鳥の舞う島


 いちど船に戻ろうと、浜までやって来たルークを待っていたのは、船のそばの浅瀬で長い首をもたげて、少女と戯れているジャスパーだった。海竜の巨体を恐れる様子もなく、海竜のほうも、出会ったばかりの見知らぬ少女とすっかり打ち解けて、首のあたりの一枚だけ青いウロコを撫でられている。信じがたい光景に、ルークは足を止めた。
 「あ」
ミズハが振り返って手を振る。
 「やっと戻ってきた。待ってたよー」
流石に裸ではなかった。彼女が着ているものは、ちょっと古めかしいが違和感のない麻生地のワンピースに、植物の蔓を編んで作ったサンダル。長い髪はうなじの上で一つにまとめ、ポニーテールのようにしていた。ジャスパーが首を砂の上に伸ばすと、ミズハはその上をまるでスロープのように駆け降りてきた。
 「どうやって、ジャスパーと…。人に慣れたことがないのに」
 「お話したよ? ねえ」
ミズハが首をかしげると、ジャスパーは低く一声、鳴いた。言葉が分かるのか。ルークは内心驚いていた。ルーク自身は小さいころから共に育ったから、お互いの意志の疎通が図れる。それを、ほんの一時間かそこらで、この少女は。
 「きみ…、ハロルド・カーネイアスの娘、なんだって?」
 「うん。そうだよー」
 「きみの母親は?」
意地悪な質問だと思いつつ、聞かずにはいられなかった。ハロルドの家には、ほかに人間の姿はなかった。いや、人ではない力を持つこの少女の母親が、普通の人間であるはずがなかった。
 「真ん中の島にいるよ。でも今は忙しいの。」
 「忙しい?」
 「日が沈むまでは、お仕事中。」
そう言って、少女は空を指さした。
 「…?」
ルークは、頭上を振り仰いだ。太陽はまだ、天の高い位置にある。巨大な岩の作る影は、島の端にひっかかっていた。
 浮かぶ巨大な岩をさっきまで包んでいた濃い雲は切れ、薄いヴェールのような水蒸気が揺らめいていた。さっきまで島と岩の間を円舞していた海鳥たちは、高度を上げている。通常の海鳥が飛ぶより、はるかに高く。一糸乱れぬ動きで、岩の表面すれすれを飛んでいる。雲に隠れ、また姿を表し、ずっと同じ場所を。
 「あの鳥たちは、あそこに巣があるのか?」
 「ううん。岩を削っているの」
 「削る…?」
 「そう。でも大丈夫、大きなのは落ちてこないから。」
風が吹いた。きらきらと輝く細かな砂のようなものが舞う。ルークは手のひらを見た。――砂浜を形作る、結晶のような細かな石。頭上から落ちてくるのは、浜を作るものと同じ砂だ。そして、さっきハロルドに見せられた地図に描かれた、円をなす島のかたち。
 「ずっと昔、空と大地が逆さまになって、あの岩はあそこに取り残されたんだって。」
そんな信じがたいことも、さも当たり前のことのように、ミズハは言う。
 「悪い王様が海をひっくり返したときに、そうなったって。お母さんは、岩が落ちるのを止めることは出来たけど、よそへ持っていくこともできなかったって言ってた。だからね、昼間は雲が晴れたら岩を削っているの。」
ぱらぱらと降り注ぐ水晶のような透明な石の破片。
 「じゃあ、この島は…そうして出来たのか?」
空に浮かぶ巨大な岩から削り取られた欠片で出来た島。
 突拍子もない話だったが、それでもあり得ないことではなかった。「魔法使い」は今や絶滅寸前の存在だが、百年前までは沢山いたという。その中には、人ならざる者と契約して、強大な力を持つ者もいたとか。神魔戦争の言い伝えに出てくる「神」や「魔王」は、今からは想像もつかないほど強力な力を持った魔法使いたちだったのではないかという説もある。
 亡霊の棲む谷、海に沈んだ大陸、失われた種族、天に浮かぶ島。数えればキリがないほどに、真偽不明の伝説が、この世界には散らばっている――。
 「ねえ!」
ミズハは、笑いながらルークの腕を引っ張る。「外の世界のこと話してよ。逆さ大樹は見たことある? 白い森って本当にあるの? 天空都市ってどんな感じ?」
 「えっ…」
 「お父さんから聞いたの。むかし冒険してたときに見たって。行ったことある?」
少女はハロルド・カーネイアスが発見し、地図に書き加えた不思議の名前を挙げた。ルークは困って頬をかく。
 「そうだな、一部だけなら…。でも、おれは話は得意じゃないから…」
 「いいよ。話してよ、どうやっていくの? そこに人は住んでる?」
困ったルークがしどろもどろに話す拙い冒険譚に、少女は嬉しそうに耳を傾けた。行ったことがあるといっても、小さい頃に祖母についていった程度でほとんど覚えていないような場所が多く、ほとんど内容は、本の受け売りでしか無かったのだが。


 ルークがひと通り話し終わったのは、もう日が傾く頃だった。ミズハも満足したようだった。
 「いいなあ、見てみたいなあ」
少女は、遠い目をして呟いた。
 「外の世界かあー…行ってみたいなー。」
この島の近く、半径三千ケルテ以内に陸と呼べる陸はない。少なくとも、本部や国家連邦のある「大陸」側には。それは、ここまで来たルークがよく知っている。海鳥の翼を持ってしても、簡単に島から離れることは出来ない距離だ。
 「この島の人たちは、島からあまり離れないのかい」
 「お父さんは飛べないもの。あたしはねー、たまにちょっとだけ遠くに行くけど、でも、海の向こうまでは行ったこと無いや」
 「船は…」
 「大きなのはないよ。お父さんが釣りに使ってるやつだけ」
 「……。」
 傾いた太陽の光を受けて、穏やかな波がきらきらと輝く。水平線には、気の早い月がそろそろ白い姿を見せ始めていた。
 風が少し強くなった気がした。
 ミズハは、スカートの砂を払って立ち上がる。
 「そろそろ行かなきゃ」
飛び立つような素振りを見せたので、ルークは慌てて顔を背けた。服を脱ぐのだと思ったのだ。その仕草に気づいて、少女は笑った。
 「面白いの! 外の世界の人は服がないと慌てるって、お父さんが言ってたのほんとなんだね。でも大丈夫だよ」
ミズハは、人の姿のまま白い翼だけを広げた。ふわりと風が起こり、彼女の体は浜を離れる。
 「ちょっと飛び辛いけど、これでも大丈夫なの。じゃあ、またね!」
手を振って勢い良く去っていく少女を見送りながら、ルークはやはり赤面していた。
 「…いや、その姿でも下着が丸見えなのは不味いと思うんだが…。」
見た目の年齢は十二、三といったところだが、そろそろ年頃のはずだ。ハロルドは、もう少し娘の教育に気をつけたほうがいいのでは、などと思ってしまう。もっとも、この島には他人の目が無いのだから、それほど気にする必要もないのかもしれない。

 …そう、この島には、彼ら家族以外の住んでいる気配がない。

 ミズハという娘がいる以上、その母親となる女性はいるはずだが、それ以外の住人はいなさそうだ。空を舞うあの鳥たちが、ミズハとは本質的に違うものであることを、ルークはなんとなく察していた。島の周囲を群れを成して舞う白い鳥たちは、人に姿を変えたりはしない。

 そのとき、岩にかかる霧が突然晴れた。暗く沈みゆく空の色に、その姿を今はくっきりと姿を見せている。
 ルークは慌てて撮影機を取り出した。そう、ここへ来たのは調査のため。現地住民との交流も大事だが、第一の使命は忘れてはならない。
 だが、岩が姿を見せていたのは、ほんの一瞬のこと。すぐにまた白い霧が覆いはじめ、姿は掻き消えてしまう。ファインダーから目を離し、ルークはため息を付いた。
 原因は、風だ。
 中に浮かぶ巨大な岩のせいだろうか、この島の周囲の上空には、複雑な風の流れがあるようだった。風に乗って舞う鳥達の動きは、まるで踊っているかのように見える。島周辺の海が天気のまるで読めない嵐と凪を繰り返すような状態にあるのも、この風のせいかもしれない。
 風が吹くたび霧が生まれ、雲となって岩を取り巻く。
 まるで、岩が呼吸しているかのようだ。息を吐くたびに霧を生み出す岩、”霧の巣”と名づけたハロルドは慧眼だった。その霧の巣をとりまく無数の翼に夕日がきらめき、ぶつかり合うこともなく、風の道筋を描く。頭上に浮かぶ岩が「霧の巣」なら、その下に広がるこの島は「風の島」とでも名付けるべきなのかもしれない。


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