュさんが言うには、五つ目の島あたりから通信機が使い物にならなかった、らしい」
 「そいつはキツいなあ」
やかんからお茶を注ぐと、白い湯気が部屋いっぱいに広がる。
 予定航海は最大で十ヶ月。逆に言えば、設定されたその期間を越えないようにとジョルジュに言われている。メテオラが予定している飛空艇の建造計画が少し早まったとしても、それより先に帰還できるようにとの考えから設定された期限だ。メテオラがすべての飛空艇を建造し終えてしまったら、この航海の意味が半減してしまう。それに、次の冬が来る前に戻れるようにとの配慮からでもある。
 「この港を出たら、戻ってくるのは最短でも夏を過ぎるのか…。」
アーノルドが、ぽつりと呟く。 「寂しいもんだな」
 数ヶ月ほどの航海は何度かあったが、今回は、今までの中でも最長級の旅になる。
 「今回は岩のサンプルは持ち帰れないんだ。前回のエレオノール号のことがあるから」
 「聞いてるよ。あーあ、残念だなあほんと」
笑って、彼は残りのサンドイッチを一気に口に押し込んだ。 
 「そのかわり、みやげ話は楽しみにしてるからな。じゃ、僕はそろそろ帰るよ。出発の見送りには来る」
 「ああ。じゃあ当日に」
アーノルドは、デッキを降りて手を振りながら桟橋の向こうへ消えていく。雪はまだちらついている。

 冬の終わり、木々の硬い芽が緩み始める季節、フォルティーザの港を、一隻の船が限られた関係者だけに見送られて出発した。フォルティーザ支部所属、調査船ハーヴィ号。乗員ニ名、海竜の牽引する特殊船。
 ひっそりと旅立ったその船が、世界の命運に関わるかもしれないことを知る者は、少ない。


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