頭の巨人


 会話が途切れた時、ちょうど表で犬が吠えはじめた。 
 「あらやだ、またお客様かしら。ちょっと待っていてね」
マリアは髪を整えながら席を立つ。ルークもミズハも、黙って席に座ったまま待っていた。
 昼下がりの日差しがテラスに落ちている。陶器を焼く竈から上がる細い煙の調子は、変わっていない。マリアはなかなか戻ってくる気配が無かった。
 遅いな、と思いはじめた頃、いったん収まった吠え声が、再び響き渡った。さっきまでと違う調子だ。何か、切羽詰まったような。
 「どうしたんだろう」
 「…もしかして、もう追いつかれたのか?」
”協会”からの追っ手、というと仰々しいが、ジョルジュの差し向けた使いがルークたちの足取りを追ってきた可能性はある。二人は、それとなく玄関のほうへ周り、訪問者の様子を伺った。
 「ですから、何度も申し上げているでしょう…。」
建物の向こうから、老婦人の声が聞こえてきた。傍らで吠える犬をなだめながら、マリアは誰かとしゃべっている。
 「私は協力しませんよ。ごめんです。」
家の前に止まっているのは、軍で使われるようなゴツい車だ。荷台の部分には幌がかけられており、運転席の窓には金網が嵌めこまれている。話している相手も、背に銃を背負った部下を引き連れた軍人らしき男だ。
 その男に、二人は見覚えがあった。
 「…あれは」
ロマナ湖で出会った、ボートの男…。
 業を煮やしたのか、兵士たちが両脇からマリアの腕を掴み、車のほうへ引きずって行こうとする。犬は一際激しく吠えたてているが、首輪につながれ、主人を助けることが出来ない。
 「やめて、やめてください」
マリアは必死に抵抗しようとしている。
 「その手を離せ!」
と、勢いよく飛び出したのは、ミズハだった。
 思わず同じセリフを叫びそうになっていたのだが、先に言われてしまい、ルークは黙ってミズハの後から姿を現す。
 「おやおや。君たちは」
相手も、こちらを覚えている様子だった。ロマナ湖の一件から、まだ一ヶ月も経っていないのだ。当然だろう。
 「あんたたちは、一体君何を企んでる?」
ルークは、じりじりと距離を取りながら慎重問うた。相手は銃を持っている。まさか素手で殴りかかってマリアを救出できるなどと思ってはいない。
 「この大陸を支配でもするつもりなのか」
 「ほう、よく分かったな」
 「…冗談で言ってるんじゃない。」
 「冗談ではない。本気だとも。」
 「何のために。巨人はもう居ないのに? 単に人が人を支配するだけじゃダメなのか。」
男は、にやりと笑う。
 「戦争をしろと?」
 「…しろ、ってわけじゃないけど」ルークは、口ごもる。
 「なんていうか。”逆さ大樹の谷"や”喋る大岩”を壊した意味がわからない。”コア”を奪って、人を巨人のように変えたい理由は?」
 「未開地学者。奇妙な男だな、お前は」
面白そうな、そして憐れむような声だ。
 「話していると、何故だか教えてやりたいもどかしい気持ちになる。一つには、我らの人数は少なく、力は小さいからだ。巨人に与えられた知恵を使わねば、その望みを叶えて差し上げることが出来ないからだ。もう一つには、――もちろん分かっているだろうが」
男はにやりと笑い、指で合図した。車の幌がざわり、と揺れた。聞こえない咆哮、立ち上がる気配。背筋がびりびりと震える。
 「そう――我らが、巨人ルー・ルー・ドの信奉者だからさ!」
ミズハが身構える。
 「我らは巨人の王とともにあり。絶対たる力の象徴、偉大なるものの命じるままに!」
男がそう高らかに叫んだとき、その背後には、五つの巨大な影が立ち上がっていた。
 「ミズハ!」
 「分かってるよっ」
少女は翼を広げ、ふいをついて、兵士たちに飛びかかると、その腕から素早くマリアの身柄をもぎはなす。
 「逃げるぞ!」
 「待って、ナーシュが…」
マリアは空から犬を見ている。それが、飼い犬の名前なのだろう。
 ミズハはマリアの身柄をルークの傍らに下ろすと、周囲に鳥たちを生み出した。
 「時間かせぐ、急いでっ」
兵士たちが銃を構える。鳥たちは、射線を阻むように乱舞している。その隙に、ルークは犬に駆け寄って首輪の留め金を外した。弾かれるように飛び出した犬は、飼い主のもとへ一目散に走りよっていく。
 「これで大丈夫!」
ルークも犬の後を追い、マリアを急かす。
 「とにかく町から離れるんだ!」
ミズハの鳥たちをかいくぐってきた銃弾が、足元の地面を抉る。ルークは当たっても死なないかもしれないが、マリアは危険だ。それに、いくら死なないからと言ったって、銃で撃たれて気持ちいいはずもない。
 走り回る小さな人間たちを逃すまいと、影の巨人たちがルークたちの頭上から腕を伸ばす。

 その瞬間、記憶の中に遠い光景が一瞬、ルークの脳裏をよぎった。
 いつも見ていた夢灰色の谷、屍の山、…巨大なものに追われて逃げ惑ったこと…、あれは…巨人に追われていた場面だったのか?

 いや。今は考えている場合ではない。
 「先に行ってて! ちょっとだけ、足止めするっ」
少女の周囲には、さらに多くの輝く鳥たちの群れが現れる。ここは、海から近い。海の上ほどではなくても海風の届く範囲なら、ミズハの力はそれほど制限されない。少女一人に背後を任せるのは悔しかったが、足手まといになるわけにはいかなかった。


 巨人たちから逃れて、ルークは、丘を目指して走り続けていた。
 「マリアさん、急いで!」
 「はあ、はあ…」
丘の入り口まで来たが、マリアは限界のようだ。息を切らせて座り込む老婦人の周囲で、飼い犬が、勇気づけるように吠えたてている。
 「も、もう駄目よ。わたしのことはいいわ、あなた達だけでも逃げて」
 「でも、あいつらは平気で人を殺そうとする」
 「わたしは殺されないわ。協力しろと言われたの。わたしに…人形になって巨人への努めを果たせと。」
マリアはぽろぽろと涙を落とす。「でも、わたしは、そんなことしたくない。夫ももういないし、息子には申し訳ないけど…強いられるくらいなら、わたしの命なんて…」
 「諦めるな!」
びくっ、とマリアの肩が震えた。腕を抑える。
 「…え?」
 「死んでいいなんて絶対に思っちゃだめだ。立って!」
ルークが掴んだ手を、マリアはおそるおそる握り返す。老婦人の困惑したような表情に、ルークは気づいていない。
 よろめきながら何とか立ち上がったマリアを引いて、ルークはなおも先を急ごうとする。
 咆哮がすぐ近くまで迫ってきている。ルークは頭上を見上げた。木々の合間に、光の鳥たちを振り払いながら逃亡者を探す巨人の頭が見えた。
 ああ、そうだ。いつかも、こんな風に逃げていた。
 否応なく蘇ってくる記憶。今はそれを振り払う余裕はなく、意識が端から食いつくされていくようだ。たった一人で、恐怖に震えながら。ただ、生きなければと。ただ、それだけを考えて――

 ”アノ時トハ違ウ”

意識の奥底で、誰かが呟いた。

 ”ヤレルハズダ、アノ程度ノ マガイ物ナラ”

体の芯が震えた。ルークはふいに老婦人から手を離し、両腕で体を抱いた。体から力が抜け、膝をつく。マリアの飼い犬、ナーシュがビクンとなり、突然、体中の毛を逆立ててルークに向かってうなり始める。
 「ナーシュやめて! やめてちょうだい、一体何を…」
マリアの声が遠くなっていくのを感じていた。今までとは違う。今回は、まだ意識が飛ぶ前だ。それなのに。

 ”奴ラヲ”

抗うことは出来なかった。
 奥底から湧き上がる得体のしれない衝動に突き動かされるように、ルークの意識は空へと広がっていた。足元には丘の木々、町を越えて河口まで見渡すはるかな風景。開放感と、罪悪感と。見下ろせば、足元には力を無くして崩れ落ちた自分の体と、慌てて抱き起こそうとするマリアが見えた。

 ”アレハ タダノ器”

声が聞こえる。視線を巡らせると、遥かに小さな影の巨人たちが、うろたえながらこちらを眺めているのが分かる。そのうちの一体が、無謀にも、腕を振り上げながらこちらへ突進してくる。

 ”身ノ程知ラズノ連中メ…”

蚊を追い払う時のような軽い仕草で、ルークは腕を振る。影が吹き飛ばされ、土埃を上げながら畑に突っ込んだ。目の前を白く輝く光が横切りながら何か咎めるように叫んでいる。
 「ルー君! あそこ、さっき人がいたよ!」
ミズハ…、いや、

 ”海ノ魔女”

声が響く。本能が察する。
 遠い記憶が知っている。大陸の南の海を支配する女の姿をした魔女。白い海鳥の化身。海を渡るすべてのものを見ているが、ただ眺めるだけで何もしない。海に住むすべての生命の母であり保護者であるが、子どもたちが殺し合おうと滅びようと手を貸さない。海と、空と、空間全てを支配しながら、あるがまま、なすがままに放置する奇妙な存在。
 ――これは、その力の一部。敵と味方でいえば、どちらでもなく、――目障りだが、――戦うには分が悪い。

 ルークは、それを無視して次の影に襲いかかった。頭を掴み、ねじり上げながら胸の辺りに輝く石を力任せに引きちぎる。手を離すと、影はその場に崩れ落ち、もがきながら、ぼろぼろと崩れ落ちていく。石を飲み込み、更に次の相手へと。

 ”足リナイ。コレデハナイ”

抗いがたい飢えに突き動かされるように、腕も、足も、隠された輝きを求めている。

 ”コア ヲ…!”

伸ばした腕に、衝撃が走る。痛みに声を上げ、ルークは後すさった。
 「ルー君!」
輝く鳥たちが光の矢となって、輪郭のおぼろげな、影のような腕に突き刺さっている。

 ”ナゼ、邪魔ヲスル”

怒りがこみ上げてきた。
 ここは南の海ではなく、海の魔女の支配する空間ではない。海の魔女はただの傍観者、誰にも、何者にも手を貸さない。敵でも味方でもない。そのはずだったのに。
 だが言葉は、低い唸り声にしかならない。ルークは顔を逸らしながら、がむしゃらに腕を振り回した。責めたてるような少女の燃える瞳を見てはいけない。それが魔女の持つ支配の眼差しだと、本能的に悟っているからだ。
 体に痛みが走る。
 「戻って!」
無数の白い鳥たちが、渦を成して周囲を取り囲んでいる。分からない。この小さな鳥は、なぜ邪魔をする。敵ではないはず。
 いや、――それは昔の話だ。
 そうだ。魔女は自分の領地から出なかったから中立だったのだ。この大地は、魔女の土地ではない。今は――

 ”敵ダ”

影の目に暗い気配が宿ったことに、ミズハは気づいた。今までとは違う。今までなら、ある程度ダメージを与えれば体に戻れたはずだった。今回はそうではない。
 「ルー君…!」
それでも疑いきれなかったことが、一瞬の動作の遅れを生んだ。次の瞬間、振り下ろそれた拳が空中に浮かぶ少女を力いっぱい地面に叩きつけたのだ。
 避ける間もなく、ミズハを叩きつけたことははっきりと分かった。手応えがあったからだ。
 「な、」
ルークは呆然として、握ったままの影の姿の手を見下ろした。殴った拳の痛みは全てに優先され、意識の支配権を上書きする。瞬時に、意識の支配権が戻ってきた。
 「今、おれ…何を」
いつもの自分を取り戻すと同時に、周囲の風景が一変した。それまで不思議な声とともに灰色に変わって見えなくなっていた世界が、いつもの色のある風景に戻ってきた。破壊されたマリアの家の半分、なぎ倒された木々、畑に開いた大穴と、側で腰を抜かしている農夫などが次々と意識の中に飛び込んでくる。
 そして、足元の地面には、叩きつけられた少女が横たわっている。
 「ミズハ…?!」
最悪を覚悟しながら顔を近づけたルークは、彼女が翼を失って地面の上に浮いているのを見つけた。範囲1.5メルテの不可侵領域。本人が意識を失っている時でも、無意識のうちに発動される決して危害を加えることの出来ない空間…。
 ミズハは、目を開けて頭をさする。
 「び、びっくりした…。あれ? あたし」
 「ミズ…」
ほっとすると同時に、意識が遠のいてゆく。体に引き寄せられるようにして、影は元あるべき場所へ戻っていく。

 目を開けると、目の前に心配そうなマリアの顔がある。背中に地面の感触。一瞬の呼吸ののち、
 「そうだ、ミズハ!」
勢い良く起き上がる。
 「あ、あの」
マリアの仰天した顔。犬のナーシュはマリアの腕の中でぶるぶる震えている。だが、今は説明している暇はない。
 「すいません。あとで――戻りますから!」
叫んで、転びそうになりながら走りだす。巨人たちが壊した道、倒れた木を飛び越えて。街の入り口で立ち往生している馬車、家の外におそるおそる出てきた住人たち。ヒステリックに泣く赤ん坊の声、落ち着かなさそうにめちゃくちゃに走り回る馬たち。
 行く手に、さっきまで居たマリアの家の前の十字路が見えてきた。
 「ミズハ!」
えぐれた地面に座り込んでいる少女に駆け寄って、ルークは、少女の肩を掴む。
 「大丈夫か? 怪我は?」
 「なんともないよ。」
彼女は、けろりとした顔だ。
 「そ、そうか…」
ほっとすると同時に、力が抜けた。ルークはミズハの肩から手を離し、傍らに座り込んだ。思い切り走ってきたせいで汗が流れ落ち、心臓がばくばく波打っている。
 ルークは汗を拭い、その手を見下ろした。――さっきその手で、彼女を殴ったのだ。
 と同時に、全身に震えが走った。あの瞬間、自分の意識は完全に、別の何者かに奪われていた。
 「ルー君?」
はっ、として顔を上げるとそこに、覗きこむミズハの顔。じっとルークの目を見つめていたかと思うと、やがて、にこりと微笑んだ。
 「良かった、いつものルー君だ。」
 「……ミズハ」
さっき本気で殺されそうになったのに、彼女は気にしたそぶりさえ見せない。ルークは、かえって戸惑った。気づいていないのだろうか? そんなはずはない。それなら何故…

 マリアが、ナーシュを連れて歩いてくるのが見えた。
 「あ、」
立ち上がって、ミズハは手を振る。「大丈夫だったー?」
 「ええ、わたしはね。あの人たちは…?」
マリアは周囲を見回した。いつのまにか、車も、銃を持った男たちも、どこにもいない。形成不利と見て逃げ出したのだろうか。それとも、騒ぎが大きくなって警官がくる前に逃亡しただけなのか。
 「すいません、家が」
ルークは、立ち上がらながら言う。
 「いいえ。悪いのは私のほう。ごめんなさいね。そして――」
すっ、と膝を折り、老婦人はいきなり二人の前に頭を下げた。
 「存じなかったとは言え、失礼を致しました。どうぞお許し下さい」
 「えっ」
 マリアは、自らの金の腕輪に触れた。「我らの導き手…巨人の主…」
 「……。」
ルークもミズハも、、言葉を失ってぽかんとしている。
 「…そうなの?」
と、ミズハ。
 「はい、間違いなく。」
 「え、いやいや! ちょっと待って!」
ルークは慌てて両手を振った。「どういうことなんですか? 巨人の主って?」
 「ルー君、人間滅ぼそうとした?」
 「するわけないだろ。この大陸に来たのは、グレイスたちと一緒にだから、たぶん三十年くらい前…だし…」
マリアは、かえって驚いたようだった。
 「三十年前? それに、何も覚えていらっしゃらない?」
 「すいません…」
 「まあ…」
口元に手を当て、マリアはしばらく思案していた。が、
 「分かりました。私でお力になれるのなら、謎解きをしてみましょうか。」
スカートの裾を払い、立ち上がる。「ここではご面倒でしょう。こちらへ」
 一帯には、町の住人たちが集まり始めている。警察が呼ばれ、住人たちが口々に巨人の話をしているのが聞こえる。確かに、ここではゆっくり立ち話をしている時間もなさそうだった。


 マリアに案内された場所は、丘の反対側にある牧草地だった。
 牛が何頭か、のんびりと草を食んでいる以外、誰もいない。木々の合間に水車小屋があり、汲みあげられた水がさらさらと音を立てて牧草地を囲む用水路に流れ込んでいる。
 「さて、どこからお話したものやら…」
マリアは袖口をめくり上げ、金の腕輪を二人に見せた。
 「わたしたちがつけている、この腕輪は…今では形式的なものなのですが、元は契約の印なのです。本来は新生児が誕生した時、主から贈られて生涯つけているはずのもの。我々の主とは、”双頭の巨人”ルー・ルー・ド」
ロカッティオでドン・コローネに借りたチョーカーと同じ役割を果たすものなのだと、ルークは理解した。つまり巨人の信奉者とは、文字通り、巨人と契約し、その力を借りてきた民の末裔のことなのだ。――ロカッティオに住む、かつての魔王の信奉者と同じように。
 「さきほど”諦めるな”と命じられた時、この腕輪があなた様の言葉に反応しました。そうである以上、わたしはあなた様を主と認めざるを得ません」
 「おれは、命じたつもりじゃなかったんですけど…。」
ルークは、微妙な表情だ。
 「でも、今までその腕輪をつけた連中と何度もすれ違ってきたけど、一度もそんなこと言われてないな。さっきだって攻撃されていたし」
 「それはおそらく、あなた様ご自身が、普段は自身のお力を意識の奥底に封じられているからでは?」
と、マリア。「それだけではないのかもしれませんが…。」
 ひとつため息をつき、老婦人は、草をはむ牛達のほうに視線を向けた・
 「先程は申し上げなかった最後の真実を、お話ししましょう。とはいえ、これは本当は―― ご自身の口からお話いただくべきなのですが」
 「……。」
ルークもミズハも、黙って耳を傾ける。
 「双頭の巨人はそれぞれ異なる性格を持つ二つの頭を持っていました。ですが、仲違いをし…、片方の頭はもぎ取られてしまった。これは先程申し上げたお話ですよね」
 「ええ」
 「実は、もぎ取られた頭は、体を失ってもまだ生きていたのです。その首は思考と再生の力を持っていましたので。失った体を補い、人の姿で蘇ったと言い伝えにはあります……」
死んでも蘇り、致命傷を負っても再生する。今のルークの持つ力そのものだ。
 「私たちの祖先は首を匿いましたが、それが残された一つ首の怒りを招き、多くの仲間が殺された、と聞きます。」
 「――灰色の谷?」
 「それは覚えておいでなのですか?」
 「…何となく。いつも夢に見ていた。巨人に追われる夢…」
ルークは、額に指を当てて目を閉じた。どうしても忘れることが出来ず、繰り返し見ていた夢の正体は―― 匿われていた谷から逃げ出すときの風景だったのか。その記憶だけが残っていたのは、匿ってくれた人々のことを忘れたくなかったから――?
 「そのあと、一つ首の巨人がこちらの大陸へ渡ってきたことは、もうお話しましたよね」
 「ええ」
 「わたしたちの祖先に、彼を追って海を渡るように言ったのは、…そのお方なのです。止めてくれとは仰らず、見届けてほしい、と。そうしてご自分は、荒れ果てた元の大地にお残りになった。それで、わたしたちはこちらの大陸へ」
 「……。」
マリアの眼差しは、自身の握り合わせた手元に向けられている。金の腕輪は、そういう意味だったのだ。破壊の巨人に従うためではなく、ただ、その後を追い、見届けるためだけに。
 ルークの表情を見て、マリアは微笑んだ。
 「悩まれることは、ありません。覚えていないほうがいいのかもしれません。今のあなた様は…、完全に人間のように生きておいでです。人として生きるのに、過去の辛い記憶は必要ないでしょう?」
 「でも、今の話が本当だとしたら、あなたたちが今ここにいるのって、その残った首のせいなんですよね。なのに本人が覚えていないなんて」
 具体的に蘇ってくるものは、ほとんど何もない。記憶のページは大半空白で、手がかりすら無い。
 だが、おそらく過去の自分は知っていたのだろう、とルークは思った。
 分かる気がした。たとえ一時の激情にかられたにせよ、強大な力を持っていたにせよ、再生の力を持つ側の首なしに、一つ首の巨人は長くは生きられないだろうということ。手を下さずとも、いずれ力尽きて倒れる。分かっていたからこそ、ただ”見届けてくれ”と願った。そして自分は、誰もいなくなった大地に一人残ることを選んだ。
 三十年前、グレイスたちと出会い、自分も海の向こうに渡ることにしたのは――
 巨人との戦いが終わったこと、つまり危険な半身が狙い通り命尽きたことを確信したから。奴がいないなら、もう危険はない―――。

 ふと、マリアは顔を上げた。 
 「そろそろ戻らなくてはいけませんね。私がいないと、皆、家の下敷きになっているのかと大騒ぎするでしょうから」
 「おれたちも、もう行きます」
ルークたちも、立ち上がる。騒ぎが起きてからもう随分時間が経っている。さすがに、本部に連絡が回されている頃だろう。
 「ありがとうございました」
 「お礼など。どうか、お気をつけて」
牧草地を後に町の方へ戻っていくマリアを見送りながら、ルークはもう一度、自分の手に目をやった。開き、閉じる。怪我をすれば痛みを感じるし、熱いものを持てば熱いと感じる。紛い物と言いつつも、それは決して人形の手ではない。
 「ルー君?」
 「あ、…うん。ごめん、行こうか」
歩き出しながら、ルークはもう一度、手を握りしめた。
 真実を知れば知るほど、理解し難くなっていく。
 信じがたいことだが、確かに自分は”双頭の巨人”の失われた片方の首らしい。具体的に思い出せなくても、朧気に覚えている断片的な記憶が、マリアの話は真実だと告げている。双頭の巨人の片方の頭、思考と再生の力を持つ首。つまり…元は人間ではない。
 心臓はいつもどおり波打っているというのに、今はそれさえも疑わしい。


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