鳥の舞う島


 穏やかな波の気配で、目が覚めた。

 開け放した扉の外、甲板は青白く月の光に照らされている。ベッド代わりにしていたソファから体を起こし、ルークは辺りを見回した。波の音が心地よすぎて、少し休憩するつもりが、いつの間にか寝入ってしまったようだ。
 甲板に出ると、ほぼ満月に近い月は天頂にあり、砂浜を銀青に輝かせていた。透明な波の底には、ゆらめく影が万華鏡のように美しい模様を描きながら揺れている。
 ジャスパーは、鼻だけを波の上に出して、ゆったりと浅瀬に浮かんで気持ちよさそうに浅い眠りの中にいる。風はほとんどなく、海は凪。静かな夜だ。
 ルークは、頭上を見上げた。
 風のない夜空、散りばめられた星々を覆い隠すように浮かぶ巨大な岩に、月は静かにかかろうとしている。影がゆっくりと伸びてくる。まもなく島は、岩の影にすっぽりと覆い尽くされるだろう。
 「……声だ」
ルークは耳を澄ませた。そう、声が聞こえたのだ。目を覚まさせたもの。それは、耳で聞いた「音」ではない。体のどこか奥深くで感じる、音ならざる声…
 ジャスパーを起こさないようにそっと、船の側面についたはしごを降りる。波間を抜け、浜を横切って木々の間に踏み込む。昼間行ったハロルドの家の方ではない。声は、それとは別の場所から聞こえてくる。確証があるわけではなかった。しかしルークには、その声が呼んでいる気がした。
 唐突に木々が途切れた。
 足元は、また海。――いや、海ではない。いくつかの水路で島の外と繋がっているとはいえ、潮溜まり、と表現するほうが妥当に思える
 ここは環状になった島の、内側の海なのだ。波はなく、砂浜もない。ごつごつした岩が散らばり、いくらかは砂も混じっている内海は、穏やかながら島の外側の海とはずいぶん雰囲気が違っていた。月の光が遮られ影になっていることもあるが、どこか気軽に踏み込むことを許さない雰囲気を漂わせている。

 また、声がした。

 今度ははっきりと。――歌うような、鳥の啼くような…だが、柔らかく、どこか魅惑的な…。
 すうっと水面に光がよぎる。
 月の角度が変わったのか。ゆらめく光が水面を一直線に、岸から内海の中心に向けて道を描く。光の指し示す道は、ルークをどこかへ導こうとしているようだった。ルークは、恐る恐る足を踏み出す。足首までが水に浸かったが、それ以上は沈まない。足の下に何かがあるようには見えないのに、体は水上に安定している。見えない岩があるのか、それとも何かの力で体が浮かされているのか。足首までは沈んでしまうので、ルークは靴を脱ぎ、裸足になった。水の上を歩く経験など、一生に一度だろうと思いながら。
 足の裏で海水が揺れる。それは不思議な体験だった。海の水は揺れながら、柔らかな地面のように体を支えている。一歩踏み出すたび、ルークの作る波紋が水面を揺らめかせた。その波は弧を描きながら、暗い内海全体に広がっていく。
 月が空に隠れているせいで、海の底は何も見えなかった。すり鉢状に中心に向かって落ち込んでいる内海は、濃い藍色一色で塗りつぶされている。
 やがて行く手に、岩礁のようなものが見えてきた。そこへ続いているようだ。
 水面が揺らめき、映る自分の姿も揺れる。
 声は一つの方向から聞こえている。言葉とは認識されない。だがそれは確かに「声」で、何を言おうとしているのかは分かるような気がしてくる。
 この先に、何があるのか――誰が待っているのか。戻れるだろうか? 一瞬、浜辺で眠っているジャスパーのことが頭をよぎったが、今から戻って起こしに行くには遠すぎる。
 思い切って、一歩踏み出した。ちゃぷん、と音とともに冷たい水が足に触れた。水温が変わった。裸足の足を思わず引っこめるほどの冷たさだ。この深い部分だけ、これまでの水の温さと全く違う。ゆっくりしていたら、足がしびれてしまう。ルークは速度を早めた。光の道は、揺れながらまだ待っていてくれている。
 ようやく岩礁が近づいてきた。表面の岩は、浜の白さとも、頭上に浮かぶ石の灰色っぽさとも違う。濃い青をそのままひたすら濃く塗り込めて黒に近くしたような、そんな色合いの、磨かれたかのようにつるつるとした丸みを帯びた小山だった。ふもとにルークが辿り着いた時、その頂上付近でゆっくりと、白い何かが身をもたげた。

 立ち上がる、白い鳥。
 ――いや、白い人間。

 声もなく、ルークはただその姿を見つめた。半ば予想していたように、待っていたのは一人の女性だった。足元まで垂れる長い白い髪、身に纏う一繋ぎのぴったりしたロングスカート、象牙のような白い肌。深い海と同じ青の瞳は冷たいが、表情全体では穏やかな笑みを浮かべているようにも見えなくない。

 これがミズハの母親だ、とルークは直感的に察した。

 人の形でありながら、人には見えなかった。全身を包んで見える銀色に近い白い輝きは、この夜の闇の中で彼女があまりにも純白すぎるからなのか。小山に登って近づくことがためらわれ、ルークはその場に立ち尽くしたままだった。それどころか、見つめられた瞬間から、体が動かなくなっていた。冷たすぎる海水で足が麻痺してしまったのかもしれない。
 白い女性ははっきりと分かる笑みを浮かべると、何かを歌った。口元が動くのが見え、そして――

 そのあとは、記憶に無い。



 気がつくと、昼になっていた
 窓から差し込む眩しい光、潮騒と風の音。水の底から浮かび上がるように意識がはっきりしてくると、ルークは慌てて飛び起きた。見慣れた天井、キャビンの細々としたもの。ソファの上で寝入っていたようだ。頭に手をやり、髪をくしゃくしゃとかき回す。昨夜は、確かに内側の海に…。そして、白い女性に会ったはず…。あれは、夢だったのだろうか?
 ソファから降りようとして、ルークは、自分が裸足なのに気がついた。見れば靴は半濡れのまま入り口に揃えられている。
 夢ではない。
 外が騒がしいことに気づいて甲板に出てみると、ジャスパーが警戒音を発しながら首をもたげていた。見ている先には、ハロルドが立っている。
 「ハロルドさん」
 「よーう、起きてたか。」
男は陽気に手を振っている。ルークは濡れたままの靴を無理やりつっかけて、船を降りた。
 「いやあ、間近に海竜を見る機会ってのも、そうそうないからな。ううん、実に見事なウロコだ」
 「そんなことのために、わざわざ来たんですか?」
ルークが不満そうな顔をしているのを見て、ハロルドは茶化すように笑った。
 「ずいぶんごきげん斜めだな。さては寝覚めが悪かったんだな。サラサは丁重にもてなしてくれたろうに。」
 「…それが、あの人の名前ですか」
 「そうだ。名付けたのは私だが。」
あごをしゃくり、ハロルドは木立の影にルークを誘った。太陽はもう、高い場所まで上がっている。頭上の岩は相変わらず乳白色の雲をまとっているが、その外側には雲ひとつなく、強い日差しは砂浜を真っ白に輝かせている。
 「説明するより、実際に逢ったほうが理解もしやすいと思ってな。――見ての通り、彼女は人間ではない。が、何者であるのか、おそらく本人も分かってはいない」
 「本人も?」
 「そうだ。存在とは他者が規定するものだからだ。魔王、魔女、悪魔、神…どんな呼び名を与えるかは、他人次第だ。そうだろう?」
ルークは黙っている。ハロルドは続ける。
 「言いたいことは、分かる。だが私は気にしていない。彼女は太古の昔からここに存在する、この島の――というより、この海域の、空と海を含めた女王なんだ。あの、空に浮かぶ大岩も、彼女の存在を抹消しようと試みられた痕跡だ。つまり――神魔戦争の時代の遺産、ということだな。」
 「悪い王様、と、あなたの娘は言っていましたが」
 「それもまた、他者が規定した名称、役割に過ぎんよ。かつては、いや、今もそうかもしれないが、彼女に匹敵する力を持つ何者かがこの世界に存在し、敵対していた、としか言えない。」
ハロルドは、肩をすくめた。
 「だがな、彼女はそんな大それた存在であるとともに、私にとっては最愛の妻なのだ。ミズハの母親でもある。」
 「…よく、妻にしようと思いましたね」
 「呆れているのか? だがどうだ、美しかったろう。それはもう、この上なく」
ルークは昨夜の不思議な邂逅を思い出し、苦々しく頷いた。
 「そこには、同意しますが――」
男は、にやりとして、いかにも嬉しそうにルークの肩を叩いた。
 「ああ見えて、サラサは優しい女だ。難破して死にかけた私をこの島へ導いてくれたとき、私は女神に会ったと思ったね。まあ最初は驚いたが…言葉も通じないし…、それも最初のうちだけだ。ま、そんなわけで、私は天国にたどり着いたのさ。」
 「帰ろうとは思わなかったんですか? この海域の女王だというなら、彼女の協力を仰げば、あの海も越えられたでしょうに」
ハロルドは真顔になり、静かに首を振った。
 「初めて会った時、彼女は人ではなかった。私のために人の姿をとってくれた。彼女を規定したのは私だ。――今では、私も彼女の一部なのだ。離れることは出来ない」
 「……。」
長い、沈黙。
 ハロルドは、おもむろに立ち上がった。
 「来てくれ。君に預けたいものがある」
木々の間の獣道を辿り、再び辿り着いたのは、ハロルドの作った粗末な家の前だ。
 男は引き出しを開け、一つにまとめた包をルークに差し出した。ぼろぼろになったノート、古い海図、撮影機から抜き出したフィルムの束など。
 一番上に載せられたノートのタイトルを見て、ルークははっとした。
 「ハロルドさん、これは…」
 「この二十年の私の成果物だ。本部に届けてくれ」
ハロルドの顔は、笑ってはいなかった。日焼けした顔の真ん中で、緑の瞳は怖いほど真剣に、じっとルークを見つめている。
 「でも…、あなたは」
 「私は残る。…すまんな。いつか探検船がこの近くへ来たら託そうと、ずっとこうして書き溜めてきたんだ。この島のことが世間に知れても、彼女が許可しない限り、島へ辿り着くことは出来ないだろう。ここでの暮らしはずっとこんな調子で続く。私はそれでいい。外の世界より、ここはずっとのんびりして、平和だしな」
背を向けながら、男は小さく笑った。
 「実を言うとな。少し世間に疲れていたんだ。ここは世界中を巡る危険な冒険の果てに辿り着いた楽園、ってやつだ」
 「外の世界に、家族はいなかったんですか?」
ハロルドの口元が、少し歪んだ。
 「――その渡した中に、手紙も入ってる。もしまだ生きているなら、気が向いたら渡してくれ。死んだことになってる人間からの手紙なんざ、欲しいかどうかは分からんしな」
 「そんな言い方…」
自分でも少しムキになっていると思った。ここを出る時は、彼も来てくれると思っていた。伝説の探検家が生きていたと分かれば、本部だけではなく、彼の著書に胸を踊らせた多くの人にとって朗報となるだろう。
 いや、それだけではない。
 調査結果を丸ごと渡されたのが癪だったのかもしれない。わずか数日、いや一週間かけたところで、ハロルドが二十年かけた調査を越えることは出来ないだろう。成果を丸ごと渡されたということは、ここで成すべきことはもうないのだから、さっさと帰れと言われているような気もしたのだ。そして、一度ここを出てしまえば、今ハロルドが言ったように、二度と戻ってくることは出来ない。
 「すいません。…少しだけ考えさせてください。」
差し出されたものを、ハロルドは受け取らなかった。ただ拒否するように片手を翳し、静かに押し留めて笑う。
 「真面目だな、君は。そいつを持って帰ればお仕事終了、一躍英雄だってのに」
 「でも、…これは、あなたが発表すべきものじゃないですか」
男は、首を振った。
 「そういうのが、面倒になったんだ。やれ最初の発見者が誰だの、何を発見したのが誰の手柄だの。私は自分の名誉や金のために冒険してたわけではない。ただ自分の欲望のためさ。未知なるものに挑む時、誰も見たことのない光景と出会う時ってのは、わくわくするだろう? 君もそうじゃないのかね?」
 「それは…。」
口ごもり、俯く。言い返せる言葉は無かった。たぶん、ハロルドのいうことは正しいのだろう。納得出来ないのは、感情の話だけだ。
 風が出てきた。
 鳥たちの声なき声が木々の間を通りぬけ、羽音が空へ向かう。きらきらと、白い砂が風に舞い、島の何処かへ降り積もる。ここではルークだけが遺物だった。
 二十年をかけて辿り着いたハロルドの決断に対し、年も経験も遥かに劣る昨日出会ったばかりのルークに成せることは、何もない。


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