鳥の舞う島


 船に戻ると、少女がキャビンのソファに寝そべって勝手に本を読んでいた。
 「おかえりー、待ってたよ。これ面白いね!」
読んでいたのは航海の最中に時間を持て余した時のための続き物の小説だった。流行ものの小説で、タイトルは”王子ルードヴィッヒの冒険”。確か港を出る時には、三巻までしか発刊されていなかったはずだ。
 ルークが眉を寄せて何か言いかける前に、少女はポケットから木箱を取り出した。
 「はい、これ。」
ずいぶん古めかしい型だが、間違いない。通信機だ。蓋を開くと、無傷の魔石が静かな輝きをたたえている。
 「お父さんから預かってきたの。ルー君のは壊れちゃったよって言ったらね。この島じゃ使えないけど、外の海に出れば大丈夫」
 「ハロルドさん…。」
使い込まれた通信機の巻き具は、手の油で黒ずんでいる。
 「外の海に出るには、案内が必要でしょ?」
言いながら、少女は弾むような足取りで甲板に向かう。「もう少ししたら風が変わるの。そしたら出られるよ。忘れ物、ない?」
 「ミズハ、…君は」
 「うん?」
いや、聞かなくても分かる。最初から知っていたはずだ。ルークが呼ばれた理由、その役目も。
 彼女は父親に言われてルークを島へ案内するために来た。そして島へは、海と空の女王でもある彼女の母親の許可がなくては近づけない。この島の観測を始めてから一週間以上。ルークは観測しているつもりが、逆に、メッセンジャーとして頼れるかどうか「観測されていた」というわけだ。
 「おれは、単なる運び屋か…。」
呟いて、ハロルドに預かった調査資料を引き出しに収めようとしたとき、ルークはふと、ノートの間に挟まっている一枚だけ色の違う紙に気がついた。目立つように端に小枝を括りつけ、巻物のようにして「ルーク・ハーヴィ様」と宛名が書かれている。
 ルークは、巻物を手に取り、訝しげに見回した。送り主の心当たりは一人しかいない。でも、どうしてこんなところに――
 「ルーク!」
甲板からミズハの声がする。「風が変わるよ! ジャスパーに引っ張ってもらっていいー?」
 「お、おい。勝手に…」
慌てて甲板に向かおうとしたとき、船が勢い良く揺れてルークは机にしがみついた。少女の明るい笑い声。
 「思いっきり引っ張ってー!」
 「こら、ゆっくり加速しないと揺れが… 待て、ジャスパー!」
手紙をポケットに押し込んで、よろめきながら甲板に向かって怒鳴っていたルークは、窓の外に視線を感じて振り返る。
 浜辺にハロルドが立って、手を降っていた。ルークは何か叫ぼうとしたが、言葉が思いつかない。そうする間に、波と風の音が窓の外を埋め尽くし、島はぐんぐん遠ざかっていく。頭上に浮かぶ岩を取り巻いて、鳥たちが白い大きな輪を作る。音では聞こえない、人ではない存在のあの声が、今も歌っているような気がした。


 比較的波の穏やかな沖合いへ出たのは、日も暮れてからのことだった。
 ここからは島はもう見えない。浮かぶ岩を取り巻く曇り塊の上部だけがが、夕日を受けて赤々と燃えている。錨代わりのジャスパーは波間に体を沈めて、休憩している。ミズハは気持ちよさそうに風に髪を散らして、船首から島の方角を眺めていた。
 ルークは、ハロルドの手紙を広げた。そこには、太いが繊細な字で、こう綴られていた。

”ルーク・ハーヴィ様

 突然呼び立て、しかも用が済んだら島から追い出すようなやり方で申し訳ない。腑に落ちないことも多いだろうが、今は説明できる言葉を私自身が持たない、許してもらいたい。
 君ももう感づいているだろうが、多分、サラサは名前も失われてしまった「神魔戦争」の主役の一片だろう。だが言った通り、存在を規定するのは他者に過ぎない。私は彼女を、世間に容易く「神」や「魔王」とは呼んで欲しくないのだ。そのために、渡した資料からは意図的に彼女の存在をぼやかす報告をしている。私が生きている限り、彼女は人とともに生きる存在であり続けるはずだ。

 もう一つ、君を騙すような真似をして申し訳ないが、娘は、君とともに外の世界へ向かわせようと思う。かねてより外の世界を見たがっていたこともあり、またここでは、これからの彼女に必要な経験を積ませることが出来ないからだ。
 ミズハは人の姿で生まれてきて、今まで私とともに人間として育った。私も彼女に、人であって欲しいと願っている。

 サラサが言っていた。君は、君自身おそらく知らされていない何かを持っている。彼女自身がそうであるように、君もまた、この世界で何がしかの運命を背負っているのだと思う。
 もしも迷った時、ミズハは、きっと君を助ける力になれるだろう。これは私から君への贈り物だ。ありがとう、そしてまた会おう。いつか―

ハロルド・カーネイアス”



 「…どこまでも勝手な人だな」
口ではそう呟きながら、腹を立てる事も出来なかった。
 ハロルドの考えていることも分かる。「神魔戦争」が終わってから、まだ、たった百年。誰と誰、あるいは、何と何が戦ったかすら、今の人類は把握することが出来ないでいる。ハロルドが見つけてしまったのは、その最も核心に近い存在なのかもしれない。

 ”協会”が探索者たちの未知の領域へのアプローチを厳しく制限し、許可制にまでしているのは、ひとえに戦争が再発することを恐れているからに他ならない。むやみに刺激して、今の世界の均衡が崩れることは、誰もが最も恐れることだ。しかし逆に言えば、神魔戦争で起きたことの詳細を知り、コントロール出来るなら、世界を支配することさえ出来てしまう。”協会”が国家連邦からある程度独立しているのもそのためで、発見した重大な存在、事実について、特定の国家の独占状態にならないよう管理するのも一つの役目だ。ハロルドが慎重になるのも無理は無い。
 しかし、そんな存在を左右する鍵ともなり得る少女はというと、自らの置かれた位置づけなど露ほども気にかけず、船首の手すりに腰掛けて、足をぶらぶらさせながら呑気に鼻歌を歌っている。そうしていると、ただのお転婆な少女にしか見えない。ルークは苦笑して手紙を丸め直した。手紙の最後の部分はよく分からなかったが、この少し変わった元気な少女がいれば、いつかまた、あの島に戻れる。

 彼は机に向かうと、ハロルドの通信機のネジを巻き、そっと蓋を開いた。眠りから目覚めたように魔石が虹色に輝き、古びた記憶を手繰って本部への回線を接続する。
 『はい、こちら本部…』
 かすかなノイズとともに、困惑したような声が石の向こうから響いてくる。
 「こちら探索船ハーヴィ号。ルークです。エリザかい?」
 『ルーク?! 本当にルークなんですか』
聞き慣れた通信担当のエリザの声。たった数日なのに、ひどく懐かしい気がした。驚いているが、無理もない。
 『どうして…、とつぜん通信が切れて、再接続も出来なくて何かあったと。ああ、それに…』
 「すいません、ちょっとした事故で通信機が壊れてしまって。この通信機は貰ったんです、ハロルドさんに」
 『そうです、この回線の固定番号…二十年も昔に消息を絶ったエリンジューム号のものです。でも…ちょっとまって、今、貰ったと?』
 「だから、会ったんですよ」
ルークは、じれったくなってコツコツと机を叩いた。
 「今から報告します。”霧の巣”の下にある島への上陸は成功しました。ハーヴィ号は無傷です。その島で生きてたんですよ。彼は。もしもし、エリザ? 聞こえてる?」
通信機の向こうのざわめきが、ノイズとなってこちらまで聞こえてくる。今頃、本部の通信室は大騒ぎだろう。ルークはにやりと笑った。
 「エリザ、これから本部へ帰還します。ハロルド・カーネイアスから、現地での調査報告書を預かっています。あ、それと」
甲板のほうに目をやる。「――彼の娘と一緒です。ミズハ・カーネイアスの入国許可書の発行をお願いできますか?」
夕陽が最後の光を空の高い部分に投げかけ、昼の残り火が雲を赤く染め、やがて静かに冷えゆくと、やがて空には航路を指し示す星座たちが姿を現す。

 ここから大陸までは、半月ほどの距離だ。


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