頭の巨人


 雨は、ミズハの予想していた通り、日が暮れて半時ほどして降りだした。
 最初は霧のようだった雨足は次第に強まり、やがて、土砂降りに変わっていた。街の灯はすべて滲んでぼやけ、陸と海の境界線は、暗い雨雲の下で灰色に霞んで消え失せている。丘の斜面を流れ落ちる雨はまるで滝のようだ。
 そんな雨の中、ジョルジュは丘の上の家を訪ねてきた。アーノルドからルークが倒れたと聞いたのだと言う。いつもの灰色のコートは、傘をさしているにもかかわらず濡れそぼり、いつもよりさらに重たい色に見える。
 「ルークの様子は、どうです?」
 「部屋にいるよ。」
出迎えたミズハは、そっけない。
 「…そうですか」
ジョルジュは、傘をたたみ、玄関先に立てかけた。緩やかなカーブを描く前髪から、ぽつりと雨のしずくが垂れる。
 「少し話をしたいのですが、構わないでしょうか」
 「ルー君に聞いてみて。」
頷いて、ジョルジュは迷う様子もなくルークの部屋へ向かった。ドアの向こうは静まりかえっている。ジョルジュは、ドアを何度かノックした。
 「ルーク。私です、入っても大丈夫ですか」
返事は、ない。そっとドアを開くと、中は真っ暗で、ベッドも空っぽだった。
 「ルーク…」
机のあたりで、人の動く気配がした。頭を抱えてうずくまっていたルークが、ゆっくりと顔を上げる。
 「どうしたんです。気分が悪いなら、寝ていたほうが…」
 「…思い出せないんです」
頭を抑えたまま、ルークは絞りだすように呟いた。
 「この間からずっと、ずっと何かが引っかかっていて、それが大事なことだと解っているのにどうしても思い出せない」
 「思い出せないって、一体…何の」
ルークの側に近づいたジョルジュは、机の上に飾られた三面の写真たてに気づいて、足を止めた。意図せず、声が硬くなる。
 「その写真…。一体どこで」
声音の変化にはルークもすぐに気づいた。ジョルジュの視線は、三枚目の写真、つい最近見つけたあの古い写真に注がれている。
 「知っているんですか」
 「……。」
一瞬彷徨わせた視線。珍しく狼狽えた、その表情。
 以前なら気づかなかっただろうその意味に、ルークは気づいてしまった。どこかで逢った気がしていたのだ。若いころのジョルジュは、グレイスとともに調査航海に出ていたはず…。
 「そうか…。この右端のは…」
若いころの、――グレイスとともに調査していた頃の、ジョルジュ・アミテージ。
 「あなたは知っているんだ。この、真ん中にいるが一体何者なのか」
 「ルーク、…」
 「教えてください。グレイスと、あなたがいた。あれは…、あれは、知るはずのない光景だった。三人でボートに乗っていた、この記憶は一体…」
ジョルジュは、よろよろと数歩後ろに下がり、壁際の本棚に背をぶつけた。
  「……知ってるの?」
入り口には、ミズハが立っている。二人の問いかける視線を前に、灰色の男は逃げられないことを悟ったようだ。
 小さくひとつため息をつき、眼鏡を押し上げる。
 「――予感はしていたんですがね。カーリーからの報告を受けた時、そろそろ限界いと…」
沈黙が支配する部屋の中に、雨音が響く。
 「やはり、このまま永遠に隠し通すことは出来ない…か。」
 「ジョルジュさん…」
 「ですが、本当に知りたいのですか? 聞けば、あなたは」
 「構いませんよ」
幼いころから何度も繰り返して見た夢の正体を知ることが出来るなら、どんな内容でも構わない。こんなモヤモヤした状態のまま時を過ごすことは耐え切れない。

 意を決したように、ジョルジュは口を開く。
 「私とグレイスが、その写真に写っている男と出会ったのは、三十年近く前…。彼の当時の名は、…ルーでした」
写真の中の男は、無表情に撮影機を見つめている。くたびれた誰かのお古らしいサイズの合わないシャツを着て、二十歳そこそこに見えた。
 「当時若かった私たちは、恐れ知らずだったのです。闇の海を越えて冒険しようと言い出したのは、グレイスでした。小さな船でしたが、運が良かった。島伝いに大陸にほど近い場所まで行く事ができた。…そこで出会ったのです。その男と。」
言葉が途切れた。
 「人間にしては赤ん坊同然で、言葉も、生活する術も、何も知らなかった。私たちに分かったのは、彼が瞬時にして傷を癒す不思議な力を持っていることだけです。でも、彼は一度、死んだのです。そう、一度だけ、完全に――」
ジョルジュは首を振り、絞りだすように俯いた。
 「なのに、すべてを失って、もう一度生まれてきた。それが… あなたですよ」
ミズハが息を呑む音。だがルーク自身は、不思議と驚かなかった。信じがたい内容なのに、なんとなく、昔から知っていたような気さえして、違和感なく受け入れられた。雨の音が波に似て、夢のなかにいるようだった。朧気な霧の中から何かが蘇ってくるような気がした。

 ”この写真は自分なのか”

ゆっくりと両手で顔を覆う。どうして、今まで忘れていたのだろう。途切れ途切れに再生される記憶は、かつてただの夢だと思い込んでいたもの。それは確かに自分が体験した記憶だった。正確に言えば、「かつての自分が」体験した、いわば前世の記憶だ。
 だが、覚えているのは悪夢のようなあの光景だけ。グレイスたちと出会い、海を越えたことまでは思い出せない。
 ジョルジョの声が遠くから響いてくる。
 「戻ってきたとき、あなたは子供の姿に変わっていました。そう、まるでもう一度赤ん坊から生まれ直したかのように…記憶も、教えた言葉も、全て失って…。それでグレイスは、あなたを普通のこどもとして、自分の孫として――」
ルークは、顔を上げた。一瞬だけ見せた動揺は既に消え、ジョルジュは、普段の、とっつきにくい、複雑な感情の入り交じる表情に戻っていた。
 「だからなんですね、あなたが、おれの後見人なのは。あなたは、ずっと監視していたんだ。」
 「それは―― 否定できません」
窓の外から雨の音が響いてくる。
 かつての同僚の孫、というだけではなかった。ルークが、普通の人間ではなく、そのことを知っているのがジョルジュだけだったから。
 視線を落とすルークをその場に残し、ジョルジュは静かに踵を返した。見送りのため、ミズハも後を追う。階段を織りてゆく足音が遠ざかり、やがて部屋は暗い沈黙に満たされた。

 扉を開けたとたん、外からものすごい勢いで雨音が押し寄せてくる。
 風も出てきていた。外に待たせている車までの間だけでも、びしょ濡れになってしまいそうな勢いだ。
 傘をさすのを諦め、そのまま車まで走ろうとしたジョルジュの腕を、誰かが掴んだ。
 「待って」
振り返ると、ミズハがそこにいた。
 「さっきの話――それだけじゃないよね?」
普段とは違う、不思議な瞳の色。それは見つめたものの視線に逸らすことを許さない、全てを見透かす目だ。
 ジョルジュの口元がもそもそと動き、やがて、ゆっくりとぎこちない笑みを作る。
 「…あれだけですよ。ルーは口数の多い男ではなかった。グレイスは知っていたかもしれませんが…私は、彼の素性については、これ以上何も知りませんよ」
 「嘘」
 「――ジャスパーに聞いたのですか」
そんな予感は、していたのだ。ミズハは海竜と話ができる、とルークから聞いていた。ジョルジュ以外に、すべての顛末を知っている者がいるとすれば、海竜のジャスパーをおいて他に居ない。
 ミズハは、小さく頷いた。
 「ないしょにしておいて、ってジャスパーに言われてたの。でも、何が起きたのか、ジャスパーも知りたがってる。ルー君は、生き返っても自分が自分だったことを忘れたりはしない。何度も危ない目に遭って、死にそうな怪我もしたってジャスパーは言ってた。でも、今のルー君になる前の一回だけが違ってた。自分の名前も覚えていなかった。…どうしてなの?」
 「――それは」
ジョルジュの表情が陰った。
 「…だから、言えなかったの?」
 「あまりにも酷い事故だったのです。原型を…止めない程に」
 「グレイスさん、ルークのおばあさんは何て?」
 「忘れているなら、そのままにしておいてほしい、思い出させたくない、と…。」
そう言ったとき、ジョルジュの表情にはほんの一瞬、微かな迷いが過ぎった。思い出させたくなかったのは…そのことだけではない。
 「彼は、どこまで思い出しているのでしょうか」
 「わかんない。でも、きっと全部は思い出せない」
ジョルジュは、初めてかすかに驚いた顔を見せた。
 「どうして?」
 「そんな気がするの。今のルー君には、何かが足りないの。無くしてしまったもの、あなたは知らない?」
 「……。」
一呼吸の間。
 「いいえ…。」
ミズハは、じっとジョルジュを見つめ、ようやくその視線を外した。
 「だったら、いい。」
 「なんだか尋問されているようですね。」
ジョルジュは薄く笑みを浮かべ、ようやく解放された視線を雨の降りしきる表に向けた。
 「――グレイスに彼のことを頼まれたのは本当です。ただ私自身、どう接していいのか今でも分からない。今の彼は、かつてとは何もかもが違う。まるきり別人です。正直に言えば、…今のままで居て欲しい。私の中では、かつての彼は、あの時に死んだのだと思っていますから。…」
雨音が闇を満たしていく。
 「彼は、今のまま、ごく普通の人間として一生を終えられればいいと思っています」
偽りなき言葉だった。そう、ジョルジョは心底それを望んでいる。だが、それはきっと叶わない望みなのだろうということも、薄っすらと感じ始めている。十七年の時を経て、忘却の壁はほころびつつある。全てを思い出さないにしても、一体どこまで? 最期の瞬間まで思い出すことが出来るのか?
 傘を手に、滝のような雨の中へ消えていく男の背には、彼だけしか知り得ない重たい影が落ちていた。


 ジョルジュが去ったあと、ミズハはルークの部屋へ戻ってきた。だが、そこに彼の姿はない。
 窓が開かれ、カーテンが大きくはためいている。強い風に煽られて雨が叩きつける中、ルークはベランダから身を乗り出し、雨に上半身を晒していた。
 「ルー君、何してるの!」
 「ちょっと頭、冷やそうかと思って」
雨がシャワーのように流れ落ち、足元に小さな水たまりを作る。ミズハも隣に立つ。
 「濡れるぞ」
 「へいき。海の上だと、よくあるよ。」
 「そうか」
ルークは、手すりの向こうの海を眺めている。暗くうねる海、どこまでも続く暗い空。その表情からは、さっきまでの切羽詰まった感じが抜け落ちつつあったが、迷いは晴れない。
 「…落ち着いて、考えればいいよ。」
 「分かってる。ごめん、ちょっと…どうしていいのか分からなくてさ。」
自分の手に、視線を落とした。
 「自分が、今まで自分の思ってたものと全然違うものだったなんて、どうすればいいんだろう。おれは…グレイス・ハーヴィの孫なんかじゃなくて、…そもそも人間ですらないかもしれないんだよな…。ジョルジュはずっと知ってたんだ。だから…」
ごつん、と手すりに頭をぶつけた。
 「…だめだ。考えがまとまらない。どうしたら…。」
 「風邪ひくよ」
 「風邪なんて」
言った途端、一つ、くしゃみをした。
 「……。」
 「ほらね? 眠れないなら、今夜は一緒にいるよ。」
 「そんなこと、」またひとつ、くしゃみ。ミズハは笑って、びしょ濡れのルークを無理やり部屋に押し込んだ。
 「タオル取ってくるから。ちょっとだけ待ってて」
水滴をふるいながら、ルークは、机の上の写真をもう一度、眺めた。廊下から漏れてくる僅かな灯りが照らし出すその写真には、遠い日の、――今はもうほとんど思い出せない、過去の「別の自分」の姿が、無表情にこちらを見つめている。 
 そこに映る自分は、今の自分とは根本的に何かが違う。
 今の自分の知らない、かつての自分の記憶はいつも無機質で、ただ風景がそこにあるばかりで、感情は何もない。今の自分の思い出は、辛かったこと、楽しかったこと、…ジャスパーと海に出た、冒険のドキドキやワクワクで彩られている。
 「信じていいのかな」
呟いて、ルークは、もう一度、自分の手を見下ろした。
 この感情と、この思い出は、本当に今の自分のものだと信じていいのだろうか。
 かつての自分は、今の自分とは関係のないものなのだろうか。
 かつての、――人とはかけ離れたものだった頃の。
 「おまたせ」
戻ってきたミズハは、タオルをいっぱいに抱えていた。
 「おい、こんなには要らな…」
 「早く着替えないと熱が出るよー」
 「ちょっ、お前、男の服を脱がそうとするか普通?!」
 「え」
ミズハは、きょとんとした顔で手を止めた。
 「…それもだめなの?」
 「駄目に決まってるだろう!」
 「お父さんよく裸でうろうろしてたけどなあ」
 「家族はいいの。」
 「え、あたしとルー君って家族じゃないの? 同じ家に住んでるのに」
 「えっ」
ルークの動きが、一瞬止まった。
 「……いや、それは成り行きっていうか…。確かに、よく考えたら何でミズハはうちにずっと泊まってるんだっけ」
 「まあ、いいんじゃない? それより早く着替えてよ」
 「着替えるから部屋から出て行ってくれよ!」
騒いでいるうちに、悩んでいたことが何だったのかも忘れてしまう。勢いに巻き込まれているうちに、知らず知らず笑顔になっていた。
 なんだか、ばかばかしくなってきた。
 「おれは、おれだよ」
声に出してみると、何故か安心した。谷をさまよう悪夢は記憶の奥に押し込めた。アレは、過去だ。今の自分のものじゃない。


 結局、一緒にいると言いはるミズハを断りきれず、その晩は狭いベッドで一緒に眠ることになった。
 外の降りしきる雨音を聞きながら、ルークは、もう一つの記憶を思い出していた。
 ミズハと初めて会った時の、驚きと、奇妙な恥ずかしさと、島での不思議な体験と…。


表紙 ┃ 戻る ┃ 次へ