後の戦い


 深夜になろうかという時刻だった。
 町の灯がほとんど消え、人々も寝静まっているように見えるフォルティーザの町に、影が忍び寄っていた。ゆっくりと、静かに足音を響かせながら、夜空の一部の星々を覆い隠しながら。全ては闇に沈み、寝息のように規則正しく打ち寄せる波が、海でさえもまどろみの中にあるのだと錯覚させる。
 だが、町の近くまで来た時、突然、世界がまばゆい光に覆われた。灯台の光が一方向に固定され、最大光で忍び寄る敵を照らしだす。男は手をかざし、眩しさから顔を背けた。
 「そこまでですよ、ハリールード」
車椅子のまま、ジョルジュが光のなかに進み出る。傍らにはナユタが用心深く控えている。
 「…アミテージ」
彼らが見つめる先にいるのは、間違いなくハリールードだった。白髪混じりの金髪、やや緩んだ小太りな中年の体。見かけは、以前と寸分も違いない。ただ違うのは、人として暮らしてきた時のスーツ姿ではなく、今は、どこかの魔法使いが着るような、豪華なローブを纏っていること。予想外の姿に、ジョルジュは、こんな時だというのに思わず苦笑してしまった。
 「また奇抜な格好ですね、ハリールード。それに、お供もなしですか」
 「余計にお世話だ。それにしても、随分と余裕だな。どうやら、歓迎の用意をしてくれていたようだが」
男は、周囲をねめつける。銃を構えた半信半疑の兵士たち、光の中心に向けられている無数の砲台。このくたびれた中年の男が本当に巨人の本体なのか、と訝しんでいるようだ。
 「――あれは、どうした?」
 「ルークは、来ませんよ」
 「ほう」
ハリールードは、面白そうな顔をする。
 「どこかに隠している、というわけか。それとも切り札か? もっとも、あんな死にぞこないなど怖くもないが、…ただ、海の魔女を抱き込んだことだけは計算外だった」
 「ええ。私にとっても、あなたにとっても。」
ジョルジュも口の端を歪めた。
 出会っていらい、数十年。一度として親しみを覚えたことはなく、信頼を寄せたこともない。完全に打算的な関係だと思っていた。お互いの利益に鳴るように利用しあっているのだと―ーだがそれは、少し違っていた。
 一方的に、利用されていただけだった。自分を含め、グレイスも、”協会”のすべての人々も。
 「終わりですよ、ハリールード」
ジョルジュは、片手を上げた。攻撃開始の合図。
 「撃て!」
ナユタが叫び、自らはジョルジュの車椅子に手を掛ける。彼がジョルジュを灯台の光から隠すように移動させた次の瞬間、取り囲んでいたすべての武器が火を吹いた。
 激しい轟音と爆風、火薬の匂いともうもうと湧き上がる土埃。生身の人間なら百回は粉々になるほどの攻撃が一箇所に降り注いだ。
 だが、これで倒せたなどとは思っていない。目的は―― 戻る先をなくすこと。すなわち、生身のハリールードという人間を消滅させることにある。
 土埃が薄れてゆく、その中からゆっくりと立ち上がる巨大な影。
 狙い通り。

 巨大な影が大地に伸びた。兵士たちは凍りつき、言葉も無くそれを見上げている。たとえ事前に説明されていても、実際に目にするまでは、その恐ろしさなど分かるはずもないのだ。
 「撤退しろ! 早く、戦線まで!」
ジョルジュが叫ぶ。生身の人間に相手にできるのは、ここまで。
 灯台の光が揺れる。それが合図だ。
 光をまとう白い翼が巨人の目の前を横切った。ハリールードは、そちらに視線を移す。ミズハは、わざとハリールードの視線を誘うようにひらひらと目の前を舞いながら、周囲に数十羽の鳥たちを生み出していく。それはまるで、白い渦のようだ。巨人は完全に取り囲まれている。
 巨人は、苛立ちと怒りの咆哮を上げた。上空の闇に紛れ、潜むように待機していた飛空艇が急降下してきたのは、まさにその時。飛空艇に乗船するアーノルドは、側面に固定された砲台の狙いを定め、祈るようにレバーを引いた。
 「頼む…当たってくれ!」
カチリと音がして、中で点火されると同時に爆発の勢いで特別製の弾が落下していく。
 今回のために考案された試作品の砲台だった。どんな生き物も頭上には隙ができやすい。飛空艇から攻撃を加えてみては、という案が出た時、通常の大砲のように発射したのでは飛空艇がバランスを崩してしまうのが問題になった。そこで、反動の少ない、落下式の砲台が作られた。目標の上でレバーを引けば、あとは重力に従って弾が落下していく、という仕組みだ。
 果たして、狙い通り。弾は巨人の真上で爆発し、猛烈な炎が巨人の頭を包み込む。巨体が揺らいだ。
 「うし!」
アーノルドは、小さくガッツポーズした。ミズハがアーノルドにむかって手を振っている。次は、彼女の出番。
 隙の出来た巨人の体を、鳥たちが次々と貫いていく。
 よろめきながら、巨人は町から、執拗に攻撃を加えてくる鳥の群れから離れようとしている。それは予め狙った誘導だ。町から遠ざけ、より海沿いへと追い込むための。
 その様子を、カーリーは灯台の上から遠望鏡で見つめていた。町からの距離と、崖までの距離。狙った位置は、もうすぐだ。
 『今よ、ルーク君!』
通信機からカーリーの声が聞こえるより早く、ルークはもう、取り掛かっていた。
 仕上げは彼の役目だった。海沿いの岸壁から、水に潜んでいた岩の巨人がゆっくりと立ち上がる。ありったけの力を込めて作り出した、可能な限り巨大な岩のゴーレムだ。ゴーレムはハリールードに突進する。ふいを突かれた巨人は地面に倒され、仰向けになる。胸元のあたりに、きらきらと輝く石が見えた。それが、コアだ。コアを奪い取れさえすれば――

 だが、そう簡単には行かなかった。
 巨人は胸元に手を伸ばして来ようとするゴーレムの腕を掴むと捻り上げ、そのままねじ切った。岩が砕け、ぱらぱらと散らばる。物凄い力だ。ルークにも、予想外だった。
 咆哮を上げながら、ハリールードはゴーレムを振り払って起き上がる。怒りに満ちた唸り声。巨人は首を巡らせ、遠くにひとかたまりになっている、取るに足りない銃火器などを構えた、ちっぽけな人間たちを見下ろした。
 今やハリールードは正確にこちらの狙いを読み取っている。町を守りつつ、ルークのコアを取り戻すつもりだという狙いを。破壊を望む巨人が、それを逆手に取るのは目に見えている。
 カーリーは、慌てて通信機に向かって叫ぶ。
 「撤退! 総員、撤退よ! 早くッ」
形勢は、一瞬で逆転した。通信機の向こうから聞こえる切迫した声を聞くまでもなく、現場にいたジョルジュは既に撤退司令を出している。 
 「みんな散って。固まって逃げないで!」
 「あんたも、早く!」
ナユタは、ジョルジュに肩を貸して走りだす。相手の動きがさほど早くないのは幸いだった。巨大な足が振り下ろされる、すんでのところでナユタは横飛びに避けた。踏み潰された車椅子の破片が飛び散る。
 「…あなたに助けられるのは、これで二度目ですね」
 「ああ。借りはあとでまとめて返してくれ」
安全なところまで駆け抜けて振り返ると、ハリールードが、笑いながら逃げ惑う人間たちを追いかけているのが見えた。徐々に街に近づきつつある。
 「行かせないっ」
巨人の前に、ミズハが立ちふさがる。虫でも捕まえようとするかのように伸ばす巨人の手を避けて飛び回りながら、少女は次々と巨人に攻撃を加えていくが、いずれも決定的なダメージにはなっていない。
 アストラル体は、確かに傷ついている。だが、片端から修復されている。その速度は、以前よりも早まっているように見えた。

 灯台の上から戦況を見ていたカーリーは、遠望鏡を投げ捨てて舌打ちした。全て見渡せる灯台の上には、仮に作られた司令室がある。彼女の側には数名の通信技師と、各現場とつながった複数の通信機が置かれている。
 「まずいわね。予測していた状況と違うわ…」
 「カーリーさん!」
カールした髪の通信技師の少女が顔を上げる。「ルークさんから通信です!」
 「何て?」
 「やっぱり”あれ”しかない、って。それきり切れちゃって…。」
 「な、」
カーリーは、血相を変えた。その言葉の意味するところは判っている。事前に何度も話し合い、断固として止めた。そのために、今回のこの合同作戦を組み上げた。
 「だめよ、止めて! それは危険すぎる。許可できないわ!」
 「でも、でも…」
 「いいから、コールしてっ!」
通信技師が泣きそうな顔になりながら通信機に向かうが、もう遅いことはカーリーには分かっていた。
 ハリールードと同じ条件下で戦うこと、つまり、人間としての体を抜けだして完全なアストラル体となって対峙させることだけは、絶対にしたくなかった。その条件下では、ルークのほうが力は遥かに劣り、万に一つも勝ち目がない。いくら再生の力があるといっても、コアの存在しない今の状態のルークは、人間の体が本体と言ってもいい。長時間体を離れていては、アストラル体自体の存続に支障をきたす――平たく言えば、再生不可能な”死”に至る可能性がある。危険すぎる。

 窓の外に、羽音が聞こえた。
 振り返ると、窓辺に少女が立っている。
 「あたしも、行くね」
 「ミズハちゃん! ちょっと待っ…」
少女は、首を振って、リボンがわりに髪を結んでいたスカーフを解いた。
 その姿が溶けるように消え、服がすべて床に落ちる。空中に浮かんでいるのは、一羽の光に包まれた鳥。カーリーは思わず片手を、眼帯で覆った目に当てた。
 止める間もない。鳥は、窓をすいっと通りぬけ、海のほうへ、灯台の光の指し示す方へと飛び去っていく。
 手を伸ばしかけたカーリーは、鳥と歩調を合わせるように立ち上がる、影のような巨人の姿に気がついた。もう一方の巨人と比べれば半分以下の大きさしかなく、体格も貧弱。相対すると、両者の違いは一目瞭然だった。
 カーリーは、さっきまでミズハの立っていた場所、灯台の窓枠に片手をついて身を乗り出した。
 止められない。彼らを止めれば、町が破壊される。それは判っている。最初の奇襲に失敗した以上、これ以上、他に打てる策はない。
 だが、悔しかった。たった二人に、この戦いの行方を任せてしまうということが。


 灯台の光が照らしだす中、すべての攻撃は沈黙している。静寂の中、寄せては返す海の音だけが、二体の巨大な影を包み込む。ルークは、再びハリールードと対峙していた。自分の意志でこの姿になるのは、これで二度目。ヴィレノーザでは手も足も出なかった。あの時は時間稼ぎがが出来ればよかったが、今度は違う。ここで退けば、慣れ親しんだこの町はめちゃくちゃにされるだろう。逃げることは――許されない。
 ”一人じゃないよ”
耳元で、囁く声がした気がした。
 ”一緒にいる。”
白く輝く海鳥は羽ばたきながら、その肩にそっと降り立つ。ルークは、そっと手を肩にやって、頷いた。覚悟はとうに出来ている。たとえどうなろうとも、自分自身の決着は、自分でつける。

 ハリールードが、腕を振り上げながらこちらへ向かってくるのが見えた。鳥は飛び立ち、ルークの頭上でくるりと円を描いた。戦いは、人の手を離れた。誰も、声を上げる者はいない。固唾を飲んで、ただ見守っている。
 風が、吹いた。
 振り下ろされる腕を避けながら、ルークはハリールードの胸ぐらに飛びついた。だが、すぐ投げ飛ばれる。拳を振り上げ、殴りつけようとする腕を無数の鳥たちの群れが貫き、腕を引っ込めると同時に再びルークが飛びつく。巨体同士がぶつかり合うたびに大気が震え、鳥たちが白い光となって飛び散ってゆく。揉みあいながら、戦場は海沿いへと移動していた。背後は暗い海。さっきまでルークがいたあたりだ。
 二人がかりということもあって、大きい方の巨人は予想外に苦戦していた。
 時間は、刻一刻と経ってゆく。巨人たちはどちらも傷つき、体力を消耗している。最初は余裕に見えたハリールードにも、僅かな焦りが見え始めていた。ルークだけに注力すれば、自在に空を切る鳥にコアを狙われる。海は海鳥の領域。何よりも、その翼には全く疲れというものが見えない。だが、うかつに攻撃すれば、ハリールードの体内にあるコアまで傷つけてしまうかもしれない以上、ミズハも思い切った攻撃が出来ないでいる。ルークにしても、長時間体を離れているせいか疲労を感じ始めていた。
 決着が着かないとしても、残り時間は、あとわずか。一瞬でも、動きを止められさえすれば。

 その時、ハリールードは崖際の小さな明かりに目を留めた。
 地面の上に置かれたランタンの小さな明かりと、傍らの通信機。小さなぽつりとした明かりの中には、胸の上に手を置いて目を閉じたまま横たわる人間の姿がある。ルークの身体だ。
 ハリールードは、にやりと笑った。
 一瞬の隙を突いてルークを突き飛ばすと、ルークの人間の体目指して突進した。
 その動きにミズハが反応する。先回りし、ルークの身体の上で翼を広げる。風とともに、一瞬で白い光の球が生まれる。振り下ろされる巨人の拳とぶつかりあって、激しく火花が飛び散った。攻撃は防げている。だが、衝撃で、周囲の地面にひびが入る。そこは海の上に突き出す不安定な岸壁の上。後ろは、すぐ海だ。
 その様子を見ていたカーリーは、振り返って怒鳴った。
 「まずいわ。こっちも船を出して! ボートでもいい」
通信技師に指示を飛ばしながら階段を駆け下りる。ルークの生身の肉体は、たとえ致命傷を負っても時間を置けば再生する。だが海に沈んでしまった場合は? それに、アストラル体が衰弱して、再生の力が弱まっていた場合は?
 崖が崩れ落ちる。ミズハは飛び立ち、くるりと輪を描いた。落ちてゆく体を拾い上げようと手を伸ばすルークを、そうはさせまいとハリールードが押さえつける。揉みあいながら、巨人たちは崖を転げまわる。

 ――その時だった。
 視界の端に、何か得体の知れないものが蠢いた。一瞬錯覚かとも思ったが、それは地面を這いながらゆっくりと地表に出てくる。白っぽい、触手のようなもの。ハリールードの真後ろだ。
 ルークの視線に気づいたのか、巨人がゆっくりと振り返る。と、その瞬間、足元の地面が勢い良く裂けた。地面から腕が、何十、何百という白い腕のようなものが飛び出してくるではないか。それは背後から素早く影の巨人に絡みつき、動きを封じ込めてしまった。
 戦いに巻き込まれないよう、はるかな上空を旋回する飛空艇から見ていたアーノルドは、我が目を疑った。
 「な、何だあれ」
慌てて遠望鏡を目に当てる。
 「そんな…まさか…、白い森…?!」
つい最近、打ち合わせの席で写真を見たばかりだった。こつ然と姿を消したという白い森。白い木に見えているもの全てが地下でつながり、ひとつの生物の体を成していると言われ、調査が続けられていた未開地の一つ。その生物は休眠状態にあり、当面復活して活動することは無いと言われていた。なのに――

 ルークは我に返った。突然目の前に現れた、木の化物とも他の何ともつかない存在が何かを考えるのは後でいい。確かなことは、今が望んだその瞬間だということ。
 すべての力を振り絞り、彼はハリールードの胸元に襲いかかった。もがきながら束縛を引きちぎろうとしているハリールードの、その体の真ん中、人間の心臓のある位置に腕を突き立てる。
 ようやく束縛を振りほどいた片腕が、ルークの頭を掴み、捻り潰そうする。しかし間に合わなかった。次の瞬間、その腕から力が抜けた。ルークは、滑り落ちるようにしてその場に膝をつく。たった今、巨人の体から取り出したばかりの手の中には、微かにどくんどくんと波打つ二つのコアが、握りしめられていた。
 巨人が叫んだ。痛みからか、あるいは消滅の恐怖からか。人の体を捨ててしまった以上、コアを抜き取られては依代を無くしたことを意味する。つまりそれは、――この世界に存在できなくなるということ。
 力任せに森を引き離し、ハリールードは最後の悪あがきのようにルークに襲いかかった。二つの影は揉みあいながら、直ぐ側の海へと崖を転がり落ちていく。水しぶき。そして大きな波。握りしめられたコアが、きらきらと空中に輝き、巨人たちもろとも波間へと消えてゆく。

 カーリーの乗る船がその場所に到着したのは、直後だった。巨人たちの沈んだ衝撃で作られた大きな波が、ボートを高く押し上げる。だが、彼らの姿はどこにもない。溶けてしまったように、小さな泡を残して、後にはさざなみばかり。
 「ルーク君!」
船べりに身を乗り出したカーリーの側に、黒っぽい長い首がぬっと伸びてきた。
 海竜だ、と気づくまで少し時間がかかった。
 「あなた、…ハーヴィ号の」
ジャスパーは、口に加えたまま、ぽたぽたと雫を垂らしている塊を、そっと船の上に押し上げた。ルークの体だ、と気づくまでに少し時間がかかった。カーリーは、慌ててその体を抱き起こす。ぐったりしてはいるが、傷ついては居ない。脈はある。だが、呼びかけても反応はない。体温は下がり、呼吸も弱くなっている。それだけアストラル体を消耗したということか。弱りすぎていれば、自力では戻れないかもしれない。
 「ルーク君、目を開けて!」
カーリーは、懸命に頬を叩いた。ジャスパーも心配そうに船べりから覗き込んでいる。このままでは…。

 その時、つい、と光が過ぎ去った。
 泣きそうな顔を上げたカーリーの視線の先に、舳先を越えて真っ直ぐに飛んでゆく白い海鳥の姿が映った。
 「ミズ…ハちゃん?」
その鳥はまるで、自分の探しているものが何処にあるのか判っているようだった。迷わずに、一直線に。微かな痕跡を頼りに降り立つと、波間から何かを拾い上げると鳥から人の姿へと変わった。光に包まれた翼の周囲にきらきらと白い光が舞う。
 カーリーでさえ息を呑んだ。その瞬間、それは――人では無く、人であってはならない存在として、そこにあった。
 ゆっくりと船まで戻ってきた少女は、音もなく静かにカーリーの側に降り立つ。
 「大丈夫」
胸元に抱いたものを、そっとルークの体の上に翳す。
 「まだ、戻れる。」
光とともに、何かがルークの体の中に吸い込まれてゆく。脈が力強く波打った。それと同時に、弱々しかったルークの呼吸が戻ってくるのを感じた。
 ほっとした顔を上げたカーリーだったが、少女の姿は既にそこには無い。後には白い波が、抉られた岸壁に打ち寄せているばかり。

 空が開け始めている。
 ルークとともに海に落ちたはずのもう一体の影の巨人は跡形もなく、浮かんでくるものもない。カーリーは、ぼんやりと抉れた崖を見上げていた。確かにそこで、巨人同士の激しい戦いが繰り広げられていた。けれど夜の開けた今は、まるで長い悪夢が終わったあとのような、朧気な気分だ。
 ふと、彼女は水面近くを、灰色の奇妙な生き物が泳いでいるのに気がついた。頭に生えた三本のツノのようなもの。黄色い目。鮫に似ているが、人間のように手足があり、一見して「鮫男」と表現するしかない奇妙なものだった。
 その生き物は、さっきミズハがルークを拾い上げたあたりで水中に沈むと、やがて、岩のかけらのようなものを咥え上げ、満足そうな顔をしてそれを噛み砕くと、水中に姿を消した。
 力を失ったコアを飲み込んだように見えた、――と、カーリーは思った。
 あの生き物は巨人の体の一部を欲しがっていたのか。もう一方の巨人の残骸を得て満足したのだろうか。今は、分からない。

 ただひとつはっきりしていることは、巨人の脅威は退けられた、ということ。
 一方は消え、もう一方は生き残った。戦いは終わったのだ。



 日が昇る。
 港へと戻る船の傍らにはジャスパーが付き従い、黒い背中が見え隠れしている。ルークは、カーリーに借りた上着にくるまりながら、船べりにもたれかかって眩しい朝日の輝きに包まれた朝の海を眺めていた。濡れた体は重たく、髪は額に張り付いているが、不思議と気分が良かった。鳥たちが声を掛け合いながら沖合へと飛んでゆく。振り返れば、崖の上には、みっしりと密集して立つ白い林がそのままに。
 光の中で、自分の手を見下ろす。握りしめて、また開き、その動きと、自らの温もりを確かめる。

 ――生きている。

 確かに、ここに、この世界に、人として。
 胸に手を当てる。
 そこには、自分のもう一つの心臓であるコアが、静かに息づいているのを感じる。ようやく取り戻した――でも、かつての自分が戻ってくるわけではない。過去の自分は過去のものでしかない。
 今の自分は、未開地学者ルーク・ハーヴィ。かつて”双頭の巨人”であったものの残骸を、その身に宿すだけのもの。

 防波堤の先端で、ミズハが手を降っていた。アーノルドやナユタ、ジョルジュたちも一緒だ。カーリーが大きく手を振り返す。
 「皆! 無事だったのね」
船が桟橋につくと、渡し板が渡され、ミズハがせっかちに飛び込んでくる。
 「ミズハちゃん、先に戻ってたんだ。急にいなくなるから心配してたのよ」
 「えへへ」
カーリーと会話する声が聞こえる。足音が近づいてきて、少女がルークを覗きこんだ。
 「大丈夫?」
 「なんとかね。でも、一晩中いろいろやってたから、もう眠くてしょうがないよ…」
 「家まで送るわ。ナユタ、手伝ってあげて」
 「ああ」
自分も疲れた、というように、水面から首を出したジャスパーが潮を吹き、ゆっくりと水面下に沈んでゆく。いつもの定位置、ハーヴィ号の作る影の下に隠れるのだろう。
 戦いは、終わった。
 疲れきってはいたが、町は守られた。そして誰一人欠けること無く、またここへ戻ってくることが出来た。ただし、まだすべてが終わったわけではない。


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