<第二章>

より来たりしもの


 風の音で、目を覚ます。時計を見れば既に深夜を過ぎている。

 ルークは、薄明かりの中で耳を凝らした。カーリーは戻ってきていない。この雪だ、支部に泊まっているのだろう。手を伸ばすと、熱っぽい少女の体に触れた。容態は変わっていない。冷やしたタオルは、とっくにぬるくなってしまっていた。
 洗面器を手に、廊下に出る。吹き抜けの上を伝う渡り廊下からは、冬の海が見渡せる。曇った窓の外で、灯台の光は大きく滲んで、ぼやけていた。雪は止んでいるが、町は分厚く積もった雪に覆われ、海から押し寄せてくる霧で視界は悪いまま。時折、強い風が窓を叩き、どこからともなくすきま風が吹き込んでくる。
 玄関を出ると、身を切るような冷たい空気が司法から押し寄せてきた。
 積もった雪を洗面器に入れ、すぐにドアを閉める。ほんの一瞬ですら、体が凍りつきそうになる気温だ。これほど冷え込むのは、何年ぶりかだろう。
 足音をしのばせて階段を上がり、部屋に戻ると、ルークは、熱でぬるくなったタオルを雪の中に浸して冷やした。ミズハが目を覚ます気配は、ない。
 夜通し誰かを看病するなど、何時以来だろう。眠っている誰かの側で目覚めを待つ、というのが、どれほど不安なものかなど、もうすっかり忘れていた。けれどミズハは、何度もこんな風にルークを見ていてくれた。鮫男に襲われて怪我をした時も、ロカッティオで倒れた時も。――何度も。今更のように、申し訳なさが押し寄せてくる。
 「ごめんな」
ルークは、汗で濡れた少女の額に触れた。
 「いつも心配かけて、おれは何も返せてない」
小さく呻いて、少女は寝返りをうつ。さっき雪溶け水に浸して替えたばかりのタオルは、もう熱を帯びている。
 夜が明けたら、病院へ連れて行ったほうがいいかもしれない。それとも、カーリーの帰りを待ったほうがいいのか。
 迷いながらベッドの傍らに座っていると、ふいに数年前の夜が蘇ってきた。グレイスと過ごした最後の数日間。倒れても、どうしても病院に行きたくないと言い張っていたグレイスは、次第に目を覚ます時間が短くなり、最後には、ずっと眠ったまま目覚めなかった。あの時は、人の死というものがまだよく理解できなかった。
 今は、怖い。もしも、ミズハもこのまま目覚めなかったら?
 死ぬということ。その冷たさ、もう二度と動くことはなく、言葉をかわすことも出来ず、土へと還ってゆくこと。思い出す、あの時感じた底知れない不安と、生まれて初めて流した涙と。
 ルークは、熱を帯びた少女の手を掴んだ。
 「どこにも行くな…」
消えてしまいそうに思えた、いつか雪の中での見た彼女の背中。
 出会ってからずっと、町で暮らしている時も、海の上にいる時も、すぐ隣には賑やかな少女がいた。それがある日突然いなくなってしまうかもしれないなんて、考えたこともなかった。今はもう、一人でいることは考えられない。一人でいた頃には、戻りたくない。

 目の前が暗転し、体が浮かび上がるような感覚が体を包み込み、ルークは、眠りの中へと落ちて行った。

 真っ暗になり、逆さまに落ち、それと同時に浮かび上がるような奇妙な感覚。
 夢の導入部としては、いささか珍しいものだった。地面の下から空がせり上がってくる。暗い夜空に赤い光、白く輝く太陽、荒涼とした無表情な表面を晒す巨大な月。一面に広がる鏡のような水面は、四方に見える世界の果てまで覆い尽くしている。
 気がつくと、ルークは無音の世界にぽつりと立っていた。
 足は膝まで水に浸かっている。体が重い。空には幾つかの星が遠く輝き、空は夕焼けのようにも、朝焼けのようにも見えた。夢を――見ているの。だが奇妙に現実的で、なぜだか夢とは思えない。
 ふと、ルークは、頭上の高い場所に輝く白い鳥のようなものに気がついた。

 (あれは…ミズハだ)

なぜだか、すぐに分かった。それは普段、彼女が見せる どの姿とも違う。人の姿に翼をもっているが、全身はほとんど真っ白で、長い髪は霧のように周囲にゆるゆると広がっている。普段の彼女は父親のハロルドに似た姿をしているが、今は、母親のサラサの姿のほうに近い。うっすらとした輝きに包まれ、夜空の星々よりも一際明るく浮かび上がって見える。
 ミズハは、宙に浮かんだまま遠くをじっと見つめ、戸惑った様子で何かに耳を傾けている。まもなくルークも、それが何かに気がついた。空間全体に響き渡るように、あのリブレ人の鐘の音が響き渡る。リィン…という透明な音。それとともに、言葉ではない声が語りかける。

 <おいで…至高成る美しきもの、風司る鳥よ…>

遠くにも、すぐ近くにも聞こえる、空間の四方から響いてくるかのよう低い声。ミズハは、少しだけ翼をはためかせた。

 <海より生まれし全ての生命の母成る者、南海の女王の器よ。おいで、そこはお前のいるところではない…>

 「ミズハ! そこで何してる」

ルークが叫ぶのと同時に、声の方向へなびきかけていたミズハの注意が逸れた。振り返った少女の瞳は、いつもの淡い緑ではなく、深い濃い青に変わっている。サラサと同じ、海の色。
 どこからともなく聞こえてくる声は、苛立たしげに続けて呼びかける。

 <聞いてはならぬ。見てはならぬ。あれは呪われた巨人、大地を汚すもの>
 「誰だ、お前は!」

一歩踏み出そうとしたとき、足元で水がはねた。体が重たい。ふと自分の足元を見たルークは、そこにあるのがゴツゴツとした太い見知らぬ足と知って、ぎょっとした。手を見る。それも人間の手ではない。ルークが土から作るゴーレムによく似た…無骨な太い指、まっ黒な手のひら。その手を顔に当てた時、彼の口から漏れたのは、低い、巨人のうめき声。
 声は哀れみに変わった。

 <忘れていたのか? お前は醜い巨人なのだ。破壊すること、まがい物の生命を生み出すことしか出来ぬ。愚かで低俗な、神にはなれぬ存在…美しき鳥を手にする資格などない>

ざわざわと水面が揺れる。ふいに頭を殴られたようになって、ルークはその場に組み伏せられた。圧力がのしかかってくる。足の下には底の見えない、深い透明な水が広がっている。水の中には無数の星々が輝く。
 水の中に肩まで押し込まれ、もがきながら空を見上げた。遠い空の果てに、オーロラのような光のカーテンが揺らめいている。声は、そこから聞こえてくる。

 <さあ、来るのだ。この高き天の玉座へ――汚れた巨人と、愚かな人間どものことなど、じきに忘れる>

透明で涼やかな音が鳴り響き、白い鳥は翼をはためかせ、少しだけ光のほうへ近づいた。

 「駄目だ!」

のしかかってくる力に抗いながら、ルークは空に向かって手を伸ばす。これはきっと、夢ではない。なぜか、そうだと直感的に分かった。あの光に連れて行かれてしまったら、ミズハはきっともう現実の世界で目覚めることはない。

 「お前はこっち側の存在だ。そんな声に耳を貸すな!」

 <黙れ>

さらに強い力がのしかかり、体は首まで沈んでいる。動けないどころか、体が水に溶けて崩れていくような感覚さえあった。抵抗し続ければ、このまま崩れて土になってしまうかもしれない。無に帰る。そう、この世界は無の上に成り立っている。自由に動き回れるのは、翼を持つミズハだけ。
 声は哄笑する。

 <無様だな。巨人など、そうやって地に這いつくばっていればよい>

だが、体が崩れてゆくのを感じながら、ルークは、不思議と恐怖を感じていなかった。自分が消えることよりも――目覚めた時、自分ひとりだけでいることのほうが、恐ろしかった。声は出ない。この世界では、自分は異質な存在だ。言いたいことは沢山あったが、もはや口を開くことも出来なかった。
 白い鳥の姿がぼやける。
 天は高く、どれだけ腕を伸ばそうとも届かない――

 と、その時だ。

 ”大丈夫、聞こえてるから”

 世界が暗転する寸前、光が視界を覆い、何かが崩れてゆく最後の一欠片を救い上げた。
 無音の世界に、聞き慣れた翼の音が戻ってくる。目の前にミズハの顔があった。腕を掴み、ルークを水面に引き上げる。水の表面に波紋が広がる。ふわりと前に降り立った少女の体を、ルークは両手で掴んで胸元に引き寄せた。目の前が真っ暗になって一瞬きょとん、とした表情になったミズハだったが、やがてそこが何処なのか分かると、微笑みを浮かべてその場所に身を委ねた。
 「…ルー君あったかい」
 「熱出してたんだから、お前のほうがあったかいはずだぞ」
 「ここでは違うよ。ほらもう離して、大丈夫だから」
うなづく瞳はまだ深い青のままだったが、表情は、いつものミズハだ。少女は振り返って天を軽く睨んだ。
 「あの…声は それに、ここは一体…」
 「今はきっと、説明してもわからない。それに、もうすぐ夜が明けてしまうから…」
 響きわたっていた鐘の音が波が引くように小さくなっていく。空に見えていたオーロラのような輝きが薄れ、息を詰めていた星々が瞬きはじめる。鏡のように静まり返った水面に、二人の周囲にだけは小さな波紋が広がり続けている。ルークは、腕を緩めて手をミズハの肩にやった。その手は、いつの間にか、人間の手に変わっている。
 「帰ろう」
 その手に、ミズハの手が重なる。
 「うん」
世界がゆるやかに回転する。星々が天を巡る動きをなぞるように。やがて光が周囲を包み込み――


 夜はすっかり明けていた。窓から差し込む、眩しい光。風はまだ窓を叩いているが、嵐は止んだらしい。真っ白に積もった雪に朝日が反射しているのだ。
 「ん…」
気がつくと、ルークはミズハの手を握ったまま、ベッドの端に顔を突っ伏していた。繋いだままの手が目の前にある。いつの間にか眠っていたらしい。無理な格好で寝入っていたらしく、腰のあたりが痛い。大きく伸びをして、ふと見ると、ミズハがじっとこちらを見つめていた。
 「うわっ、と…。お、おはよう」
 「おはよ」
ミズハは、くすっと笑って寝返りを打った。ルークは、耳のあたりが熱くなるのを感じた。手を握ったまま眠るなんて。お陰で、奇妙な夢まで見てしまった。
 どぎまぎしながら、そっと少女の額に触れる。
 「熱、だいぶ下がったみたいだな。喉乾いてる?」
 「ちょっとだけ」
 「水持ってくるよ。」
赤くなった顔をごまかすように、彼は大急ぎでぬるくなった雪解け水の入った洗面器を抱えて部屋を出た。
 階段を降りてみると、窓の外に完全に雪に埋もれた通りが見えた。丘を登る道は真っ白で、完全に埋もれている。海岸通りのあたりは町の人々が雪かきをしているが、丘の上へ続く近道の先にはこの家しかないから、ルークが雪かきをしない限り道はそのままだ。
 「あとで、ゴーレムでも出してやるしかないな…」
呟いて、ルークは洗面器に雪を入れなおした。
 水差しと洗面器を手に二階に戻るってみると、ミズハはベッドから起き上がって窓の外を眺めていた。
 「無理するなよ、まだしばらく寝てないと」
 「うん、でも、こんな真っ白なの初めて見た」
曇った窓に顔をつけて、目を輝かせている。「すごいね、まるで雲が降りてきたみたい」
 「雲、か。」
ルークは、思わず微笑んだ。いつものミズハだ。
 「ほら、水。あと、服変えたほうがいいぞ。汗で濡れてるだろ」
 「うん」
コップを受け取りながら、少女はルークを見上げる。
 「ルー君、ずっとついててくれたでしょ。ありがとね」
 「…いつもは、逆だったもんな」
ルークは、頭をかいた。
 「気づかなくてごめん。だけど、次から、調子悪くなったらもっと早く言ってくれよな」
 「分かった。」
頷いて、少女はにっこり笑った。笑顔を見るのは久しぶりな気がした。
 と、その時、玄関のほうで雪をかき分けるドサドサっという音がした。
 「なんだろ」
 「カーリーさんかな?」
果たして、ドアを開けてみると全身雪で真っ白のカーリーが立っていた。
 「ただいまー。すっごい雪よ外。あーもう丘登るのがいちばん時間かかったわー」
埋もれたブーツをひっぱりだし、肩に積もった雪を払い落としながら入ってくる。丘の道には、カーリーが雪をかき分けた(そして何度か転んだらしい)跡が、ふらふらしながらふもとから家まで続いている。
 「ぶぇっくし! あーもう、寒いったら」
 「風邪ひきますよ、早く着替えたほうが」
 「そうねー。…あら? ミズハちゃんは?」
 「二階です。昨日から、熱出して寝込んでて」
 「あー。寒かったもんねー」
暖炉の前で上着を脱ぎながら、カーリーはまた一つ、くしゃみした。
 「着替え、着替え…っと。ああそうだ、昨日来たメテオラの連中、まだこの町にいるわよ。雪で飛べなかったみたい」
 「そりゃそうですよね」
あの吹雪の中では、空をとぶ船など自殺行為だ。しかし飛空艇に暖房器具はついているのだろうか? 町外れの崖の上で一晩を過ごすのは、あまり快適そうではない。
 「カーリーさんは、支部泊まりだったんですか」
 「ええ。ジョルジュ君と一緒にねー。ま、昔話なんかに花が咲いて、それはそれで良かったんだけどねー」
言いながら、カーリーは濡れた服をぽいぽいと脱ぎ捨てていく。カーリーの、年に似合わないプロポーションがあらわになりかけたところで、ルークは、あわてて背を向けた。
 「おれ、雪かきしてきます。あとでミズハの様子見てやってください」
マフラーとコートをソファに投げ捨てて慌てて外に飛び出す。昨夜ほどではないが、風は冷たく、息は白く弾む。おまけに雪に反射する光が眩しくて、目も開けていられないほどだ。
 「さて、と…。」
気分を一新して、仕事にとりかかる。
 ゴーレムは土から作る。まずは一部でも地面が見えるようにしないと始まらない。ルークは手袋をはめ、玄関先の雪をどけるところから始めることにした。雪かきなど、何年ぶりだろう。思いの外重労働で、少し雪を退けただけでコートの下には汗が滲む。これをゴーレムを使って楽をしようというのだから、地道に手で雪かきしている町の人々に申し訳ない気分になって来る。
 黒々とした地面が見えてきた。汗を拭い、ルークは、冷たく凍った大地に手のひらを当てた。凍った大地からゴーレムを生み出すのは、多分初めてだ。
 地面が盛り上がり、雪を押しのけて、黒っぽい巨人の体が起き上がってくる。同時に二体。もっと数を増やすこともできるが、あまり沢山作っても、ご近所に驚かれるだけだ。
 「とりあえず、麓からの道を作ってくれ。そのあと、裏庭の雪をどけるんだ」
ルークの指示に従って、土くれの巨人たちはゆるゆると動き始める。動きは鈍いが、力は強い。人間の何倍もの速さでどんどん雪を取り除いていく。慣れた――という言い方もおかしいが、この半年、力の使い方はずいぶん上手くなった。昔の感覚を思い出す感じとでもいうのだろうか。今なら、この土くれの軍団を作り出すことも、半永久的に動かし続けることも出来る気がする。ただ、この力はあまり多用するべきではないとも思えた。たとえかりそめにしても、生命を生み出す行為には違いない。

 ゴーレムたちが順調に働き続けているのを眺めながら、ルークは、ちらと家のほうを振り返った。
 ミズハとカーリーは、もう着替え終わった頃だろうか。いつもはミズハがやってくれている洗濯だが、今日は久しぶりに自分でやらなくてはならない。風は冷たいが午後からは晴れそうだし、廊下で室内干しにすれば――

 リィン、と音が聞こえた気がした。

 「…?」
ルークは、周囲を見回した。空耳だろうか。いや、…違う。
 尾とは、確かにどこかから聞こえていた。透き通るようなこの音は、昨日リブレ人の使っていたものだ。
 その時、音に混じって、耳元で何かが囁かれた気がした。はっとして、ルークは聞こえた方の耳を抑える。頭上、背後、周囲のどこにもリブレ人の姿はない。
 (やはり、通じませんか…)
風もないのに、さわさわと空気が揺れた。
 (存在の変化。真質を残したまま…理解し難い…)
 「誰だ」
気配だけはある。声らしきものも聞こえる。なのに、姿も音もしない。「聞こえない声」や「声にならない言葉」を感じたことは、今までにも何度かあったが、これは、今まで感じてきたものとは少し違う。まるで遠い次元から、幾恵にも重なり合って響いてくるようだ。
 ゴーレムたちは、相変わらずせっせと雪をどけ続けている。
 (海の魔女も声に反応しなくなってしまった…残念です…)
 「?!」
すっ、と気配が遠のいていく。ルークは、振り返って家に駆け込んだ。階段を駆け上がり、凍りついた屋上の扉を開く。ぱりぱりと氷が割れ、積もっていた雪が足元を埋める。
 狭い屋上は、丘の上に建つ家の、四階部分に相当する。そこからは、町がほぼ一望できた。
 町の向こうの崖の上にある白い森も、その向かい側に停泊している銀色に輝く飛空艇も。白く曇る息が風の中を流れてゆく。冷たい空気の中、高く透き通る空の下で、飛空艇は今まさにプロペラを回し始めるところだった。 
 「あいつ…」
ルークは、手すりを握りしめた。ミズハが体調を崩す前、「音が…」と言っていた。ミズハが聞き続けていたのは、さっきのあの音なのかもしれない。だとしたら、彼女が体調を崩した原因は、寒さだけではなく、リブレ人のあのベルの音かもしれない。
 階段を降りてくるルークを、カーリー待ち受けていた。
 「どうしたの? ずいぶんな勢いで駆け上がっていったけど」
 「飛空艇が飛ぼうとしてたんです」
カーリーは、ひゅうと口笛を吹いた。「リブレの珍客ね。もう帰りかしら、この雪の中でねえ」
 「ミズハは?」
 「今眠ったわ。熱はもう大丈夫そうよ」
 「そうですか」
カタカタと海側の窓が揺れ、低いプロペラの振動音が頭上から聞こえてきた。空に舞い上がった銀色の船体が、町に影を落としながら通り過ぎてゆく。
 「帰ります、のご挨拶もなしか。好き放題ねー、彼らも」
 「カーリーさん」
 「んー?」
 「今さっき、ベルの音、聞こえました?」
カーリーは、不思議そうな顔で首を傾げる。
 「ベル、って?」
 「昨日、リブレ人が鳴らしていた…」
 「何かそんな感じのもの持ってたわよね、でも」カーリーは、腰に手を当て、思いがけないことを言った。「あれ、音なんて鳴ってなかったじゃない?」
 「鳴っていなかった…?」
そんなはずは、なかった。ルークにははっきりと聞こえていたし、ミズハも、耳を抑える仕草をしていた。白い森が苦しむような仕草をしたのも、音に連動してのことだ。
 カーリーの表情が変わった。
 「…聞こえていたの?」
 「ええ、その音で森が動いたんだとばかり。少なくとも、おれとミズハは聞こえてましたよ。まさか… 他の人は聞こえなかったんですか?」
 「うん、ベルっぽいものを振ってたけど、音なんて全然聞こえなかった。あなたたちにしか聞こえない音…?」
しかもそれは、体の奥まで直接響いてくるような、真っ直ぐに貫くような不快な音だった。
 「あいつらは、危険だ。あの音…普通じゃない。」
 「ふむむ」
女学者は、腕組みをした。
 「あなたたちと… あの森には聞こえた、ってことなのかしら。犬笛みたいに高周波だったりとか」
 「そんな、人を犬みたいに」
 「たとえよ。興味深いわ。ロカッティオにある魔法陣、君たちも体験したでしょ? あれは、精霊や、アストラル体の濃い人間だけが引っかかるやつ。あんな感じで、条件を満たした人間にしか聞こえないものなのかも――」
だが、あの声は?
 音とともに聞こえた声のこと。だが、ルーク自身、あれほどう説明していいのか分からない。
 「ま。謎多き連中ってことよね。調べてみたいことはあったけど、長々滞在されるより、さっさと帰ってくれたほうが気が楽なんじゃない?」
 「まあ、…それは。」
 「じゃ、下片づけてくるわ。ルーク君、そのコートちょうだい。ついでに乾かしとく」
ルークが濡れたコートを脱いで手渡すと、カーリーは、それを手に暖炉の前に放り出した服の片付けに、階段を降りてゆく。
 ミズハの部屋を覗いてみると、少女は、静かに寝息をたてていた。そうしている時、彼女はただの人間の女の子にしか見えなかった。いや、見えるだけではない。実際に、そうなのだ。

 ”存在を規定するのは他者に過ぎない”

ハロルドの手紙に書かれていた言葉だ。半年前の出来事で、ルークは、その意味を知った。
 自分が何者なのか、自分で知っているそれと、他者から見た場合のそれは同じとは限らない。ルークが人としての暮らしを続けることを選んだのは、自分の意志だけではなく、そうすることを周囲が望んだからでもある。
 人であり、人でもない存在、そのどちらとしても生きられる点では、ルークもミズハと同じだ。自分が今ここにいるのは、グレイスのお蔭だ。ミズハもまた、ハロルドが傍にいたから、人として今ここにいる。

 「そうか」

 ふいに、ルークは思い当たった。
 昨夜、眠りの中で見た世界は、「人ではないほう」の性質の属する世界なのだ。
 だから、あそこではミズハの姿はサラサに良く似ていたし、自分は、…巨人の姿だった。あの声は、ミズハの中にいる人と相容れない部分に呼びかけ、どこかへ連れて行こうとしていたのだ。ミズハは、それを拒否して人として戻ることを選んだ。そうさせたのは、他者であるルークだ。
 あの声は、"人ではない部分"に呼びかける声。
 あの声に従えば、人である部分は失われてしまうのかもしれない。

 天高く輝いていた、白い光に包まれたミズハの姿を思い出す。あれは、確かに声の言うように神々しさすら感じるものだった。向こうから降りてきてくれない限り、手が届かないと思った。あれがミズハ本来の姿だとしたら…。
 だが、今のミズハは、人として生きることを選択している。
 たとえ世界を滅ぼす力があったとしても、神にも悪魔にもなれる存在だったとしても――。


 ”逆さ大樹の谷”に戻るため、カーリーが出発したのは、その数日後のことだった。一度谷に戻ったら、久しぶりにロカッティオにも行ってみるつもりだ、と言っていた。
 「まったく、相変わらず忙しい人ですね」
ジョルジュも、珍しく駅まで見送りに来ていた。白煙を吹き上げながら、列車はヴィレノーザへ向かって、正確にはヴィレノーザの少し手前に作られている仮設の駅へ向かって走ってゆく。ヴィレノーザの中央駅が元通りになるまで、大陸縦断列車はヴィレノーザの城壁の外側を歩いて乗り換えることになる。面倒だが、城壁の内側は駅も線路もめちゃめちゃになってしまったまま、修復作業中なので仕方がない。
 「リブレ人は、あれから何か?」
 「いえ。後から、形式ばかりの謝辞はいただきましたがね。ふふ、まったく勝手なものです」
ジョルジュは、白い息を吐きながら眼鏡を指で押し上げ、マフラーを巻き直した。見送りに来た人々が三々五々、ホームから散ってゆく。駅の前には、アネットの車が待っているはずだ。
 「時にミズハさん、熱を出したと聞きましたが…もう体調のほうは?」
 「もう大丈夫だよー」
 「それは何より。アネットが、薄着で出かけるからだ、温かい服でも買ってあげなさいとおかんむりでしたよ? ルーク」
 「…おれですか」
ルークは、苦笑した。「分かりました。後で町に行ってきます」
 「ええ、それがいいでしょう。」
薄く笑ってから、ジョルジュはホームを降りる階段の前で足を止めた。
 「――リブレの件は、面倒なことになりそうです。」
 「というと?」
 「神魔戦争以前の旧世界から引き継いだ歴史や技術を、我々は持っていない。メテオラと、セフィリーザ支部が完全に懐柔されたとすれば、”協会”以上に強力な組織に成る。我々は、メテオラが国家連邦から脱退してリブレと同盟を組むのではないかと危惧しているのです。」
 「ええー」
ミズハが、声を上げる。「そしたら、おばあちゃん家に自由に行けなくなっちゃわない?」
 「おばあちゃ…」
 「あ、えーと。エミリア・カーネイアス、ハロルドさんのお母さんで…」
 「ああ、そうでしたね」
ジョルジュは、小さく頷いた。「そうでした。カーネイアス家の当主――噂では、なかなかの女傑だとか。」
 「噂通りですよ」
ルークは請け合った。恐ろしいほどの威厳は、まるで女王だった。
 ミズハは、ため息をついた。
 「嫌だなあ。あのウサギみたいな子、いじわるだよ」
 「ウサギ?」
 「うん。ヴァージニーって言ってたでしょ? 白い森を虐めようとした子だよ。」
ルークとジョルジュは、顔を見合わせた。
 「でも、ヴェールで顔を隠していましたよね」
 「ちらっと見えたもん、ベルを止める時。耳があって、歯が出てて、赤いおっきな眼で…。あれってウサギだよ。ルークの家の図鑑で見たことある」
 「…ウサギ…」
ジョルジュは眉を寄せる。
 「確かに握手したとき、手袋の上から触れた感触は獣っぽかったな」
と、ルーク。
 「ごわごわした毛があったし」
 「ふむ。ウサギ…。いえ、大したことできないのですが、少し気になることが。調べておきましょう。何か分かったら連絡します。では」
ジョルジュは、足早にホームを降りてゆく。待ちかねたアネットが、駅の入り口まで迎えに来ていた。ヴィレノーザの本部が機能しなくなり、評議会も半ば解散状態にある今、ジョルジュは、以前にも増して多忙になっていた。
 ルークは、ミズハのほうを振り返る。
 「じゃ、買い物行こうか。」
 「はーい」
二人で買い物に出るのも、久しぶりだ。
 駅舎を出ると、すぐ脇には雪の山。数日前の大雪で、雪かきをした名残だ。今日は日差しがあるぶん暖かく感じるが、日陰のそこかしこに積み上げられた雪が溶けきるまでには至っていない。春が来るまでには、まだ何度も雪が降るだろう。
 「といっても、女物の服なんて分からないんだよな…。」
ルークは、呟いて大通りのショーウインドウを見回した。馴染みの町でも、普段あまり来にしたことのない店がどこにあったかを思い出すのは難しい。
 「あれ、ミズハ?」
気がつくと、さっきまで横にいた少女の姿がない。振り返ると、すぐ後ろでショーウインドウの前に立ち止まっていた。中には、真っ白なウェディングドレスが飾られている。ルークは、慌てた。
 「お、おい、何見てるんだよ」
 「え? 前におばあちゃん家で借りた服に似てるなーって思って。」
 「いいから行くぞ。その服は特別な日に着るやつ。ミズハにはまだ早いし」
ルークが差し出した手を、ミズハは首を傾げながら握り返す。
 「特別な日って?」
 「いや…うん、……あれはな…」
返答に窮していたふと、ルークは足を止める。
 「どうしたの?」
そこは、本屋の前だった。ショーウインドウには、地図が掲げられている。
 『最新 世界地図! ここまで分かった新世界』
地図の端には、そんな文句が踊る。この間、ラヴィノーザから戻ってすぐの頃にジョルジュに見せてもらったものと、ほぼ同じ。今いるこの大陸の北側の海岸線が書き込まれ、ラヴィノーザの沖合を”暗黒大陸”レムリアの近くまで伸びる岩礁地帯と、エレオノール号が上陸し、調査したと思しき部分の海岸線、それにミズハの故郷でもある”霧の巣”までが正確に描かれている。
 「――世界は、これからどうなるんだろう。」
未知の領域に手が届くようになり、それと機を同じくして謎の都市国家リブレが動き始めた。世界に訪れた変化の全容を知ることが出来ないまま、世界は今も変化し続け、にも関わらず、それを知るために作られた”協会”は巨人との戦いという深手から立ち直れていない。それどころか、神魔戦争以降、危機感を共有して曲がりなりにも協力関係を築いてきた生き残りの国々の集合体、国家連邦までも、存続の危機に瀕している。未開地学者とて無関係ではない。
 未開地学者は、国家連邦と”協会”の支援を受けて調査を行う。そのどちらもが機能不全に陥ってしまったら…
 「知りたいと思う気持ちがあるなら、誰も止められないよ」
 「…でも」
 「あたしのお父さんみたいに、冒険に出ればいいと思うの。自由に」
少女は、そう言ってにっこり笑う。「一緒に行こうよ」
 かつてはあり得ないと一蹴した意見も、今なら、それもいいかもしれないと思える。結局、ルークは未知の世界を知りたくて、グレイスが亡くなった後もずっと未開地学者を続けているのだ。この世界の姿を、生きる者たちを、過去に起きた出来事を、――本に書かれていないすべてのことを知りたいから。自分のこと、自分の過去も…。
 ルークは、ガラスごしに指でなぞる。ラヴィノーザの沖合に点々と続く島々、その最南端にある小さな島。
 ”最果ての島”、かつて世界の果てだったと言い伝えられる場所。
 かつてのルークと、グレイスやジョルジュとが初めて出会った島。

 ジョルジュから緊急の招集がかかったのは、その数日後のこと。
 世界は大きく動き出したのだ。――分裂に向けて。


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